ささやかなピリオド
木漏れ日が眩しく私を刺す。雲のかなただろうが、今日はやたらと明るい。
この森に入って三時間。入ったきっかけなんて単純だった。
めんどくさい。
たったそれだけ。私をとりまく色んな事、閉塞感、いざこざ、ニュース、嫌なこと。周りの人から聞こえてくる嫌な言葉、不安を煽る言葉、そういったものがどうしても、嫌になった。
だから、私一人、見知らぬ森まで来たのだ。私みたいな学生がこんなどこともしれない森に向かうっていうのは、誰が見たっておかしい光景だろう。
そう思って、近くまではバスで来た。そこから少し歩いたこの森に身一つ、ロクな装備もなく、入り込んだんだ。
手が痛い。草木をかき分けてきたその手が汚れて、腫れている。きっと変な草に触れてしまったのだろう。後悔はある。だけど、そんなことは正直どうでもよかった。
家の人には「友達と遊んでくる」と適当な理由を述べてきた。まだ夜を迎えていないから、捜索などはまだしていないだろう。
足が痛い。靴はいつものスニーカー。新品では無いにしろ、まだ新しい方だった。だけど整備もされていない、不安定な土の上を三時間歩いてきたのだ。慣れない運動で脚全体が悲鳴を上げていた。
この森の先にあるものなんて知らない。傾斜は感じないから山ではないだろう。谷でもない。ただ人気のない森。
がさり、とどこかの草が揺れた。脳裏にクマやシカといった動物のことが浮かぶ。クマに襲われるのは正直嫌だ。だけれど三時間の旅程は三時間以上ないと引き返せないだろう。引き返す気もない。
一体何が私のこの足を動かしているのだろう。気力とか、精神力とか、そんな高尚なものが巡っているとは思えなかった。強いていうのならば惰性だ。止まるのが嫌だから、歩き続けている。たとえ、その先に何があるのか分からなくても。分かろうともしていないのだろう。
一般的にみれば「遭難」という状態だ、絶対。夜を迎えれば捜索願いが出されて、色んな人が私を探そうと動き出すだろう。そうしたら、バスの運転手やすれ違った人達からルートを割り出されて探し出されてしまうかもしれない。そうならないかもしれない。
息が上がってきた。休まず歩き続けた身体がじんわり、汗を噴いている。春先の気温は過酷じゃない。ただ私の身体を冷ますには高すぎる。
観光に来たわけじゃない。ただ森の様々な様子が、私の感覚に入らなくなっている。目の前を無数の木々が覆っている、身体に疲労が溜まってきている、それ以外のことに目を向けられなくなっている。
少し開けた場所に出た。そこに、やたら大きく太い樹木が現われる。樹齢千年と言われても頷いてしまうような、立派な木が立つ。
なにか一つの目標を達したような気がして、その巨木の根元に座り込む。服が汚れようが、どうでもよかった。
見上げればやはり無数の葉っぱたちと、それから見える眩しい木漏れ日。
ほんの少し、気が楽になった。やっとあの葉たちをきちんと眺められた。少しだけ、綺麗だ、と思った。
火照った失踪欲は冷めてきた。ただ意味もなく、よく三時間も歩いたと、私は私を褒めた。
急に、寂しさが全身を突き刺した。激しい後悔が私を満たした。どうしてこんなことをしたんだろう。
大馬鹿者だ。
「ねえ」
不意に誰かに呼ばれた気がして振り向く。そこには、おかしな光景が見えた。
「……」
クラスメイトだ。何でこんな、人気も無いはずのところにコイツがいるんだろう。
「何をしてるの」
「……消えてしまいたくて」
嘘だ。その気持ちは、ほんの数分前に消えていた。述べたのは行動に対しての過去の動機であって、今の気持ちじゃなかった。
「そうなんだ」
明るい髪色の彼女はこっちに寄ってきて、隣に座った。
「あたしも」
見れば、彼女も私同様、あちこちが汚れていた。じんわり汗をかいていて、洒落ていた髪が顔に張り付いていた。
「……」
彼女とはあまり話したことはない。クラスが一緒で、つるむグループは別で、性格も合いそうにない。外目から見た感じ、これからも友達として絡むことは無いだろうと思っていた人物だった。
「はぁ」
一つ息をついたのは彼女の方だ。私は息が整いつつあったけれども、彼女は私のピーク以上に息が乱れていた。私より疲れていそうだ。
「……あなたは、どうして」
「え? はは……」
彼女は笑った。笑った後、しばらく言葉は途切れた。
「疲れちゃってさ」
彼女から出た理由は、具体的でなくとも、私にはものすごく伝わった。
「誰かあたしを殺してくれぇーって、言えるわけないしさ」
「……そう」
「だから、淘汰されに来た」
淘汰、ちょっと固い感触のするその単語は、彼女のイメージには全く合っていなかった。学校での彼女は、全く暗い所なんかなかったのだ。
「さっきさ、動物の気配がしたんだ。草むらが揺れて」
「……私も見たよ」
「いるかもね。ヤバい動物」
