【3話】掉尾の勇を奮う
見えた瞬間、喉が鳴った。
「あれだ……」
ビルの切れ目から空へ突き立つ灰色の柱。雲に刺さる針みたいに細くて長い。足もとは金網の柵で囲まれ、内側の地面だけ空気の色が違って見える。鼻の奥がしびれる匂い。耳のどこかに、低い唸りのようなものが引っかかっている。
「散布塔、だよな」ユウタが息をのみ、私を見る。
私はうなずくほかなくて、手の中の端末を持ち上げた。地図の赤点は、目の前の塔とぴったり重なる位置で明滅している。
柵の内側に、黒い“見張り”がいた。三本足で立つ台の上に、箱が載っている。箱の前面に丸いものがいくつか並び、時々、鳥の目みたいに光を拾う。箱の横には細い筒。動きは遅いのに、なぜか速く感じる。
「ロボット……だよね?」はるかが声をしぼる。
「うん。近づいたら、たぶん良くない」蓮が短く言った。言い切りだけど、確信で押している感じではない。見れば分かる、という種類の言葉。
私たちは柵の外、建物の壁ぎわに身を寄せた。心臓の音が、塔の唸りに混ざって聞こえる。端末の濃度表示は、ここまで来る間で一番濃い赤を示していた。
「正面からは無理だ。何かで目を塞げないかな」ユウタが柵の切れ目を探しながら言う。
「目ってどれ」
「あの丸いところ……じゃないかな、多分」
はるかが周囲を見渡し、建物に貼られた避難経路の古い図を指でなぞった。「ここ、商業施設の裏だよね。施設のどこかに消火器、残ってるかな、泡のやつ。昔勤めてた病院で見たことある。」
蓮の顔に記憶が戻るような表情が浮かんだ。「ある。たぶんある。配管室が裏にあるはずだ。もし動けば、あの箱の“目”は見えにくくなるかも。それほど時間は稼げないだろうけど。」
「やってみる?」私は自分の声が少し震えているのを自覚する。
「やるしかない」蓮が言った。「見つかったらそん時はそん時だ。」
裏の商業施設の搬入口は半分開いていて、中は薄暗い。記憶の中のそれとは似つかわない油と埃の匂いが鼻を刺した。緑に光った非常灯の下に目当てのものはあった。
「これだ」蓮が持ち手に手をかける。
「ちょっと待って。でもこれ、もしかしてそれなりに近づかないとかけられない?」
はるかは実物を見て疑問を呈する。確かに手に入れた泡消火器は手持ちのものだ。射程はあって数mといったところだろう。ロボットの目をつぶすには、幾分心もとない。
「俺が陽動する」解決策を考える前にユウタが声を上げる。はっきりとした、けれど少し震えている声。
「危ないよ」
「分かってるよ。でも何も進まないよりマシだろ?」
そう言う彼の言葉は私たちを説得するというよりは自分に言い聞かせるようだった。
再度。
散布塔の前に戻り金網の隙間からロボットを覗く。遠くにユウタの姿も見える。
準備ができたユウタは金網をよじ登り、わざとらしく大きな音を立てて着地した。
黒い箱の顔がそちらへゆっくり向く。無骨な目が、しかし明確な敵意をもってユウタに向けられる。
彼もそれに気が付いたようで、脱兎のように走り出した。
ついにロボットが動き出す。視線はユウタにくぎ付けだ。
今だ。私と連、はるかも急いで金網を上り急いでロボットの近くに駆け寄る。
私の喉が勝手に空気を飲み込む。蓮がレバーをぐっと引いた。
ごう、という腹の底に来る音。ノズルから白い泡が吐き出され、あたりを包み込んだ。泡は生き物みたいにうねりながら黒い箱の“顔”にへばりつく。光が散って、足もとが白い丘になっていく。
「今だ」蓮の短い声。
私とはるかは泡に足を入れた。ぬるり、と靴が沈む。すぐに膝まで白い。目の前が霞んで、音が遠くなる。黒い箱の動きが、泡の向こうで鈍く揺れた。
ロボットの脇を潜り抜け塔に駆け寄るとはるかが小さく声を上げる。見ると塔の基部、腰の高さに小さな金属のカバーがあった。透明のカバー越しの中に赤いボタンが見える。泡の向こうで、黒い箱の“顔”がこちらへ向いた気がした。息が浅くなる。考えている余裕は、ない。
私はカバーをたたき割り赤を両手で押し込んだ。
カチッ。
小さな手応え。足元の振動がふっと消える。黒い箱の首がだらりと下がり、動きが止まった。外の白い世界が静まり、泡の音だけがぱちぱちと弾ける。
「止まった……?」
「止まってる」蓮が周りを見回して言う。声の中の張り詰めが、少しだけほどけた。
泡の勢いは次第に落ち、白い山がとろけるみたいに低くなっていく。黒い箱はうなだれて眠っているようだった。
端末が震える。画面の「濃度」の赤が、ゆっくりと色を薄めていく。橙、黄。私はそれを見ながら、足の力が抜けてしゃがみ込む。手が震えて、周りで泡がはじける音がやけに大きい。
「やったね」はるかが笑おうとして、うまく笑えない顔になった。
「一基目」ユウタが戻ってきて、息を整えながら親指を立てる。額の汗が白く光る。
「この調子で行こう」蓮が短く言う。その声に、自分でも驚くくらい、私は安心した。
塔の唸りは消え、町の音が少しだけ戻ってきた気がした。端末の赤点は、次の一点を少し強く光らせている。私は立ち上がり、深く息をして、うなずいた。