第05話 灰の将軍と、偽りの花嫁
馬車に揺られること数日。故郷の国境を越える直前の夜、セレナはリリアの用意してくれた染料で、慣れ親しんだ銀髪を深い栗色に染め上げた。
湯に浸した布で丁寧に磨かれた灰紫の瞳には、ほんのりと色を鈍らせる薬が施され、夜闇に溶け込むような、あるいは控えめな淑女にふさわしい穏やかな鳶色へと変化していた。
鏡に映る自分の顔は、以前の『氷の姫』セレナとは全くの別人だった。
見慣れない自分の顔に、言い知れない不安と、そして微かな高揚感が胸に渦巻く。
これが、自分自身を捨て、新たな人生を掴むための、最初の一歩。過去との決別であり、未来への飛躍だった。
国境の検問所は、予想以上に厳重だった。
夜だというのに、篝火が煌々と燃え、屈強な兵士が数名、フェルマンの馬車を取り囲む。
彼らの持つ槍の穂先が、暗闇の中で鈍く光り、セレナの心臓を締め付ける。
セレナは呼吸を整え、リリアに手渡された新しい身分証を、汗ばむ手でしっかりと握りしめた。
「身分は、『エレナ・ベルグレイス』……行商人の娘で、遠縁の親戚の世話になるため、隣国へ向かうと伝えてください。落ち着いて、お嬢様」
リリアの小声での指示に、セレナは深く頷く。
緊張で喉がひりつく。もしここで身元が割れれば、待つのは死だ。偽りの名が、自分の命を繋ぐ唯一の希望だった。
「身分証を」
兵士の無愛想で機械的な声が響き、セレナはゆっくりと身分証を差し出した。
彼の視線が身分証からセレナの顔へと移り、僅かに留まる。
その間、セレナは呼吸すら忘れたかのように固まっていた。
兵士はそれを一瞥し、何も言わず返却する。
そして、無言で次の馬車を促した。
全身から力が抜け落ちるような安堵がセレナを包んでいく。
フェルマンとリリアが素早く残りの手続きを終え、馬車は国境の門を軋んだ音を立ててくぐり抜けた。
新しい空気が肺を満たしてくる――それは、故郷の澱んだ空気とは全く違う、清浄な自由の匂いだった。
もはや、後ろを振り返ることはない。
その日の午後、隣国の王都にある王宮の一室で、将軍ダリオン・グレイアッシュは苛立たしげに眉根を寄せ、窓辺の壁にもたれていた。
彼の鋭い碧眼は、王座に座る叔父であるユーリウス王に向けられている。
軍服の襟元をわずかに緩め、ダリオンは普段の冷徹な仮面の下に、隠しきれない不満を滲ませていた。
「叔父上、重ねて申し上げますが、この政略結婚には納得がいきかねます。私の人生は、剣と軍略、そしてこの国の防衛に捧げられてきました。妻など、戦場の妨げにしかなりません。軍務に支障が出るどころか、無用な足枷にしかならない。貴族の女どもの社交や、無駄な駆け引きに時間を費やすなど、私には耐え難いことです……見ず知らずの娘を妻に迎えるなど、理解に苦しみます」
ダリオンの言葉は、氷のように冷たく、一切の感情を排していた。
彼の瞳は、ただひたすらに任務を見据える戦士のそれだった。
ユーリウス王は静かに首を振った。
老獪なその瞳には、甥への深い理解と、揺るがぬ王としての決意が宿っている。彼はダリオンの性格を熟知していた。
「王としての務めは、目先の戦に勝つことだけではない。国全体を見渡し、未来の礎を築くことだ。君の武功は確かに偉大だ。私もそれは認めている。しかし、これはそれとは別の、より広範な戦略なのだ。南方の均衡は今、極めて不安定な状態にある。あの地域の有力貴族との絆を深めるための、避けられぬ道なのだ」
「しかし……」
「ダリオン、この婚姻がなければ、彼らの不満は増大し、いずれ内乱の火種となりかねん。君の守るべきものは、戦場の最前線だけではないのだぞ。それに、相手方の令嬢は病で、急遽身代わりが来たに過ぎない。顔を合わせることも稀であろう……君が頭を悩ませるような相手ではあるまい。形だけの婚姻だ、と割り切ればいい。君も王弟の血を引く者。その責務を忘れてはならぬぞ」
その『身代わり』の言葉に、ダリオンの碧眼がかすかに揺れた。
