高円寺洋食物語
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■チキジョージの彼方
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JR中央線快速・総武線緩行(各停)。快速線は東京駅と山梨県の大月駅を結ぶオレンジライン、緩行線は千葉駅と三鷹駅を結ぶイエローラインで有名です(緩行線には、ブルーラインの東京メトロ・東西線も乗り入れています)。朝夕のラッシュ時には、2分間隔で東京と東西の近県を結ぶ複々線。大動脈というやつです。中央線の特徴のひとつは、中野駅から立川駅までが直線区間(*1)であること。14駅・約22・8km。地図で見るとまっすぐに線路が延びています。休日の空いた電車に乗ると、連結部分から10両編成の運転室と車掌室が見通せて、直線であることが実感できます。ホントです。
JR中央線の小話をと思ったのですが、書きたいことが山ほどあって冒頭から煮詰まってしまいました。なのでまずは、以前勤めていた会社のWEBサイトに書いた、中央線の〈秘密〉に迫る(?)話があるので再録します(一部増補・改稿しています。脚注も追記しました)。
大島弓子作の、『綿の国星』(白泉社文庫)という傑作少女漫画(懐かしい響き!)があります。1978年に発表(*2)された作品ですから、ご存じない方も多いでしょう。この漫画が衝撃的だったのは、捨て猫だった主人公の「チビ猫」が、猫耳の少女の姿をしていたこと(しかもメイド服にエプロン姿! 後に判明しますが、物語に登場する猫たちはすべて、猫耳の人間の姿形をしていました)。
そういう擬人化の例はそれまで知らなかったので、まずその発想に感心しました。しかもこの愛くるしいこの子猫は、(いつか必ず人間になれる)と信じています。一日でも早く大きくなって(=人間になって)、拾ってくれた飼い主の予備校生への恋を成就させようと願います。
いまなら「萌え〜ッ!」の一言で片づけられてしまいそうなシチュエーションですが、いやいやなんのその。同じ時と空間を共有しながら、互いを必要不可欠な存在と認識しながら、でもけっして交わらない想いの揺らぎを、リリカルに描いた名作だと思います。機会があればぜひ一読してみてください。はまりますよ、絶対。
前置きが長くなりました。この作品に、忘れられない科白の一節があります。
「チキジョージの彼方、遙かサマルカンドへ……」
(そうかそうか、そうだったのか)
読んだとき、思わず膝を打ちたくなりました。
「チキジョージ」とは吉祥寺のこと。まだよく舌が回らない「チビ猫」は、「キチジョージ」と正しく発音できない。そして、彼女が暮らしている荻窪の2駅先、西方の「チキジョージ」は、現世と想像を絶する異世界との境をなす、まさに結界だったのです。
都市伝説じみた話で恐縮ですが、JR中央線(*3)は〈富士の霊脈〉の上を走っていると言われます。
東京駅を出発したオレンジラインの電車は都心を駆け抜け、中野駅から、日本では珍しいほぼ直線の線路を西に向かって、ひたすらに走ります。とある冬の早朝。徹夜仕事明けで、新宿から中央線に乗って驚いたことがあります。冴え冴えと晴れわたった空、中央線が進む方向の高層ビル群の狭間に、富士山が異様な迫力で聳え立っていたのです。目を奪われた私は、ただただ圧倒されて、その偉容(異様と偉容。すみません、駄洒落です)を呆然とながめていました。
(やっぱり……)あれを見てしまうと、中央線の秘密──富士の〈霊〉の御業によって印度・西域と繋がる、人智を超えた何か──に感応せざるをえなかった、わけです。
『中央線の呪い』(三善里沙子著/扶桑社文庫)などいうカルト的なベストセラーを代表とする、中央線とその沿線に住む人々の〈業〉を描いた本はたくさんあります。沿線各駅の書店のレジ周りに、つねに平積みされています。『東京人』(都市出版)、『散歩の達人』(交通新聞社)、『HANAKO』(マガジンハウス)といった雑誌も、年に何回かは中央線にまつわる特集を組みます。そして、それらを見つけたら必ず買う私がいます。TVも負けてはいません。『ぶらり途中下車の旅』(NTV)、『出没!アドマチック天国』(テレビ東京)、『王様のブランチ』(TBS)でも、ネタ枯れ感があると、間違いなく中央線コンテンツを持ち出します。私はこちらも、必ず観ます。
受験で上京する前の高校生時代、僕と東京を結んでいたのは、文化放送、ニッポン放送、TBSから流れ来る深夜ディスクジョッキーと、男の子のバイブルと言われた伝説の週刊誌『平凡パンチ』(平凡出版/現マガジンハウス刊)でした。
それらのメディアがこぞって喧伝していたのは、三寺(高円寺・吉祥寺・国分寺)を中心とした、若者が創り上げた中央線文化。信じられないかもしれませんが、かつて中央線沿線は、東京でもっともアナーキーで先進的なカウンターカルチャーの聖地だったのです。高円寺の、西陽がかろうじて入る学生アパートに居を定めたときの高揚感は、オヤジとなったいまも忘れられません。そして、かつて勤めていた会社の転勤で大阪に3年弱住んだ以外、いまも中央線から離れられない僕がいます。
『中央線の呪い』に寄稿している、敬愛するみうらじゅん氏(彼もまた、中央線にはまりきっていた過去を持ちます)の言葉が身に沁みます。うろ覚えですが、概略するとこんな感じ。
「若者よ眼を醒せ! そして、一日も早く中央線から脱却すべし! さもないと、ずぶずぶぬくぬくとした、妖魔の温床に取り込まれてしまう。キミたちの志がスポイルされてしまう!」
ははっ、まったくその通り。中央線の魔力を端的に示した警句だと思います。かつての三寺文化を創り上げた若者──いまの日本でもっとも〈しぶとい〉と言われる団塊の世代を中核とします──が、富士の霊力に導かれるままに齢を重ね、そこへ根付いて染め上げた風土ですから、一筋縄ではいかない。次々に現れる新世代の若者たちは、旧来の文化に新たな風を吹き込むように見えて実は、知らぬ間に、ティピカルな〈中央線人〉に染め上げられていきます。嗚呼、あな怖ろしや!
