明日に向けて
「……意外と、悪くなかったな」
鞄に筆箱やノートをしまいながら、俺は独り言のように呟いた。正直言って、補習なんて退屈で眠くてしょうがない時間になるだろうと思っていた。それが蓋を開けてみればどうだ。中野先生の説明は分かりやすく、時にユーモアも交えて飽きさせない。歴史や文化人類学まで絡めた水泳論は新鮮で興味深かった。何より、俺たち二人だけの個別授業のような状況が、妙に居心地良くて集中できた。それに……。
ちらりと隣の席を見る。芦川は既に帰り支度を済ませていて、窓の外を眺めていた。臙脂色のジャージの上に着ているセーラー服が、彼女のシルエットを柔らかく包んでいる。あの下にジャージがあると思うと、やっぱりなんだか不思議な感じがする。
「私も」
俺の独り言に応えるように、芦川がぽつりと言った。その声には、いつもの刺々しさや冷たさは感じられない。むしろ、どこか晴れやかで、満たされたような響きがあった。
「中野先生の話、すごく分かりやすかった。それに……」
彼女はそこで言葉を切り、視線を窓の外から俺へと移した。切れ長の瞳がまっすぐに俺を見据える。
「佐藤と一緒に受ける補習っていうのも、悪くないかもね」
「え?」
思わぬ言葉に、俺は一瞬固まった。芦川が俺に対してそんなふうに言うなんて。普段の彼女なら絶対にありえない台詞だ。からかわれているのかと思ったが、彼女の表情はいたって真剣だった。
「……そっか。まぁ、俺もだよ」
照れ臭くなって、俺は目を逸らした。でも、素直な気持ちを返すと、芦川は小さく「うん」と頷いた。その口元が微かに弧を描いたのを、俺は見逃さなかった。普段はあまり感情を表に出さない彼女が見せる、希少な笑顔。
(なんか……今日の芦川、本当に機嫌いいな)
朝からの彼女の行動――先生に向けた感謝の言葉や、今の笑顔――が全て繋がるわけではないけれど、何か大きな満足感を得たのだろうということは伝わってきた。
それに、あの「生命との対話」という言葉。芦川は何を感じ取ったのだろうか。
「よし、行こうぜ」
俺は鞄を肩にかけ、椅子から立ち上がった。芦川も静かに立ち上がる。彼女の着ている黒色のセーラー服と臙脂色のジャージ。やっぱりその組み合わせは奇妙で、でも妙に印象的だ。
教室を出ると、廊下はひんやりとしていた。他の教室はどこも静まり返っていて、俺たち二人の足音だけが響く。さっきまで賑やかだったグラウンドの声も、もう聞こえない。
昇降口に着き、俺たちはスニーカーに履き替える。
「じゃあな」
玄関を出て、校門へ向かう。ここからは俺と芦川は別の道だ。俺は左、芦川は右。
「佐藤」
呼び止められて振り返る。あたたかな春の空の下に芦川が立っていた。セーラー服とジャージ姿のシルエットが鮮明に浮かび上がる。
「明日も……よろしくね」
彼女はそう言うと、小さく手を振った。本当に小さな仕草だったが、確かに彼女から俺に向けたメッセージだ。俺も軽く手を上げて応えた。
「おう。じゃあな」
背を向けて歩き出す。振り返りたい衝動を抑えた。多分、今振り返るとまた変な顔になってしまう。
しばらく歩いてからこっそり振り返ると、校門の陰でまだこちらを見送っている芦川の姿が見えたような気がした。気のせいかもしれないけれど。
春の日差しは心地よい暖かさだった。空気はほんのり湿っていて、どこか懐かしい匂いがした。補習の疲れなど微塵も感じさせないほど、清々しい気分だ。俺は大きく息を吸い込んだ。
(明日も……か)
明日も二人きりの補習。明日も先生の面白い話。そして……芦川のセーラー服とジャージの組み合わせ。そのことを思うだけで、口元が自然と綻んでしまう自分がいた。俺って結構単純だな。そんなことを考えながら、家路についた。
春休みの補習初日はこうして終わった。悪くない、どころか、なんだかワクワクするような期待感すら抱かせて。




