おにぎりの温度と、合格祈願
目覚ましが鳴るより前に、目が覚めていた。
暗い天井の木目が、いつもよりはっきり見える。目が冴えているわけじゃない。ただ、心が眠ってくれなかっただけだ。
布団の中で指先を動かす。冷たい。
冬の朝の冷たさは、皮膚の表面だけじゃなくて、胸の奥の方まで潜り込んでくる。呼吸を深くすると、喉が少し痛い。空気が乾いている。
枕元のスマートフォンを手探りで取り、時間を確認する。まだ早い。早いのに、もう遅い気もした。今日が始まってしまった気がする。今日という日が、私の身体の上に静かに座っている。
共通テスト当日。
その言葉は、鋭い。口に出さなくても、舌に刺さる。
起き上がって机の方を見る。受験票、鉛筆、シャーペン、消しゴム、時計。前の晩に何度も並べ直したものが、きちんとそこにある。きちんとあるのに、安心できない。きちんとあるのは道具だけで、私の中身はきちんとしていない。
失敗したらどうしよう。
時間が足りなかったらどうしよう。
リスニングで聞き取れなかったら。
計算を一つ落としたら。
漢字を間違えたら。
全部、連鎖して、取り返しがつかなくなったら。
考え始めると、脳の中で雪崩が起きる。言葉が勢いだけで落ちてくる。私はそれを止めようとして、余計に飲み込まれる。
布団から出て、足を床に下ろす。冷たさが踵に刺さる。
思わず息を止める。止めても、冷たさは消えない。
廊下に出ると、家の音がした。
台所の方から、炊飯器の小さな蒸気の音。換気扇の低い唸り。包丁がまな板に当たる、軽いリズム。日常の音だ。普段なら、どうってことない音だ。なのに今日は、それが怖い。日常が、私の試験の前で平然としているのが怖い。
台所の明かりは暖かい色だった。
母が背中を向けて立っている。エプロンの紐が、背中で結ばれている。髪はラフにまとめられていて、少し寝癖が残っている。家の朝の姿だ。
「起きた?」
母は振り返らずに言った。私が立っている気配だけでわかる。
私は「うん」と返した。声が乾いていた。
「早いね。寒い?」
「……寒い」
嘘じゃない。手も、足も、胸も寒い。
母は「あったかいお茶、淹れるね」と言って、湯呑みを出した。お湯が注がれる音が、やさしい。やさしいのに、胸がぎゅっとする。
私は椅子に座った。膝の上に手を置く。手がまだ冷たい。
母は炊きたてのご飯をボウルに移し、塩を少し振って混ぜている。ご飯の湯気が立ち上る。湯気は、空気を白くする。白い息みたいに。
湯気の匂いが、少しだけ胸をほどいた。
米の匂いは、説明できない安心を持っている。大丈夫、というより、戻っておいで、という匂いだ。
母が手を洗い、濡れた手でご飯をつかむ。
握る。
少し回して形を整える。
もう一度、優しく握る。
その動作が、丁寧で、静かで、強い。
おにぎり。
私は一瞬、それが不思議に思えた。共通テスト当日に、おにぎりなんて。コンビニで買ったゼリー飲料の方が合理的じゃないか。胃に入れやすいし、手も汚れないし、時間も取られない。
でも母は、いつも通りの手で、いつも通りのおにぎりを握っている。
いつも通りが、今日の異常を薄めるみたいだった。
「具、何がいい?」
母が聞いた。
私は迷った。迷っている自分が嫌だった。こんなときに、具で迷っている場合じゃない。でも、母の質問は、今日を普通にしてくれる質問だった。
「……梅」
「はいはい。梅ね」
母は梅干しの瓶を開け、種を外し、赤い果肉を小さくしてご飯の中に入れた。梅干しの匂いが酸っぱくて、鼻がきゅっとする。眠気が少しだけ後ろに下がる。
母はおにぎりを二つ握った。
一つは梅。
もう一つは鮭。
私が梅を選んでも、母は鮭も入れる。そういう人だ。選択肢を増やすのではなく、支えを増やす。
「熱いからね。気をつけて」
母がそう言って、おにぎりをアルミホイルに包んだ。包む音が、かさり、と鳴る。
その音は、何かを守る音だった。
お茶が目の前に置かれる。湯気が立っている。
私は湯呑みを両手で包んでみた。熱が掌に移る。熱い。熱いのに、心地いい。