僕はいま、結界=チキジョージの外側、すなわち霊域(?)の鳥羽口・三鷹に住んでいます。ここは、新宿からわずか20分の、中央線とそれに並行して走る黄色い電車・JR総武線&地下鉄(*4)東西線の始発・終着駅。
毎朝、遙か西域から都心を目指す巡礼者……いやいや、通勤・通学者でごった返す、中央線快速ホームの喧噪をながめながら総武線(もしくは東西線)に乗ります。こちらは朝のラッシュ時でも、1本見送れば席を確保できます。そして、荻窪(こちらは地下鉄丸ノ内線の始発・終着駅)で地下鉄に乗り換えます。ここでもまた、混んでいるようなら1本見送って、ゆっくりと席を確保します。そうなんです。三鷹に住み始めてから、都心に向かう電車には「立って乗れない躰」になってしまっていたのです。
毎朝電車に座ることに疑いすら抱かない、世の人々から指弾されかねない勤め人。スポイルされた典型。
これもまた……〈富士の霊力〉のなせる業なのかもしれません。桑原くわばら!
*1 直線区間:在来線の最長直線区間は室蘭本線・白老駅〜沼ノ端駅間の28・736km(日本最長でもあります)。新幹線の最長直線区間は東北新幹線・白石蔵王駅〜仙台駅間の25・7km。これらと比較しても、人口密集地域に23km弱の直線距離があるのはすごいですね。ちなみに世界最長は、オーストラリア大陸横断鉄道「グレートサザンレールウェイ」のナラボー平原横断区間478kmだそうです。大陸はやっぱり桁違いです。
*2 1978年に発表:1987年までの10年間、少女漫画雑誌『LaLa』(白泉社)に連載。1979年第3回講談社漫画賞少女部門受賞。1984年にはアニメ映画として公開されています。
*3 JR中央線:高円寺に住みはじめた当時は、国電・中央線(総武線)と呼ばれていました。
*4 地下鉄:かつての営団地下鉄。いまは東京メトロという洒落た名前になってしまいました。
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■Too Young To Go Steady
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中央線の直線区間、中野・立川間には個性的な街がいくつもあります。1970年代の若者文化をリードした「三寺」の一角、高円寺はそのひとつです。僕は、3年弱の転勤期間を除く通算14年間、JR高円寺駅と地下鉄新高円寺駅周辺に住んでいました(この地域内で3回引っ越しています)。この街は、8月の最終土日に開催され、毎年100万人もの見物客を集めるという「高円寺阿波踊り」で有名ですが、昔もいまも若者に優しいところです。駅周辺に、戦後の闇市の遺構(?)を残すごちゃごちゃ感。都心に近いのに、物価が安くて住みやすい。街全体が「下町」なのです。
僕が住みはじめた頃は、ジャズ喫茶、ロック喫茶、ライブハウスが蝟集する、毎日が、粋がった「お祭り」のようなところでした。ちなみに「喫茶」といっても、客が憩う喫茶店ではありません。コーヒーも出せば、酒も出す。ジャズ喫茶なんか、私語厳禁が掟でした。コーヒーカップもしくは、ロックグラスを傾けながら、煙草を持った手を眉間あたりにさりげなく添えて、店自慢の拍動する大スピーカーから流れ来る、嫋々(じょうじょう)たるコルトレーンに聴き入る……ふりをする。
『Too Young To Go Steady』(アルバム『Ballads』所収)──「若すぎるの、あなたはまだ……」。おとなになれない、おとなの意味も知らない。背伸びするだけの裏付けすら持たない、ただ、カッコつける、すかしてるのが、作法だったのであります。なんともはや、お恥ずかしい!
ま、それはそれとして、ほとんど自炊しなかった僕は、日々この街で、安くて旨いものを探さざるをえなかった。分かったふりしてるコルトレーンよりも問題は毎日の食事。食い意地だけは誰にも負けなかったので、ほどなくお気に入りの店のラインナップは揃いました。嬉しかったのは、旨い洋食屋が複数あったこと。なぜか僕は、ドミグラスソースとコンソメスープが好きなのです。
家族を顧みないというわけではないのですが、父は一家団欒という概念を持たない人でした。13歳上の兄は、僕が幼稚園に入る頃には大学進学で東京に出て、そのまま就職してしまいました。なので上京するまでの十数年間は、「ほぼ母とふたり。ときどき父」(*1)という人生でした。父が帰らないと分かっている日、母は折に触れて、老舗の洋食レストランへ連れて行ってくれました。ドミグラスとコンソメは、そこで覚えてしまったのだと思います。
ヘレ肉のベーコン巻き(*2)、チキンソテー、ハンバーグ。トロりと肉にかけられたドミグラスソースは、カンペキなご飯の友でした。グレービーソースのコールドビーフ(ローストビーフ)にも、遮二無二かぶりついた記憶があります。年端も行かないガキのくせに! というご指摘はごもっともですが、長い、孤閨に近い生活を甘受しなければならなかった母の、ささやかな憂さ晴らしということで、ご容赦ください。そして、味噌汁よりも新鮮な白身魚のアラで出汁をとった「潮汁」を好んだ父の刷り込みなのか、僕もまた味噌汁よりも澄まし汁が好きでした。旨味たっぷりの西洋澄まし汁=コンソメは、そんな、つたない嗜好にど真ん中のストレートだったのです。
「まだ食べられるん?」
「スパゲ〈ッ〉ティ(*3)が食べたい!」
さんざん肉とご飯に食らいついてなお、僕は麺類に手を出します。
スパゲ〈ッ〉ティ・ミートソース。「アルデンテ」なんて概念は、当時ありません。太い、もっちりとしたスパゲ〈ッ〉ティに、ソースポットのミートソースをたっぶりかける。ソースの主役は当然、ドミグラスです。トマトはソースの構成要素のひとつだったはずですが、その存在感は、まったく感じませんでした。濃い茶色の、まったりしたコクをたたえたソースを絡めてかき込むスパゲ〈ッ〉ティ!
