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今日は厄日と言っていいだろう。
朝からバスに乗り遅れるは、1時限目の体育の授業で捻挫するは。
神社へお払いにでも行った方がいいんじゃないかと本気で思ってしまうほど、今日は災難続きだった。
本当に、今日は厄日だ。
そして、それが確信へと変わったのは放課後、1年生の秋にしてこの学校の副会長になった榊龍之介に生徒会室へと来るように言われた時だった。
なぜ、呼ばれたかは知っている。
今日一日、我がクラスと水島愛莉のクラスはその噂話で持ちきりだったからだ。
なぜ、朝寝坊をしてバスに乗り遅れてしまったのだろうか。
なぜ、いつもなら飛べるはずの跳び箱で転げてしまったのだろうか。
運命のいたずらとしか思えない今日一日の出来事に、私は目の前でうんうんと唸っている榊龍之介にどう言葉をかけていいか分からなかった。
彼は今、愛と矛盾の狭間で戦っているところであろう。
「榊副会長。用件は早く済ませていただきたいのですが。できれば病院でレントゲンを撮りたいと思っておりますので」
私は保健室で借りた松葉杖を片手に、白いテーブルを挟んで向かい側の榊副会長に声をかけた。
決して、榊副会長の目を見ることなく、目を伏せ視線を床にさ迷わせる。
この人はあの変態とは違って、見つめてしまうとビクっと肩を揺らすほど怖がってしまうからだ。
居心地が悪くて、身じろぎをすると、パイプ椅子が軋む音が室内に響いた。
華美な装飾が一切なされていない生徒会室は、教室の半分ぐらいの広さしかない。
室内にはホワイトボードとテーブルとパイプ椅子、そしてグレーのキャビネット棚ぐらいしかなかった。
漫画等に出てくる生徒会室は、どこぞの社長室かと見紛うぐらいの豪奢な作りをしているが、そんな生徒会室はリアルにあるのか疑問だ。
普通こんなもんだろう、生徒会室っていうのは。
「すまない。えーと、その足はどうしたんだ? ずいぶんとひどいな」
「一時限目の体育で、跳び箱を飛ぼうとしたらバランスを崩してしまいまして」
「一時限目か」
榊副会長は顎に手をそえ、なにか考えるそぶりをした。その表情は彼のかけている黒渕眼鏡のレンズが蛍光灯の光に反射して伺い知れない。
あの変態とはまた違った種類の端正な顔をしているが、こちらは薄い唇と直線的な鼻筋、ほとんど動かない表情のせいか冷たい印象をうける。
「神崎さんのクラスは3階だが、移動はどうしてたんだ? その足じゃ階段は無理だろ?」
「はい。特別に先生の許可をもらって、車イス用のエレベーターを使用しました。ただ、教師と同伴でないと使用できないので不便ですね。今日は移動教室がない日だったので、さほど問題ではありませんでしたが」
「じゃあ、今日は神崎さんはずっと誰かと一緒にいたということになるか」
「そうですね、お手洗いも扉を開けられないので、クラス委員の子が今日は色々とやってくれました」
クラス委員は2名いて、男女1名ずつ。
こんな強面の私の世話をかって出てくれるとは、さすが自発的にクラス委員になろうとした人たちなだけある。
ただし、二人ともすごい近眼で、授業の時は眼鏡をつけているが、それ以外ははずしていることが多かった。
私が素の表情で彼らを見つめても、彼らは他の生徒と接するのと何一つ変わらない対応をしてくれる。
素直には喜べないが、こちらも気を使わずに接することができるので、ありがたいに越したことはない。
「そうか。大変だったな」
そこで一旦、話が途切れる。
肩が懲り、首を横に少し捻るとハラリとひと房の髪が頬にかかったので、手で払った。
そういえば、髪の毛もだいぶ伸びた。肩を過ぎるところまできてしまっている。
そろそろ切りにいこうか。
窓の向こうでは、運動部がストレッチをしている。
時は刻々と過ぎていく。
カチカチと秒針が時を刻む音をあとどれくらい聞いていないといけないのだろう。
彼が何を言いたいのかは知っている。
何も遠回しにきかなくても、はっきりと言ってしまっていいのだが、私も彼もそれを望んではいない。
それが、彼女の嘘を断定付けてしまうからだ。
「あと、神崎さんは今日何時に登校したんだ?」
「今日は実を言うと寝坊をしてしまって、学校についたのは朝のSHRを少し過ぎた時間です」
「いつもは何時に?」
「7時40分のバスで8時少し過ぎたぐらいには教室にはいます」
「ずいぶん早いんだな」
「その時間が一番空いていて、楽なんです。その次あたりからは乗車率が増えてしまって。朝から満員のバスには乗りたくないので」
「神崎さんのクラスの生徒からきいた。すごい形相でバスを追いかけていたってな」
あまり蒸し返されたくない話だ。
話したとおり、今朝、私は寝坊をしてSHRに間に合う最後のバスに乗り遅れてしまった。次のバスだと10分後。
1時限目には間に合うが朝のSHRには間に合わない。
けど、そこそこ渋滞のある区間だったので、ダッシュすれば次の乗り場までは余裕で追い付くだろうと思っていた。
だが、サイドミラー越しに運転手と目があってしまったのが、不運のはじまりだろう。
