4 モモ
この学校の図書館は地上2階、地下1階建ての木造建築だ。歴史だけは長い学校なので、増改築を繰り返しているこの建物も古い。けれど、長年の歳月が醸し出す木の風合いが私は好きだった。1階と2階の間にある広い踊り場に設けられた本棚はとても洒落たものだし、2階から吹き抜けになっている1階を見下ろす景色も気に入っている。2階は1階の半分のスペースしかないのだけれど、変に閉鎖されていないおかげで目が行き届きやすいし、利用者も気軽にあがることができる。
その分蔵書を置くスペースは狭くなるのだけれど、地下に広い書庫があるため、見た目に反して意外と豊富な蔵書量を誇っていた。ただ、地下には代々の卒業生が寄付した貴重な資料も含まれるとかで、基本的に生徒は立ち入りできない。
しかし、後で整理しようとして置きっ放しになっていた本が許容量を超えたとかで、書庫整理を頼まれた近衛君以下5名は地下室への合鍵をもらっていた。当然のことながら必ず先生が付き添わないとは入れないようになってるらしいのだけれど、それでも秘密基地のようで羨ましいなぁと私は思う。
そう伝えると、レンジャーな彼はいたずらっ子のような笑みを浮かべて本のページをめくるのだ。
綺麗に組まれた脚の上にある本は『植物図鑑』。彼の読む本はほんとうにジャンルがばらばらで良く分からない。読書家だねと褒めてみたいけれど、本の虫と評するにはあまりにも均整の取れた体つきをしているため、口に出してよいものか悩む。
それにしても脚が長いなぁ。体育の授業でちらりと見たのだけど、しっかり筋肉がついているのに足首がきゅっと引き締まっていて、その辺の体育会系の部活に入っている男子よりもよほど鍛えているようだった。しかも、しなやか。
本をめくる指はすこし荒れていて、なんとなく硬そう。
……本当に一体何者なんだろう。
一緒にいるとなんだか不思議と落ち着くようになったのはいつのことか……多分そう時間はかからなかったように思う。ゴールデンウイークが終わって、その顔を見たらなんとなくホッとしてしまうほどには隣にいるのが当たり前になっていたのかもしれない。
こんなにも非日常的な彼が、私の日常になりつつあることが不思議でならない。
ゴールデンウイーク直後は返却のお客さんで一時賑わったが、それが過ぎてしまうとあっという間に図書館内は閑散としてしまった。新刊が入るまでには少し時間がかかるし、こういうときはだらだら過ごすに限る。
「図書委員ってクーラーの中でぽけーっと座っててもいいし、楽だよね~」
あごを机の上において、なめこのようにごろごろしていたら、頭の上に本をのせられた。
「図書委員、仕事しろよ」
「お客さんいないもん」
「俺が借りてやるよ」
次はどんな本を読むのだろうと興味津々で表紙を見たら、『モモ』と書かれた表紙が目に映る。作者はミヒャエル・エンデ。外国の作家さんか。
字も大きめで薄そうな本だったので、
「珍しいね。近衛君がこういうの選ぶなんて」
と目をまん丸にして驚いてみせたら、
「春日が読むのに丁度いいだろ?」
と彼は精悍な顔をにやりと歪めて笑った。
「私が?」
あんまりにもぽかんとした表情をしていたのだろう。近衛君は面白そうに笑って「なんか春日って犬みたいだな」と呟いた。
えっ、何、私、ペットポジションなんですか!? 抗議して良いですか?
……どうやら彼にしてみると、小型犬がじゃれてくるように見えるらしい。そんなにキャンキャンまとわりついてませんよ! だって根本的には油断も隙もない人っぽいという認識がありますもの。あれですよ、寝ている熊にどこまで近づけるか度胸を試しているウサギの気分ですよ。満腹で寝ているときなら、ちょっとぐらい近づいても攻撃されることはないかなーなんていう小動物的発想というか。あれ? 小型犬ってそういうこと?
それにしても近衛君はすごく硬派に見えるのにどうしてそんなに人のあしらいが上手なのでしょうか。軟派というわけではなくて、なんとなく幅広い年齢層の人と普通に話しができそうな、そんな安定感がある。うーん、言葉にすると伝わりにくいと思うのだけど、学生の間って家族以外はほとんど同年代の人としかしゃべらないから、言葉の選び方が大人と違うなぁという気がするのだ。
あと、すごく意外なのだけど、小さな子供の相手もそつなくこなしちゃいそう。しゃべり慣れてるなーというかなんというか、この感覚、なんていうか。
そうか!
「もしかして、近衛君……妹とかいる?」
「ああ。生意気盛りの妹がいるぞ」
やっぱりだ。
「近衛君は『お兄ちゃん』だったんだねー」
貴重な個人情報をミステリアスなレンジャーからゲットしちゃいましたよ。でも、ホイホイ売ったりしないからね! 安心してね。
「で。それ読むか? ああ、子供の頃読んだけど、ちゃんと面白かったぜ」
―――一瞬、近衛君の顔が近づいて、不覚にもドキドキしてしまった。
『モモ』は、時間泥棒に盗まれた時間を町の人に取り返してくれた不思議な女の子の物語だった。後で調べたところによると、この作者は『果てしない物語』(日本では『ネバーエンディングストーリー』という題名で映画も公開されていた)という有名な本を書いた人らしい。
主人公のモモは街外れの廃墟に住み着いたみすぼらしい格好の女の子だ。ある日ふらりと街に住み着いた彼女を、住人たちは最初警戒するのだけれど、もともと貧しくて持ちつ持たれつの生活をしていた彼らは、彼女のことも受け入れていく。
彼女は仕事をするわけでもなく、ただ住んでいるだけ。子供たちと遊び、たまに大人たちの話を静かに聴いてくれる。
話を聞く……と表現してしまうと、なんだそんなこと簡単じゃないかと思ってしまう。けれど、彼女はとても聞き上手で、モモに話を聞いてもらった街の人たちは、迷いが晴れたり、勇気を貰ったり、希望が湧いてくるということに気づく。
それは、貧乏だけれど才気溢れる若者――ジジにとっても同じだった。
ところがある日、時間貯蓄銀行に所属するという灰色のスーツの男達がやってきて……。
思わず本にのめりこむようにして私は本を読んでいた。
この作品が書かれたのはずっと昔のはずなのに、どうしてだろう、とても身近に感じてしまうのだ。例えば塾に追われている友達、例えば仕事人間の親、そんな『例えば』を挙げればキリがない。身につまされる内容なのに、何故かすごく癒されて……考えさせられた。
「近衛君って、こんなの昔から読んでたんだ」
いかに自分がいままで何にも考えていなかったということがしみじみ感じられる。
人生の時間の使い方はそのまま生き方につながる。幸せって何なのか、問いかけるのは簡単だけれど、自分の中に哲学を持って生きていくのは難しい。
――「春日が読むのに丁度いいだろ?」
そう彼に言われたときは、「絵本のような本を薦めるなんて」と思ったけれど、前言撤回する。
これは名作だ。だって最後まで読んでしまうのが惜しいと思うのだ。だから、何回も繰り返し借りて、少しずつ読んだ。何回も戻りながら……理解できるように。何度も、何度も。
ある日、カウンターでいつものように『モモ』を広げていたら、近衛君から少し呆れたような言葉を頂戴してしまった。
「気に入ってもらえたなら推薦者冥利に尽きるけどな、丸暗記するつもりじゃねーだろうな」
「しないよ! ちゃんと期限内に返却するから、いーじゃない」
うん。来月の推薦図書はこれにするぞ!