1時間目:水泳の歴史についてみていきましょう
「では、早速始めましょうか。座学時のテキストはこちらを使います」
先生が渡してくれた薄い冊子、『水泳基礎講座』。表紙は青地に波模様が描かれており、いかにも水泳の教材といった感じだ。ページをぱらぱらとめくってみると、基本的な水泳フォームのイラストや、呼吸法、プールサイドでのマナーなどが、分かりやすく解説されている。挿絵や写真も多く使われており、見ていて飽きない作りだ。
(へえ、結構ちゃんとしているな。これ、市販の本とかじゃないのか?)
よく見ると、奥付には「日本水泳教育学会監修」といった正式な肩書きが記載されていた。どうやら、学校のオリジナルテキストではなく、ちゃんとした団体が発行している本物の参考書のようだ。
「このテキストは、座学の中心的な資料になります。わかりやすいようにまとめられているので、分からないことがあったら、これを参考にしてみてくださいね。もし、さらに詳しく知りたい場合は、貸し出し用の別のテキストも用意できますので、気軽に申し出てください」
先生はそう説明すると、俺たちにテキストを開くように促した。
言われるがままにページをめくっていく。泳法の種類、タイム計測の方法、プールの正しい使い方……。普段、漠然としか理解していなかった水泳の知識が、体系的に整理されている。
ふと、最後のページに目が留まった。そこには、このテキストの編集協力者や執筆者のリストが掲載されていた。
(へえ、いろんな人が関わってるんだな)
なんとなく眺めていると、ある名前に目が吸い寄せられた。
「……中野 紗耶香」
小さな活字で、確かにそう印刷されていた。他の執筆者名と同じフォントで、さりげなく並んでいる。
(え? 中野先生って、このテキストを作るのにも関わってるのか?)
まさか、と思いもう一度確認するが、やはり間違いではない。「中野 紗耶香」と言う文字が、確かにそこにあった。そして、所属欄にはこの高校の名前が記されている。
(おいおい……マジかよ……)
他の執筆者は、大半が国立○○大学教授だとか、○○水泳クラブ名誉コーチだとか、なかなかの錚々たるメンバーだ。何人かは高校の教師もいるが、都立〇〇高校とか、◇◇大学付属高校ばかりだ。地方の公立高校であるうちの学校の名前など、このテキストのリストに名を連ねているだけで十分にすごいのだ。それもそのリストの中に「中野 紗耶香」と言う名前が。そんな人が、俺たちの水泳の補習を担当してくれるなんて……。俺は思わず隣の芦川を盗み見た。彼女はまだ気づいていないらしく、真剣な表情でテキストの冒頭部分を読んでいた。
「はい、準備はいいですか? それでは始めましょう」
そんな俺の驚きをよそに、中野先生は朗らかな声で授業の開始を告げた。教室に再び穏やかな空気が流れる。
「まずは水泳の歴史から見ていきましょう。人間が泳ぐこと自体は太古の昔から行われていたと考えられていますが、『水泳』が体系化された技術やスポーツとして認識されるようになったのは比較的近年のことなのです」
中野先生はそう言うと、黒板の端に「水泳の歴史」と大きく書き、プロジェクターを起動させた。壁際に設置されたスクリーンが明るくなり、そこに一枚の古びた壁画の写真が映し出された。
「これは古代エジプトの墓の壁画です。ここに描かれている人々が、どうやら泳いでいるように見えませんか?」
先生の指し示す方向を見ると、確かに川を背景に棒立ちの人間の図がいくつか描かれていた。それは明らかに泳いでいる人の姿だ。
「さらに驚くべきことに、この壁画には兵士が泳いで敵軍に向かう姿や、溺れた兵士を仲間が救助する場面まで描かれているのです。つまり、古代エジプト人は戦争においても泳ぎを駆使していた可能性が高いのです」
「へえ〜」
思わず感嘆の声が出た。水泳の歴史がそんな太古の昔からあったなんて知らなかった。芦川も食い入るようにスクリーンを見つめている。
次のスライドが現れた。今度は石造りの風呂桶のようなものと、その周囲で楽しそうに過ごす人々の彫刻が映し出された。
「こちらは古代ギリシャの遺跡です。ここには公共浴場がありました。スパルタでは武芸のひとつとして水泳が奨励されていましたし、一般市民も水に入る機会が多く、自然と泳ぎを身につけていったのでしょう。それにしても、水着は……どんなものだったのでしょうか?」
先生の言葉に俺は想像力を膨らませる。古代ギリシャ人と水着……。確かあの頃は布一枚とかだったような気がする。それとも裸だったんだろうか。いやいや、そんな妄想はやめよう。
次のスライドは荘厳な石造りの大浴場のような建物だった。
「そして古代ローマ帝国になると、公共浴場文化はさらに発展し、驚くべきことに温水プールも存在したと言われています!」
「温水プール? そんな昔からあったんですか?」
芦川が驚きの声をあげた。
「ええ。ローマ人は火を使った温水装置を作り上げていました。もちろん現代のプールとは比べ物にならないかもしれませんが、大きな浴槽に暖かい水を溜めていたのです」
(古代ローマの温水プールか……行ってみたいかも)
俺はロマン溢れる情景を思い浮かべた。でもやっぱり水着とか裸とかそういう思考に戻ってしまいそうで危険だ。
「しかし残念ながら、ローマ帝国の衰退と共にこのような文化も失われてしまいました。ヨーロッパでは水に入ることは不浄な行為とされ、長い間、水泳は忘れ去られてしまったのです」
先生は少し残念そうな表情で説明を続けた。スクリーンには暗い森の中で凍える人々の絵が映し出される。
「水泳が再び注目されるようになったのは18世紀に入ってからです。啓蒙思想の広まりと共に健康的な生活が提唱され、水泳もその一環として見直されるようになりました。例えばフランス革命の指導者であるナポレオンは水泳を奨励していましたし、詩人であり哲学者であったヴォルテールも水泳の有益性を讃えています」
(えっ、ナポレオンとヴォルテールが?)
偉人が意外なところで水泳に関わっていることに驚く。歴史の教科書では武力や政治活動で評価されていた人たちが、実は健康法として水泳を推していたなんて。
「また産業革命期になると工場排水による汚染が増え、結果として溺死者も増えてしまいます。そこで医療目的や溺災救助のために水泳が体系化される動きが始まったのです」
映像は17〜18世紀ヨーロッパの都市部を描いたものに変わる。煙突から煙を吐き出す工場や、船の沈没事故の絵などが次々と表示された。
「そしてついに19世紀に入ると、スポーツとしての水泳が確立されていきました。特に1844年に英国で最初の水泳クラブが設立されたことが大きな転換点となりました」
映像には「The British Swimming Club」と書かれた看板を持つ紳士の姿が映し出された。
「当時はクロールだけでなく背泳ぎや平泳ぎも競技種目として整備されましたが、決定的な区切りとなったのが1896年のアテネオリンピックでした」
ここで先生がプロジェクターを操作すると、華麗な四枚の写真がスクリーンに映し出された。
「ご覧ください。クロール、バタフライ、背泳ぎ、そして平泳ぎ——現代オリンピックで採用されている四泳法です。この四つの泳法が国際的に認められたことで、水泳は正式な競技種目として確立されたのです」
俺はその四枚の美しい泳ぎの写真を見ながら改めて水泳の歴史の深さを感じていた。
(水泳って……こんなに古い歴史があったんだ)
隣で聴いていた芦川も目をキラキラさせながら熱心にメモを取っている。先生もそんな俺たちの反応を見て満足げな表情だ。