懐かしいなぁ。旨かったよなぁ。
てなわけで、高円寺洋食の話は続きます。
*1 ほぼ母とふたり。ときどき父:申し訳ない。リリー・フランキー氏のパクリです。でも僕の記憶は、まさにこれなんです。しかし『東京タワー〜オカンとボクと、時々、オトン〜』というのは、巧いタイトルですねぇ。
*2 ヘレ肉のベーコン巻き:「ヘレ肉」は西日本特有の呼び方です。正しくは「フィレ」。テンダーロインってやつ。ベーコンを巻いて焼くそれが「トルネードステーキ」と呼ばれているのを知ったのは、ずいぶん後のこと。当時は「ビーフステーキ」なんて言い方はありません。「ビフテキ」です。力強い言葉だと思います。
*3 スパゲ〈ッ〉ティ:かつての日本人は、パスタの代表選手に〈ッ〉を入れていました。
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■老舗ポーキーとフランクス
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東西に電車が走るJR中央・総武線は、沿線各駅で南北にそれぞれ趣が異なる街が広がっています。高円寺洋食物語。まずは、老舗からはじめましょう。
【 ポーキー 】
高円寺駅北口。駅上にホテルが建ったり、ロータリーが整備されて様変わりしていますが、基本構造は、1970年代と同じです。ロータリーを右へ、高架の線路沿いを少し歩いた左側の地下に、有名なライブハウス「次郎吉」がありました。なんか、最後に行き着く店という記憶があります。深夜であろうと、夜明であろうと、ごくごく自然に客を受け入れてくれる。ステージでは、さまざまなミュージシャンが、自分の思いの丈を、詩・演奏に託している。そんな店でした。
「次郎吉」で検索してもヒットしないので心配したら、「LIVE MUSIC JIROKICHI」という名前に変わっていました。いまも同じ様子。安心しました。
一方、ロータリーの左側には、戦後の闇市そのままのマーケットが残る一角がありました。線路沿いの狭い路地には、ピンクサロンが軒を連ねています。その妖しいネオンに囲まれた、人文・社会学系の膨大な蔵書で有名な古書店「都丸書店」。この風景はいまも変わっていません。やっぱりヘンテコな街です。その、都丸書店の先の路地を右に入ったところに「ポーキー」がありました。カウンターとわずかなテーブル席のある小体な店でした。歴史を感じさせるシブい佇まい。
山高のコック帽に一糸乱れぬ白衣の、当時すでに老齢だったマスターと、割烹着の奥さんふたりで店を切り盛りしていた。貧乏学生には、少し敷居の高い、要はちょっと高めの店でした。この店は、グレービーというか、さらっとしたソースが旨かった。大好きなチキンソテーは、皮はあくまで香ばしく、肉は、言わずもがなの、極上の仕上り。ソースもきっちりご飯に絡めていただく。それでも皿に残る、わずかなソースを舐めたい! と真剣に思いました。丁寧な仕事ぶりが窺える副菜。ほのかな甘みが堪らない人参・いんげんのグラッセ、面取りが美しいフライドポテトも忘れられません。
クラシックで端正な、洋食屋らしい洋食屋でした。
自分の金で、はじめてビーフステーキを注文したときは、高揚しました。鉄板からはみ出んばかりの「ビフテキ」(「ステーキ」より「ビフテキ」という方が「肉を喰らう」という実感があります)は、いつまでも噛んでいたいと思うほどの旨味だったなぁ。ポーキーが店を閉めたのは、いつ頃だったのか。
(久々にチキンソテー食おう!)と、ルンルン気分でガード下の路地を抜けると、店は閉まっていた。看板もすでになかった。ショックでした。(ぬかったぁッ!)生活基盤が駅の南側だったので、頻繁に行く店ではありませんでした。日々近辺を歩いていれば、店の様子、変化は感じられただろうに。
(もう一度食べておくんだった、チキンソテー)
食い意地の権化である僕は、いまもそう思っています。
【 フランクス 】
高円寺駅南口。〈水がでない〉噴水のあるロータリーは、ビルとかは新しくなっているのでしょうが、雰囲気は昔のままです。駅舎を背にして右、青梅街道まで続く大通りが、高円寺阿波踊りのメイン会場です。その通りから2本西側にあるのが、アーケードの「高円寺南口商店街」(*1)。さまざまな店がひしめき合うゆるやかな坂を下るとアーケードが途切れ、その先は「新高円寺通り商店街」(*2)と呼び名が変わります。JR高円寺駅から東京メトロ新高円寺駅まで、約800メートル続く長い商店街です。
アーケードが途切れる少し手前に、湘南堂書店という大きな本屋がありました。立ち読みしていて、隣で同じく立ち読みしている背の高い男に何気に目をやると、今日もまた、下駄履きによれよれジーンズの森本レオ氏。高円寺の、あまりにもありふれた、日常のヒトコマ。それほどレオ氏は、高円寺の風景に溶け込んでいました。遭遇ポイントは、本屋、喫茶店、定食屋、呑み屋、将棋クラブ等々。「今日の森本レオ」なんてクチコミ情報もあったような気がしますが、街にいるのがあたりまえの存在でした。いまも高円寺にお住まいなのでしょうか?
