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捨てられた聖女は、谷の羊飼いに転生しました~婚約破棄の断罪劇、笛の音一つで終わらせますわ~

作者: uta
掲載日:2026/08/19

「エルフィーネ、貴様との婚約を破棄する。聖女の資質もない冷血女め!」


シャンデリアの光が降り注ぐ大広間で、第二王子ローウェンの声が高らかに響いた。


数百の視線が、私に突き刺さる。


ああ、来ましたわね。この瞬間が。


私は、心の中で小さく息を吐いた。


「聖女の力もない冷たい女が、よくもこの私の婚約者面をしていたものだ」


ローウェン殿下の腕には、可憐な少女が寄り添っている。義妹のリーゼ。実家の下働きから成り上がり、いつしか『新しい聖女』を名乗るようになった娘。


「エルフィーネお姉様……私、こんなことになるなんて」


リーゼが、瞳を潤ませてこちらを見上げる。


まあ、上手なこと。人前で弱さを演じるのだけは、天才的におできになる。


民を救ったのは『癒しの祈り』を捧げるリーゼだと、この国の誰もが信じていた。


国境の魔物を封じる《結界》を維持したのも。

疫病を鎮めたのも。

飢饉の民に食を配ったのも。


――すべて、私ですのに。


ですが、それを声高に叫んだところで、意味はありませんわ。


この方々は、演出された『物語』しか見ていないのですから。


「返答はないのか、エルフィーネ。相変わらず、氷のように冷たい女だ」


ローウェン殿下が嘲笑う。


私は、スカートの裾をつまみ、深く、優雅に一礼した。


「かしこまりました。では、聖女の務めから退かせていただきますわ」


静寂。


喚くと思ったのでしょう。取り乱すと。すがりつくと。


ですが、あいにく。


私は、そういう女ではございませんの。


顔を上げ、私は微笑さえ浮かべて、踵を返した。


背後で、リーゼが勝ち誇った顔をしているのが、見なくてもわかった。


――どうぞ、ご自由に。


この国が、いつまで『祈り』で保つのか。


見せていただきますわ。


◆


その夜のことでした。


「お姉様、少しお話が……」


城の裏手、断崖にほど近い回廊。リーゼが震える声で私を呼んだ。


愚かにも、私は応じてしまった。血の繋がりはなくとも、育った家の妹。最後くらい、話を聞いてやろうと。


甘うございましたわね。


どん、と背を押された。


足元の感触が消え、視界が回転する。


遠ざかる崖の上で、リーゼが――笑っていた。あの、涙で人を騙す顔ではなく、本当の顔で。


「さようなら、お姉様。もう、あなたは要らないの」


風の音。

落下。

谷底の闇。


ああ、と私は思った。


この国の結界は、あと何日、保つのかしら――。


◆


「ネル! ネルや、いつまで寝ておるんじゃ!」


嗄れた声に、私は目を覚ました。


見慣れぬ天井。木の梁。土と乾いた草の匂い。


手を見る。日に焼けて、小さな、庶民の手。


「……ここは?」


鏡代わりの水桶を覗き込む。そこにいたのは、亜麻色の髪を無造作に括った、そばかすの浮いた少女だった。


白銀の髪も、紫水晶の瞳も、そこにはない。


ですが――記憶は、ある。


大聖女エルフィーネとしての、二十余年のすべてが。


「羊飼いの……ネル?」


頭の中に、この身体の少女の記憶が流れ込んでくる。辺境の谷。祖父のような老羊飼い、モルグ。追いかける羊の群れ。


そして――毎朝、谷に向かって吹く、一本の笛。


私は、息を呑んだ。


その旋律を、私は知っている。


前世で、無意識に口ずさんでいた、あの調べ。


『聖女の祈り』と、皆が崇めていた――あの、音。


「まさか」


口の端が、勝手に吊り上がった。


羊飼いの少女に転生した、大聖女。


ずいぶんと、面白い巡り合わせですこと。


◆


「ネル、そんなに笛ばかり見つめて、どうしたんじゃ」


老羊飼いモルグが、皺深い顔をこちらに向けた。穏やかな眼差し。この谷で代々羊を追ってきた、真実の語り部。


