閑話01 灰の将軍の婚礼前夜【ダリオン視点】
――エレナ・ベルグレイス。
その名前を耳にした瞬間、ダリオンの記憶の奥底から、一枚の絵が鮮やかに蘇った。
数年前の、とある貴族の仮面舞踏会。
華やかな喧騒の中、彼はふと視線を感じ、振り向いた。
そこにいたのは、仮面越しに視線が絡んだ、たった一人の少女。
周囲の華やかな令嬢たちがきらびやかなドレスを纏い、笑顔を振りまく中で、彼女だけが、まるで月光を浴びたように静かで、それでいて抗えない魅力を放っていた。
特に、その瞳の色が。
(……あの、灰色の瞳の少女……)
彼女は、まるで氷と灰を混ぜたような、深く、忘れがたい瞳をしていた。
その瞳の奥に、言葉にはできないほどの深い孤独と、どこか諦めに似た感情を見た気がした。
あれから数年、どんな激しい戦場に身を置こうとも、彼女の面影が消えることはなかった。
あの時、なぜもっと話しかけなかったのか、なぜ彼女の名を直接聞かなかったのか、後悔にも似た念が常に胸の奥に燻っていたのである。
翌日、その少女の素性を探らせたが、掴んだ情報はただ一つ。アスフォデル公爵家の令嬢で、名はセレナ。
しかし、その後、信じがたい報せが届いた。
「その令嬢は、急病で亡くなっている」
報告書にはそう記されており、ダリオンは、あの忘れがたい瞳の少女が、もうこの世にはいないのだと、無理やり自分を納得させていた。
だか、今、目の前に差し出された書類に記された『エレナ・ベルグレイス』という名を見た時、ダリオンの心臓は、久しく感じたことのない、奇妙な衝動に駆られたのだ。
アスフォデル公爵家と、隣国の貴族、そして、『身代わり』という言葉。
これらは、偶然では片付けられない、あまりにも奇妙な符合だった。
(まさか、生きている、というのか? あのセレナが? だが、あの報告は……いや、あの家ならば、あり得ない話ではない……もし、本当に……)
彼は半信半疑だった――死んだと聞かされた人間が、再び現れるなど、軍人としての合理的な思考ではありえないことだ。
しかし、この数年、どんなに激しい戦場に身を置こうとも、忘れようとしても忘れられなかったあの瞳の残像が、彼を突き動かした。
この婚姻を受け入れれば、彼女に会えるかもしれない。
もしかしたら、あの時見失った、灰色の瞳の少女が、そこにいるかもしれない。
その可能性が、彼の心を支配し始めていた。
婚姻が決定してから、ダリオンは密かに準備を進めた。
形式的な結婚であるならば、相手は放置されても文句は言わないだろう。
だが、もし、あの少女が来たのだとしたら――彼女は、あの忌まわしいアスフォデル公爵家で、いかなる扱いを受けていたか知れたものではない。
彼はまず、侍女頭を呼び出し、静かに命じた。
「城の奥まった場所に、一人用の寝室を用意させろ。人目につかず、しかし快適に過ごせるようにな」
「は、かしこまりました。将軍様のご新妻にふさわしい部屋を……」
「いや。飾り立てる必要はない。ただ、彼女が安心して休める空間を。冷え込む夜に備え、暖炉は常に火がくべられているよう徹底しろ。そして、湯はいつでも使えるよう、侍女たちに指示しておけ。些細なことでも、彼女が困ることがないように、配慮を怠るな」
武骨な将軍の城に似つかわしくない、細やかな配慮を指示するダリオンに、侍女頭はわずかに目を丸くしたが、すぐに深々と頭を下げた。
何よりも、彼女が快適に過ごせるよう、侍女の選定には細心の注意を払った。
「侍女は、口が堅く、余計な詮索をしない者を選べ。そして、何より心の優しい者を……決して、彼女に不快な思いをさせるな」
ダリオンの命令は絶対だ。使用人たちは、無表情に、しかし完璧に彼の指示に従った。
(形式的な結婚であれば、彼女にとって最低限の環境を整えれば良い。だが……もし、あの時の彼女であるならば、二度と、不幸な目に遭わせるわけにはいかない。あの日、あの舞踏会で彼女が何を抱えていたのか、私にはわからなかったが、今度こそその全てから守り抜いてみせる)
そして、婚姻の儀の前日、ダリオンは密かに、侍女頭に再度命じていた。
「部屋には、百合を飾れ。白い百合だ。飾りすぎず、しかし、清らかな香りが漂うように。数だけは、多くなくていい。ただ、そこに、静かに咲いていれば良い」
白い百合は、あの少女が纏っていた、清廉な雰囲気を思い起こさせた。
それは、彼女の無垢さと、傷つきやすさを象徴しているかのようだった。
そして婚礼当日。ヴェールに隠された花嫁の姿は、まさにあの日の舞踏会と同じだった。
顔を上げない彼女に、内心で胸の高鳴りを覚える。
彼女の正体を知るまでは、決して感情を露わにするわけにはいかない。
この結婚は、形だけでも、彼女をこの城に繋ぎ止めるための、唯一の手段なのだから。
(彼女が……もし、あの時の本物であるなら……二度と、手放さない。今度こそ、私が、彼女を守る)
ダリオンの碧眼の奥で炎が確かな熱をもって燃え上がっていた。
それは、将軍としての冷徹な義務感とは異なる、彼自身の深い感情から来るものだった。
読んでいただきまして、本当にありがとうございます。
「面白い!」「続き読みたい!」など思った方は、ぜひブックマーク、下の評価を5つ星よろしくお願いします!
していただいたら作者のモチベーションも上がりますので、更新が早くなるかもしれません!
ぜひよろしくお願いします!