2時間目:四つの泳法
チャイムが鳴り、中野先生が戻ってきた。15分の休憩はあっという間に過ぎ去っていた。
「休憩は終わりましたか? それでは、2時間目の授業を始めましょう」
先生は再び穏やかな声で告げる。紺色のジャージに薄紫のブラウス。この組み合わせが、いつ見てもしっくりくる。
「さて、1時間目では水泳の歴史を追いかけましたね。古代エジプトから現代に至るまで、人類と水との関わりをざっくりと見ていきました。みなさん、テキストは閉じて大丈夫ですよ」
先生は教卓の上でテキストを片付けながら言った。
「今回のテーマは『四泳法と競泳のルール』です。現代競泳で公式に認められている四つの泳法、それぞれの特徴と、競技におけるルールについて学んでいきましょう。実際に泳ぐ時にも役立つ知識ですからね」
中野先生はそう言うと、黒板の中央に大きく「四泳法(バタフライ/背泳ぎ/平泳ぎ/クロール)」と書いた。チョークを持つジャージの袖が動き、ブラウスの袖口からわずかに覗く。その対比がなんだか大人っぽい。
「お二人とも、小学生の時は同じスイミングスクールに通われていたということですし、特に芦川さんは中学は水泳部だったそうですから、ある程度の知識はあると思いますが、改めて基本から確認していきますね」
先生はまず「バタフライ」の文字を黒板で大きく囲んだ。
「バタフライは四泳法の中で最も新しいもので、1956年のメルボルンオリンピックから独立した種目になりました。それまではドルフィンキックを使って泳ぐスタイルが禁止されていたんですね。その由来には様々な説がありますが、アメリカのドナルド・フレーザー選手や日本の古橋広之進選手が開発したとされる『水中フラッターキック』が起源と言われています。当初は『フライングダッチマン』と呼ばれていたんですよ」
「ふーん……そうなんだ」
俺は思わず相槌を打つ。水泳はやっていたけど、ルールの細かいところまではあまり深く考えたことがなかった。それに、そんなに新しく追加された泳法だったとは驚きだ。何となく、昔から当たり前にあるものと思ってきたから。
「特徴としては、両腕を同時に頭上から回して前方へ伸ばす『同時抜き』と呼ばれる動作と、特徴的な波打つような蹴り方——これが『ドルフィンキック』です。見ていただいた方が早いですね」
先生はそう言うと、スクリーンに泳ぐ選手の動画を映し出した。青い水中で、選手が水面を叩き割るように腕を振り上げ、身体全体が鞭のようにしなる様子がはっきりと見える。
「この腕の動きと息継ぎを合わせるのが非常に難しくて、体力も使うため『王者の泳法』と呼ばれています。実際に泳いでみると分かりますが、他の三種目と比べてもパワーが必要です」
芦川が映像を見ながら小さく頷いている。彼女は中学時代に水泳部だったから、もしかしたら実際に練習したことがあるのかもしれない。俺はそこまで本格的にやっていなかったから、せいぜい学校の授業程度だ。
「続いては背泳ぎですね」
先生は黒板に次の文字を書き始めた。
「背泳ぎは仰向けになった状態で泳ぐ唯一のスタイルです。古代から水泳はありましたが、背泳ぎだけは比較的新しい時代に確立されました。1896年のアテネオリンピックでは背泳ぎが正式種目に採用されたのですが、この当時はなんと『クラシカルバックストローク』と呼ばれる特殊なフォームが主流でした」
「えっ、昔は違う泳ぎ方だったんですか?」
思わず尋ねると、先生はにっこりと頷いた。
「そうなんです。クラシカルバックストロークは手を水中で左右交互に回して進むタイプ。今私たちがイメージする背泳ぎとは全く異なるものだったのです。それが近代に入って『ローリング」と呼ばれる身体を左右に軸回転させる動きを取り入れて改良されていきました。映像をご覧ください」
スクリーンには歴史的な貴重映像が映し出された。確かに、選手が仰向けで泳いでいるのだが、腕の動きが今とはまったく違う。手を小さく回して進んでいる。まるで「水面を撫でる」ような印象だ。
「この映像は1920年代のものですが、当時はまだクロールと似た泳ぎ方をしていましたね。現在の背泳ぎの原型が完成したのは1930年代以降と言われています」
「へぇ……知らなかったです」
俺は素直に感心する。今まで何気なく習得していた泳法も、こうやって歴史を紐解くと奥深さがあるものだ。