「食べられそう?」
母の声は低くて、静かだった。
食べられるか、じゃない。食べられそうか。
“そう”が入るだけで、優しさの形が変わる。断ってもいい余白がある。
「……少しなら」
「うん。一口でいいよ」
母は、おにぎりの端を少しだけ割り、皿に置いた。
割る動作が、丁寧だった。大きな塊を無理に飲み込ませない。少しだけ。ひと口だけ。母はそういう“サイズ”を知っている。
私はそのひと口を口に入れた。
温かい。
米の粒が舌に当たり、塩が広がり、梅の酸っぱさが追いかけてくる。胃の奥が、少しだけ「入ってきてもいい」と言った気がした。
ひと口で、涙が出そうになった。
出る理由がわからないのに、出そうになる。
私は慌ててお茶を飲んだ。お茶は熱くて、喉が開く。
「……うまい」
思わず言うと、母は笑った。
大きく笑わない。ただ、口元だけが少し上がる。
その笑い方も、私の心の温度に合わせてくれているみたいだった。
私はふと、机の上に置かれた小さなものに気づいた。
袋に入ったお守り。赤い布。金色の刺繍。神社の名前。
いつの間に、そこに置いたのだろう。
「……これ」
私が指差すと、母は「うん」と短く返した。
「昨日、帰りに寄った。はい、合格祈願」
合格祈願。
その言葉に、私は少しだけ顔が熱くなった。
神頼みなんて、今さら。勉強してきたのは自分だ。頼るのは自分だ。そういう理屈が、頭の中で立ち上がる。
「……こういうの、意味あるの?」
言った瞬間、自分の言い方がきついと思った。
母は怒らなかった。笑いもしなかった。
「あるよ」
短く言ったあと、少しだけ間を置いて続けた。
「意味があるっていうより、持ってると落ち着くでしょ。頼れるものは多い方がいいよ」
頼れるもの。
多い方がいい。
私はその言葉が胸に落ちるのを感じた。
頼れるものが多いと、自分が弱いみたいで嫌だと思っていた。全部自分で立てないと、と思っていた。けれど、頼れるものを増やすことが、弱さじゃないなら。
「……持っていく」
私がそう言うと、母は「うん」と言った。
その“うん”は、合格してほしいという欲ではなく、無事に行って帰ってきてほしいという祈りの形だった。
私はお守りを手に取った。
小さくて、軽い。
軽いのに、確かに存在している。ポケットに入れると、布が指先に触れる。触れているだけで、何かがそこにいる。
時計を見る。
家を出る時間が近づいていた。
母はおにぎりの包みを、私の鞄の外ポケットに入れた。取り出しやすい場所。
それから、カイロを二つ持ってきて、一つを私のコートのポケットに押し込んだ。
「手、冷たいから」
「……ありがとう」
言葉にすると、喉が少し震えた。
母は「はいはい」と言って、軽く流した。流してくれることがありがたい。重くしない。重くすると、私が耐えられないことを知っている。
玄関で靴を履く。
靴紐を結ぶ指が、少し震える。
母は私の背中を見ていた。背中に触れない。言葉も押さない。けれど、そこにいる。それが、いちばん強い支えだった。
「行ってきます」
私は言った。
声が思ったよりちゃんと出た。
「行ってらっしゃい。……焦らなくていいよ。名前を書けば、もう半分できたも同然」
母はそう言って、小さく手を振った。
名前。
名前を書く。
それだけで半分。
その考え方は、私の頭の中の雪崩に、少しだけブレーキをかけた。
外に出ると、空気が刺さった。
頬が冷たい。
息が白い。
白い息が、自分の緊張を目に見える形にしてくれる。私はその白を見ながら、息を深くした。深くすると、胸が少し痛い。でも、痛い方が生きている感じがする。
駅へ向かう道には、同じ方向へ歩く人がたくさんいた。
コートの色も、歩幅も、表情も似ている。受験生。どこかを見ないようにして、どこかへ向かっている。皆が同じ空気をまとっているのが、かえって怖い。集団の緊張は、増幅する。
私はポケットに手を入れた。カイロが熱い。お守りが布で指に触れる。鞄の外ポケットには、おにぎりが入っている。
頼れるものが多い方がいい。
