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【9話】治に居て乱を忘れず

——デルヴァ艦、管制区画。


艦内は冷たい照明に満ち、床を這うような低周波の振動が、降下用推進器の起動を知らせていた。壁一面のパネルには、地表の安全ルート図と散布塔のステータス、コスト算定のゲージが重なって表示されている。計算機の読み上げが淡々と続き、乗員たちは各席のハーネスを締めながら、手元の器具を確認した。


「あのクソ博士、全部ばらしやがって」


前列の管制士が舌打ち混じりに吐く。彼の視線の先では、地表の研究施設に紐づく端末から上がってきた音声ログがリストに並び、先ほどまでの会話が波形としてうねっていた。


「まあいい。もうあの人間たちも用済みだ。数日もあれば、我々があの散布塔を破壊できる。」


艦長席の男は、冷ややかに言い切る。彼の脇のモニタには「採算係数:許容範囲」「コア復旧推定:長」と赤と黄のランプが点滅している。地表からの安全ルートは、塔が止まったことでいくつも延び、降下用の経路は十分に確保されていた。


「降下完了まであと20分」


時刻を告げる声が艦橋に落ちる。

「地上作戦開始の準備をしておけよ」


甲板要員が「了解」と短く応じ、破壊ドローンの弾頭残量やサンプル採取用の器具を点検する。つい先ほどまでモニタに釘付けだった面々が席を離れ、迫り来る作戦の段取りに散っていく。緊張はある。だが、それは習熟した作業の緊張であって、恐怖ではない。邪魔な散布塔は四基すべて止まった。地上の抵抗は散り、あとはコアが起き上がる前に壊せばいい——誰もがそう思っていた。


その空気を裂いたのは、端末から突然流れ込んだ人間の声だった。鋭い、擦れるような女の声——ガラス越しでも分かるほどの切羽詰まった調子。


「こうなったら奥の手よ。やりたくはなくて隠していたけれど試作品のMZ-1ウイルスの強化版を地球中にばらまいてやる! 今回は弱毒なんてぬるいことはなしよ。デルヴァもあんたたちもまとめていなくなればいいんだわ!治癒カプセルなんでもう使わせやしない!全員私のウイルスで狂いなさい!」


「そんなことしてどうなるんですか! やめてください!」


「黙りなさい! 元はといえばあなたたちが!」


通信席の乗員が反射的にヘッドセットの音量を落とす。艦内の空気が一瞬だけ固まった。


「おいあの博士狂っちまったぞ」


後列で誰かが呟く。

「まずいな、今おかしなことをされると——」


言い切る前に、スピーカーの向こうでガラスの割れる音がした。硬質な破砕音が、管制区画の空気を鋭く切り裂く。ほぼ同時に、データパネルの数字が跳ね上がった。地表の端末濃度表示が急上昇、位置は固定、そして……音声が途絶。


「おい、端末4機全部の環境測定結果、濃度最大!移動なし、音も止まってる」


計測士が立て続けに読み上げる。端末情報を基に計算される安全ルートはじわじわと消え、リスク計算のゲージが赤域に突入していく。


「おいおい、本当にやっちまったよ」


「まずいな、地上が汚染されてしまったら降下はリスクが高すぎる」


「またどうにかして除染するか?」


「いや、前回は相手のリソースを使えそうだったからやっただけだ。向こうのリソースが潰えた今、こちらの手で除染をするのはコストがかかりすぎる。」


艦長の声はぶれない。言葉の端々に、企業的な算盤が透ける。艦橋の壁面に「採算割れ」「安全係数未達」の表示が並び、降下ベクトルの予測ウィンドウが自動で縮小していく。降下路がないわけではない。だが、未知のリスクに見合わないのだ。


「ここまでやって撤退か。」


前列の管制士が、吐息とともにこぼす。

「資源開発とはそういうもんだ。まあこの程度の資源量、他を探せばすぐに見つかるさ」


艦長は席に深く背を預け、決定を確定させるボタンに触れた。


艦の腹が音もなく浮上角へ傾く。窓の外、薄い雲の層が斜めに流れ、地表の地図は遠ざかるほどにディテールを失っていく。管制区画の緊張は、命令が撤回されたことで別の種類の静けさに変わった。誰も勝利を叫ばない。誰も敗北を嘆かない。数字が示す「割に合わない」という事実だけが、淡々と全員の胸に落ちる。


