10 どこかにいってしまったものたち
冬休みに入った。
学校も図書館も休みに入ってしまったので、近衛君に会えない。それがちょっと淋しい。
なんだかんだ言われたり、ちょっかいだされたり、悪態ついたり、わずかな変化に気付いてあげたり、気付いてもらったりすることが、こんなに大切なことだなんて思わなかった。
「いや、まあ私がただのヘタレってだけなんだけどね」
今、私は書店にいる。
縮んだ心を膨らませるように息を吸い込むと、刷り上ったばかりの本から漂うインクの匂いが肺いっぱいに広がった。学校でも本に囲まれているくせに、休みの日にまで本に囲まれるのかよと、自分に突っ込みたくもなるけれど、落ち着くのだから仕方ないじゃないか。
まあ、あれだ。今日はクリスマスだったりするのだから、切ない話だがな。
……と、そこまで考えたところで、冬休みに突入する前に起こした出来事を思い出し、ついつい手に抱えた本の一冊でパタパタと行儀悪く仰ぐ振りをしてしまう。暑くもないのに体温が上がってしまった原因は、私の無謀な体当たり戦法だ。
――こ、近衛君! メールアドレス聞いても良いかな?
今思えば、つまらなくて平凡でそのまま人の流れに埋没してしまいそうな人生の中で、私が自分の意思でなけなしの勇気を振り絞ってひねり出したお願いだった。それに対して返ってきた彼の返事といえば、
「いいぜ」
の3文字だったわけだけど、まさか了承されるとは思わなかったんだもん。
「あーやっぱりだめだよね。いや、深い意味はないんだけど……って、いいの? 本当に? 企業秘密とかじゃないの?」
と慌てて言い訳をし始めた私は悪くないはずだ。
「単なるメールアドレスだろ? 俺の長ぇからそっちの教えろよ。送る」
「あばばばばばば!!! 絶対死守するからね、売ったりしないからね」
学年で一番可愛いと評判の女の子にメルアドを聞かれても渡さなかった近衛君だ。口で言うほどに単なるメールアドレスだなんて思ってはいないと思う。万が一出回ったら面倒なことになりそうだし、個人情報は決して漏らしませんよ!
「送ったぞ」
かくして私は近衛君のメールアドレスを手に入れる運びとなった。近衛君からメールが届いたときは開封する手が震えたね。本文には『テスト』という、色気もそっけもない、本当にアドレス教えるためだけに送った文章が鎮座していたけれど、嬉しくて死にそうだった。
送ってくれた人が特別だと、意味なし3文字メールでもずっと残したくなってしまうのだから不思議なものだ。
「と、届いたよ!」
「そりゃ届くだろーよ」
おおはしゃぎしている私が変な奴に見えるらしく、また近衛君は笑っていた。
あー、この人、絶対私が自分のこと好きで仕方ないことに気が付いているんだろうなぁ……そして、分かった上でからかって楽しんでいるんだろうなぁ。
そう思うと憎ったらしい気もするけれど、
「ま、なんかあったら送ってこいよ」
というお墨付きは嬉しい。
「あ! 今近衛君が思っているのは勘違いだからね。これは緊急対策、そう、緊急対策用なんだから。図書館が火事になったとか~学校が爆発したとき用に~」
相変らず変なプライドが邪魔して、余計な言葉を口走っては墓穴を掘っているわけなんですけどね。
何だこの中途半端なツンデレはと自分に突っ込みたいのは山々だ。
ああ、それにしても、平凡な私の人生。けれど、近衛君といる時だけ、まるで自分がヒロインになったような気がするのだ。私は他の人の人生という舞台の脇役として出演しているんじゃなくて、このときだけは私が主役なんだって。
それがくすぐったくて、そしてちょっぴり不安になる。
ここで私が近衛君にメールの一つでも送ることができたら、人生に更なる変化が起こるのかもしれない。でも、それをしてしまったら……あっという間に夢から覚めてしまうような気がして、どうしてもできなかった。
だから、図書館が休みの間に、以前近衛君が読んでいた本を捜すことにする。……覚えているのはほとんど近衛君ばかりで本の表紙なんて曖昧なんだけど、彼が最後まで読み終わった本なら面白いような気がするし。
そして、意外と本好きな彼と書店でばったり出会ったりしないかなぁなんていう甘い、いや、愚かな期待も混ざっているのだけれど。
そんな物語のような都合のいいことあるわけないかと自嘲して、赤い表紙の本を手に取ったそのときだった。
――近衛君を見つけたのは。
あいかわらず目立つ人だった。
引き締まった精悍な外見に、厳しさを感じさせない口元。ラフな紺のダウンジャケットのポケットに手を突っ込んでいる。もう夏はとっくの昔に過ぎたというのに日に焼けた肌は相変わらずで、週末はインドにでも行っているのだろうかと邪推してしまうほどだ。格好は冬服なんだけど、本当に夏が似合うというかなんというか。
隣にいるのは妹さんだろうか? くっきりした目鼻立ちが似ている女の子がいて、元気そうに歩いては近衛君にあれこれ注文をつけているらしいのだが、適当にいなされてぷんすか怒っていた。そんな顔をしても可愛いのはずるいなぁ。いいなぁ!
それはともかく、家族といるところを見られるのは気まずいよねと思って、慌てて本棚の後ろに隠れる。……それからもう一度興味本位でそーっと覗いてみた。
うぬう、脚が長いな。本当に帰宅部とは思えないよ。絶対スポーツやってるだろ。
隠れつつもギリギリとよく分からない嫉妬心を燃やしていたら、不意に鈴を鳴らしたような美しい声が響いた。
「将、捜してる本は見つかった?」
すっとその人が隣に現れると、そこだけ空間が切り取られたかのように冴え渡る。
……環さんだ。
近衛君を砂漠の国のCランクレンジャーと評するならば、環さんは氷の国の麗しき女王様というところだろうか。うん、二人ともコスプレしたら似合いそうだなぁ。
名前を呼ばれた近衛君は、「いや」と少し口元を斜めにして答える。その姿は本当に格好いいんだけど、なんだか少し緊張しているみたいだった。
「お兄ちゃんの読む本って、マイナーなものが多いからわかんないよ。漫画とかもっと子供向けのにしよーよー」
「そりゃお前が読みたいからだろーが」
妹さんに話し掛けるときの近衛君の顔は「お兄ちゃん」だ。なんだか……新鮮。
「で、作者名だれだっけ?」
「クラフト・○ヴィング商会」
――これじゃん!
私は慌てて隣の本棚に移動した。見られていなかったかな……とビクビクしたけれど、このタイミングで覗き込んだら視線が合わさってしまう気がして確認できない。
だからその声だけ、一生懸命耳を済ませて拾い上げる。
「あ、あった。これだこれ」
「なにー?」
「この茶色のハードカバー」
「へー、面白そうじゃない。私にも貸してよ」
あああああ、それ。私が読みたかった本だ。新聞の切抜きでチェックしてたのに。
今持っている本も読みたかったけれど、一番楽しみにしていた本はあれで、しかも、あの本は近衛君が「読みたい」っていってた本だったから、私が買って、貸してあげようと思ってたのに……。
しょぼんとして、とっさに掴んだ1冊を手にとって見る。
――まずはこの本から読むか。
近衛君が手にとった本は1冊しかなかったし。
私はなるべく鉢合わせしないようにそーっと後をつけ、近衛君たちが本屋さんから出るのを見計らって、レジへと急いだったのだった。