5 すべてが○○になる
「本に集中しているところ悪いんだけど」
凛とした声が聞こえて、私はガバっと顔をあげた。
テレビの中にいてもおかしくない整った顔立ちの女性が目に映る。うそっ! 女優さん? え、ものすごい美人なんですが。A学園の制服を着ているから、私とそんなに変わらない年齢だとは思うのだけれど、大人っぽい艶やかさは逆立ちしたって真似できない。
透き通るように白い肌、ふっくらとした赤い唇、サラサラの長いストレートヘア、すらりと伸びた手足はモデル顔負けだし、あ、顔小さいなぁ。などと思わず舐めるようにガン見してしまう程度に、私はうろたえている。美人は纏うオーラが違います。空気清浄機能がついているなんて、私はじめて知った!
「あの?」
お姉さまとお呼びしたくなるくらい美しいです。美人は目の保養です。人類の共有財産です。
「はっ……!? はははははははいいいいっ! 私、春日珠樹といいます! 何かお役に立てますか?」
しまった。どうでもいい自己紹介まで織り込んでしまった。我に返ったと思いきや、全然返っていないよ。どこいった、私の魂。戻って来い。
「近衛 将という名前の男子、いる? 確か図書室に大抵いるって聞いていたのだけど」
近衛君?
首を傾げた私に美貌のお姉さまは
「ええ、将の姉の環っていいます。同じ名前なのね、春日さん」
ニッコリと微笑んだ。
そのときの衝撃といったらもう!
こんな美しい人と同じ名前って、おとーさん、おかーさん、なんてことしてくれるんだ! もうすごい恥ずかしいんですが、環お姉さまに比べたら私、タマコでいいよ! むしろタマゴでも十分だよ。何言ってるのか自分でも分からないけどタマゴダヨ。
「こっ、コノエ君のお姉さんなんですネ。今の時間なら、窓際の席で本を読んでいると思いますが」
声が上ずってひっくり返っているのは自覚している。きっと顔なんてゆでだこのように真っ赤になっているに違いない。
ぎこちないままぐるりと辺りを見回すと、こちらに用がありそうな利用者もいなかったので、カウンターの上に『御用の方はベルを鳴らしてください』と書かれたプレートを出し、美人さんを連れて行くことにした。清浄化された空気を吸っていたら、私も美しくなれるかもしれないだなんて、ちょっとしか思ってないんだからね!
「えっと、案内します」
「ありがとう」
軽く微笑まれただけで、紙のように薄い私の防御壁はあっさりと破られ、心臓に重い一撃が走る。脳内で『ふおおおおおおおっ!』と訳の分からない雄たけびがこだまする。そんな不審な態度を隠し切れぬまま、私は近衛君のお姉さんを連れて階段を上がった。
日当たりの良い窓際の席は、1階からちょうど死角になるところにある。ここが近衛君のお気に入りの場所……なのだけれど。
「寝てますねぇ」
「ええ、よく寝てるわね」
彼は分厚い本を3冊ほど頭の下敷きにして眠っていた。
「起こしましょうか?」
何か用があるのだろうと思って提案してみたところ、「ちょっと弟になる子の顔が見たかっただけだから」と止められてしまった。なんだか意味が良く分からなくて首を傾げたが、まあ、家族なのだから私が口出すことでもないのだろう。
「お義母さんの話では、『絶対に委員会なんかサボっている』ってことだったから、図書館にいるって聞いて、本当は真面目だったんだなって思ったのだけど」
ニッコリ微笑むお姉さまは、やっぱり美しいです。つーか、膝まづきたいくらい神々しかったです。
内容は頭からすっ飛びましたが、この方にかかるとミステリアスでワイルドな近衛君も年相応の弟君に見えてしまうのだなぁと思うと、なんだか不思議な気分だった。
「あー、やっぱり来てたのか」
後日、環お姉さんに会ったことを伝えると、近衛君は手のひらに乗せた古いコインをピンと弾いてキャッチした。
「本当に綺麗な人だよね~」
記憶から引っ張り出してうっとりする。それにつられたのか、いつもしゃきんとした空気を纏う近衛君がその眼光を和らげて優しく微笑むものだから、私は何か見てはいけないものを見てしまったような気がして、何故だかすごく不安になってしまって……そっと目を伏せた。
――夏もそろそろ終わりという頃だった。
後に友達から噂を聞くことになる。
「近衛君のお母さん再婚したんだって。その相手方の娘……ってか、お姉さんがものすごく美人なんだって!」
A学園に行っている友達からの情報だというその「お姉さん」の容貌は、私があの日出会った美人さんと一致していた。
「珠樹~、これは巨大ライバル登場だね!」
からかう瑞穂の言葉が遠くに聞こえる。どうしてこのタイミングなのか分からないけれど、気づいてしまったのだ。
――どうも私は近衛君を好きになっていたらしい。
ふいに図書室でだるそうに本をめくる近衛君のシルエットが思い出される。
暑い日も……図書館はクーラーが効いているし除湿機があるから快適だな、なんていいながら分厚い本を読んでいる彼の姿。
お前、本読むのおせーよな、って笑う顔。
なぜだか思い出すのは、教室で睨むようにして行儀悪く座っている近衛君の姿ではない。
なぜだか思い出すのは、……図書館で垣間見る――優しい素顔だった。
「珠樹? ご……ごめん?」
慌てて謝る彼女の言葉が耳に入ることはなくて、ただ浮かんだのは取りとめもない思い。
どこが好きなんだろう。
例えば?