まもなく、艦は地球の重力の縁を離れ、太陽風の薄い流れへと滑り込んだ。航法パネルに外縁航路のベクトルが描かれる。デルヴァの船はゆっくりと姿勢を変え、太陽系を抜けるための長い点線の上に乗った。背後に置いてきた青い星は、ただの作業現場のひとつでしかない——少なくとも、彼らにとっては。










研究所の廊下を、私たちは静かに歩いた。壁の白はところどころ日焼けして黄ばんでいる。蛍光灯は半分が死んでいて、残りの半分が細かく唸る。靴底が塩を踏むみたいに、薄い砂をきしませた。


背後で、エアシャワーのランプがひとつ消える。空気がわずかに軽くなる。窓の外では、さっきまで糸みたいに張っていた風の筋が、少しだけ緩んでいた。桐生さんが立ち止まり、私たちの方へ振り返る。頬のこわばりが、ようやく人の体温に戻っている。


「さっき、乱暴なこと言ってごめんなさいね」


薄く笑って、それから真顔に戻る。喉の奥で短く息を整えながら続けた。


「でも、うまくいったみたい。電波ももう届かなくなったし」


ユウタが肩の力を抜いて首をひねる。さっきまで緊張で白くなっていた指先に、血の色が戻っていた。


「即席だったけど、うまくいっていたのかな、あれ」


蓮は背後の廊下を一度だけ見やってから、短く返す。彼の声はいつも通り低いが、角が取れている。


「うまくいったから撤退したんじゃないか?」


はるかが頷く。肩にかけた救急ポーチを撫でる手が、ようやく重さを思い出したみたいにゆっくり動く。


「桐生さんがウイルスのサンプルを持ってくれていてよかったよ」


桐生さんは少しだけ目を伏せ、すぐ顔を上げた。目の縁に疲れの影がにじむ。


「蓮さんが短い時間で解決策を練ってくれたからよ。樹脂の箱にみんなの端末とウイルスのサンプルを入れるだけで騙せるなんて」


ユウタが笑って、すぐ真面目な顔に戻る。廊下の先から吹き込む風が、彼の前髪を一度だけ持ち上げた。


「それもデルヴァにウイルスの脅威を見せ続けて一人で戦ってきた桐生さんあってのことですよ」


ユウタの言葉に桐生さんは、張りつめていた糸が切れるように泣き出してしまった。声は出さず、肩だけが小刻みに震える。はるかがそっとハンカチを差し出す。私は桐生さんの横に立ち、しばらく何も言わなかった。ガラス越しの部屋の奥では、棚のさらに奥、樹脂の箱の中で端末たちが沈黙と高濃度を送り続けている。デルヴァに届くのは、もう私たちの声や行動ではない。


正面玄関を出ると、風が乾いていた。潮の匂いよりも、埃と日射しの匂いが勝っていた。遠くでカラスが短く鳴く。通りの角に人が二人、ベンチで水を分け合っている。「ここ最近のことが思い出せない」と誰かが言い、別の誰かが「避難所はあっち」と答える。痩せた声、乾いた笑い。喧騒ではない。けれど、人の声が、桐生さんが待ち望んだ平穏が、街に戻っている。


私は三人と桐生さんの横に並び、歩幅を合わせた。階段の手すりは手の汗でしっとりしていて、触れると金属の冷たさが指に伝わる。私たちは研究所の階段を降り、正門を抜ける。花壇の土は乾いて、風が撫でるたび細い筋を作る。通りの端で、少年が自転車を起こし、誰かが看板を端へ寄せている。足をひねった男の人が、ベンチの肘掛けにそっと腰を下ろす。普通の仕草が、風景に帰ってきた。


散布塔は封印されるだろう。研究所は封鎖されるだろう。

その奥底で端末はデルヴァに、人類の偽りの沈黙と存在しないウイルスの脅威を警告し続けるのだ。


道の先に、陽の反射が一枚揺れた。ガラス片か、水たまりか。風がそれを細かく震わせる。桐生さんが涙を拭き、まぶしそうに目を細めた。


私たちは晴れやかにそこへ歩いていった。

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