私は――ネルは、思い切って尋ねた。


「モルグお爺さん。この笛は、どうして毎朝吹くの?」


モルグは、ふぉっふぉ、と笑った。


「なんじゃ、教えたじゃろうが。谷を渡る音がな、山向こうの化け物を鎮めとるんじゃよ」


「化け物を……鎮める?」


「そうじゃ。昔からな、羊飼いの吹く笛の音が、この大地に膜を張るんじゃ。目には見えん、大きな膜をな」


膜。


――結界。


背筋が、ぞくりとした。


「谷の音が止まりゃ、山向こうの化け物が目を覚ます。……昔から、そう決まっとる」


モルグは杖をつき、遠い山並みを見やった。


「じゃがのう、王都の連中は、そんなこと知りゃせん。あいつらは『聖女様のお祈り』とやらが、国を守っとると思い込んどる。……ばかばかしい話じゃて」


私は、動けなかった。


すべてが、繋がった。


前世の私が、無自覚に口ずさんでいた旋律。それは祈りなどではなかった。この谷に古くから伝わる、羊飼いの笛の技術。


『聖女の力』の正体は、これ。


そして――リーゼには、決して再現できない。


あの娘が、いくら祈りを捧げようと。いくら涙を流そうと。


谷を渡る音を知らぬ者に、結界は編めない。


「モルグお爺さん。もし、この谷の笛が――止まったら、どうなるの?」


モルグは、少しだけ黙った。


「……国が、滅ぶじゃろうな。魔物が、溢れ出す」


私は、笛をそっと握りしめた。


王都の結界は、私の笛が止まれば崩れる。


さあ、どうなるかしら。


私を谷底に突き落とした国が。

私の功績を横取りした義妹が。

私を冷血と嘲笑った王子が。


祈りだけで――どこまで保つのか。


見せていただきますわ。


◆


翌朝。


いつものように、私は谷の縁に立った。


朝日が、乳白色の霧を溶かしていく。羊たちが、のんびりと草を食んでいる。


手には、聖なる力を宿す一本の笛。


これを吹けば、いつも通り。谷に膜が張り、遠くの王都まで、目に見えぬ加護が届く。


私は――ネルは、笛を唇に近づけた。


そして。


そっと、下ろした。


吹かなかった。


谷を渡る音が、途絶える。


生まれてこの方、毎朝欠かさず響いてきた旋律が。今日は、なかった。


静寂が、谷を満たす。


風の音だけが、さらさらと草を撫でていく。


「……ネル?」


少し離れたところで、モルグが訝しげにこちらを見た。


「吹かんのか、今朝は」


私は、微笑んだ。


「ええ。少し、お休みしようかと思って」


モルグは、何かを察したように、しばらく私を見つめ――やがて、深いため息をついた。


「……お前さん、ただの羊飼いじゃないな」


「あら」


「まあ、ええ。谷が決めることじゃ。わしは、何も見なかったことにするわい」


優しい人。


さて。


遠く、山向こうで。


何かが、目を覚ます。


地の底から、低い唸りのようなものが、かすかに響いた気がした。


封じられていた魔物が。

国境の闇から、溢れ出す。


王都では今頃、義妹が『癒しの祈り』とやらを、必死に捧げていることでしょう。


どうぞ、存分に。


あなたの祈りに、力があるのなら。


結界は、崩れないはずですもの。


私は、羊たちを促し、谷の奥へと歩き出した。


報復など、いたしませんわ。


この手を、汚す必要もない。


ただ――笛を、置くだけ。


あとは、この世界の仕組みそのものが、真実を暴いてくれる。


◆


――王都、リューデンフェルト城。


「なぜ……なぜ結界が反応しないの!?」


リーゼの金切り声が、大聖堂に響き渡った。


祭壇の前で、彼女は必死に手を組み、祈りを捧げていた。可憐な涙も、伏せた睫毛も、いつも通り。


だが、何も起きない。


窓の外。


国境の方角から、黒い雲のようなものが、地平線を覆い始めていた。


それは雲ではなかった。


魔物の、群れ。


「殿下! 国境の砦が! 魔物が溢れ出しております!」


