表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/9

【8話】寒に帷子、土用に布子

通用口を抜けると、紙と薬品の匂いがした。非常口の緑が床に細い帯を落としている。端末の矢印は奥を指しっぱなしだ。私たちは角ごとに息をそろえ、靴音を潰すように進んだ。




施設の中にはそこら中に新聞やら研究レポートやらが散らかっている。試しに新聞を拾い上げてみたが、どうやら記憶をなくしている間のニュースらしく全く見覚えのないものばかりだった。




その中にちらりと戦争、災害といった言葉が見えた気がした。気になって広げようとすると、ユウタに小突かれた。今は前に進め、という短い合図。確かに、今はそれどころではない。




ほどなくしてガラス張りの部屋が現れる。白衣の女性がひとり。細い肩、眠っていなさそうな疲れた目。私たちが来るのを待ち受けていたように低い声が落ちる。




「来たのね。」




一歩、足が止まる。女は落ち着いた声で続けた。




「エアシャワーを通って中にどうぞ。あなたたちに危害を加えるつもりはないわ。」




私たちは互いの顔を一度だけ見た。信じる理由はどこにもない。けれど、ここまで何も掴めていないのも事実だ。躊躇は恐怖に似ていたが、足は前へ出た。




風が吹き、埃の粒がきらめく。中は狭い。机とモニタ、壁一面の紙。部屋から除く窓の外には砂色の花壇と空のベンチ。女は名乗った。



「桐生。ここの主任でした」




視線が順に私たちをなぞり、私の胸ポケットの端末で止まる。


「なるほど…ね。そういうことだったか。」


桐生は残念そうにため息を漏らしながら続けた。


「それはここで作られたものじゃない。宇宙から来た連中、私はデルヴァと呼んでいるものが作ったものでしょう。」




「宇宙?」




「驚くのも無理はないでしょうがまずは聞いてください。」




喉が乾いた。桐生は紙束を一枚引き抜き、薄いグラフと上空のログを示した。




「順番に話しましょう。あなたたちの記憶の最後の少し先のこと。ある日平和な地球にデルヴァという宇宙人が攻めてきました。デルヴァの目的は地球の資源の採掘。奴らは採掘に邪魔な人類に対して攻撃を始めました。私たちは押され続けました。地上に降りてくるデルヴァの力は地上の兵器をはるかに凌駕していた。街が削れ、自然は汚され、何人もの命が犠牲になりました。このままでは人類は絶滅してしまう。そこで私は苦肉の策を実行したのです。」




壁の図面には散布塔の断面。地上の筒と、地下に厚い箱。配管に「自己復旧」と手書きがある。




「MZ-1ウイルスを――あなたたちがゾンビ化ウイルスと呼ぶそれを開発し、人類すべてに感染させました。」




肺が強く締めつけられる。心臓が跳ねる。私の脳裏に、塔の足もとで見た泡の白と、歩き方を取り戻す人々の姿が重なった。犯人は、この人なのか。


ユウタの声が早く出た。




「ふざけんなよ!宇宙人に全滅させられるくらいなら人間をゾンビにするってどんな道理だ!」




桐生は動じない。言葉は重く、揺れていない声は彼女が苦悩と決意のもとにこれを実行したことを感じさせた。




「あなたたちはゾンビ化と呼んでいますがこれは一種の保護状態です。MZ-1ウイルスは弱毒で、散布されているあいだだけ体を保護状態――ゾンビ状態に寄せます。この状態になればどれほど深い傷を負っても死ぬことはない。加えて自我が薄れて攻撃性が上がるから、地上に降り立ったデルヴァを追い払うことができます。このウイルスはそれ自体が免疫にとても弱く感染力も低いから、放っておけば勝手に治ります。とはいえデルヴァがいる間は保護状態を保つために散布塔を建てて継続的にウイルスを撒く必要があった。そうしないと保護が解けて犠牲が増えてしまうから。」




桐生は続ける。




「実際のところこの作戦はうまくいきました。白兵戦で不利になったデルヴァは撤退していきました。不思議とその後新しい武器を使って再侵攻、とかはしてきませんでしたから、MZ-1ウイルス自体がデルヴァにとって有害だったという線もあるのかもしれませんね。」




