3 人間の条件
「珠樹、昨日どうだった?」
「は? 昨日?」
「近衛君との ふ た り っ き り の 図書室」
……誤解を招くようなこと言うな。司書の先生もいたよ。
「何にもなかった。つーか、手伝ってもくれなかった」
「あれ? そうなの? 先生が『事前に近衛君がアンケート集計してくれたから早く帰れた』って言ってたけど」
「えっ! そんなこと全然聞いてない」
半分仕事してくれたなら、教えてくれても良いものを。
「まあ、近衛君は男前だからね! 先に一人で半分仕事終わらせちゃったなんて、恩着せがましく聞こえると思って言わなかったんじゃないの?」
無口でも仕事をしっかりやる男って素敵……と彼女はため息をつく。脳内できっと美化されてるに違いない。よく考えるんだ。おかしいだろ。
「先に帰ったら良かったのに」
仕事を手伝うでもなく、ただ見ているだけってつまらないんじゃないですかね。
「そりゃ、一人だと珠樹が不安がるから一緒にいてくれたんだよ」
「そう?」
そのわりには、だいたいにおいて本に没頭しているように見えたのだけど。
「どんな本読んでたの?」
「……さあ?」
なんか結構ごつい本だったような。
お弁当タイムに入ってしまっているから、頭に血が回っていなくて思い出せない。ただいま春日珠樹の全血液は、消化活動に入っているのだもの。
「じゃあさ、なんか話したの?」
「まー、私の顔が百面相とか?」
「…………あんた、一体どんな顔して仕事してたのさ」
普通の顔だが異論はあるか? あるなら、拳で語り合う心の準備はできているぞ!
ぐっとこぶしを握り締めて見せれば、瑞穂もファイティングポーズを取った。えっ、ここでガチバトルですか!? 私の顔をめぐって!? やだ!
「まあ、あの人、無駄に顔がいいから、自分を基準にしたら凡人の顔は面白く見えるんでしょうよー」
なんかスポーツでもやっているのかスタイルもいいし……。帰宅部のくせに。レンジャーめ! ぶーぶー!
「なーに僻んじゃってるのよ、この子はもう~」
その表情豊かなところがあんたの可愛いところじゃないの、と、タコさんウインナーを頬張りながら親友は笑った。
緩いパーマがかった私と違って、さらさらストレートな髪質の彼女は和風美人だ。
大事なことだからもう一度言う。親友の瑞穂は美人だ。
知ってるか? 美人が「可愛いなぁ」といいながら笑うと、破壊力抜群なんだぜ。つまり『可愛いのはお前だ!』と私は言いたい。言いたいっ!
あ、誤解なきように言っておきますが、私はノーマルです。格好いい男性を見ると心ときめきます。でも、可愛いは正義教の信者です。綺麗なものは綺麗なものとして愛でる、これ、芸術を愛する心と同じネ。
幸か不幸か彼女の陰に隠れて私の存在は薄い。私たちに声をかけてくる男子は大半が瑞穂狙いだし、残りは純然たる用事だ。下心無しの。おかげで普通顔の私は、無駄に自意識が肥大することなく育ったと思う。
そして、無駄に卑屈にならなかったのは、私が瑞穂を親友として認めていたからだと思う。私たちは対等なのだ。どちらが偉いとか綺麗とかじゃなくて、お互いそれぞれ良いところがあって、駄目駄目なところがあるのだ。だから……
――「悪くなんてないぜ?」
ふと、近衛君が昨日言った言葉がよみがえってきた。
同時に……あのやんちゃ坊主みたいな笑顔も。
「何赤くなってるの?」
「べ、別にっ。なんでもない」
「あっやしー」
ニヤニヤしている彼女に「さっさと食べないと、移動教室に遅れるよ」と誤魔化す。そして慌ててご飯を口に運んだら、気管に入ってゴホゴホ咳き込んだ。こんな姿をさらす羽目になろうとは!
