捨てられた聖女は、谷の羊飼いに転生しました~婚約破棄の断罪劇、笛の音一つで終わらせますわ~
「エルフィーネ、貴様との婚約を破棄する。聖女の資質もない冷血女め!」
シャンデリアの光が降り注ぐ大広間で、第二王子ローウェンの声が高らかに響いた。
数百の視線が、私に突き刺さる。
ああ、来ましたわね。この瞬間が。
私は、心の中で小さく息を吐いた。
「聖女の力もない冷たい女が、よくもこの私の婚約者面をしていたものだ」
ローウェン殿下の腕には、可憐な少女が寄り添っている。義妹のリーゼ。実家の下働きから成り上がり、いつしか『新しい聖女』を名乗るようになった娘。
「エルフィーネお姉様……私、こんなことになるなんて」
リーゼが、瞳を潤ませてこちらを見上げる。
まあ、上手なこと。人前で弱さを演じるのだけは、天才的におできになる。
民を救ったのは『癒しの祈り』を捧げるリーゼだと、この国の誰もが信じていた。
国境の魔物を封じる《結界》を維持したのも。
疫病を鎮めたのも。
飢饉の民に食を配ったのも。
――すべて、私ですのに。
ですが、それを声高に叫んだところで、意味はありませんわ。
この方々は、演出された『物語』しか見ていないのですから。
「返答はないのか、エルフィーネ。相変わらず、氷のように冷たい女だ」
ローウェン殿下が嘲笑う。
私は、スカートの裾をつまみ、深く、優雅に一礼した。
「かしこまりました。では、聖女の務めから退かせていただきますわ」
静寂。
喚くと思ったのでしょう。取り乱すと。すがりつくと。
ですが、あいにく。
私は、そういう女ではございませんの。
顔を上げ、私は微笑さえ浮かべて、踵を返した。
背後で、リーゼが勝ち誇った顔をしているのが、見なくてもわかった。
――どうぞ、ご自由に。
この国が、いつまで『祈り』で保つのか。
見せていただきますわ。
◆
その夜のことでした。
「お姉様、少しお話が……」
城の裏手、断崖にほど近い回廊。リーゼが震える声で私を呼んだ。
愚かにも、私は応じてしまった。血の繋がりはなくとも、育った家の妹。最後くらい、話を聞いてやろうと。
甘うございましたわね。
どん、と背を押された。
足元の感触が消え、視界が回転する。
遠ざかる崖の上で、リーゼが――笑っていた。あの、涙で人を騙す顔ではなく、本当の顔で。
「さようなら、お姉様。もう、あなたは要らないの」
風の音。
落下。
谷底の闇。
ああ、と私は思った。
この国の結界は、あと何日、保つのかしら――。
◆
「ネル! ネルや、いつまで寝ておるんじゃ!」
嗄れた声に、私は目を覚ました。
見慣れぬ天井。木の梁。土と乾いた草の匂い。
手を見る。日に焼けて、小さな、庶民の手。
「……ここは?」
鏡代わりの水桶を覗き込む。そこにいたのは、亜麻色の髪を無造作に括った、そばかすの浮いた少女だった。
白銀の髪も、紫水晶の瞳も、そこにはない。
ですが――記憶は、ある。
大聖女エルフィーネとしての、二十余年のすべてが。
「羊飼いの……ネル?」
頭の中に、この身体の少女の記憶が流れ込んでくる。辺境の谷。祖父のような老羊飼い、モルグ。追いかける羊の群れ。
そして――毎朝、谷に向かって吹く、一本の笛。
私は、息を呑んだ。
その旋律を、私は知っている。
前世で、無意識に口ずさんでいた、あの調べ。
『聖女の祈り』と、皆が崇めていた――あの、音。
「まさか」
口の端が、勝手に吊り上がった。
羊飼いの少女に転生した、大聖女。
ずいぶんと、面白い巡り合わせですこと。
◆
「ネル、そんなに笛ばかり見つめて、どうしたんじゃ」
老羊飼いモルグが、皺深い顔をこちらに向けた。穏やかな眼差し。この谷で代々羊を追ってきた、真実の語り部。