「そうしたところでどうやってゾンビになってしまった人類を元に戻す算段だったんだ?あんた自身はなぜゾンビになっていない?」




鋭く疑う蓮の問いに桐生は力なく静かに笑う。悔いの混じる笑いだ。




「本当のところはあなたたちの存在こそが算段だったんですよ。デルヴァの船からは特殊な電波が発せられていることがわかっていましたから、私はそれを観測し続けて奴らが完全に撤退したら各地にあらかじめ設置しておいた治癒カプセルを遠隔で開放するつもりでした。そうしたら近くにいた人が保護状態から解放される。治癒カプセルには強めの抗体が体内に定着するようなワクチンが入っていますから、散布環境下でも自由に動けます。散布塔にはわざとらしく大きめのロボットと分かりやすいボタンを置きましたし、時が来れば私も遠隔でサポートするつもりでした。あなたたちが止めたロボット、あなたたちを攻撃しなかったでしょ?あれは散布塔がデルヴァに破壊されないための装置で、人間は攻撃しないように組んでありますから。私は体質的にこの治癒カプセルが定着しづらかったので、この無菌室に。あなたたちが同じ体質でなかったことは本来のシナリオなら幸運でしたが。」




喉の奥で自分の唾を飲み込む音がした。道中の出来事が言葉の形で積み直されていく。


桐生の声色が硬くなる。けれど、と彼女は続けた。




「デルヴァは一時撤退はしたものの、地球から完全に遠ざかりはせず私たちを睨むような位置に停泊し続けました。だからこそ私は人類の保護状態をしばらく維持していた。けれど、あなたたちのそれは解けた。理由がわからなかったから事態を静観していましたが、その胸の端末を見て合点がいきました。今、私が導ける結論は一つです」




背中に冷たいものが這った。まさか、という言葉が喉で止まる。




「あなたたちを解放したのはデルヴァとみて間違いないでしょう。カプセルの位置を奴らが嗅ぎつけ、私の知らぬ間に破壊したことによってたまたま近くにいたあなたたちが解放された。同時に再侵攻に邪魔な散布塔を破壊するために、地上で動けない自分たちに代わってあなたたちを誘導していたんです。その端末を使って。」




「そんな――」




はるかが口を押える。彼女の目の奥で、さっきまで救った顔が脳裏に行き来しているのが分かった。

救ったと思っていた人たち。その人たちをむしろ危険にさらす行為を、私たちはしていたのかもしれない。


桐生は一度だけ目を伏せ、言葉を選び直した。



「デルヴァとの戦いの最中、激しい戦いと多くの犠牲に心を病む人が多く出ました。それによって自ら命を絶ってしまう人も。それよりは、とMZ-1ウイルスの主作用に感染前後の記憶の定着を阻害する効果を入れ込みました。それが、仇となってしまった。」


私は気づけば、縋るように問いを押し出していた。


「私たちは、どうしたらいいんですか。」



「私にもわかりません」桐生は正面から言う。「その解を探す時間を稼ぐためにも、散布塔を再起動させる必要があります。復旧に時間はかかりますが、数日あればいったんは大丈夫でしょう。また町の方々には保護状態になってもらわなければなりませんが、そうしなければ今度こそ人類は絶滅してしまいますから。」




その言い切りの直後、建物が低く鳴った。天窓がわずかに震え、空気が押される。遠い重低音が胸骨にひびく。

窓越しに見える空に不自然な小さな黒い影が現れる。それは、みるみるうちに大きくなっていく。



ユウタが顔を上げた。「あれ、降りてきてるよな?」




桐生はモニタの波形を見て、短く息をのむ。「高度が下がっている。どうして急に?」




胃の底が冷たくなった。私は端末に指を当てる。指令は消えている。


さっきの「復旧には時間がかかる」という一言の直後に、これだ。喉が詰まり、後頭部が熱くなる。


聞かれている。




口の中が酸っぱくなった。私の間の抜けた質問が、町の上空を動かしたのか。吐き気に似た波がこめかみを打つ。罪悪感と怒りと恐怖が、順番を譲り合わず胸の中でぶつかった。


蓮だけは顔を上げたまま、震えの気配を押し込めて桐生に問う。「降りてくるまで、あとどれくらいある」


「二十分、といったところでしょう」


「そうか」


蓮は端末を机に置き、周囲に散らばっていた紙とペンをかき集めた。乱暴な字で、短い行をいくつも滑らせていく。思いついたばかりの仮説に仮説を重ねた子どもじみた作戦。だが、残された時間は少ない。私の手の震えはまだ止まらないのに、脳だけがやけに静かだった。それに賭ける以外、道はない。胸の奥で息を締め直し、私は頷いた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