「そういや、なんで近衛君、図書委員になろうと思ったんだろう」
「もしかして、珠樹のこと好きだとか!」
「100%ありえぬ!」
そういう甘ったるいムードは感じられないし、そもそも釣り合わないと自覚している。どこか地に足のつかない私と違って、彼はどこまでも現実主義者なのだ。そんな彼に並び立てるしっかりした子を選びそうな気がする。あと、個人的な趣味になってしまうけれど、近衛君には美人で大人っぽい人のほうが似合う気がするんだもん。
「珠樹とくっついたら面白いのになー。アタフタしている珠樹を観察するのがめちゃくちゃ楽しそう!」
「……そこはお世辞でも『似合わなくもない』くらい言ってほしかったよ」
どう考えてもそれでは主人にまとわりつく小型犬のポジションではあるまいか。
不思議なことに、怖いと思っていた近衛君は……いつしかそれほど怖くない人になっていた。相変わらず授業はさぼり気味だし、サボった後は変なアイテムを持っていることが多いのだけれど。
この前は親指サイズの小さな陶器製のブタだった。ホールケーキサイズの焼き菓子に入っていたらしい。確かフランスの菓子でそういうのあったよねー、当たった人が一日王様になれるんだよねーと続けると、「そうなのか。やっぱ場所によって、似たような文化はあっても違うんだな」と言っていた。
その似たような文化とはなんぞやと尋ねてみたら、焼き菓子の中にある陶器を当てた人間が一日囮役になるらしい。囮って何だと突っ込めば、狩りの際に獲物をひきつけるのだとか。ネットゲームでもやっているのかなぁ。でも、何をどう間違ったらそんなふうに独自進化するんですかね。
そんな話ができるのは、がやがやとうるさい教室……ではなく、図書室での当番の日。
クラスで注目の近衛君が当番をしている日には当然女の子が詰め掛けるだろうなぁと思っていたのだけれど、初日に彼が「本に用のないやつは帰れよ」と静かな殺気を醸しながら注意したことにより、ミーハーな女の子を見かけることはなくなった。
そんな注意ぐらいでいなくなるなんて信じられないよね、とこっそり瑞穂にこぼしたら、「近衛君の『仲間』が裏から手を回したみたいだよ」と返ってきた。なにそれ怖い。
でも、小市民な私はあえて突っ込むようなことはしないよ! 人生平穏が一番なのです。
そんな決意を胸に抱きつつ、ちらりと近衛君を盗み見る。今日はカウンターの奥で頬杖をつきながら分厚い本をめくっていた。すっかり利用者の一人に見えなくもないが、私がカウンターを離れるときには一応代わりに仕事してくれる。
「全集?」
何を読んでいるのだろうと首を伸ばしたら、彼はニヤリと笑って本をこちらに差し出した。
『人間の條件 1』と古ぼけた文字で書かれたその本は、五味川純平という作家の全集に収録された作品らしい。旧字体がふんだんに使われたその本は、予想通りというか……字が細かい! あと、明朝体が若干かすれて読みにくいのは、古い本故か。目に優しくない仕様だ。
「ひえぇ。こんな難しそうな本、よく読めるね」
「あー、これは先生が別の図書館から借りて読んでる本だがな」
ポンとおいてあった読みかけの本をたまたま手に取ったらしい。けれど、そんな真面目そうな本ならそのまま元の場所に戻しそうなものだけど……
「面白いの? というかどんな内容なのか知らないのだけど」
近衛君の心の琴線に触れるフレーズでもあったのだろうか。
「面白い、というのとは違うな。主人公が戦時中に人権とか人間の在り方、そういうものについて考える話だから、重いと思う」
肩をすくめて見せた彼は、私から本を受け取ると、パラリと読み進めていたところまでページをめくった。
戦争中の話、そして人権と聞けばいやがおうにも暗い話しか思い浮かばない。普段、読書といっても9割方漫画を読んでいる私には敷居が高すぎた。そして、そんな私よりも不真面目に見えた近衛君が文学作品を読んでいることに少なからずショックを受ける。
「あんまり辛い話は、自分も引きずられるから苦手だな」
読めないんじゃなくて、読まないだけなんだからね、と言外に匂わせた虚勢など近衛君にはお見通しなのか、彼は口角をわずかに上げて笑った後、ポツリとこぼした。
「確かに知らないほうが幸せなこともあるけどな、誰かに伝えずにはいられないほどの絶望や陰惨な出来事は確かにあるんだ。そんな出来事に直面したとき、無知な自分が対応できるのかって考えたら怖くないか?」