15 ストーブが溶かしたもの
待ちに待った学校が始まった。
珍しく年明けから降り続く雪のおかげで、客足がぱたりと途絶えた図書館は本当に静かだ。白く曇る窓のせいで光が届きにくくなった室内はほんのり薄暗いが、雪明りというのも悪くないと思う。
しんしんと降り込める雪を見ながら、私はずれそうになるひざ掛けをきゅっと引っ張りあげた。
じんじんと底冷えする図書館だが、さっき近衛君が灯油を持ってきてくれたので足元はあったかい。図書館のストーブは旧式のもので点灯にコツがいるのだけれど、彼は器用にも一発でつけてくれたのだ。
机は冷たいままだけれど。
でも、近衛君が優しい。その優しさが心地良くて泣きそうになる。何回私を惚れさせるんだろう……この人は。
「何ニヤついてんだ?」
「んー? ストーブって幸せだなぁって思って」
窓の霜……部屋の中なのに吐いた息が白い。
上はもっと寒いんじゃないかな―って思って見上げると、近衛君が2階の本棚からこっちを見ていた。
「なーにー?」
「あー、春日も随分図書委員らしくなったなって感心してた」
腕を手すりに預けるようにして彼は笑う。
精悍な顔立ちが緩む、その表情に私の胸はキュンと掴まれる。
ううっ……冗談ではないぞ。初めて会ったときは、ただの怖い人だと思っていたというのに。
この人は普通の恋愛とかそういうのとはすっごく縁遠い人だと思っていたのに。
想う気持ちは暴走して、私はそれに振り回される。
今は一緒にいてくれるけれど、いつかこの人は私の前から消えてしまう。
それがこんなに怖くなるなんて思ってもみなかった。そのときのことを考えただけで、心にぽかんと穴が開いてしまいそうで、時々ひどく切なくなるのだ。
「ねぇ」
ペンを置くと、階上にいる彼は「ん?」と声だけ寄越した。
「そっち、いってもいいかな?」
カバンからカーディガンを取り出して羽織ったら「どうぞ」とまた声だけ。
こんな冬の日は皆、家に帰ってしまって図書館なんかには来ない。
だから、今日は、今日だけは勇気をもってサボってみよう。
「珍しいじゃねーの」
「近衛君の真似」
だってもっと貴方と話がしたい。
階段を上る。
1歩、
1歩、
近づく。
静かな図書館に響くのは私の靴音だけ。
「ようこそ。不真面目な図書委員殿」
クスクス笑うその顔がいつもより近い。
「ごめんください。本の虫殿」
いつもより真面目な顔して、扉をノックするジェスチャーをしてみる。
――1瞬間を置いて、
今度は2人で笑ってしまう。だって、近衛君本当に本をお尻の下に敷いて座っているんだもん。
「もしかして今まで結構座布団がわりにしてた?」
「イエイエ。枕代わりにはしてたけどな」
やっぱり本の虫だね。
カタカタと木枠の窓が音を立てて笑った。
私も近衛君の横に腰を下ろしてみる。
近衛君の目線から見える階下の私はどのように見えるのだろう。……ちっぽけに見えるのだろうか?
けれど、残念ながら彼ほど背の高くない私は、自分の居場所を覗き込むだけで精一杯だった。
「今日は読書する側に回るか?」
そんな私がおかしいのだろう。近衛君はこっちを向いたまま本棚を親指で指し、それにもたれかかった。
「そうだね。受付ばっかじゃ、全然本を読めないし」
「そのときは代わってやるよ」
「そして近衛君が本を読みたくなったら、近くにいるお客さんと交替しちゃうんだ」
「勿論」
私もちょこんと本棚にもたれかかる。
「そのお客さんも本が読みたくなった頃に別の人と代わって、また私に図書の番人の役が回ってきたりして。渋々読み終えた本を棚に戻して……。そうだなぁ、少しずつ読みたい本をこっそり『自分の棚』にストックしておこうか。次にまとまった時間が出来たら、本の世界に入り浸るんだ」
「本気でメシも食わずに没頭しそうだな」
「うーん。近衛君が番人のときは大丈夫だと思う」
「なんで?」
「近衛君優しいから、人が飢え死にする前に何とかしてくれそう」
「おいおい、あんまり当てにするんじゃねーぞ」
「シチューが良いなぁ」
「調子のいい……。あのな、本にのめりこみすぎたら異世界に連れて行かれるぞ?」
「おおう、リアリスト(現実主義)の近衛君のお言葉とは思えないよ。むしろ、私よりも近衛君のほうが先に連れて行かれるよ! 読書量から言ってもさ」
「あー。まあ、そうか、そうだな。変なこと言ったな」
ふわりと近衛君は笑う。
それは私限定のもの。
ただ、それだけで心が芯まであったかい。
ブスブスと音をたててストーブが消えた。
「燃費悪ぃな」
灯油が切れたんだろう。
そう言って立ち上がる近衛君の服の裾を、私はとっさに掴んでいた。
沈黙が支配した。
話したいことが山ほどあるはずなのに、言葉に変換できない。もどかしい気持ちがぐるぐる喉のすぐそこまで上がってきているというのに。
見つめることしか出来ない。
不審に思われてしまう。
焦る気持ちとは裏腹に、目に力がこもった。目で訴えるなんてこと、不器用な私にはできるはずもないのに。
でも、近衛君は何も言わず待っていた。
私が口を開くのを。
その目が静かだから……余計に焦ってしまった。
言わなくちゃ。
言わなくちゃ。
好きだって……。
なのに、意気地なしの私の声は音すらも発してくれない。
……。
………………。
……………………………………ぽんぽんと頭を軽くなでられる。
驚いて上を見上げた私に、心地の良い声で近衛君はゆっくり言った。
「俺、春日と図書委員やって楽しかったぜ」
そうしてもう一度ストーブに灯油を補充するために階段を下りていった。
ジジジジジ……
ボボボボボ。
もう一度火をつける音がして、また温かくなる。
窓に張り付いた霜が溶け出して、水滴になった頃、私は声も無く泣いていた。
近衛君は私の代わりにカウンターに座っている。
そこはあたたかい場所。
でも今は近づけない場所。
一度溶けてしまった涙は、もう凍ることは無い。
好きになってしまった想いも、もう凍ることは無い。
幸せなときが終わってしまうのが怖いのに、時間の裾を掴みつづけることすら出来ないなんて。
たくさんストックされたこの想い。
全て燃やしてしまうことができれば良いのに……。