私は――ネルは、思い切って尋ねた。
「モルグお爺さん。この笛は、どうして毎朝吹くの?」
モルグは、ふぉっふぉ、と笑った。
「なんじゃ、教えたじゃろうが。谷を渡る音がな、山向こうの化け物を鎮めとるんじゃよ」
「化け物を……鎮める?」
「そうじゃ。昔からな、羊飼いの吹く笛の音が、この大地に膜を張るんじゃ。目には見えん、大きな膜をな」
膜。
――結界。
背筋が、ぞくりとした。
「谷の音が止まりゃ、山向こうの化け物が目を覚ます。……昔から、そう決まっとる」
モルグは杖をつき、遠い山並みを見やった。
「じゃがのう、王都の連中は、そんなこと知りゃせん。あいつらは『聖女様のお祈り』とやらが、国を守っとると思い込んどる。……ばかばかしい話じゃて」
私は、動けなかった。
すべてが、繋がった。
前世の私が、無自覚に口ずさんでいた旋律。それは祈りなどではなかった。この谷に古くから伝わる、羊飼いの笛の技術。
『聖女の力』の正体は、これ。
そして――リーゼには、決して再現できない。
あの娘が、いくら祈りを捧げようと。いくら涙を流そうと。
谷を渡る音を知らぬ者に、結界は編めない。
「モルグお爺さん。もし、この谷の笛が――止まったら、どうなるの?」
モルグは、少しだけ黙った。
「……国が、滅ぶじゃろうな。魔物が、溢れ出す」
私は、笛をそっと握りしめた。
王都の結界は、私の笛が止まれば崩れる。
さあ、どうなるかしら。
私を谷底に突き落とした国が。
私の功績を横取りした義妹が。
私を冷血と嘲笑った王子が。
祈りだけで――どこまで保つのか。
見せていただきますわ。
◆
翌朝。
いつものように、私は谷の縁に立った。
朝日が、乳白色の霧を溶かしていく。羊たちが、のんびりと草を食んでいる。
手には、聖なる力を宿す一本の笛。
これを吹けば、いつも通り。谷に膜が張り、遠くの王都まで、目に見えぬ加護が届く。
私は――ネルは、笛を唇に近づけた。
そして。
そっと、下ろした。
吹かなかった。
谷を渡る音が、途絶える。
生まれてこの方、毎朝欠かさず響いてきた旋律が。今日は、なかった。
静寂が、谷を満たす。
風の音だけが、さらさらと草を撫でていく。
「……ネル?」
少し離れたところで、モルグが訝しげにこちらを見た。
「吹かんのか、今朝は」
私は、微笑んだ。
「ええ。少し、お休みしようかと思って」
モルグは、何かを察したように、しばらく私を見つめ――やがて、深いため息をついた。
「……お前さん、ただの羊飼いじゃないな」
「あら」
「まあ、ええ。谷が決めることじゃ。わしは、何も見なかったことにするわい」
優しい人。
さて。
遠く、山向こうで。
何かが、目を覚ます。
地の底から、低い唸りのようなものが、かすかに響いた気がした。
封じられていた魔物が。
国境の闇から、溢れ出す。
王都では今頃、義妹が『癒しの祈り』とやらを、必死に捧げていることでしょう。
どうぞ、存分に。
あなたの祈りに、力があるのなら。
結界は、崩れないはずですもの。
私は、羊たちを促し、谷の奥へと歩き出した。
報復など、いたしませんわ。
この手を、汚す必要もない。
ただ――笛を、置くだけ。
あとは、この世界の仕組みそのものが、真実を暴いてくれる。
◆
――王都、リューデンフェルト城。
「なぜ……なぜ結界が反応しないの!?」
リーゼの金切り声が、大聖堂に響き渡った。
祭壇の前で、彼女は必死に手を組み、祈りを捧げていた。可憐な涙も、伏せた睫毛も、いつも通り。
だが、何も起きない。
窓の外。
国境の方角から、黒い雲のようなものが、地平線を覆い始めていた。
それは雲ではなかった。
魔物の、群れ。
「殿下! 国境の砦が! 魔物が溢れ出しております!」