その言葉が、私の中で繰り返された。
会場までの電車は、いつもより混んでいた。
座れない。立ったまま揺れる。
つり革を握る手が冷たい。
周りの受験生が参考書を見ている。英単語帳。数学の公式。古文単語。直前の確認。私はそれを見て、焦りが胸を締めた。
私も見なきゃ。今からでも。
でも、見ても頭に入らない。
焦ると、余計に何も入らない。
私は目を閉じた。
母の言葉を思い出す。
焦らなくていい。名前を書けば半分。
そんなこと、根拠はない。けれど、根拠がないからこそ、支えになることがある。試験は理屈だけじゃ越えられない。
会場の最寄り駅で降りる。
人の流れに押され、階段を上がり、外へ出る。空が高い。風が冷たい。白い息がさらに白い。
校門の前に立つと、胸が一段と固くなる。もう引き返せない。引き返したいわけじゃない。引き返せないことを、体が怖がっている。
私は校舎に入り、受験票を見て教室へ向かった。
廊下は、消毒液の匂いがする。靴音が響く。誰もが喋らない。喋ると緊張が壊れるから。壊れるのが怖いから。
教室のドアを開けた瞬間、私は空気の圧を感じた。鉛筆の音。椅子の擦れる音。紙のめくれる音。息を潜めた空間。
席に座り、机の上を整える。時計を置く。鉛筆を並べる。消しゴムの角を確認する。
確認をすると、少し落ち着く。落ち着くと、不安が減る。完全には消えない。けれど、減る。
試験が始まる。
監督の声が響く。
「始め」
その一言で、世界が紙の上に縮む。
私は問題をめくり、名前を書く。受験番号を書く。
母の言葉を思い出し、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。
午前の科目が終わり、休み時間。
廊下に出る人、席で目を閉じる人、友達と小声で話す人。ざわめきが戻る。戻ると、別の恐怖が来る。
「やばい」
「終わった」
「全然できなかった」
そういう言葉が、矢みたいに飛んでくる。
私は席に座ったまま、机を見つめた。
午前の出来が良かったか悪かったか、考え始めると止まらない。間違えたところが頭に浮かぶ。もっとできたはず、という声が湧く。湧いた声は雪崩を呼ぶ。
私は鞄に手を伸ばし、外ポケットを開けた。
アルミホイルの包みが、指先に触れる。
その感触だけで、胸が少し緩んだ。
包みを出すと、カサッと音が鳴った。
音が大きく感じて、周りが一瞬こちらを見た気がした。気がしただけだ。誰も他人を見ている余裕はない。自分のことで精一杯だ。それでも私は、恥ずかしくて肩をすぼめた。
包みを開ける。
おにぎりが出てくる。白い米。海苔の黒。梅の赤。
私は一口、かじった。
温かい。
驚くほどではない。熱々ではない。
でも、まだ少し温かい。
それが、胸に刺さった。
どうして、まだ温かいのだろう。
外は寒い。教室も暖房が効いているわけじゃない。時間も経っている。それなのに、中心に残っている温度がある。
母の手の温度。
朝の台所の湯気。
「熱いから気をつけて」の声。
それらが、この一口に全部入っている気がした。
喉の奥が熱くなり、目の奥も熱くなる。
涙が出そうになる。
泣いたら負け、というわけじゃない。けれど、今ここで泣いたら、午後の試験に戻れなくなる気がした。涙は、心の堤防を越えてしまう。
私はゆっくり噛み、ゆっくり飲み込んだ。
塩が広がり、梅の酸っぱさが舌を叩く。酸っぱさは、目を覚まさせる。目を覚ますと、私は今ここにいることを思い出す。ここまで来た。名前を書いた。問題をめくった。鉛筆を動かした。
私は一人じゃない。
少なくとも、このおにぎりがある。
ポケットのお守りがある。
家の台所がある。
「行ってらっしゃい」がある。
私はもう一口だけ食べて、包みを閉じた。
全部食べなくてもいい。全部じゃなくていい。
今の私に必要なのは、戻るための温度だけだ。
午後の科目が始まる。
監督の声。
「始め」
私は問題を見て、鉛筆を動かした。手はまだ少し冷たい。けれど、内側は冷え切っていない。
おにぎりの温度が、そこに残っている。