「背泳ぎの特徴として一番大切なことは『常に顔を水中に出した状態で泳ぐ』ことです。つまり呼吸の心配がいらない唯一の種目なのです。ただし視界は逆さまなのでコースを外れやすいので注意が必要です。そのためプールには赤色のラインが引かれていて、左端を背泳ぎ専用コースにする施設が多いのですよ」
「そういえば確かにプールのレーンが色分けされてますよね」
芦川が補足する。さすが元水泳部。
「その通りです。競技の場合、決められたコースを守ることが絶対条件となります。特に背泳ぎは審判から見ても判断が難しいので、ルールは厳格に定められています。例えば『浮き上がり禁止』というルールがありますが、これはスタートまたはターンの後、一定距離以上浮上したまま泳いではならないというものです。水面に浮かんでいるだけで進むなんて、反則ですよね」
先生の説明を聞きながら、俺は無意識に中野先生の着ている薄紫のブラウスの胸元に目が行ってしまう。そしてそこから覗くジャージの襟元。俺たちにも制服にジャージと言う組み合わせをさせているが、先生自身も、まさに同じ組み合わせだ。ブラウスとジャージのアンバランスが妙に新鮮で、その下の紺色のジャージのラインがアクセントになっていて、すごくきれいに見える。
(あっ、また見ちゃった……)
自分で気づいて慌てて目線を黒板に戻す。なんだか最近、こういう些細なことに気が散りやすい。
「そして平泳ぎに移りますね。こちらも古代からある泳法ですが、1900年代に入ると急速に洗練されました。最初期の平泳ぎは『蛙泳ぎ』と呼ばれることも多く、実際にその名の通り『両腕を前に伸ばして水を掻く→その後足をカエルのように閉じて蹴る→そしてまた腕を伸ばす』という動作を繰り返すものです」
中野先生は両腕を大きく前に突き出すジェスチャーをしてみせた。ブラウスから出ているジャージの袖が伸びて腕のラインが強調される。その仕草がどこか可愛らしく見えて、またしても目が離せなくなる。
「ところが1950年代後半から『ドルフィンキック』を取り入れた進化的なスタイルが登場します。いわゆる『バサロスタート』と呼ばれるものです。平泳ぎではスタートまたはターン後に行う『潜水泳法』が許可されていて、これは水中で蹴りを数回行うことができる。そのため高速で進めるわけです。ただしあまり長く潜っていると反則になるので注意が必要ですね」
「先生、なぜバサロという名前なんですか?」
芦川が質問する。やはり彼女の質問は的確だ。
「良い質問です! これは日本人のトップ選手・古川勝氏が考案した技術から来ていて、彼の姓(古川=Kogawa)をアナグラムにして『BASARO』と呼んだのがきっかけと言われていますよ」
先生の説明にふと思い出した。バサロといえばテレビで見たオリンピックの映像だ。飛び込んだ後、まるで魚のように長い間潜水して進んでいくのが印象的だった。
「そして最後のクロールです。これが現代の水泳の基本といえる泳法ですね」
先生は最後の単語を強調するように書き込む。
「クロールは『速さ』を追求するために生まれた泳法で、手足が別々に働くスタイルです。つまり、片腕で水を掻きながら反対の足を蹴ることができる。これによって効率的な推進力を得られるわけです。起源は1870年代のアメリカやイギリスと言われていますが、現在の形が完成したのは20世紀初頭になります」
先生の解説と共にスクリーンに最新の選手の映像が映し出される。オリンピック級のスピードで水面を切り裂いていく選手たちの姿は圧巻だ。俺は小学生の頃から習っていた泳法だから見慣れているはずなのに、競技レベルになるとまるで別の生物のように見える。
「クロールの特徴は『呼吸』です。他の泳法と違い、自由に右または左のどちらでも息継ぎができるため、持久力が高いと言われています。その反面で技術的には複雑で、腕の回転運動、呼吸タイミング、蹴り方のタイミングを全て一致させる必要があります。初心者が一番習得しにくいのもクロールかもしれませんね」
「先生、なんでクロールって『クロール』という名前なんでしょうか?」
思わず俺も質問してみた。さっきの芦川の質問で先生が喜んでいたからだ。
「素晴らしい質問です! 実はクロールという名前には諸説ありますが、1つは英語の『crawl』(這う)から来ていて、その名の通り地面を這う虫のように進む動きをしているからだという説。また別の説ではドイツ語の『Krol』に由来していて、こちらはオランダで発展した泳法だからだとも言われていますね」
「なるほど……」
答えを聞いて納得する。名前の由来まであるなんて、水泳は本当に奥が深い。




