1時間目の休憩時間:先生はすごい
「じゃあ、ここで15分の休憩をはさみましょう。廊下に出てお話ししてもいいですし、教室でそのままでも構いませんよ。次の授業が始まる前には、席に戻っていてくださいね」
中野先生はそう言うと、一旦、教室を出て行った。その足音が遠ざかると、張り詰めていた空気がふっと緩むのを感じた。
ちらりと隣の席を見ると、芦川も同じようにテキストを閉じて、ゆっくりと息をついている。セーラー服の胸元で結ばれたスカーフが、わずかに上下しているのが見えた。彼女の着ている臙脂色のジャージは、セーラー服の下からファスナーが首元までしっかり上がっていて、なんだかすごく真面目な印象だ。
「ふぅ……」
思わずため息が出てしまう。
「ねえ、佐藤」
突然呼びかけられ、少しビクッとする。芦川がこちらを向いていた。いつものクールな表情だが、どこかリラックスした雰囲気も漂っている。
「え?」
「今の授業、面白かったね」
彼女の口調は、普段より少しだけ弾んで聞こえた。
「ああ、確かに。水泳の歴史なんて全然知らなかったしな。古代エジプトから始まって、ナポレオンやヴォルテールまで出てくるなんて思わなかったぜ」
俺も素直に感想を述べた。本当に予想外の展開だった。
「うん。それに先生の話し方もすごく分かりやすくて良かった。それに……」
芦川は少し間を置いてから続けた。
「この『ジャージの上に制服』っていうスタイル、最初は変な感じがしたんだけど……でも着てみると意外としっくり来るんだよね。動きやすいし、なんだか落ち着くっていうか」
彼女はそう言いながら、軽くジャージの袖を引っ張ってみせる。その仕草がなんだか可愛らしい。
「そうだな。俺も同じような感じだ。ジャージだけだとちょっとだらしない感じがするけど、制服を着るとちゃんと『勉強してる』って気持ちになれるよな」
俺も自分のジャージに目をやる。青色の生地に白いラインが入った学校指定のジャージだ。セーラー服の襟元から見える臙脂色のジャージも悪くないが、学ランの上着を羽織るとなると少し窮屈かもしれない。それでも、これが先生の提案した特別なスタイルだと思うと、なんだか誇らしくもある。
「それにしても、さっきのテキストに中野先生の名前があったのには驚いたよな」
俺は少し前のめりになりながら言った。
「え? どういうこと?」
芦川は少し眉を上げて尋ねてくる。
「ほら、あのテキストの最後の方。執筆者のリストに『中野紗耶香』って書いてあったんだよ。それに、あのテキスト、すごいよな。普通の教科書とは全然違う」
「え、本当? 気づかなかった」
芦川は素早く自分のテキストを手に取り、慌てて後ろの方のページをめくり始めた。
「どれどれ……あった! ほんとだ!」
一つ一つ確認するように名前を見ていく。そして、確かに「中野 紗耶香」という文字を発見したようで、「わあ……」と小さな感嘆の声を上げた。彼女の瞳がきらりと輝いた。
「これ……すごいよ。こんなちゃんとしたテキストを作ってたなんて……。しかもこのテキスト、めちゃくちゃ詳しいじゃない? 古代エジプトの壁画とか、古代ローマの温水プールとか……。それに、最後の方に書いてあった古事記の原文……あの漢字だらけのやつ、普通に読めるのが凄いと思ったんだけど……あれも先生が作ったのかな?」
彼女は興奮気味にテキストを指差しながら話す。その表情はいつになく生き生きとしていて、本当に感銘を受けているのが伝わってくる。
「たぶんな。テキストの編集に関わってるくらいだから、内容も先生がチェックしてるんじゃないかな。それにしても、あの古事記のやつ……俺には読めなかった。なんて書いてあるんだろうな」
「私も読めない。でも、先生は読めるんだよ。すご過ぎる……」
芦川は尊敬の眼差しでテキストのページを見つめた。確かに、あの複雑な漢字の羅列を理解して解説できるのは並大抵のことではない。それだけでも中野先生が相当な知識を持っていることが伺える。
「それにさ、内容もただの知識の羅列じゃない。時代背景とか、文化的な側面も絡めて教えてくれるから、すごく面白いんだよな。単純に『昔から泳いでた』じゃなくて、古代エジプトの戦術から始まって、ギリシャ、ローマ、そして近代……って流れで教えてくれるから、つながりがわかるしさ」
俺が言うと、芦川も深く頷いた。
「うん。それによくわからない専門用語もちゃんと解説が入ってて助かった。それにテキストの挿絵とかも綺麗だったし」
彼女の言葉に、俺も思い出してみる。確かに、各章の最初や重要なポイントには関連する絵や写真がカラーで載っていて、見やすかった。
「それに先生の説明もすごく分かりやすかったよね。難しいことを簡単に噛み砕いて話してくれてたもん」
芦川はほっとしたような顔で言った。彼女のロングボブが軽く揺れる。
「ああ、そうだな。先生の話し方って、なんというか……優しい感じだけど、しっかり要点は伝わってくるよな。聞きやすいし」
「うん。だから、補習だけど全然苦痛じゃない。むしろ楽しいくらい」
そう言って芦川はふわりと微笑んだ。その笑顔は、いつものクールさとは違う柔らかさがあって、なんだか新鮮だった。
「俺も同じだ。中野先生の授業だからだろうな」
「そうだね……」
二人とも少し黙ってしまった。でもそれは居心地の悪い沈黙ではなくて、何か温かいものが流れるような静けさだった。
「そういえばさ」
しばらくして、俺は思いついたように言った。
「今日の授業、1日目で全部終わるわけじゃないんだよな? このペースで明日もやるんだよな」
「ええ。毎日午前中3時間ずつって言ってたよね。今日は座学だけって言っていたけど」
芦川がテキストの表紙を見ながら答える。
「3時間かぁ……あっという間だったな。あと2時間あるのか。次は何かな?」
「うーん……このテキストの後半にはスタミナ管理とかトレーニング理論みたいな項目もあったから、それかも」
彼女はテキストをパラパラとめくりながら言った。
「へえ。楽しみだな」
「そうね」
芦川はもう一度軽く微笑んだ。その表情は、ただ純粋に学びを楽しんでいるように見えた。




