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【6話】千丈の堤も蟻穴より崩る

川沿いの道は、音がよく響いた。欄干に当たる風のうなり、橋脚の鈍い唸り、足元で砂利がつぶれる音。歩くたび、端末が胸ポケットで小さく震える。濃度は赤の端で揺れて、風下に入ると数値がほんの少しだけ跳ねた。右か左か、橋の下を抜けるか上に上がるか——小さな選択を何度も繰り返す。蓮が欄干越しに川面を見、はるかが喉の乾きをごまかすみたいに薄い水をひと口だけ飲む。ユウタは壊れた自販機をこじ開け、使えそうな電池を引きはがし水をくすねた。


途中の作業車に、赤い泡消火器が数本残っていた。はるかが「もっていこっか」と短く言って、皆で一本ずつ肩に掛ける。ノズルは金属臭い。彼女がレバーの使い方を示す手は少し震えていたが、声は落ち着いていた。「また変なロボットがいるかもしれないからね」


二つ目の塔は、そうして数日歩いた橋のたもとの倉庫の裏だった。相変わらずの黒いロボットが柵の内側をゆっくりなぞっている。私たちは低く身をかがめ、また陽動を買って出たユウタが反対側でボルトを路面に投げる。乾いたカンという音に顔が向いた瞬間、はるかが泡を吹いた。白い渦が黒い面に張りつき、光が散って、箱の動きが鈍る。私はフェンスの継ぎ目から潜り込み、透明カバーを拾ったスパナの尻で叩き割った。ひびがじわりと走り、指先に細かい破片が刺さる。赤いボタンを両手で押し込む。小さな音。塔の足もとから伝わっていた振えが消えた。端末の濃度が、ゆっくりと落ち始める。遅れて、川風の匂いが薄くなる。通りを漂っていた人影が、立ち止まって靴を見つめる。目が合う。焦点が戻っている。


三つ目は学校のそばだった。校庭の白線が風に粉を上げ、掲示板のポスターがはがれて揺れていた。フェンス越しに黒いロボットを見ると、私たちは同じやり方を何も言わずに分担した。ユウタが陽動し、はるかが泡を打ち、蓮と私がボタンを探して割る。押すと止まり、濃度が落ち、しばらくして人の歩き方が戻る。戻った人たちは眉間にしわを寄せ、「ここ最近の記憶がない」と口をそろえる。はるかが触れて確かめ、蓮が避難所の方向を示す。誰も大声を出さない。だけど、空気に「大丈夫?」という声が戻り、短い言葉のやり取りが街に散った。


あまりにも同じやり方。あまりにも単調な作業。正直、もっと激しい戦いになるのではないかと覚悟していたので拍子抜けだった。陽動し視界を奪っているとはいえロボットは攻撃をしてくるわけではなかったし、それにウイルスを撒く装置にしては防御が手薄すぎる気もした。


とは言いながらも歩くあいだじゅう、ゾンビの気配は消えなかった。路上の鏡にぶつかって額を切った男が、痛みに顔を歪めないまま立ち上がり、血の線を押し戻すように皮膚が閉じる。肩をだらりと垂らした女は、関節の外れた腕を壁にぶつけてぱきと戻し、何事もなく歩き出した。どの顔も、こちらを通りすぎてから数秒遅れて振り返る。むしろゾンビの方が私たちに対して攻撃的なくらいだった。音に引かれてはやめに足を止め、匂いに揺らいではまた止まる。その間を縫うように、私たちは曲がり、伏せ、走った。


四つ目の塔は、湾岸の倉庫群のはずれに立っていた。潮の匂いに鉄と油が混ざる。端末の濃度は今までで一番高く、息を吸うたび喉の奥に錆の味が残るようだ。黒い箱は一つ。けれど、柵の外にゾンビが多い。海風の流れに沿って、ゆるく列を作り、同じ方向へ顔を向けている。


蓮が視線だけで道筋を引いた。ユウタが頷き、ボルトを握り直し靴紐を結びなおす。はるかは消火器のピンを抜き、私の袖口を軽く叩いた。呼吸が揃う。


ユウタのボルトが、道路の中央で跳ねた。キンという硬い音が風に乗って広がる。黒いロボットの顔がふっとそちらへ向く。柵の外の何人かも、音の方へ一歩だけ踏み出す。その一瞬に、はるかがノズルを上げた。白い泡の帯が射出され、黒い面を塗りつぶす。泡は蛇のようにロボットの顔に絡みつき、光を弾く。箱の動きが鈍り、首が探るように左右へ揺れる。私はフェンスの隙間に体を滑らせ、塔の基部へ低く走った。


指先に汗がにじみ、工具の柄が重い。透明カバーは思ったより硬い。スパナの尻で一度、二度。蓮が来た。二人でもう一度、二度。ひびが走り、三度目でびしと割れた。破片が手の甲に刺さる。痛みはある。赤いボタンに両手を置き、体重をかける。指の間の泡が弾ける音が耳に立つ。カチ。小さいのに、足元の世界が変わる音だった。


足裏の振えが止まり、空気の重さがひと息ぶんだけ軽くなる。黒いロボットの首がだらりと落ち、泡に半分埋もれて動かなくなった。柵の外のゾンビが、まるで合図を聞いたみたいに半歩遅れて立ち止まる。誰かがこちらへ傾き、足をひねって転ぶ。膝の皮が割れて、すぐに閉じる。立ち上がるまでの時間が、さっきよりほんの少しだけ長い。


「戻って」——祈るようなはるかの声が喉で折れた。ユウタが私の肩を引く。フェンスをくぐり、建物の影まで下がる。端末の濃度が、じわりと色を薄めていく。橙、黄。海風の匂いが、さっきよりただの潮に近い。私は割れたカバーの欠片で傷ついた手を見て、固く握った。震えが遅れて来る。


「止まった、見たいだな」蓮が短く言う。

ユウタは額の汗をぬぐい、はるかが持っていた消火器を片腕で受け取る。

はるかは息を整え、私の手に小さな絆創膏を貼った。その指先は冷たく、確かだった。


柵の向こうでは、まだゾンビが揺れている。けれど歩幅は小さく、動きは鈍い。端末のグラフは確実に落ち続けている。散布塔を止めれば濃度が落ち、濃度が落ちればゾンビが人に戻る

——ここまでのすべてが、その線に沿っていた。


海面が光り、倉庫の壁が微かにきしむ。泡の白が風に削られ、黒いロボットの輪郭が少しずつ現れてくる。私は端末を胸に押し当て、深く息をした。わからないことが多いし、まだ終わっていないのかもしれない。けれど、少なくとも指令の四つの散布塔は止まったんだ。


この静けさが長く持つように、と祈るみたいに目を閉じた。

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