血相を変えた兵士が、玉座の間に駆け込んでくる。
ローウェンは立ち上がった。
「馬鹿な! 結界があるだろう! 聖女の祈りが!」
「それが……結界が、消えたのです! 何の前触れもなく!」
ローウェンは、リーゼを振り返った。
「リーゼ! お前の祈りは! 早く結界を!」
「や、やっています! やっているのに、力が……!」
リーゼの顔から、演技の仮面が剥がれ落ちていく。
真っ青な、素顔。
そこにあったのは、何の力も持たぬ、ただの娘の顔だった。
ローウェンの脳裏に、ある光景がよぎった。
――かつて、婚約者だった女。
白銀の髪。紫水晶の瞳。
決して功績を誇らず、淡々と職務を全うし、冷血と嘲られても一度も言い訳をしなかった、あの女。
社交界の片隅で、時折、無意識に口ずさんでいた、あの静かな旋律。
まさか。
「聖女の力……」
ローウェンの声が、震えた。
「あれは……祈りではなかったのか……!」
遅すぎた。
何もかも。
魔物の群れが、王都の外壁に迫る。人々の悲鳴が、風に乗って城まで届く。
「エルフィーネ……! エルフィーネはどこだ!」
ローウェンは玉座から駆け降り、叫んだ。
だが、彼が谷底に突き落とさせた女は、もうこの世にはいない。
――そのはずだった。
◆
谷に、吹雪が来た夜のことだった。
笛を置いてから、数日。私はまだ、この谷で羊を追う日々を送っていた。
王都が今どうなっているか。知る由もない。だが、想像はつく。
――そのとき、羊が一匹、群れからはぐれた。
子羊だった。まだ足元のおぼつかない、小さな一頭。
吹雪の中へ、迷い出てしまった。
「ネル、危ない! お前は行くな!」
モルグが止めるのも聞かず、私が飛び出そうとした、その時だった。
谷の闇から、巨大な影が現れた。
二メートルを超える偉躯。黒い鱗に覆われた腕。金色に光る、竜の眼。額から伸びる、鋭い角。
『谷の魔物』。
辺境の民が恐れる、竜人のガイル。
私は身構えた。
だが、ガイルは私を一瞥もせず、吹雪の中へと分け入っていった。
「……ガイルさん?」
「……子羊。いない。……探す」
低く、たどたどしい声。
それきり、彼は白い闇の中に消えた。
夜通し。
吹雪がやまぬ谷を、あの巨躯が、たった一匹の子羊のために、歩き回っていた。
夜明け近く。
ガイルが戻ってきた。全身に雪をまとい、鱗を凍らせて。
その腕の中に――小さな、震える子羊がいた。
生きていた。
ガイルは、子羊を地に下ろすと、その場に膝をつき。
ぽろり、と。
金色の竜眼から、涙をこぼした。
「……羊。無事だ。……よかった」
それだけ。
それだけしか、言えない男。
私は、胸を突かれた。
この人は、真実を知っている。
私の笛が、魔物を鎮める真の力であることを。この世界で、ただ一人。
それでいて、私を『聖女』と崇めもせず、利用もせず。ただの羊飼い『ネル』として、静かに隣にいる。
身分も、過去も、何も問わずに。
「ガイルさん。あなた、本当は……ずいぶん優しい方なのですね」
ガイルは、びくりと肩を震わせ、慌てて涙を拭った。
「……違う。……俺は、怖い。皆、逃げる」
道を譲られるたび、こっそり傷ついている、繊細な巨人。
私は、思わず微笑んでしまった。
前世で、私が求めても得られなかったもの。
見返りを求めない、ただの優しさ。
それが、この辺境の谷に、ずっとあったのですわね。
◆
国が、滅びの瀬戸際に立った。
魔物の群れは王都の外壁を破り、人々は逃げ惑い、玉座の王家は成す術もなく震えていた。
リーゼの祈りは、最後まで何も生まなかった。
ローウェンは、崩れ落ちた城壁の前で膝をつき、ただ一人の女の名を呼び続けた。
――そのとき。
遠く、辺境の方角から。
澄んだ、笛の音が響いた。
谷を渡る、あの旋律。
