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あきれるほど、ずっとそばにいてあげる

作者: リフェリア
掲載日:2026/03/08

田中美幸さんと初めて話したのは、三年前の四月十五日だった。


九州の片田舎から都会に憧れて上京した僕は、入学したばかりの大学で、春の陽気と人の多さに少しだけ酔っていた。

新歓の立て看板やチラシがあちこちにあふれ、威勢のいい声が絶え間なく飛び交う中に、ひとりだけ静かな人がいた。


メガネに、黒髪の三つ編みおさげ。

今どき珍しいくらい、絵に描いたような文学少女だった。


周囲が大声で人を呼び止めているのに、その人だけは丁寧な言葉で控えめに勧誘している。

当然のように誰にも足を止めてもらえずに、人の流れを目で追っては、少し困ったような顔で立ち尽くしている。

その姿が、なぜか印象に残った。


僕が見ていることに気づくと、その人は小さく会釈をして、文芸サークルの勧誘を始めた。

幽霊部員ばかりで存続も危ういのだと、少しだけ申し訳なさそうに笑いながら。


その時の僕は、まだ何も知らなかった。


入ってみると、サークルは案の定、ほとんど活動をしていなかった。

僕が定例会に出て、作品の要約や紹介文を作って配るようになると、それが少しずつ活動実績として認められ始めた。


「引き続き、大学側から公認が取れそうです。なおき君のおかげですね」


そう言って、美幸さんは目を細めて笑った。


毎週木曜の十六時三十分。

定例会の参加者は、いつも僕と美幸さんだけだった。


二人で好きな小説の話をしたり、同じ本の同じ一文について筆者の意図を考え込んだり。

慣れない都会で、知らないうちに擦り切れていた僕の心を、その時間が静かに癒してくれた。



美幸さんが定例会に来なかったのは、僕が二年生になった夏の、七月二十一日のことだった。


十六時三十七分になっても部室の扉は開かず、連絡網に入れたメッセージにも返事がなかった。既読もつかない。それでも、なぜだか僕は、第二図書館にいる気がした。


根拠はなかった。

ただ、そこだと思った。


この大学の第二図書館は、古典文学や詩集ばかりが集められた、学生にはあまり人気のない場所だ。十七時を少し回った館内には、人の気配がほとんどなくて、窓際の席に美幸さんはいた。


「田中さん」


声をかけると、美幸さんははっと顔を上げた。


目元には涙の跡が残っていて、泣き腫らした目は赤かった。


「え……?」


少し上ずった声だった。


「今日の定例会にいらっしゃらなかったので、こちらかなと思って」


できるだけ穏やかに言うと、美幸さんは伏せていた視線を少しだけ落として、小さく笑った。


「そうでしたね。今日は定例会でした。ごめんなさい。連絡もしないで……」


その後、ぽつぽつと話してくれたことをつなぎ合わせると、恋人に浮気をされたと思ったら、相手は最初から恋人のつもりなどなくて、美幸さんだけが勘違いをしていたらしい、ということだった。


「少し優しくされただけで、そういうものだと思ってしまったみたいです。外で会おうとしなかったのも、私に合わせてくれていたわけじゃなかったんでしょうね」


そう言って、美幸さんは笑おうとした。

でも、うまく笑えていなかった。


僕はその男を軽蔑した。

美幸さんを泣かせたことが、許せなかった。

なのに胸の奥では、ひどく静かに喜びが広がっていた。

ようやく、僕の番が来たのだと思った。


もちろん、その場でそんなことを言うはずもなく、僕はただ、美幸さんの話を聞いていた。


それからしばらくして、美幸さんはまた定例会に顔を出すようになった。


定例会のあと、学内のカフェに寄ることもあった。

もちろん寄れない日もあったし、ほんの十分だけ、という日もあった。

それでも、美幸さんと過ごす時間は少しずつ増えていったように思う。


木曜の十六時三十分に始まる定例会が終わったあと、僕は美幸さんと同じホームに立ち、電車が来れば同じ車両に乗る。

美幸さんが座ればつり革につかまり、立っていれば少し離れたドアのそばに立つ。

混雑している車内ではいつ何があるかわからない。

美幸さんの笑顔は、もう曇らせたくなかった。


そうするうちに、僕は美幸さんがどの駅で降りるのかも、何両目の近くに立つことが多いのかも、自然に覚えた。


ドアが開いて美幸さんがホームへ降りる。

その背中が人の流れに紛れていくのを、快速の通過待ちで停車した車内から僕は見送る。


ときどき、改札の方へ向かう前にこちらを振り返ることがあった。乗り換えの案内表示を見ているだけかもしれなかったけれど、僕には、見送ってくれているように思えた。


そうやって別れて、家へ帰る。


家に帰るまでのあいだ、僕はよく、その先の未来を思い描いた。


まだ薄暗いうちに美幸が起きて、味噌汁の匂いで僕を起こす。

食卓の向こうには美幸がいて、その隣には二歳の美裕がいる。

僕の隣では、五歳の幸輔が眠そうに目をこすっている。


二人で手分けして子どもたちに朝ごはんを食べさせて、着替えを手伝って、僕は仕事へ向かう。

美幸は幸輔を幼稚園へ送り、美裕の世話をしながら家のことをして、夕方には玄関で僕を迎える。


お帰りなさい、と美幸は笑う。

この笑顔を守るために、僕はきっと生まれてきたんだ。


そう思える未来が、きっと来る。




インターンを経て、美幸さんに内定が出た。

内定者アルバイトが始まると、二人で過ごせる時間は減った。


僕のメッセージにすぐ返事が来ない日も増えた。

夜になってから短く「ごめんなさい、今見ました」とだけ返ってくることもあったし、既読のまま何も来ない日もあった。

けれど新しい環境で疲れているのだと思えば、責める気にはなれなかった。


たまに大学で会うと、以前より少しやつれたように見えた。

だから僕は、カフェテリアで温かいカフェオレを買って渡した。


「ありがとうございます。なおき君は、いつも優しいですね」


そう言って受け取ってくれるたび、間違っていないのだと思えた。

美幸さんの疲れを癒せるのは僕であるべきだと思っていた。


そのまま時は流れて、美幸さんは卒業して就職した。


だから僕も、美幸さんと同じ会社を受けることにした。


今日はその面接の日だ。


ドアの向こうから、面接官の声がする。


「どうぞお入りください」


「失礼いたします」


室内に入り、用意された椅子の前に立つ。


「直木裕輔です。本日はよろしくお願いいたします」


面接官は履歴書に目を落とし、ひとつうなずいた。


「それでは、直木君。志望動機から聞かせてください」


僕の志望動機は、あの夏の日から決まっている。

初めて書き上げた作品になります。

お読み頂きありがとうございました。

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