閑話休題。
湘南堂書店の先の四つ角を右に折れると「エトアール通り」。〈エトワール〉(etoile:仏語の「星」)ではなくて〈エトアール〉であることがシブいです。英語なら「Star Street」。日本語ならさしずめ「星屑通り」「星影通り」(?)。夜になると、クラシックな、けっして明るいとはいえない飾り街灯と、両側に並ぶ店から漏れる明かりがほのかに道を照らす。艶かしいというか、妖しい空気感漂う、独特の通りでした。
通りに入るとすぐ右側に、「高円寺東映」(*3)と「ムービー山小屋」という2つの映画館が並んでいました。東映は、いまは記憶の彼方になってしまった、古典的映画館の風情を残していた。その名の通りヒュッテを模した外観の「山小屋」は、いわゆる「洋ピン」=外国のポルノ映画専門館でした。映画が衰退していた時代です。オクテというか、ビビリの僕は「そのうち必ず!」と思いながら、とうとう「山小屋」には行けずじまいでした(閉館してしまった。ホントですよ)。
東映は、たまに観ていました。『真田幸村の謀略』(*4)はおもしろかった。でも客なんかほとんどいなかった。よく表現される「すえた匂い」が充満して、男しかいない客席は、煙草も吸い放題でした。
記憶に焼き付いているのは『安藤昇の わが逃亡とSEXの記録』(1976年[昭和51]公開)。一般映画ですが18禁でした。戦後史のダークサイドに蠢いた黒幕のひとり、政商・横井英樹襲撃を手下に命じて指名手配された愚連隊「安藤組」組長・安藤昇の、逮捕されるまでの、35日間にわたる逃亡記。48歳の安藤昇が、事件当時30歳だった自分を演じるというスゴい話。
警察をあざ笑うかのように、安藤は自分の女たちに与えたヤサ(家)に潜んではまた、逃亡します。刹那であることを知りながら、安藤を独り占めできる悦びに、身悶えうち震える女たち。眉根ひとつ動かさず、たんたんと、リズムを刻む安藤(*5)。目が点になりました。全編、中島葵、ひろみ摩耶、絵沢萌子など、脱ぎっぷりのいい女優さんたちとの「行為」シーンなのです。監督は日活ロマンポルノの巨匠・田中登。泉谷しげるが音楽を担当しています。小松方正、石橋蓮司、小池朝雄といったシブい役者もたくさん出演しているのですが、当然記憶にありません。
うろ覚えですが、オープニングはモノクロだったと思います。巨大な鉄球が、次々と旧い東京を破壊していく。事件が起こったのは1958年(昭和33)。敗戦から高度経済成長へと、日本が大きく舵を切りはじめる時代の象徴。その映像に、美空ひばりの『ある女の詩』(作詞:藤田まさと/作曲:井上かつお)がかぶさります。
──ああ あなた 遠い遠い日の
わたしのあなたでした──
オープニングについては確証がありません。高円寺東映で観たのは確かなのですが、違う映画だったかもしれない。間違っていたら、お許しください。
エンディングがまたスゴかった。のけぞりました。ついに逮捕され、パトカーで護送される安藤昇。両脇を固めるのは正面を見据えた制服警官。と、安藤がシートの影で何かをはじめます。
「おいッ、コラ、貴様! 何をする! やめろ、やめんか!」
うろたえ、制止しようとする警官を無視して、安藤は、手錠されたままマスターベーションするのです(シートに隠れて、そのものは当然見えませんが)。絶頂の瞬間。どの女に対しても無表情だった顔がわずかに歪み、そしてにやり、笑う。そのアップで映画は終わります。アナーキーの極致。とんでもない映画でした。
何の話でしたっけ? そうそう、フランクスです。
エトアール通りを入ってすぐの左側、古びた日除けテントが目印でした。カウンターとテーブル席が、確か3つ。ここでよく注文したのは、ポークソテーとチキンソテー。忘れられないのは、メニューのほとんどに「○○風」という但し書きがついていたこと。ポークソテーは「ノルマンディ風」でした。
(ふぅ〜ん、ノルマンディ……上陸作戦のあったところか)
お分かりの方も多いと思います。ノルマンディ風というと「リンゴ」のソースです。でも1970年代の貧乏学生が、そんな事実を知ろうはずもなかった。出された皿を見てビックリ。ちょっと曖昧なのですが、トンカツ用のロース肉に横に切れ目を入れ、その間にリンゴで作ったソースが挟まっていた記憶がある。
(え〜ッ、肉にリンゴ!? こんな店、入るんじゃなかった!)
おろかな学生は、心の中で叫びました。半ば自棄気味に肉を口に運ぶ。
(ウソっ! 旨い!)
