【5話】魚氷に上る
泡はやがてぺしゃんと潰れ、地面に薄い膜だけが残った。塔の唸りが消えたままなのを確かめてから、私たちは通りへ出て、街のほうへ歩いた。アーケードのシャッター、色あせたのぼり、風に揺れるビニール。端末の濃度は赤から橙、橙から黄を行ったり来たりしながら、しかし確実に落ちていく。
角を曲がるたび、さっきまで徘徊していた影が見える。ゆっくり歩いていた“それら”の歩みが急に鈍り、足元で立ち止まり、しばらくぼんやりと立ち尽くす。首が左右に揺れるのをやめ、目の焦点が戻っていく。額に手を当て、息を吐く人。座り込み、靴を見つめる人。「……ここ、どこだ」とかすれた声が混じる。
歓声は上がらない。たしかに混乱だ。だが、私は胸の奥で拳を握っていた。端末のグラフが下がり、人が人に戻る。線と現実がぴたりと噛み合うのを見たからだ。
「見て」私は端末を三人の前に突き出す。
「濃度が落ちるとゾンビが人間に戻る、か」ユウタが短く言う。
蓮は目だけでうなずいた。「ウイルスみたいなものか?止まれば人間に戻るような。」
はるかは周囲へ視線を巡らせ、息を整えながら言う。「じゃあ――全部止めれば日常が戻ってくる」
その言葉が、私の中で音を立てた。
近くの停留所のベンチに、さっきまで徘徊していた中年の男性が腰を下ろし、こめかみを押さえている。はるかが近づき、ボトルを手渡す。「飲めますか」
男性は一口飲んで、喉仏を上下させた。「……助かる。すみません、ここ最近のことが抜けてて。急にここにいて……」
「ほかの人もそうみたいです」私は穏やかに言う。「体、大丈夫ですか」
「寒気と、頭が重いくらい。……あなた方は?」
ユウタが視線だけで私たちを見回す。
「俺たちも、少し前からの記憶が曖昧だ。でも、いまは動けてる」
別の場所では、若い女性がポケットをまさぐりながら、携帯の画面を何度も点けては消している。「ロックの番号が思い出せない……電波もつながらない……」と繰り返す。蓮が人だかりにならないよう距離を取りつつ、避難所の方向を示す地図を指さした。「あそこに明かりがある。人が集まり出しているから避難を。」
私は通りの端から端まで、目で確かめる。さっきまで“何か”だった人たちが、人間の歩き方に戻っている。誰も泣きながら飛びついたりはしない。皆自分がゾンビだったことを覚えていないのだ。ただ、喉が渇いた、寒い、ここはどこ――いくつかの凡庸な言葉が空気に戻っている。
それがこんなにも尊いものだと、この町で私たち4人だけが噛みしめている。
ユウタが小声で言う。「なあ、仮説なんだけど。俺たちも一回は向こう側にいた可能性、あるよな」
喉の奥がひやりとしたが、私はうなずく。「何かの影響で戻った。理由はまだ分からないけど」
はるかは自分の左腕の内側を見て、すぐ袖を戻した。「脈は整ってる。熱も高くない。……けど状況からして何かが起こっていることだけは確実そう」
「原因探しは後回しだ」蓮が言う。「散布塔を止めれば回復する――今はそれだけ考えよう」
濃度はさらに落ちて、端末のバーは緑に近いところまで来ていた。さっきまで目を合わせようともしなかった人たちが、互いに「大丈夫?」と声を掛け合いはじめる。誰かが「避難所」「電気」「水道」と単語を並べ、別の誰かが「わからない」と返す。街の音が、少しずつ戻ってくる。
「行こうか」私は言った。今度の声は落ち着いている。
アーケードの上、切れた旗がぱたぱた鳴った。端末の地図で、次の赤点がわずかに強く光る。私はその方向を見て、頷いた。怖さは消えない。ただ、向かうべき線が一本ある。足が自然と前へ出た。