例えば……精悍な表情?
強い意志を持った瞳?
それともさりげない優しさ?
……そのどれとも違う気がする。あえて言うなれば
「春日」
と私を呼ぶ挑戦的な声?
でも近衛君が呼ぶ「タマキ」という名前は、私の名前じゃなくて……あの人の名前。
自慢じゃないが、私は自分の気持ちに疎い。
けど、けど……近衛君の好きな人が誰かくらいはわかるよ。
だって、いつも見てたんだから。
だって、いつも聞いてたんだから。
ああ、ビックリだ。私ってばこんな乙女ちっくな奴だったんだ。そう思うと、悲しいのやらおかしいのやら悔しいのやらよく分からなくって笑いがこみ上げてくる。
「やーい、だまされた」
「お騒がせな子なんだから」
今なら笑いとばして終わりに出来る。
ちょっとした『素敵な出会い』があったなくらいの、良き思い出になるだろう。
――きっと近衛将という男は悪い奴だ。
ああいうのに引っかかるときっと後が大変。糸が切れたタコのようにフラフラしているに違いないし、計りきれない思考と行動力は私を迷わせるだろう。それを全部まとめて面倒みれるくらいの度量がなければ隣には立てないに違いない。……そう思い込もうとして、ぐっと感情を心の中に押し込んだ。
どうせこれは恋なんてものじゃない。
ただの憧れなんだ。
日は落ち、すこしずつ昼が短くなっていく。
夜が延びて、すこしずつ肌寒くなるのは、だんだん秋から冬に変わっていくから。秋は別れの季節だというけれど、私としては「実りの秋」っていうんだから、むしろ逆じゃないかなーなんて思うけど……と近衛君に話したら
「春日は色気より食い気か」
と、クスクス笑った。
その笑顔を見て、「そんなことないぞー」と手持ちの本を抱きしめてみる。
「犀川先生超素敵だよ」
「誰だよ」
森博嗣のミステリーに出てくる人だよ。
そう言うと「物語の人物ってある意味完璧だもんな」って結構辛口の評価をしてくれた。
「別に完璧って訳じゃないと思うけどなー」
「どんな人物?」
そうさね、強いて言うなればだよ、
「いつも寝癖が付いていて、ヨレヨレのワイシャツを着ていて、ネクタイが曲がってて、 実は結構捻くれものの天邪鬼で、意味なし冗句が得意なの」
って言い切ると、近衛君はお前の好みは良く分からないと口元を緩めた。
こいつはまさか私が近衛君のこと、ちょっと好きになっていたなんて、ミジンコほども知らないんだろうな。
「完璧だったら好きになるって訳じゃないよ」
そんな人間いてたまるか。
「それはそうかもな」
ちょっと近衛君が意味ありげな笑いを含んで答える。だから
「でも、近衛君のお姉さんは完璧に見えたなぁ」
すこしだけ意地悪してみた。
「……なんか言い方に棘があるな」
急に近衛君の声が低くなったので、わたしはちょっとまずいことを言ってしまったのだと焦る。
「そ、そうかな」
でも、完璧じゃないにしても完璧に近いお姉さんだから憧れて、好きになったんじゃない?
小声で呟いた言葉は……聞こえてしまったらしい。
「春日には関係のない話だろ?」
なんだかすこし機嫌悪く返事が返ってきて、それっきりその日は一言も喋らずカウンターの中で座ることとなってしまった。