追憶のレンズ
追憶のレンズ
ハンドルを握ったまま、ユウキは動けずにいた。あれから、もう一年。友人たちとの思い出が詰まった車は、罰のように実家の庭に放置したままだった。なぜ俺だけが……。あの日の自責の念は、呪いのように彼を縛り続けていた。
それでも、ユウキの心は叫んでいた。もう一度、彼らに会いたいと。錆びついた車のドアを開けると、微かに革と、シンジが使っていた爽やかなコロンの匂いが混じり合って漂ってきた。恐る恐る運転席に座ると、ダッシュボードに損傷したARグラスが放置されていた。ユウキはそれを手に取り、ためらいながら装着した。
グラスをかけても何も映らない。安堵と、それ以上の深い絶望が同時に押し寄せた。
「やっぱり、無理か」。
その直後、ガラスの砕ける音に似た、しかしどこか柔らかな電子音が聞こえ、レンズがかすかに光を放った。それはまるで、壊れた心が再び繋がったような、静かで温かい音だった。
プツン。
世界が変わった。
ユウキは、自分の車の中にいる。助手席にはシンジがいて、後ろの席にはカケルとマナミがいる。彼らの姿は半透明で、かすかに光っていた。ユウキが罪悪感に苛まれるたび、グラスのひび割れが不気味な赤色に強く光り、友人たちの姿が歪んで見えた。この故障したARグラスは、ユウキの心のひび割れを可視化するように、天国を映し出していたのだ。ユウキは、涙が止まらなかった。彼らは、事故後も、ずっとこの車の中にいたのだ。自分を責め続けるユウキを、ずっと見守っていたのだ。
言葉は届かない。それでも、ユウキは語りかけた。
「ごめん、俺だけが…」。
その言葉は空気に溶けていった。しかし、シンジは悲しい顔で、ただ微笑んでいるだけだった。ユウキは、その場に崩れ落ちそうになった。
その時、ユウキはひらめいた。グラスに搭載された翻訳アプリを起動してみる。すると、意味不明な文字が羅列される中、はっきりと一文字だけ浮かび上がった。「ド」。続いて、「ラ」。「ドライブ…?」。カケルが笑った。翻訳アプリが奇妙なバグを起こし、言葉の一部を拾っていたのだ。ユウキは夢中でスマホを操作した。「ドライブ…行きたいのか?」。すると、今度は「イコウゼ!」という単語が浮かび上がった。ユウキは、涙を流しながら、うなずいた。言葉は不完全でも、気持ちは伝わる。
三人との「旅行」が、再び始まった。ユウキは、彼らの存在を感じながら必死に運転した。ハンドルを握るユウキの手は氷のように冷たかったが、友人たちの存在を感じた途端、じんわりと温かさを取り戻した。それは、事故以来、初めての心の安らぎだった。
高速道路に入ったときだった。窓の外を流れる景色が、あの日の記憶を鮮明に蘇らせる。やがて、遠くにあの事故現場が見えてきた。ユウキの心臓は激しいドラムのように鳴り響き、呼吸が荒くなる。再びハンドルを握る手が震え始めた。
その瞬間、翻訳アプリにまた文字が現れた。「キミノセイジャナイ」。
ユウキは、号泣した。溢れ出る涙は、しょっぱく、そして一年分の苦みが混じった味がした。しかし、友人の言葉を聞いた瞬間、その涙は温かく、少しだけ甘いものに変わった。言葉は、不完全なバグを通して、一年間ユウキを縛り付けてきた罪悪感を解き放った。心の呪縛からの解放が、この悲劇の場所で、ようやく達成された。
三人との「旅行」は続いた。ユウキは、翻訳アプリを通して、これまでの苦しみを語った。「シンジ、プロポーズの場所に着いたよ。カケル、きっと最高のライブになったはずだ。マナミ、写真、ちゃんと撮ったよ…」。そして、最後に、「ごめん、そして、ありがとう」という言葉を、何度も繰り返した。
そして、ついに目的地に到着した。エメラルドグリーンの海が、目の前に広がっていた。ユウキは車を降り、砂浜を歩いた。潮風が頬を撫で、磯の香りと、遠くでかすかに香る花の匂いが混ざり合っていた。足の裏に感じる、温かく柔らかい砂の感触が、一年間の重荷をそっと溶かしていくようだった。後ろには、半透明の三人が続いているのが見える。
「着いたよ…」
ユウキがそう呟いた瞬間、グラスの光が弱まり、彼らの姿が徐々に薄れていく。
「待って…行かないでくれ」。
ユウキが叫んだ。だが、彼らはただ微笑んでいる。翻訳アプリには、「アリガトウ」「サヨウナラ」と文字が浮かんだ。そして、三人の姿は、光の粒となって、空へと昇っていった。
ユウキは、グラスを外した。もう何も映らない。だが、彼の心は、これまでにないほど温かかった。なぜあのグラスが奇跡を起こしたのか、その答えをユウキは探さなかった。ただ、それが彼の心と彼らの絆が織りなした、一瞬の奇跡だと信じていた。
ユウキは、グラスを海の見える丘に埋めた。それは、もはや過去の思い出を埋める行為ではなかった。それは、彼らの夢や意志を、この場所に託す行為だった。もう、一人ではない。愛する人たちは、目には見えなくても、ずっとそばにいてくれる。ユウキは、彼らの遺志を継ぎ、海の保護活動に参加することを決意した。そして、彼らとの新しい旅は、今、始まったばかりなのだから。