あとは一気呵成。リンゴのソースとご飯は、まったく違和感がなかった。50がらみの恰幅のいいマスターは、腕まくりした普通のシャツに前掛け姿。ここも奥さんとふたりでやっていた。チキンソテーには、蒸し焼きされたチーズが、トロリ肉にまとわりついていました。これも当時珍しかった。こちらは「何風」だったのか、残念ながら思い出せません。
(え〜ッ、チーズとご飯!?)
チーズソースでご飯を食べるという概念が一般的ではなかった時代です。しかし、こちらも実に旨かった。想像するに、マスターはおそらくフランス料理出身だったのでしょう。洋食屋を開くにあたって、習い覚えた料理の技法を、町場の客の口に合うよう、アレンジしてメニューにした。そんな気がします。
この店のもうひとつの名物は、マスターと奥さんの仲が悪かったこと。客にまる聞こえの口争いはいつものこと。互いを完全に無視した、険悪な空気に店中が支配されていることもありました。いずれにせよ、ただならぬ緊張感のもと、黙々と食事したものです。
またまた長くなってしまいました。思い出のもう一軒、もっとも足しげく通った洋食屋の話をはじめます。。
*1 高円寺南口商店街:現在の高円寺PAL商店街。
*2 新高円寺通り商店街:現在の高円寺ルック商店街。昔の名前が思い出せません。ネットであれこれ探したのですが、「新高円寺通り商店街」というのが、正解だったような気がします。
*3 高円寺東映:1953年(昭和28)にオープンした映画館「エトアール劇場」を東映が買取って運営していたようです。この劇場が通りの名前になっていたのですね。その跡地に建ったのが、いまの西友です。
*4 真田幸村の謀略:1979年(昭和54)公開。監督:中島貞夫/脚本:笠原和夫、松本功、田中陽造、中島貞夫/出演:松方弘樹、萬屋錦之介、寺田農、あおい輝彦、火野正平、秋野暢子、真田広之、森田健作、岡本富士太、ガッツ石松、高峰三枝子、片岡千恵蔵。改めてスタッフを見ると、スゴいひとたちが並んでいます。出演者も豪華ですね。大隕石が墜落・爆発するオープニングが印象的です(隕石の中から猿飛佐助[あおい輝彦]が出現します!)。
*5 たんたんと、リズムを刻む安藤:ゴルゴ13のSEXシーンが、近いかも。ホントどうでもいい脚注で申し訳ありません。
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■夜風とキッチンスター、そして高円寺
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エトアール通りを西に向かい、セブンイレブン高円寺南店の先の路地を左に折れ、大きな樅の木横のコインランドリーを過ぎた先に、僕のアパートがありました。夜になると、コインランドリー前に置かれたエロ本とコンドームの自販機に煌々と明かりが灯り、静かな住宅・アパート街のシュールな道しるべとなっていました。このセブンイレブンは、古いです。第1号の「豊洲店」が東京の江東区にオープンしたのが1974年(昭和49)。マスコミで騒がれていたのは知っていましたが、ほどなくしてオープンしたという記憶があります。画期的でした。感動しました。早朝は寝ていたので知りませんが、夜11時まで(*1)あれこれ買い物できる嬉しさ。そんな、のどかな時代(*2)でした。
当時の高円寺は、フォーク&ロックミュージックの、そして、印度・ネパールを中心とするアジア文化伝導(*3)の……さらにもうひとつ、フラメンコ(*4)の聖地といわれていました。いやいや、なかなか賑々しい限りです。聖地の集積──これはやっぱり、富士の霊力のなせる御業ではないかと思ったりして。
エトアール通りの中ほどに、カサ・デ・エスペランサ(スペイン語で「希望の家」)というフラメンコ・パブが、いまもあります。パブと称していますが、フラメンコのライブを楽しめる、いわゆる「タブラオ」っていうやつです。
妖しい光に包まれたエトアール通りを、Esperanza(希望)目指して、今夜も幽鬼のごとき影がさまよう。これもまた、高円寺名物でした。やせぎすのシルエット。独特のニット帽に、一点を凝視して、あらゆる世間の雑念を撃つかのような鋭い眼差し。マッドサイエンティストを演じさせれば右に出る者のなかった東大出の怪優、天本英世氏。スペイン人民戦線とフラメンコを愛した、筋金入りのアナキストでした。
彼と行き交うたびに、空間がよじれるような感覚に囚われた。それくらい人間離れしていました(礼儀として、まじまじと見るようなことは決してしませんでした、というより見るのが怖かった!)。ぽっと出の学生には、まぁいろいろと刺激的な街。刺激を受けると、二十歳そこそこの学生は、腹が減る。それは致し方ないですね。
(よかった。無事、話を本筋に巻き戻すことができそうです……!?)