血相を変えた兵士が、玉座の間に駆け込んでくる。


ローウェンは立ち上がった。


「馬鹿な! 結界があるだろう! 聖女の祈りが!」


「それが……結界が、消えたのです! 何の前触れもなく!」


ローウェンは、リーゼを振り返った。


「リーゼ! お前の祈りは! 早く結界を!」


「や、やっています! やっているのに、力が……!」


リーゼの顔から、演技の仮面が剥がれ落ちていく。


真っ青な、素顔。


そこにあったのは、何の力も持たぬ、ただの娘の顔だった。


ローウェンの脳裏に、ある光景がよぎった。


――かつて、婚約者だった女。


白銀の髪。紫水晶の瞳。


決して功績を誇らず、淡々と職務を全うし、冷血と嘲られても一度も言い訳をしなかった、あの女。


社交界の片隅で、時折、無意識に口ずさんでいた、あの静かな旋律。


まさか。


「聖女の力……」


ローウェンの声が、震えた。


「あれは……祈りではなかったのか……!」


遅すぎた。


何もかも。


魔物の群れが、王都の外壁に迫る。人々の悲鳴が、風に乗って城まで届く。


「エルフィーネ……! エルフィーネはどこだ!」


ローウェンは玉座から駆け降り、叫んだ。


だが、彼が谷底に突き落とさせた女は、もうこの世にはいない。


――そのはずだった。


◆


谷に、吹雪が来た夜のことだった。


笛を置いてから、数日。私はまだ、この谷で羊を追う日々を送っていた。


王都が今どうなっているか。知る由もない。だが、想像はつく。


――そのとき、羊が一匹、群れからはぐれた。


子羊だった。まだ足元のおぼつかない、小さな一頭。


吹雪の中へ、迷い出てしまった。


「ネル、危ない! お前は行くな!」


モルグが止めるのも聞かず、私が飛び出そうとした、その時だった。


谷の闇から、巨大な影が現れた。


二メートルを超える偉躯。黒い鱗に覆われた腕。金色に光る、竜の眼。額から伸びる、鋭い角。


『谷の魔物』。


辺境の民が恐れる、竜人のガイル。


私は身構えた。


だが、ガイルは私を一瞥もせず、吹雪の中へと分け入っていった。


「……ガイルさん?」


「……子羊。いない。……探す」


低く、たどたどしい声。


それきり、彼は白い闇の中に消えた。


夜通し。


吹雪がやまぬ谷を、あの巨躯が、たった一匹の子羊のために、歩き回っていた。


夜明け近く。


ガイルが戻ってきた。全身に雪をまとい、鱗を凍らせて。


その腕の中に――小さな、震える子羊がいた。


生きていた。


ガイルは、子羊を地に下ろすと、その場に膝をつき。


ぽろり、と。


金色の竜眼から、涙をこぼした。


「……羊。無事だ。……よかった」


それだけ。


それだけしか、言えない男。


私は、胸を突かれた。


この人は、真実を知っている。


私の笛が、魔物を鎮める真の力であることを。この世界で、ただ一人。


それでいて、私を『聖女』と崇めもせず、利用もせず。ただの羊飼い『ネル』として、静かに隣にいる。


身分も、過去も、何も問わずに。


「ガイルさん。あなた、本当は……ずいぶん優しい方なのですね」


ガイルは、びくりと肩を震わせ、慌てて涙を拭った。


「……違う。……俺は、怖い。皆、逃げる」


道を譲られるたび、こっそり傷ついている、繊細な巨人。


私は、思わず微笑んでしまった。


前世で、私が求めても得られなかったもの。


見返りを求めない、ただの優しさ。


それが、この辺境の谷に、ずっとあったのですわね。


◆


国が、滅びの瀬戸際に立った。


魔物の群れは王都の外壁を破り、人々は逃げ惑い、玉座の王家は成す術もなく震えていた。


リーゼの祈りは、最後まで何も生まなかった。


ローウェンは、崩れ落ちた城壁の前で膝をつき、ただ一人の女の名を呼び続けた。


――そのとき。


遠く、辺境の方角から。


澄んだ、笛の音が響いた。


谷を渡る、あの旋律。


静かで、優しく、それでいて、どこまでも力強い調べ。