試験は終わった。
最後の科目の終了の合図が聞こえた瞬間、私は身体の力が抜けた。机に額をつけたい気持ちを、何とか堪える。周りも同じ空気だった。息を吐く音が、教室のあちこちで聞こえた。
外に出ると、空はもう夕方に傾いていた。冬の夕方は早い。朝が来たと思ったら、すぐ夜が近づく。
校門の外に出た瞬間、冷気が頬を叩いた。白い息がまた濃くなる。私はその白を見て、「終わった」と実感した。
終わった、というのは、結果が出たという意味じゃない。
結果はまだ、どこにもない。
答え合わせもできない。点数もわからない。判定もわからない。
それでも今日が終わった。今日をやり切った。やり切ったという感覚だけが、今の私の手元にある。
駅へ向かう帰り道、周りの受験生たちは早口で話していた。
「あれ何番?」
「英語やばかった」
「数学、時間足りなくて」
「国語、現代文が……」
言葉の波が、私の耳に入ってくる。聞くと不安が増える。増えるのがわかっているから、私は少しだけ距離を取って歩いた。
スマートフォンを取り出す。
母から、短いメッセージが届いていた。
『おつかれさま。あったかいの作って待ってるね』
その文を読んだ瞬間、胸が詰まった。
合格してから迎えてほしい、という気持ちがどこかにあったのだと思う。結果が出てから褒められたい。結果が良いときだけ、胸を張って帰りたい。そういう狭いプライドが、私の中に居座っていた。
でも母は、結果の前に「おつかれさま」と言ってくれた。
結果じゃなくて、今日を生きてきたことを受け取ってくれる。
そのことが、私の肩から何かを下ろした。
私は返信欄を開いた。
長い文章は打てない。
打てるのは、短い言葉だけ。
『今、帰る』
送信して、スマートフォンをポケットにしまった。
そのポケットの中で、お守りが指に触れた。布の感触が、確かにそこにある。
合格祈願は、合格を保証するものじゃない。
願ったから合格するなら、世界はもっと単純だ。
でも、願うことには意味がある。
願いは、結果を作るための魔法じゃない。
今日を終えるための手のひらだ。
私は駅のホームに立ち、電車を待った。
電車が来る。ドアが開く。人が流れ込む。
私はその流れに乗りながら、ふと、鞄の外ポケットに手を入れた。アルミホイルの包みがまだ少し残っている。おにぎりの温度は、もうないかもしれない。でも、包みの感触は残っている。
残っているだけで、十分だった。
温度は消えても、受け取ったものは消えない。
家に着いたら、母に何と言おう。
「終わった」
「疲れた」
「ありがとう」
言えるだろうか。言えるといい。
電車の窓に映った自分の顔は、朝よりも少しだけ柔らかかった。
笑っているわけじゃない。
でも、崩れていない。
私は息を吐いた。
白い息は、車内では見えない。
見えなくても、私はちゃんと息をしている。
そのことが、今夜の合格祈願だった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
受験って、答案用紙の上だけの戦いに見えて、実は「自分の呼吸を守る戦い」でもあると思います。頑張ってきた人ほど、当日は急に心が冷えて、いつもの力が出なくなる。理屈も努力も、急には助けてくれない瞬間がある。だからこそ、この短編では“正しい言葉”や“根拠のある励まし”ではなく、おにぎりの温度や包み紙の音みたいな生活の手触りで、主人公が持ち直していく姿を書きました。
合格祈願は、合格を保証する魔法ではありません。
でも、崩れないための支えにはなれる。
「頼れるものは多い方がいい」という母の言葉は、弱さの肯定ではなく、心を守るための知恵です。大人になっても、同じことが必要な日があります。結果の前に「おつかれさま」と言える人がそばにいること。それは、人生の中でも強い祈りだと思います。
この物語が、今まさに受験の途中の人にも、見守る側の人にも、少しだけ温度を残せたなら嬉しいです。
あなたの一日が、無事に終わりますように。




