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【7話】円石を千仞の山に転ず

泡の白が、風に削られていく。

割って押したカバーの欠片が手のひらに刺さったままで、絆創膏の下から痛みが遅れてやってきた。潮の匂いに鉄と薬品が混ざり、倉庫の壁が微かに軋む。端末の濃度は橙から黄へ、舌の上の苦さが一段やわらぐようだ。


柵の外にいたゾンビの何人かが、足を止めている。さっきまでと違うのは、立ち止まったあとに耳を澄ますような間が生まれることだ。振り向くまでの時間が長い。誰かが段差につまずいて膝を割る。血が出る。痛みに顔は歪まない。皮膚が寄り合い、傷がふさがる。それでも、立ち上がるまでの呼吸に人間の速度が混ざってきた。


薄い達成感が胸の底に広がりかけた、そのときだ。

端末が、これまでとは違う甲高い音を出した。冷気が背骨を上がる。四人とも反射で画面をのぞき込む。


白地に短い行が不愛想に一つだけ現れた。


再起動信号を検知


文字はそれだけ。数字も説明もない。

喉が乾く。今の静けさが、長くは続かないことだけは分かった。


「再起動...って散布塔のことだよね」


はるかの震える声に蓮が答える。


「この状況、最悪を想定するならそうなるな」


「どうすればいいの?」


タイミングよく端末が再び鳴る。送り主が誰かはわからないが、手を差し伸べてくれているみたいに思えた。


再起動信号の発信位置特定

中央研究施設に向かえ


「……行くしかなさそうだな」ユウタが息を整え、私の画面と自分の画面を重ねて確かめる。

はるかは短くうなずき、ポーチのファスナーを上まで閉めた。

蓮は倉庫群の並びを眺め、視線だけで進行方向を決める。無駄な言葉が要らない時というのが、たしかにある。


私は端末の地図に追加された細い矢印を見た。湾岸から内陸へ伸び、街の中央にある長方形を指している。そこに小さく「中央研究施設」の文字。

胸の奥に、冷たいものと熱いものが同時に落ちた。散布塔を止めればゾンビ化も終わる。ここまでの道のりはその線でつながっていた。けれど、線の先にもう一段がある。誰かがそう告げている。


海風に背中を押されて歩き出す。倉庫の角を曲がると、港から離れるほど匂いが薄くなるのが分かる。濃度のグラフはつかの間の安息を示す黄と緑の境目に近づき、息を吸うたび舌の上の苦さが引いていく。


道中、ゾンビの名残は途切れない。

古いアパートの前で、ベランダに挟まった布団が風にばたつき、その音に引かれてゾンビが首を起こす。目は乾いているが、さっきより焦点が合いやすくなっている。廃車の下から猫が飛び出し、金網が鳴る。念のためにと音に向かって二歩、そして立ち止まる。その間合いの中で、私たちは塀沿いに身を滑らせ、靴音を地面に溶かす。ユウタは手にしたナットを握ったまま、投げない。はるかは私の手元をちらりと見て、包帯の巻きが緩んでいないか確かめる。蓮は「次の角は右」と唇だけで形を作る。


交差点の信号はすべて点いていない。代わりに風見鶏みたいに看板が鳴り、遠くでカラスが短く鳴く。戻りかけの人たちがベンチや階段に腰を下ろし、「ここ最近が思い出せない」をそれぞれの言葉で繰り返していた。質問と、戸惑いと、水を求める声。理不尽を嘆く、静かで、切ない音の並び。


「中央研究施設って、何を研究してた場所なんだろ」ユウタがぽつりと言う。


「分からない。けど、ここまでの指示が現実と合ってたのは事実だから行ったら何かわかるのかも」


私は答える。

言葉にすると、自分で自分を説得しているのが分かる。


はるかが頷いた。


「わかんないけどもしかしたらどこかで端末に指示を送ってくれている人にも出会えるかもね」


蓮は道の先を見たまま言う。「あの施設の手前は開けているはずだ。まずは行ってみよう」


街の中心に近づくほど、建物の高さが増し、風が巻く。端末の矢印は静かに点滅を続けている。胸のポケットから伝わるその微かな震えが、鼓動と重なって落ち着かない。この端末は誰のものか、誰が指示を出しているのか、問いは喉の奥で膨らんでは潰れた。けれどいまは、前だけを見る。


中央研究施設は、思っていたよりも低い建物だった。四角い箱が幾つか連なり、白い外壁は砂ぼこりで灰色にくすんでいる。正門の前は広場になっており、花壇の土は干からび、ベンチには誰もいない。門柱のプレートには、かすれた金文字で施設名が残っていた。


私たちは広場の手前で一度だけ止まった。端末の画面に、地図と矢印以外の情報は出ていない。濃度はさらに下がり、空気の重さが薄くなっている。それでも安心とは違う。広場は吹きさらしで、隠れる場所がない。音がよく響く。


風に押されて転がる空き缶が、石畳でからんと鳴った。私は喉を締め直し、広場の縁に沿って進む。

正門の横に小さな通用口があるが、鍵は掛かっていなかった。


ウイルス散布塔の再起動を仕掛けている施設が、不用心が過ぎる。まるで私たちを誘っているみたいだ。


それでも金属の扉を押すと、蝶番が小さく鳴く。音の先を見張るように、四人で一拍、息を止めた。


中はひんやりして、埃の匂いと紙の匂いが混ざっている。廊下の照明は消えていたが、天窓からの光が床の汚れを薄く照らす。壁に非常口の緑がかすかに残っている。端末はもうエラー音を鳴らさず、矢印だけを示していた。

私はその矢印に従って、足を踏み出した。ここから先は一歩ずつ、確かめながら進むしかない。


胸の奥で、細い火が消えないように息を整えた。

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