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【1話】寂として声なし

冷たい床に頬が貼りついていた。埃の匂いと、錆びた水の味。まぶたをこじ開けると、薄闇の天井にひび割れた蛍光灯が一本、死んだ魚の目みたいにこちらを見ている。


――ここはどこだ。

――私は……佐伯ナオ。


名前は出てきた。けれど、続きがない。頭の中で日付を巻き戻す。仕事帰りのスーパー、買い忘れの牛乳、家の鍵……そこから先が途切れている。カレンダーのめくり跡を指でなぞるみたいに、空白が一枚、二枚。転んだ? 事故? いや、何かがおかしい。


右手が重い。見知らぬ端末を握っていた。黒い板、角はやけに滑らかで、裏面に小さな目玉みたいな穴。押した覚えのない振動が、指先から肘へと波紋を広げる。画面が勝手に点き、赤い地図が現れる。見知らぬ町の輪郭、その上に四つの赤点。上部に簡素な文字列。


> 散布塔を停止せよ


命令文。誰から? なぜ私に? 散布塔とは? 

問いは喉に刺さったまま、私はふらつく足で扉を押した。


外に出た瞬間、音が消える。風が止んだわけじゃない。音が、どこか遠い布で包まれたみたいに鈍い。通りは瓦礫だらけで、信号は斜めに吊られ、車は片輪を歩道に乗り上げたまま止まっている。電柱に重ね貼りされた張り紙の残骸が、筋になって垂れていた。


人影が一つ、遠くをで動く。胸の底がほどける。誰か、生きて――


「すみません!」


呼びかけると、その人影はぴたりと止まり、ぎこちなくこちらへ首だけを回した。肌は灰色がかり、頬が痩けている。目は濁ったガラス玉のように乾いて、瞬きを忘れている。ゆっくりと、両腕を垂らしたまま歩いてくる。靴底がアスファルトをこすり、砂の音が近づく。


嫌な汗が背中に広がる。後ずさると、彼の足がガラス片を踏んだ。ぱきり、と細い音。踵が滑って転び、地面に側頭部を打った。私は思わず駆け寄りかけて、凍る。こめかみに突き刺さったガラス片が、血の膜に包まれながら、押し出されるようにすべり落ちた。割れた皮膚が水面のように寄り合い、傷口が縫い合わさるみたいに閉じていく。彼は何事もなかったかのように、首をがくりと起こし、ふらりと立った。


呼吸が浅くなる。喉の奥が勝手に鳴った。

――これは、人間じゃない。ゾンビだ。


言葉にした瞬間、頭のどこかが冷える。私は一歩、二歩と後退し、端末を胸に押し当てる。画面の端がちらちらと点滅し、数値のバーがじわじわ上がっていた。「濃度」とだけ書かれた表示。意味は分からない。ただ、赤い色が増えるたびに、足が勝手に速くなる。


通りの奥から、もう二つ、三つと足音が重なる。角を曲がって現れた影は、さっきと同じ乾いた目で、匂いのするものを探す犬みたいに首を振り続けている。私は反射で路地に飛び込んだ。足元で空き缶が転がり、鈍い音が壁に跳ねた。影が一斉に首を向ける。心臓が鼓膜の裏側で暴れる。


逃げろ。


体が勝手に動いた。狭い路地を抜け、膝を壁にぶつけ、指先で錆びた鉄扉の縁をつかんで体を回す。飛び込ん扉を背で抑え息をひそめるも、背後の足音が大きくなってくる。数秒。私は息を殺し、反対側の通りへ飛び出した。


電柱の影に身を滑らせ、振り返る。ひとりの影が路地から飛び出し、段差に足を取られて前につんのめる。膝が不自然な角度で曲がり、白い骨が皮膚を内側から押し破る。けれど、彼は痛みを感じていないようだ。骨はゆっくり引っ込み、皮膚が再び閉じる。砂を払うみたいに、彼は何もなかった顔で立ち上がった。


喉から漏れそうな恐怖を、歯で噛み砕いた。

――私は、ゾンビだらけの町の真ん中にいる。


端末が震えた。画面に四つの赤点がまた明滅する。「散布塔を停止せよ」。

それは命令というより、逃げ場のない地図のように見えた。私は壁にもたれて、額の汗を袖で拭った。なぜ私がここに? この端末は? いったい何が起きている?


遠くで、カラスが一声だけ鳴いた。あとは足音と、風に巻かれた紙の擦れる音。濃度のバーはまだ赤を飲み込んでいく。立ち止まっていたら、囲まれる。私は端末をポケットに押し込み、深く一度だけ息を吐いた。


行くしかない。理由は後でいい。

赤点のひとつへ、私は足を向けた。


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