【 キッチンスター 】
新高円寺通り商店街に気になる洋食屋がありました。赤い日除けテントに白抜きで「キッチンスター」と書かれている。ガラス格子のドア。料理見本のショーケースが置かれた壁には、上部が半円になった磨りガラスの窓がふたつ。夜になると、ドアのカーテン越しに店内の一部が見えた。いつ通っても何人かが食事している。客が途絶えない店でした。
(常連しかいなさそうだけど、今夜こそ、入ってみるか)
意を決してドアを開けると、隅っこに取付けられたベルがカランカランと鳴った。
「いらっしゃいませ」
コック帽に白衣のマスターは、太い八の字眉に、小さな穏やかな瞳。ぶきっちょとも思える、商売っ気のないシャイな物言いが、一見の僕を安心させてくれました。店内は狭かった。8席ばかりのカウンターのみ。アールがついたその一番奥は、カウンターの中に置かれた大きな冷蔵庫で見えなくなっている。奥の席には、「通ります」と先客に声をかけて椅子を少し前にしてもらい、壁にそってカニ歩きでたどり着くしかなかった。
メニューに目を通す。
ミックスグリル、ポークソテー、ポーク生姜焼き、ポークカツ、ハンバーグ、チキンカツ、チキンクリームコロッケ、エビフライ、サーモンフライ、白身魚のフライ、小エビのクリーム煮バターライス添え、ビーフシチュー、ビーフステーキ、カレーライス、ナポリタン、ピラフetc.……。
(うわッ、どうしよう。困った……初回は無難にポークカツにでも……)
と、定食というセットメニューに目がとまった。「A定食:チキン・白身魚・ソーセージのブロシェット(*5)。ライス・サラダ・ミニスープ付き」。値段も懐具合にぴったりだったので、それに決めました。先客は3人ばかり。料理を待つ人は、カウンターに積まれている週刊誌や漫画誌を読んでいる。僕も適当に雑誌をパラパラめくっていたのですが、
(遅いな、まだなの? 腹減っちゃったよ)
関西でいう「いらち」な僕は、少しくイラついていました。マスターは一心に調理している様子です。でもなかなか僕の番が回ってこない。ほどなく、この待ち時間は気にならなくなるのですが、この時は([店選びに]失敗したかも)と思っていました。ようやく、小鉢のサラダとミニスープが出されました。サラダはキャベツのコールスローとトマト。スープは小さな肉団子が2つ入ったコンソメ(!)でした。
熱々のスープをひとくち。これで、キッチンスター通いは決まったのかもしれません。旨かった。よくある、固形とか顆粒のコンソメを使った(もしくはそれをアレンジした)スープとはまったく違う! 口の中でハラハラ崩れる肉団子も面白かったのですが、舌の奥に残る、肉と野菜の旨味がすべてでした。余談ですが、ミルク臭いポタージュが苦手で、なんとなく避けていた僕の偏見を修正してくれたのも、この店でした。コーンたっぷりの濃厚なスープとカリカリのクルトン。そこにハラハラと黒胡椒をまとわせる。これもまた旨かった!
コールスローは、ほのかなリンゴ酢の香り。マスタードが利いたドレッシングで和えたキャベツは、パリパリ・シャキシャキで実に爽やかでした!
「お待ちどうさま」
来ました来ました、メインディッシュ。木枠に載せられた鉄板がジュージュー音を立てていました。金串から肉や魚を取り外して、ナイフで切るのももどかしく口に運ぶ。
(熱ッ! ウマッ!)
香ばしい、さらっとしたソースが全体にかかっていて、ご飯の進むこと! 付け合わせのフライドポテトは、外はサックリ中はホクホクでたまらない旨さ。バンザ〜い! 大正解の店でした。A定食はその夜以来、何食食ったか分かりませんが、不思議なメニューでした。
チキンも魚もソーセージも唐揚げされていた。唐揚げというか、素揚げに近かったと思います。揚げたての具材を串に刺して、焼けた鉄板の上に載せる。そこにコーヒー色のサラサラのソース(僕は「魔法のソース」と命名していました)をかけて出来上がり。「魔法のソース」のお手柄なのでしょうが、それだけのことで、まったく飽きのこない料理に仕上がっていました。
【 スターの秘密 】
混んでくると、お団子髷がトレードマークのにこやかな奥さんが助っ人として参戦します。生野菜を切る、サラダを仕上げる、頃合いを見計らって皿にご飯を盛る、そして料理をサーブする。会計や、てきぱきと下げた皿を洗うのはもちろんのこと。絶妙のコンビネーションでした。料理を待つ時間が苦にならなくなったのは、マスターのやり方がわかったからでした。作り置きをしない人なのです。もちろん仕込みは万全です。
チキンクリームコロッケなら、冷やし固めたタネが入ったバットを取り出し、数に切り分けて揚げる準備をする。生姜焼きやポークソテーは、大切に晒しに包んだロース肉のブロックを丁寧に切り揃える。フライドポテトは、茹でたジャガイモを注文数だけペティナイフで切り分けて揚げる。コールスローも、一つひとつ、注文を受けてからドレッシングと和えていました。
美味しいはずです。仕事が遅いわけではない。丁寧なのです。しかも、フライパンや鍋をかけるコンロは2口だけ。スープを温める、揚げ物を揚げる、肉を焼く、料理を仕上げる鉄板を焼くのも、2口のコンロですべてこなしていました。それが全部見える。自分の注文が仕上がる過程を、ワクワクして見ていました。楽しい空間でした。
揚げ物が旨かったのは、ラードに秘密があると思います。サラダオイルをブレンドしていたかどうかは、聞き漏らしました。見ていると、時折マスターは、揚げ物用のフライパンに白いラードの塊を投入し、頃合いを見計らって具材を投入していました。ラードの香ばしさをまとったフライドポテト。だからあんなに、サクサクとしてホクホクで旨味が深かったのです。
「魔法のソース」はコンロの左上、商店街に面した半円の磨りガラス窓裏の、ちょっとしたスペースに置かれたボールに入っていました。それをレードルですくって、鉄板にかけ回していた。
「醤油っぽい味がしますよね」
一度マスターに尋ねました。
「醤油は入れてないんですよ」
「そうなんですか!」
それ以上は聞きませんでした。とてつもなく旨いのだから、それでいいですもんね。話が止まらなくなってしまいました。続けて、A定食以外の思い出のメニューについて書きます。
【 ポーク生姜焼きとボークソテー 】
永らく生きているので、いろんな物を食べてきました。お決まりのイメージってありますよね。ハンバーグにドミグラスソースとか、薄切り肉とタマネギを甘辛生姜ソースで炒める生姜焼きとか。その概念がまず覆されたのは、ポーク生姜焼きでした。普通の店ならポークソテーといってもいい厚みのロース肉を焼き、件の焼けた鉄板に移し、すりおろした生姜をたっぷり肉に載せて「魔法のソース」をかけ回す。ソースが焼ける音と立ち上る湯気が、料理の完成を教えてくれました。旨かったです。
ポークソテーに至っては、「ウソだろ!? 大げさな!」と指弾されても甘んじて受ける覚悟があります。3cmとまではいいません。でも2・5cmは、確かにあった。
いつものA定食を待っていた僕の隣の客が、ポークソテーを注文した。(相変わらず旨いなぁ)とブロシェットに挑んでいる横に、驚愕のそいつがサーブされた。あまりにも美しい焼き色。「魔法のソース」をたっぷりまとった肉塊! 言葉もありませんでした。
その〈姿〉が忘れられなかったので、またまた意を決して(当時の僕には高いメニューだった)注文し、心の中で泣きました(!?)。ナイフを入れる手応えがそのまま口の中に広がる。豚肉って、こんなに旨いものだったんだ! 香ばしい、絶妙の焼加減のロース肉特有の「端っこの脂身」を最後にほおばった瞬間の至福感は、忘れられません。甘い! 旨い!
