第02話 毒の味は、思ったより甘い
喉の奥を焼くような違和感と、急速に遠ざかる意識の中で、セレナはかろうじて最後の光景を捉えた。
部屋の調度品が歪み、視界が滲む中、使用人たちの慌ただしい足音と、侍女たちが何事かと悲鳴にも似た声を上げながら駆け寄ってくる気配が感じられた。
彼女の名前を叫ぶ声が耳朶を打つが、その声が途切れるよりも早く、部屋の扉が勢いよく開かれ、父ロドリック公爵が威圧的な態度で姿を現した。
彼の背後からは、心配げな表情を装いながらも、どこか期待に満ちた母の姿が窺えた。
「騒ぐな! 医者を呼ぶなと申したはずだ!」
ロドリックの声は、夜の静寂に突き刺さるように響き渡った。
その声には、娘が意識を失い倒れたことへの動揺は微塵もなく、ただ冷酷な命令と、邪魔者を排除しようとする明確な意志だけが宿っていた。
彼の冷徹な命令一つで、使用人たちの混乱は一瞬で静まり返り、彼らは恐怖に顔を歪めて立ち尽くすしかなかった。
「ロドリック様、お、お嬢様が……」
震える声で訴える侍女の一人に、ロドリックは冷たく言い放った。
その視線は、まるで石でも見るかのように感情がない。
「下がりなさい、これは病だ。突然の発作に見舞われた。手当ては間に合わなかったのだ……余計な憶測や無用な詮索を招く前に、口を噤め。決して、外部に漏らすな」
続けて入ってきた母イザベラ公爵夫人は、目元に薄く涙を浮かべたかと思えば、その口元には満足げな笑みの片鱗がうかがえた。
それは、社交の場で見せるものよりも、さらに歪んだ、本心が垣間見えるような感情の表れだった。
「ああ、なんてことでしょう、旦那様……セレナが、こんなにも早く……天国へ召されるなんて……」
イザベラはわざとらしく袖で目元を覆ったが、その声には悲しみよりも、長年の懸念が解消されたかのような安堵の色が濃く滲んでいた。
「仕方あるまい、イザベラ。これも天命だ……我々は最善を尽くしたのだから。だが、何より家名が傷つくことだけは避けねばならん。彼女の死は、病によるものとして処理する。それが、アスフォデル家のためだ」
ロドリックの言葉に、イザベラはこくりと深く頷いた。
その瞳には、一抹の迷いもなかった。
「ええ、もちろん。アルフォンスのためにも、この件は速やかに収拾しなければ。これでようやく、彼が安心して家を継げるわ」
(ああ、やはり……)
朦朧とする意識の中で、セレナは確信した。
この人たちは、本当に私を排除しようとしたのだ――公爵家のアスフォデルという名に泥を塗らず、都合の悪い存在である自分を、完璧な『病死』として葬り去るために。
ロドリックはただ家名しか見ていない。
彼にとって、娘は家を繁栄させるための駒でしかなく、その才能が兄アルフォンスを脅かすのであれば、躊躇なく切り捨てる存在なのだ。
その認識は、セレナにとって、すでに古くからの諦念となっていた。
しかし、セレナには、たった一つ、希望の光があった。
それは、唯一心を許せる侍女、リリアの存在だった。
数日前、リリアはいつもの睡眠導入剤とは別に、手のひらにすっぽり収まるほどの小さな小瓶を渡してきていたのだ。
「お嬢様……もしもの時のために」
決して誰にも見つからないよう、枕元に隠しておくようにと。
その時、リリアは悲しげに、だが固い決意の眼差しで言った。
彼女の瞳には、セレナへの深い忠誠と、秘めた悲しみが同時に宿っていた。
「旦那様と奥様は、あなた様の才覚を恐れていらっしゃいます。そして、アルフォンス様も……もしものことがあれば、この薬があなた様をお守りします。どうか、私を信じてくださいませ、お嬢様。必ずや、この事態を乗り越えましょう」
リリアは、セレナが倒れた後、他の使用人たちが混乱している隙を狙い、素早く彼女のそばに駆け寄った。
震える手で、だが淀みない動作で、誰も気づかぬうちに、ほんのわずかな粉末を、セレナが飲んだばかりの薬が残るグラスの縁に滑り込ませる。
それは、致死量を補うための毒ではなく、毒の作用を一時的に『仮死』の状態へと転じさせる、特殊な薬だった。
効き目は確かで、すでにセレナの意識は沈み始めていたが、薬が毒の作用を抑制し、致死的な効果を防いでいた。
リリアの指先が、セレナの冷たくなり始めた手をそっと握り、わずかに圧をかける。
それは、事前に打ち合わせていた、緊急事態における最終的な合図だった。
(……今)
セレナは、最後の力を振り絞るように、ゆっくりと瞼を閉じた。
身体は凍えるように冷たくなり、呼吸も心臓の鼓動も、ほとんど感じられなくなる。
まるで、意識だけが、遠く離れた場所から自分を見つめているかのようで――魂が肉体から離れていくような、奇妙で穏やかな感覚に包まれていく。
意識は深く沈んでいくが、どこか遠くで、リリアが安堵のため息をつくのが聞こえた気がした。
そして、セレナの『死』は、あっけなく迎えられた。
公爵家にとっては、むしろ歓迎すべき『死』だった。
公爵家は、セレナの急逝を『突然の病死』と公表し、早々に形式的な葬儀が執り行われた。
街の人々は「氷の姫が早すぎる死を迎えた」と嘆き、その死を悼んだが、その裏で、ロドリックとイザベラは、ようやく厄介払いができたとばかりに安堵の表情を浮かべていた。
彼らの顔には、長年の重荷が降りたような、隠しきれない解放感が滲んでいた。
夜の帳が降りた頃、セレナの』遺体”は、厳重に閉ざされた、重厚な木の棺に収められた。
冷たい大理石の床に、重々しい足音が響く中、それは公爵家の敷地内にある地下納骨堂へと運ばれていく。
ひんやりとした石造りの空間に、棺は静かに安置された。
セレナは一人、真っ暗な棺の中で、リリアの言葉を信じ、意識の深淵で、新たな目覚めと、いつか訪れるであろう自由を待つばかりだった。