音が届くと、魔物たちは動きを止めた。


そして、まるで潮が引くように、後退していく。荒れた大地に、緑がにじむ。倒れた民の傷が、癒えていく。


人々は、涙した。


その旋律の正体を、誰も知らなかった。


だが、心の奥で、皆が理解した。


これこそが。


この国を、ずっと支えてきた、本物の力なのだと。


『聖女の祈り』などではなかった。


谷を渡る、羊飼いの、笛の音。


◆


谷の縁で、私は笛を吹いていた。


隣には、ガイルが静かに立っている。


王都を救うため? いいえ。


この谷の羊たちのため。この大地のため。


そして――もう二度と、私を利用しようとした者たちのためではなく、私自身が守りたいと思うもののために。


笛を下ろすと、ガイルがぽつりと言った。


「……綺麗な音だ」


「ありがとう」


「王都、助かる」


「そうね。……助けてしまいましたわ」


私は、少し笑った。


報復のために、彼らを見殺しにすることも、できた。


だが、しなかった。


罪なき民まで巻き込む必要は、ないのですもの。


そして――王家と義妹への断罪は、すでに済んでいる。


彼らは、私が手を下すまでもなく。


『真の聖女は誰だったのか』という真実に、永遠に苛まれ続けるのだから。


それが、何よりの報いですわ。


◆


王家からの使者が、初めて谷を訪れたのは、それから半月後のことだった。


煌びやかな馬車。うやうやしい騎士たち。


そして、彼らが跪いたのは――日に焼けた、そばかすの少女、ネルの前だった。


「大聖女エルフィーネ様と、お見受けいたします」


使者の男が、額を地にすりつけた。


「王家は、あなた様に犯した非道を、心より悔いております。どうか、王都へお戻りください。あなた様のお力が、この国には必要なのです」


私は、羊の毛を刈る手を止めもせず、答えた。


「人違いですわ」


「な……!」


「私は、ネル。この谷の、ただの羊飼いです」


使者が、すがるように顔を上げた。


「ですが、あの笛の音は! あなた様の――」


「笛?」


私は、微笑んだ。


前世の令嬢の顔で。


「あれは、この谷に古くから伝わる、羊飼いの技ですわ。祈りでも、聖女の力でもございません。……あなた方が、ずっと勘違いなさっていただけ」


使者は、言葉を失った。


「王子殿下に、お伝えください」


私は、静かに続けた。


「聖女の資質もない冷血女に、この国は救われましたと。……ああ、それから」


一礼。


かつて、社交界のど真ん中で見せた、あの優雅な礼を。


「かしこまりました、とは、もう二度と申しませんわ」


使者は、幾度も頭を下げ、去っていった。


その後も、使者は何度も訪れた。だが、笛の音は――谷にしか響かない。


私がこの地を離れぬ限り、王都の結界は編まれない。


そのことに、彼らはようやく気づき始めている。


◆


「……行った」


ガイルが、馬車を見送りながら言った。


「ええ。しつこい方々ですこと」


私は伸びをして、笑った。


「ねえ、ガイル。この谷は、いいところね。羊がいて、笛があって、あなたがいる。……前世では、どれ一つ、持てなかったものですわ」


ガイルは、じっと私を見つめ、それから、ぽつりと。


「……ずっと、いる?」


口下手な竜人の、精一杯の言葉。


私は、頬が緩むのを抑えられなかった。


「ええ。ずっと、いますわ。……この谷で、羊と笛と、あなたと共に」


遠い山向こうで、魔物が目を覚ますことは、もうない。


谷を渡る音が、絶えない限り。


そして、その音は――私が、幸せである限り、鳴り止まないのですから。


王都からの使者は、今日もまた、山道を登ってくる。


だが、笛の音は。


この谷にしか、響かない。


――さあ、次はどんな言い訳を、携えてらっしゃるのかしら。

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