このポークソテーに僕は、助けられたことがあります。電話はもちろん、テレビすらない当時の学生の一人暮らしにはいろいろなことが起こりました。突然の高熱に襲われて立ち上がることもままならず、誰かに連絡する術もなく、ただ布団にくるまっているだけ、ということがありました。
(やばいよ……)
朦朧とした意識下で、思っていました。
(食わないと死ぬ)
食い意地は世界を救う!? いやはや、僕ならではの話として読み飛ばしてください。お笑いください。
キッチンスターに続く路地を、這うように進みました。(ポークソテー、ポークソテー……)と、心の中で唱えていました。カウンターに這い上り、「ポークソテーとご飯ください」と頼みました。焼き上がったそれを無我夢中で食べ、よろよろとアパートに帰ってもう一度布団にくるまった。翌朝はいつもの自分に戻っていました。
「若かった」と言ってしまえばそれまでですが、あの肉塊は、間違いなく僕に生きるパワーを与えてくれたのだと、いまも信じています。
【 フライたち 】
フライ物も、死ぬほど注文しました。エビ・魚系にはたっぶりとタルタルソースをかけてくれた。チキンクリームコロッケ、チキンカツ・ポークカツにはブラウンソースがかかっていました(ハンバーグも同様でした)。
ドミグラス、コンソメだけでなく、僕はタルタルソースも大好きです。当時は、そこそこの店(高い店)にいかないと、タルタルを堪能することなどできなかったのです。普通の店で、たまに遭遇するタルタルなんて、「えっ、これっぽっち!?」というしかない少なさでした。なので僕は、マック(関西ではマクド)では、「フィレ・オ・フィッシュ」ばかり食っていました。その飢餓感を、キッチンスターは解消してくれました。玉子たっぷりのタルタルソース。またまた、この店から離れられなくなってしまいました。
フライ物にタルタルを合わせるのが好きだったので、恐る恐るマスターにお願いしました。
「コロッケはタルタルにしてもらえますか?」
「いいですよ」
それ以来、クリームコロッケにタルタルを混ぜ合わせて食べるという、わがままを許容してもらいました。感謝します! まだまだありますぜ!
チキンカツ。これもまた、初めての体験でした。細長い、20cmはあろうかという棒状のカツが2本。それが一人前でした。形の珍しさは置くとして、ナイフを入れて驚きました。切り口から溶けたバターが溢れ出したのです。淡白なチキンの胸肉とバターのコク、そこにブラウンソースが絡んで絶妙な味になりました。開いた胸肉に、パセリなどのハーブを練り込んだバターを巻き込んでフライする。ロシア伝統の「キエフ風カツレツ」だったのです。
マスターは茨城出身。県北部のお寺の息子さんです。「集団就職で上京して、渋谷の『サモワール』(*6)で修業したんです。結婚を機に高円寺で開業したんですよ」。たまたまふたりきりだった時に、マスターが話してくれました。
【 満腹メニュー 】
憧れのメニューがありました。ミックスグリルです。「満腹メニュー」と僕は密かに名付けていました。ポーク生姜焼きとハンバーグ、ボイルしたエビとケチャップソースのスパゲティ、タルタルソースのかかったブロッコリー、フライドポテトという陣容です。「魔法のソース」「ブラウンソース」「タルタルルソース」の響宴! 肉たちが旨いのは当然のこと。焼けた鉄板に焦がされたソースたちの、滋味をまとったスパゲティとフライドポテトの旨いことといったら!!
仕事をするようになって、もっとも多く食べたのはミックスグリルでした。ビールとミニサラダをまず頼む。「ミニ」という言葉に騙されてはいけません。フルサイズのスープ(コンソメ)・ポタージュ・ボルシチ・サラダは、それぞれが一品を超えるボリュームなので、注文する時は注意が必要でした。ミニサラダは、大好きなコールスロー、レタス(タルタルソースかけ)に、キュウリ、トマトと、これまた旨いポテトサラダ。こいつをつまみ、ミニスープを飲んで、満腹メニューができ上がるのを待つ。何度食べても、そのたびに感動したものです。
「今度雑誌に載るんですよ」
ある日マスターが、いつものシャイな口調で嬉しそうに教えてくれました。『ビッグコミック』(小学館)だったと思うのですが、巻末の記事ページで、毎号隠れた名店を紹介するという連載企画でした。売りは、店名も電話番号も所在地も明かさないこと。イラストと記事で料理を説明して、店名と場所はいくつかのヒントのみ。
「客が殺到するんじゃないですか?」
「そんなことないですよ。店の名前も出ないんだから……」
などいう暢気な会話はカンペキに打ちのめされました。マスメディアの威力は絶大でした。満席で入れないことはたまにありましたが、そんな問題ではなくなった。ほとんど入れないというか、席が空くのを待つ行列までできてしまったのです。稀だった女の子同士の客も急増しました。
(まいったな、入れないじゃん!)