一瞬だけ、何かが閃いたように見えたが、その感情はすぐに冷徹な仮面の下に隠される。
彼は戦争で数々の武勲を立て、『灰狼』の異名を持つ戦場の英雄――感情を表に出すことは、彼の軍人としての信条に反することだった。私情を挟むことなど、決して許されないからだ。
そして、ダリオンに考える暇などを与えないかのように、数日後――簡素ながらも厳かな婚姻の儀が執り行われた。
本来ならば大々的に行われるべき儀式だが、公爵家の令嬢という身分でありながら、相手は病で代役。
儀式は最小限に抑えられ、証人であるユーリウス王と少数の側近、そしてわずかな貴族が見守る中、書類上の婚姻手続きが進められた。
広間は静まり返り、司祭の声だけが響き渡る。その雰囲気は、まるで誰かの葬儀のようにも感じられた。
セレナは、純白の花嫁衣裳に身を包み、顔を覆う厚いヴェールの下で、決して顔を上げなかった。
隣に立つダリオンの気配が、凍てつくような冷気を放っているように感じられる。
彼は一度もセレナに視線を向けることはなかった。ただ淡々と、婚姻の誓いの言葉を述べる。
「ダリオン・グレイアッシュ、汝はここに、エレナ・ベルグレイスを妻とし、健やかなる時も、病める時も、富める時も、貧しき時も、その生涯を共にするか?」
司祭の厳かな言葉に、ダリオンは短い返事をした。
「誓う」
その声は、まるで岩のように揺るぎなく、迷いのない響きを持っていた。
それが、職務に対する忠実さから来るものだと、セレナは理解した。
次いで、司祭の声がセレナに向けられる。
「エレナ・ベルグレイス、汝はここに、ダリオン・グレイアッシュを夫とし、健やかなる時も、病める時も、富める時も、貧しき時も、その生涯を共にするか?」
セレナは、震える声で答えた。
「誓います」
その声は、小さく、か細かったが、確かに儀式の間に響く。
偽りの名で、偽りの誓いを立てる――しかし、この誓いが、彼女の命を繋ぎ、自由を与えてくれるのだ。
一切顔を上げず、ただ誓いの言葉を述べたセレナに、ダリオンはふと目を向けた。
冷徹な彼の瞳が、ヴェールの奥の彼女の姿を一瞬だけ捉える。
その視線に、何の感情も宿っているようには見えず、ただ、一瞬の好奇心、あるいは確認作業のような。
婚姻の手続きが滞りなく終わり、二人は同じ馬車に乗り込んだ。
将軍の移動に用いられる、広々とした堅牢な馬車だ。
内装は質素だが、豪華な装飾が施されたアスフォデル家の馬車よりも、かえって落ち着く空間だった。
窓の外には、見慣れない王都の街並みが広がっている。
石造りの重厚な建物、活気あふれる市場、行き交う人々。
セレナは緊張で、心臓が大きく脈打つのを感じていた。
ダリオンは、馬車の片隅に深く身を沈め、窓の外をぼんやりと眺めている。
その横顔は、彫刻のように美しく、しかし感情を読み取ることはできない。
まるで、生きた人間ではなく、精巧な石像のように思え――すると彼は一度だけ、静かに口を開いた。
「見ず知らずの女だが……思ったより、静かだな。騒がしい女よりは、まだ良い」
それは、セレナに向けられた言葉というより、彼自身の独り言のようだった。
しかし、その短い言葉が、セレナの胸に不思議な響きをもたらした。
冷徹な将軍の、わずかな『評価』――それは、以前の家で受けた冷遇や、兄からの嫉妬に満ちた言葉とは全く違う、初めての言葉だった。
評価されること自体、アスフォデル家では危険な事だったが、彼の言葉には害意が感じられない。
緊張しながらも、セレナはなぜか彼の横顔から目が離せなかった。
灰銀の髪が窓からの光を浴びて、わずかに輝いている。
そして、その鋭い碧眼の奥に、何か深いものを隠しているようにも見えた。
この冷たい将軍が、自分の新しい夫――偽りの結婚から、何が始まるのか。
セレナの瞳は、新たな世界への期待と不安を複雑に映し出していた。
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