彼が全身を震わせ、必死の形相でハンドルを握っている姿がまだまぶたの裏に焼き付いている。
バスは予定の時刻を大幅に繰り上げ走行し、私があと少しで追い付くと思った瞬間に扉が閉まり、行ってしまったのだ。
それが、5区間ほど続いた。6区間目にとうとうバスの姿は目視では確認できないほど遠くへといっていた。
「神崎さんは8時からの30分間くらい走っていたということになるか」
「そうですね。そのせいでこうなったのかもしれません。結構ふらふらでしたから」
包帯でぐるぐる巻きにされた右足に視線をうつし、少し足の指を動かすと鈍い痛みが走った。ヒビが入っていなければいいが。
「なんか、すまなかったな。こんなことを話すつもりでよんだわけじゃなかったんだが。どうやら、俺はこの件に首を突っ込まない方がいいのかもしれない。病院の受付はまだ間に合うかな?」
榊副会長は時計を気にしつつ、パイプ椅子から腰をあげた。
そして、私の横まで来ると怪我人の私を気遣うようにゆっくりとした所作で松葉杖をとり、手を差し出してくれた。
紳士である。
「大丈夫? 立てるか?」
「お気遣いなく。片足は使えるので」
「送る。バス停まで」
「いえ、副会長も色々と忙しいのに」
「今日、ここによんだのは俺だ。そのくらいのことはさせてくれ」
「そう、ですか」
下手に断るのも悪いし、私はしぶしぶ副会長の申し出を受け入れた。
昇降口のあの重いテンパー扉を自分であけるのは無理っぽいし、助かったかもしれない。
「さーかーきーくーん。それ、僕にやらせてくれない? 君は黙って、文化祭の資料でもまとめてなよ」
二人しかいないと思われていた室内に、第三者の声が割って入る。
その声に私の背筋がぶるりと震えるのがわかった。
榊副会長にも私の異変が伝わったのだろう、小さく「大丈夫?」という言葉が頭上からふってきた。
生徒会室の開け放たれた扉の壁に体重をあずけ、足を交差し、腕組をしている姿がさまになりすぎている一ノ瀬正臣がそこにいた。
切り揃えられた黒い前髪がさらりと揺れる。
弧を描いた目からは何を考えているか予想もつかない。
きっと、いいことは考えてない。絶対に。
「一ノ瀬だって、生徒会長だろ。副会長にばかり仕事を押し付けるな」
「僕は事務仕事って好きじゃないんだよね。広報とかそういうのが得意だし」
生徒会長である一ノ瀬正臣と副会長の榊龍之介の間にバチバチと火花が飛ぶ。
もともと、榊副会長は生徒会長の座を狙っていたらしいが、同じ一年であるこのド変態に生徒会長の座を奪われた事を根にもっているらしい。
だが、そもそも生徒会長になりたい生徒は生徒会長に立候補し、副会長になりたい生徒は副会長に立候補するのが、この学校の選挙の方式なので、生徒会長になりそこねた者が副会長になるというのはおかしな話なのだが。
おそらく、誰かが面白がって根も葉もない噂を流したのだろう。
「それに、文化祭の資料はまだ全部そろってない。冊子にするにはまだ時間がかかるだろ?」
「そういわれればそうか。うーん、でも君はここに残ってなよ。そんで、僕が綾子をバス停にまで送ってく」
「彼女は今日俺の用件できてもらったんだ。俺が送る」
「さかきくんさあ。水島愛莉ちゃんのこと好きなんでしょ? 他の女の子にかまけてないで、はやくおとしたら? 誰かにとられちゃう前に」
「なっ! お前っ!」
余裕の笑みを浮かべるのとは対照的に、顔を真っ赤にして絶句する榊副会長。
まあ、私も榊副会長が水島愛莉にお熱だということは知っていたが。
今日の件だって、水島愛莉がらみだというのを知って私はここに来ている。
榊生徒会長がぱくぱくと口を動かし、なにも言えないのに気をよくしのか、このド変態はさらに言葉を捲したてる。
「今朝、水島愛莉の机が誰かにイタズラをされて、登校してきた水島愛莉はその場に綾子がいたと証言したらしいね。実際にいたずらをしたところは見てないというけど。
各教室はその日、鍵を閉める時に教師が確認するから、昨日なにかをされたということはまずない。ということは、今朝ということになる。
いつもだったら、綾子は8時を少し過ぎた時間に来るわけで、教室の鍵が開くのは教師が鍵を解錠する8時。だから、犯行は8時以降になるわけだね。でも、綾子は遅刻をした。目撃者多数。
それと、もうひとつ。今日の昼休みに水島愛莉が階段から突き落とされた。これもまた水島愛莉は綾子の姿をちゃんと確認しているらしい。
さいわいかすり傷程度ですんだけど、綾子は見てのとおりこの大ケガだ。教師同伴じゃないと犯行現場である、別棟5階の視聴覚室横の階段になんて行けるわけないんだよ。
いったい、水島愛莉は誰にいやがらせをされてるんだろうねえ。そして、なんで犯人を綾子にしたいのかねえ」
そこまで言って、ド変態は口を動かすのをやめた。
榊副会長の顔はすでにいつも通りの顔色に戻っており、自嘲気味に笑みさえ浮かべていた。
「俺にだって、わかんねーよ。だけど、ただひとつ言えるのは」
くしゃりと自分の髪をわし掴む榊副会長の瞳には、確かな嫉妬の色が浮かんでいた。
「全部お前中心に動いてるって事だろうな」
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