授業の前:幼馴染と同じ教室で
誰もいない廊下を歩き、俺たちは昨日まで過ごしていた高校1年のフロアの一番奥の教室の前に到着した。入り口のガラスには、「水泳補習:佐藤拓哉・芦川歩美」と、味も素っ気もない明朝体の文字で書かれた掲示が貼られている。扉を開けて中に入ると、窓際に机といすが二つ、並んで置いてあった。座ると、正面にホワイトボード、右手に大きな窓があって、春の柔らかな光が差し込んでいる。昨日までは普通に授業を受けていた教室なのに、今日だけはなぜか特別な場所のように感じる。それが補習だからなのか、それとも一緒にいる相手が芦川だからなのかは、よくわからない。
「まさか、同じスイミングスクールに通ってた二人が、揃って水泳の補習受けるとはな。コーチに聞いたら、腰抜かすだろうな」
俺は窓の外を見ながら、何気なく言った。芦川は昔から勉強もスポーツもそつなくこなすタイプで、まさか補習を受けるような奴だと思っていなかったからだ。特に水泳なんて、俺なんかよりずっと得意だったはずだ。
芦川は、軽く肩をすくめて答えた。
「まあね。でも、私も佐藤が補習になってるなんて意外だったわよ。真面目にやってなかったの?」
「いや、そういうわけじゃねえんだけど……ちょっと、面倒くさくなってな。別に泳ぐのが嫌いなわけじゃないんだが」
俺は正直に答えた。別に泳ぐこと自体は苦手じゃない。むしろ、得意なくらいだ。ただ、準備とか、授業の流れとか、そういうのがなんとなく億劫になってしまっただけだ。一時間の授業で泳いでも、大したことはできないのに疲れるだけで、その次の授業がダルくなるのも嫌だった。
「ふーん、佐藤らしいといえば佐藤らしいわね。でも、私も似たようなものかもしれないわ。あんたと同じで、一言でいえば面倒くさいってやつかしらね」
芦川はそう言って、少しだけ口元を緩めた。その表情には、どこか安堵感のようなものが滲んでいるように見えた。
「…お前が、泳ぐのが面倒くさいって、どうなんだよ。中学ではそれなりにやってたんじゃないのか? むしろ得意だろ?」
水泳の補習で二人きりという環境が、普段は聞かないようなことを尋ねさせる。
芦川は自信ありげに胸を張った。その仕草が妙に子供っぽくて、思わず笑いそうになる。まあ、ジャージに制服という組み合わせがそう見せるのかもしれないが。
「でもね、泳げるからって、体育の授業が楽しいとは限らないでしょう?」
そう言われると、確かにそうだ。
「まあ、そうだな。別に泳ぎたくて泳いでるわけじゃねえしな」
「そういうこと」
芦川は軽く頷いた。
「それに……」
芦川は少し言葉を選ぶように間を置いた。窓から差し込む光が、彼女のロングボブの髪を柔らかく照らしている。
「まあ、体育の時間とか……、部活動の場合もそうなんだけど……、みんな、同じデザインの水着を着ているでしょ。変な話だけど、それが、かえって息苦しくなることがあるのよ。みんな同じ形のはずなのに、どこか違って見えるというか……体の線とか、そういうのが際だって見えたりするじゃない?」
芦川は、そう言って軽く自分の肩の辺りを撫でた。今は臙脂色のジャージを着ているからこそ気にならないのかもしれないが、あのぴったりとした水着一枚になると話は変わるのだろう。特に女子だけの空間であればなおさらだ。
「なるほどな。男連中は気にしたことなかったかもしれねえが」
俺は素直に頷いた。ただ、それでも、女子だけの中で水着姿が苦手、という芦川の気持ちがいまいちピンとこない。ただ、芦川は昔から要領が良く、物事をスマートにこなすタイプだが、時々、妙に繊細なところを見せることがある。
「たださあ、同じ服装が嫌だと言うのなら、体操服だって同じだろ?」
俺が聞くと、
「体操服はまだいいのよ。水着ほどには体の線や体格がハッキリしないでしょ? 肌の露出具合だって全然、違うし」
そう言って芦川は軽く肩をすくめた。その仕草が、いつものクールな彼女らしくなくて、少し新鮮に感じた。
確かに、体操服は水着と比べれば露出度は低い。水着は、どうしても体に密着するデザインになってしまうから、体格や体型が如実に表れてしまうのだろう。女子にとってそれは、結構気になることなのかもしれない。
「へえ、そういうものか。まあ、確かにそういう考え方もあるのかもな」
俺は特に否定も肯定もせず、相槌を打った。芦川がここまで自分のことを話すのは珍しい気がした。やっぱり、補習で二人きりだからだろうか。普段の学校生活では見せない一面が見えているような気がして、少しドキッとする。
それにしても、目の前の芦川は、黒色のセーラー服の上着の下に、臙脂色のジャージを着ている。制服とジャージという組み合わせは、なんだか妙にアンバランスで、でもそれが逆に新鮮で、なぜか目が離せなかった。普段の芦川は、もっときっちりしているイメージがあるからかもしれない。ジャージの首元までファスナーが上げられ、セーラー服の襟元からわずかに見える白い首筋が、どこか無防備に見えて、少しドキッとした。こんなことを考えるのは不謹慎かもしれないが、正直、補習なんて面倒くさいと思っていたのに、芦川と二人きりで授業を受けられるのは、少し得した気分なのも事実だった。
「でも、佐藤と一緒なら、まあ、安心できるわ。私一人だけだったり、他の女子とだったら、もっと気まずかったと思うから」
芦川が不意にそんなことを言ったので、俺は内心で慌てた。
「そうかぁ? 俺と一緒で安心って、どういう意味だよ。昔からの知り合いだからってことか?」
照れ隠しに、少し茶化すように言う。
「そうよ。佐藤って、変に気を使わないでしょ。そういうところ、助かるわ」
芦川はいたって真面目な顔で言った。その率直な言葉に、俺は返す言葉が見つからなかった。こいつはいつもこうだ。褒めているのか、けなしているのか、よく分からない。
「まあ、いいわ。とりあえず、先生が来るまで待つしかないわね」
芦川はそう言って、再び窓の外に目を向けた。春の陽光が、彼女の横顔を優しく包み込んでいる。
「そうだな」
俺も黙って頷いた。なんだか、いつもの芦川との会話とは少し違う雰囲気だ。補習という非日常的な状況がそうさせるのか、それとも俺が勝手に意識しているだけなのか。そんなことを考えながら、俺は机に肘をつき、ぼんやりと前方黒板を眺めていた。教室には、俺と芦川の呼吸音と、遠くから聞こえる部活動の微かな喧騒だけが響いている。これから始まる補習授業はどんなものになるのだろうか。そして、芦川とのこの微妙な距離感はどうなるのだろうか。期待と不安が入り混じったような、奇妙な感覚だった。