という思いもありましたが、心配なのはマスター夫妻でした。いつもの調子を崩さず仕事してたら、休むヒマなどないはず。下手すれば軀を壊しかねない騒ぎでした。嵐が過ぎ去ったのは、2〜3カ月後だったように記憶しています。遠巻きに眺めていた、僕たち近所の人間や、古くからの客は、騒ぎが治まるのを待って、おずおずといつものカウンター席に復帰しました。
マスターはタフでした。「いやぁ、参っちゃいましたよ」なんて言いながら、穏やかな表情、丁寧な仕事ぶりには、まったく変化がなかった。元々この人は働き者でした。朝仕込みして、ランチタイムを捌く(15時頃までやっていた)。休憩して18時前には夜の部が開店。あとは、客が続く限り店を開けていました。
【 夜風とキッチンスター、そして高円寺 】
新高円寺駅の近くに、毎日のように通っていた居酒屋がありました。団塊の世代の人たちが支配する狭い空間に、僕らのような学生が入り交じって、夜ごと盛り上がっていた店です。この店のことは、また改めて書くつもりです。
店じまいだから帰ろうとすると、女将さんに引き止められることがありました。
「ヨシユキちゃん、賄い食べていきなよ」
午前1時とか2時。腹減らしだった当時の僕に、そんな美味しいお誘いを断る理由などありませんでした。ありがたく、ガツガツとご飯を頂戴して、今度こそ「ごちそうさま」と店を出る。人通りの絶えた新高円寺通り商店街を、夜風に吹かれて歩く。アパートまではもうわずか。
と、「ヨシユキさん、ヨシユキさん」という声。わずかに開いた、商店街に面した磨りガラスの窓越に、マスターが僕を呼び止めます。
「ちょっと寄っていきなさいよ」
その笑顔に誘われると断れません。遅かった最後の客を送り出し、片付けと掃除を済ませたマスターの、貴重なリラックスタイムです。コック帽を脱いでカウンター席に座り、角のロックを旨そうに愉しんでいました。
「ヨシユキさんも一杯どう?」
またまた、ありがたく一杯。ときには、ミルクたっぷりの甘くて美味しいコーヒーを飲ませてくれました。お互いが大洋ホエールズ(現横浜DeNAベイスターズ)ファンであることがわかってから、マスターとはよく話をするようになっていました。昔習い覚えた「ボルシチ」をメニューに加えるときは、深夜に試食させてもらったこともあったなぁ。
そんな街でした。
キッチンスターもいまはありません。ブログ『Kazu Photo Note』「思い出のキッチンスター☆(高円寺)」に閉店の日のことが書かれていました。懐かしい写真も掲載されています。
(なんて居心地がいいんだろう)
街と人の温もりに、僕は浸りきっていました。
気がついたら、「学生」から「学生のようなもの」、そして「学生でもなんでもないもの」になっていました。誰も責めるべきものではありません。自業自得ってやつです(流行り言葉だと「自己責任」となるのでしょうね。しかしこれってつくづく、ヘンテコな日本語、実に嫌な言い回しだなぁ)。
みうらじゅん氏の警句、「若者よ眼を醒せ! そして、一日も早く中央線から脱却すべし! さもないと、ずぶずぶぬくぬくとした、妖魔の温床に取り込まれてしまう。キミたちの志がスポイルされてしまう!」を思い出してください。「中央線の魔力=富士の霊力(!?)」を、僕は高円寺でカンペキに追体験していたのだと思います(スポイルされるだけの志など持っていませんでしたが)。
高円寺周辺にたむろしていた友人たちは次々と新たな場所に去り、僕は最後に、この地を離れることになりました。とはいえ住んでいるのは、結局中央線沿線です。
今朝も車窓から、秋の晴れわたった空の彼方の、見事に冠雪した雄大な富士の山を眺めていました。
畏るべし、富士山。畏るべし、中央線。
*1 夜11時まで:当時はその名の通り、朝7時から夜11時までの営業でした。
*2 のどかな時代:新高円寺通り商店街には、発売日前の雑誌類があたりまえのように並ぶ、深夜営業のゲリラ書店もありました。便利でした。
*3 アジア文化伝導:高円寺にはじまる「仲屋むげん堂」が、アジアン雑貨ブーム発祥の店といわれています。高円寺は「中央線の印度」とも呼ばれていました。ここから中央線全域に、アジア風俗が広がっていきました。
*4 フラメンコ:日本にフラメンコを根付かせた、小松原庸子さん主宰の舞踊団は、いまも高円寺を本拠としています。
*5 ブロシェット:串焼き料理もしくはそれに用いる串のこと。
*6 渋谷の『サモワール』:ロシア料理の老舗。現在は池尻大橋に移転しています。※筆者の記憶違いで「ロゴスキー」とブログに記載してしまいました。本稿を読んでくださった方からのご指摘により訂正いたします。
(高円寺洋食物語 了)