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第04話 生者に戻る夜


 どれほどの時間が、この凍えるような闇の中で流れたのだろう――無限にも思える閉塞感の中、セレナは、薬がもたらす深い眠りから、ゆっくりと、まるで水面に浮上するかのように意識を取り戻した。

 全身を巡る血の気は依然として薄く、肌は冷たい。

 体は鉛のように重く、わずかに指先を動かすことすら億劫だった。

 微かに聞こえる、浅い呼吸音だけが、自分がまだ生きていることを教えてくれる唯一の証だ。

 棺の中の冷たい空気と、鼻腔に残る土と朽ちた木の匂いが、死と生の狭間にいるという現実を突きつけた。

 全身を蝕む倦怠感が、思考の端をぼやけさせる。しかし、心だけは、あの冷酷な会話を鮮明に覚えていた。

 深い静寂を破り、頭上で微かな物音がした。

 ごつごつとした石が擦れるような、重い扉がゆっくりと、軋んだ音を立てて開かれるような音。

 そして、闇の中に慣れた目に、微かな光が、閉ざされた瞼の裏に差し込み――それは彼女にとって希望の光だった。


「セレナ様……!」


 その声は、震えていた。喜びと安堵、そして一抹の恐怖が混じり合った、どこまでも優しく、セレナがこの世界で唯一信じられる、リリアの声だ。

 セレナは、全身の力を振り絞るように、ゆっくりと目を開ける。

 目の前には、煤けたランタンの揺れる光に照らされたリリアの顔があった。

 彼女の瞳は涙で潤み、頬には筋ができおり、その表情には今まさに奇跡を目にしたかのような、純粋な安堵と、無事であることへの深い感謝が入り混じった複雑な感情が揺れている。

 棺の蓋が、軋んだ音を立てて完全に開かれた。湿気を帯びた冷たい空気が流れ込み、セレナは思わず咳き込んだ。長らく動かしていなかった肺が、急な刺激に驚いたのだ。リリアはすぐに手を差し伸べ、震える腕でセレナを抱き起こした。その腕は細いが、信じられないほどの力強さを感じさせた。


「お嬢様! 無事でしたか! 本当に……本当に良かったです! どんなに心配したか……っ」


 リリアの腕の中で、セレナはか細く息を吸い込む。

 全身を巡る倦怠感と、久しぶりに感じる温かい体温に、じんわりと涙が滲む。

 それは、偽りの死を演じ、暗闇に一人耐えた間に流せなかった、本物の涙だった。


「リリア……よく来てくれたわ……約束を……守ってくれたのね……」


 セレナの喉から絞り出すような掠れた声を聞き、リリアはさらに強くセレナを抱きしめた。

 その温もりが、セレナの凍てついた心と体をゆっくりと溶かしていく。

 それは、ただ物理的な温かさだけでなく、唯一自分を案じてくれる存在の、精神的な温かさだった。


「ええ、必ず、と……お約束いたしましたもの。お辛かったでしょう?このような場所で、たったおひとりで……私、ずっと祈っておりました……」


 リリアの背後には、見慣れない男の影があった。

 ずんぐりとした体躯に、無精髭を生やした男は、煤けた作業着に身を包み、周囲を警戒するようにあたりを見回している。

 彼の顔には複数の傷跡があり、闇に慣れた鋭い目つきをしていた。

 見るからに表の人間ではないと言う風貌に、セレナはわずかな緊張を覚えた。


「リリア、この人、は?」


 セレナが弱々しく尋ねると、リリアは男をちらりと見て、小声で答えた。


「彼はフェルマン様です。私が長年お世話になっている、信頼できる密輸商の方です。陸路の国境越えから、馬車の調達、そして安全な隠れ家まで、私がお嬢様を国外へお連れできるよう、全ての手はずを整えてくださるお方です」


 フェルマンは無言で頷き、ランタンを高く掲げ、納骨堂の入り口を指差した。

 彼の表情は変わらないが、その目には明確な焦りが宿っているようだった。


「あまり時間はない……公爵家の連中が異変に気づけば、すぐに追っ手がかかる。日の出までには、ここを出るぞ。お嬢さん、歩けるか?」


 セレナは、まだ体の自由が利かないながらも、リリアの肩を借りてゆっくりと立ち上がる。

 足元がふらつき、冷たい石の床が揺れる。

 しかし、その足は確かに前に進んでいた。

 冷たい棺の底から這い上がる瞬間、彼女は一度だけ、自分の『墓』を振り返った。

 そこには、もう何も残っていない。

 家族への情も、この家への執着も、全てが冷たい土の下に葬られた――もう、過去は存在しない。


 地下納骨堂を出ると、夜の澄んだ空気が頬を撫でた。

 ひんやりとして、どこまでも清らかで、深く吸い込むと肺の奥まで染み渡るようだった。

 それは、まさに自由の匂いだ。

 フェルマンが用意した、簡素だが頑丈そうな馬車に乗り込み、リリアはセレナの手をしっかりと握り、ゆっくりと話し始めた。


「お嬢様、幸いなことに、良い知らせがございます。隣国であるグレイアッシュ公爵領の王族の縁談で、急遽、空席が出たのです……先方のご息女が、直前になって体調を崩されたとかで……」


 セレナはそれを聞いて目を丸くする。

 それは、まさに天からの恵みとしか思えない、奇跡的な話だった。

 毒殺されかけた自分に、新たな生きる道が用意されている。


「身代わりとして、お嬢様がその座に紛れ込める可能性があるのです……もちろん、身分を偽り、名前も変えることになりますが……」


 リリアの言葉に、セレナの心に一つの決意が芽生えた。

 偽りの人生でも構わない――いや、むしろ偽りだからこそ良いのだ。この冷酷な家族から完全に逃れ、もう二度と『道具』として扱われない人生を手に入れたい。

 誰の支配も受けず、自分の意志で生きるために。


「偽りでもいいわ、リリア。偽りの身分、偽りの名前……全てを受け入れるから……私、生き延びたい。もう、あの家には二度と戻りたくない。生きるためなら、何でもするわ」


 セレナの強い眼差しに、リリアは涙ぐみながら、深く頷いた。

 その瞳には、主人の決意を心から受け入れた、固い光が宿っていた。


「では、準備を進めましょう。お嬢様の銀髪は、ここでは目立ちすぎます。私が預かっていた染料で、目立たない色に染めましょう。それから、瞳の色を隠す薬もございます。これを服用すれば、しばらくの間、灰紫の瞳も目立たなくできます」


 馬車が闇夜を走り出す。

 月明かりだけが、遠くの森のシルエットをぼんやりと浮かび上がらせていた。

 セレナは、リリアが取り出した薬と染料をじっと見つめる。

 それは、自分を『氷の姫』セレナ・アスフォデルという呪縛から解き放ち、全くの『別人』へと変えるための道具。


 そして、新しい人生への希望の象徴だった。


 馬車の揺れに合わせて、彼女の長く美しい銀髪が揺れる。

 もう、二度とこの髪を銀色にすることはあるまい。

 そう心に誓いながら、セレナは来るべき変化を静かに、だが確かな決意をもって受け入れた。

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