8 たまには素直に(side 近衛)
正直な気持ちというのを言葉に乗せなくなったのはいつのことだっただろう。
それは、親が離婚した時辺りからだったのかもしれないし、母さんが俺たちを養うために朝から晩まで働いて家にいなくなったあたりだったかもしれない。ただ、甘えている場合じゃねーなって、子供ながらに感じたことは良く覚えている。
そこで大人しく勉強して秀才タイプへと変貌するわけではないところが俺なのだが、親の庇護下でぬくぬくするのは性にあわなかったのだろう。何かあったときに丸ごと抱えられるようにと近所に顔をつなげ、ガキ達をまとめ、それが高じて焼き鳥屋で手伝って余りをもらったり、昼間のダーツバーで大学生相手にダーツを教えたりと実に子供らしくない子供時代を過ごした。
とはいえ、楽しかったのは事実だ。ブラブラと遊ぶことも、学校以外の知り合いが出来るのも、大人の世界を垣間見ることも、すべてが新鮮で、同時に色あせていく狭い世界だと感じた。
多くのものを見て、多くのことを感じ、観察癖がついてしまうと、いつしか物事を斜めから見る癖がついていた。
「お兄ちゃんって、本当になに考えてるのかわかんない」
とは、最近生意気になってきた妹の言葉だ。
何が欲しい?
何がしたい?
何が……
そんな気持ちや考えを口にすれば、立ち行かなくなるようで、抑えていた。
だからかな、偶然隣の席に座った春日というクラスメートの百面相に興味を覚えたのは。生暖かく観察してみると、口に出さなくても全部感情が外に出ている。面白い奴だと……正直羨ましいとさえ思った。
――まだ彼女の世界は色褪せていない。
「近衛君、また明日」
「じゃあな」
練習試合の後、春日と別れた俺は義姉に会いに行った。もう一人の鮮やかな色彩を纏う世界を持つ人に。
「将、どうしたの? 珍しいわね、貴方が学校まで押しかけてくるなんて」
保健室に響く綺麗な声。開けた窓から入ってくる風にそよぐ漆黒の髪……白い肌、赤い唇、すらりとした綺麗な人がこちらを向いている。
「環に会いに」
はじめて会ったときから鮮烈に残る印象を与えるその主は、どうやらずっとグラウンドを見ていたらしい。
といっても、見物していたのは観客席にいる俺ではなく、プレーしている選手の一人だろうが。
この完璧なまでに完璧な義理の姉が気になる男ってどんな奴なんだろう。今回A学園までやってきたのは、そんな他愛もない好奇心からだった。
「今度の週末、俺の誕生日なんだ」
ゆっくり話を切り出す。緊張しているはずなのに、こんな時でさえ余裕の笑みを浮かべていられる自分に少し感心した。
「あら。おめでと」
同時に全く気がつかれないポーカーフェイスが少し恨めしい。
……いや、違うか。正確には、環は俺を見ていないのだから。
外ではA学園サッカー部の新レギュラー発表が行われたと聞いている。きっと、俺と顔を合わせていてもそいつ―魅上先輩―のことを考えているんだろうなということが、勘のようなもので分かってしまって、なんだか嫉妬にも似たような感情が湧いてくる。
外の夕陽ばかり見てるんじゃねーよ。
「なあ」
だから呼びかけた。
――こっちを向いて欲しい。
「たまには家に帰ってこいよ」
たまには側にいて話し相手にくらいなってくれてもいいんじゃねーの?
――そして、俺を見て欲しい。
「妹も寂しがっていたし」
でも、心の声は言葉にならず、上っ面だけのもっともらしい文面だけが口をつく。椅子の背もたれに手をかけて、義理の姉の綺麗な瞳を覗き込むと、彼女は……ぷっと吹き出した。
「わかった。了解」
「……なに笑ってんだ」
今までこういう手のひらの上に乗せられているような体験なんてほとんど無かったから、なんとなく居心地の悪さを感じてしまう。
「意外と将って甘えたがりなのかな? なんて考えたら面白くって。それがまた全然顔に出てないから、余計に……だったんだよね」
むっとして尋ねてみれば、さもおかしそうに返事が返ってきた。
俺なりの甘え方を見破られて、嬉しいのやら複雑な心境ではあるが……
「……」
「なんだか家族サービスを迫られているお父さんの気持ち」
どうやらこの聡明な姉は、気付いてか気付かずしてか家族サービスととったらしい。少し肩が落ちかけるけれども、結局のところ当初の予定は達成したわけだ。
ま、いっか。
少し口元がほころぶ。
つられるように環も微笑んだ。
――やっぱりこの人には敵わない。
「ところで、そこの窓に何か貼り付いてるぜ」
練習試合で最多の得点をもぎとったA学園のエース……らしからぬ振る舞いではあるが、そのエースがべったり窓に張り付いて、こっちをなにか害虫でも見るような目つきで睨んでやがる。
「嵐山、どーだった?」
窓から身を乗り出して環が声をかけると、奴はとたんに人懐っこい表情を浮かべた。
「俺は勿論このままエースストライカーやるっすよ。あ、おまけで……」
魅上先輩が1軍昇格で、今度から俺たちの司令塔になるみたいっす。
そのときの義姉の表情は、多分きっと忘れられない。
「そう」
たった2文字の言葉に、嬉しそうな、幸せそうな、良かったという思いと、まるで自分のことのように誇らしげな気持ちがブレンドされていた。音になっているかどうか分からない言葉よりも、そのこぼれんばかりの笑みに……ああ、魅上先輩とやらが俺の恋敵なんだなと理解する。
自分だったらここまであの人を喜ばせることは出来ないだろう。
いや、他の誰にもそんなことさせることなんて出来ないだろう。
でも、だからといってすんなりいくとは限らないのが人間だ。
「じゃあ俺はこれで」
まだ窓に張り付いているエースとやらに少し余裕の笑みを見せつけると、きびすを返して保健室の入口へと向かった。
「将、特大のケーキでも欲しい?」
そんな俺の背中にからかうような声がかかる。
……そうだな、
「いや、もうそんな年じゃねーから」
一緒にいてくれるだけでいい、なんて言えるはずも無いけれど。今度の週末、楽しみにしている。
ただそれだけは口にして、ドアを開ける。
――先に環が通れるように。
きっとこれから魅上先輩とやらの所へ行くのだろうと思ったから。
「ありがとう」
その嬉しそうな笑みは自分に向けられたものじゃないと分かっていても、充分心にしみた。