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「こんにちは」
明るい声がして倉田は振り返った。作業中の手がとまる。
「おや、また来てくれたのかい?」倉田は顔をのぞかせている香に機嫌よく答えてやった。
「今日は私が炊事当番だったの。で、煮物のおすそ分け」香はトートバッグを掲げて見せる。
「いつも悪いな。一人だと出来合いの物ばかりになるから助かるよ」
倉田は道具を手放して、身体の誇りをはらいながら、仕事場から座敷へと上がる。香は勝手知ったる様子で台所へ向かった。
「私もつい、作り過ぎるから。二人分ってまだ慣れなくて。私の味付けじゃ、濃いかもしれないけど」
そういいながらタッパーに入っている煮物を小鍋に移しかえる。
香と倉田では祖父と孫ほどの年の差があるのだから、味の好みはかなり違うはずだが、倉田は時折香が持ってくる料理に注文をつけたことは無い。
「礼似さんといるんだったな。彼氏の一人も作れば、そういうことはすぐに慣れるだろうに。爺さん相手に食べさせてばかりじゃつまらんだろう?」
「倉田さんぐらいの年の人って、二言目にはそういう話に持って行くのね。そういうのはね、今時はセクハラって言われるんだから」香は口をとがらせた。
「そう年寄りをいじめないでくれよ。こんな心配されるのも若いうちだ。俺なんか、茶飲み友達の婆さんさえ、誰にも紹介されることは無いぞ」
そう倉田が言うと二人は一緒に笑いあった。
あの騒動以来、香は時々倉田の工房を訪れるようになった。奇妙なしがらみがもとで、かかわりあった二人だが、父親を早く失い、母親は服役を繰り返した揚句姿を消してしまった香にとって、祖父のような年周りの倉田はいつの間にか心の落ち着ける存在になっていた。
「ねえ、倉田さんは足を洗う時には、すぐにやめられた? 不安になったりしなかった?」
香が真面目な口調になって聞いてきた。
「なんだ? 足を洗いたいなら、早い方がいいぞ。時間ってものは意外と速く過ぎるもんだ。そういうことは早ければ早いほどいい」倉田も促すような口調になる。
「違うの。私がすぐに足を洗いたいって訳じゃないの。ただ、ハルオが私がきっかけで人生変わっちゃいそうだから。刃物が嫌いな人に、結局私が刃物を握らせたんだもの。生まれた時から組で育つと、もう、足は洗えないものかしら?」
「環境に影響は受けるだろうが。最後は本人次第だろう。実際堅気の世界も厳しいもんだ。そこに残り続ける意味と理由がなけりゃ、すぐに挫折しちまう」
ハルオは真柴組の事を、自分の唯一無二の家庭だと思って暮らしている。そこから足を洗うのは難しいのだろう。
「どうして人を殺す道具を持たないと、自分や仲間の身を守れないのかしら」
香はため息交じりに言った。
「そこがこの稼業の因果な所だ。相手から身を守るために武器を持つ。その武器から身を守ろうと、相手もさらに武器を手にする。なんでそんな事になるかと言えば、結局は見栄と欲さ。顔を張ったり、シマを取りあったり。全てはそれが原因だ。世の中の戦争だって、きっかけはそう変わりゃしない。国や地域の見栄や、市民の欲から起こっている。堅気の世界だって欲望に変わりはない。いわば人間の本能さ」
「でも、堅気なら普通の人は武器なんていらないわよ」
「道具ばかりが武器じゃない。金や権力だって立派な武器だ。情報や、人心の操作だって武器になる。世間体って奴だ。堅気はそういうものをうまくすりぬけなければ生きていけない。そのために自分の居場所を作って知恵を絞るのさ。それがうまくいかない奴らが、こんな世界に流れて来るんだ。この世界は世の中の縮図かもしれない」
「どっちが本当に正しいのかしら?」
「俺は綺麗事は言えない。若いあんたには辛いだろうが、見る角度が違うだけで、どっちも正しいとは言い切れない。ただ、手足や命は失ってしまえば取り返しがつかない。だから俺は、若いあんた達には足を洗う事を勧めるのさ。押しつけることはできないがね」
そう言って倉田は、香が入れてくれたお茶を、ずずっと飲み干した。