静かで、優しく、それでいて、どこまでも力強い調べ。
音が届くと、魔物たちは動きを止めた。
そして、まるで潮が引くように、後退していく。荒れた大地に、緑がにじむ。倒れた民の傷が、癒えていく。
人々は、涙した。
その旋律の正体を、誰も知らなかった。
だが、心の奥で、皆が理解した。
これこそが。
この国を、ずっと支えてきた、本物の力なのだと。
『聖女の祈り』などではなかった。
谷を渡る、羊飼いの、笛の音。
◆
谷の縁で、私は笛を吹いていた。
隣には、ガイルが静かに立っている。
王都を救うため? いいえ。
この谷の羊たちのため。この大地のため。
そして――もう二度と、私を利用しようとした者たちのためではなく、私自身が守りたいと思うもののために。
笛を下ろすと、ガイルがぽつりと言った。
「……綺麗な音だ」
「ありがとう」
「王都、助かる」
「そうね。……助けてしまいましたわ」
私は、少し笑った。
報復のために、彼らを見殺しにすることも、できた。
だが、しなかった。
罪なき民まで巻き込む必要は、ないのですもの。
そして――王家と義妹への断罪は、すでに済んでいる。
彼らは、私が手を下すまでもなく。
『真の聖女は誰だったのか』という真実に、永遠に苛まれ続けるのだから。
それが、何よりの報いですわ。
◆
王家からの使者が、初めて谷を訪れたのは、それから半月後のことだった。
煌びやかな馬車。うやうやしい騎士たち。
そして、彼らが跪いたのは――日に焼けた、そばかすの少女、ネルの前だった。
「大聖女エルフィーネ様と、お見受けいたします」
使者の男が、額を地にすりつけた。
「王家は、あなた様に犯した非道を、心より悔いております。どうか、王都へお戻りください。あなた様のお力が、この国には必要なのです」
私は、羊の毛を刈る手を止めもせず、答えた。
「人違いですわ」
「な……!」
「私は、ネル。この谷の、ただの羊飼いです」
使者が、すがるように顔を上げた。
「ですが、あの笛の音は! あなた様の――」
「笛?」
私は、微笑んだ。
前世の令嬢の顔で。
「あれは、この谷に古くから伝わる、羊飼いの技ですわ。祈りでも、聖女の力でもございません。……あなた方が、ずっと勘違いなさっていただけ」
使者は、言葉を失った。
「王子殿下に、お伝えください」
私は、静かに続けた。
「聖女の資質もない冷血女に、この国は救われましたと。……ああ、それから」
一礼。
かつて、社交界のど真ん中で見せた、あの優雅な礼を。
「かしこまりました、とは、もう二度と申しませんわ」
使者は、幾度も頭を下げ、去っていった。
その後も、使者は何度も訪れた。だが、笛の音は――谷にしか響かない。
私がこの地を離れぬ限り、王都の結界は編まれない。
そのことに、彼らはようやく気づき始めている。
◆
「……行った」
ガイルが、馬車を見送りながら言った。
「ええ。しつこい方々ですこと」
私は伸びをして、笑った。
「ねえ、ガイル。この谷は、いいところね。羊がいて、笛があって、あなたがいる。……前世では、どれ一つ、持てなかったものですわ」
ガイルは、じっと私を見つめ、それから、ぽつりと。
「……ずっと、いる?」
口下手な竜人の、精一杯の言葉。
私は、頬が緩むのを抑えられなかった。
「ええ。ずっと、いますわ。……この谷で、羊と笛と、あなたと共に」
遠い山向こうで、魔物が目を覚ますことは、もうない。
谷を渡る音が、絶えない限り。
そして、その音は――私が、幸せである限り、鳴り止まないのですから。
王都からの使者は、今日もまた、山道を登ってくる。
だが、笛の音は。
この谷にしか、響かない。
――さあ、次はどんな言い訳を、携えてらっしゃるのかしら。