そうかもしれない。クマだったら、もうここで事切れるのは確定だろう。
「クマに襲われた死体って、どんな感じか知ってる?」
「知らない」
「顔の皮とか、べろんべろんになっちゃってるらしいよ」
「うわ」
思っていたより、彼女は気味の悪い話題を話す。こんな子じゃなかったと思うんだけど。
「あたしさ、死のうと思ってたんだ。独りで」
「……」
「あんたは?」
「……死ぬ、とかは考えてなかったかも」
「そっか」
すると彼女は少し考え込む様子を見せた。
「じゃあ、あたしはこのまま独りで死ぬよ。あんたは……帰れば?」
「……三時間、歩いてきたんだ」
彼女は少し目を見開いた。そして、笑った。
「無理じゃん」
「だと思う」
このまま帰ったところで、色んな人から怒られるのは目に見えている。親だけじゃない、きっと他の大人からもだ。
「あんた、この森のことどれだけ知ってる?」
「何も知らない。何も知らずに入った」
また彼女は笑った。
「……かわいい」
何を言ってるんだろ、と私の思考は止まった。この場面で出る言葉なのかな、可愛いって。
「あたしも」
今度笑ったのは私だった。笑ってしまっていたのだ。
「有名な自殺スポットだったらもしかして、見回っている人がいるかなって思ってさ。あえてそこを選ばなかったんだ」
じゃあ、ここはあまり有名じゃないスポットだったんだ。
「……死ぬって言ってるけど」
私が切り出した。
「どうやって死ぬかとか、考えてたの?」
「……それがさ」
また、くしゃりと彼女は笑った。
「なんも考えてなくてさ。衰弱死とか、ぼんやり考えてたけどさぁ」
堪えきれなくなったかのように、彼女の笑いは大きくなった。
「森に入っただけじゃ、人って死ねないよね」
「うん」
森の中に、彼女のツボに入ったような笑い声が響く。学校で見る、澄ました感じの彼女からは考えられないような、無邪気で、派手な笑い方。これはきっと彼女本来の笑い方なのだろう。だけれど、不愉快ではなかった。
はぁ、と彼女はまた一息ついた。
「……最期に、看取ってくれる奴がいるなんて、あたしもまだまだ幸運だったな」
「……私はもう少しここら辺彷徨うけど」
「あ、マジ?」
何か期待を裏切られたかのような、そんな表情を彼女はした。
「……お願いがあるんだけど」
何か思いついたような、彼女の表情はいつもよりなんだか優しげだ。
「あたしを殺してくれない?」
「……」
返答に困る。私だって人を手にかける予定なんか無かった。そんなことをしたら、ここを出たときには殺人犯じゃないか。
「いいじゃん、あんた、消えたいんでしょ?」
「……」
挑発的な目は、完全に私を『意気地なし』と馬鹿にしている。私は死にに来たんじゃない。
「勝手に死んでよ。そこの木に頭でもぶつけてさ」
「えー」
なんだかめんどくさい会話の流れに、私はこの場を去ろうと考えた。立ち上がろうとした腕が、彼女にやたら強く掴まれた。
「離さない。首を縦に振るまで」
「くそ……っ」
本気の握力なのか、ビクともしない。まるで手錠のようだ。
「なんだってあなたは死にたいんだよ」
「あんたと一緒。全部面倒になった。身の回りのこと、将来の事、ぜんぶ」
「っ……」
どうして変なところで私とうまが合うんだ。私の心があいつにもあるんじゃないかと錯覚するくらい、同じ事を感じていたのだ。
「……離して。離れたりしないから」
「本当?」
「うん」
彼女が手を離す。私は約束を破る気はない。
「……あんたも嫌でしょ? ここを出て、煩え大人たちに怒られるの」
「嫌だよ。だけど、私の終わり方くらい、私に決めさせて」
「……へえ。たとえば?」
「……この森を『戻らず』出た先。そこに何があるのかを知ってから、とか」
彼女はまた笑った。今度は嘲るように。
「馬鹿? 一体どれくらい広大なのか、見当ついてる?」
「全然。その途中で行き倒れれば、あなたも希望通りに死ねるんじゃない?」
「ははーん、なるほど? それは……」
少しだけ、彼女は考えた。へらへらしていた顔は、すぐ真面目なものになった。
「ありよりのあり、かもね」
休息を終えた私たちは当てもなく森を行く。脚に惰性と、ほんの少し、ゴールへ向かう気力を詰めて。
それから、日が暮れるまで歩いて、へとへとになって倒れ込むと落ち葉だらけの土が私を包んだ。
「なあ、……なんだか夢みたいじゃないか?」
「なにが?」
「今、ただ森の中を歩き続けてる。学校でも、家でもない。入ったこともない所で一日を終えようとしてる。それが夢みたいだって」
「そうかも」
空腹感で苦しい。何か食べたい。だけどここら辺に食べられるものなんかあるわけない。あいつも同じだろう。あいつもろくに荷物を持っていなかった。だから、私たちは同じように何も持たず、何も備えず、この森でくたびれている。
「なあ」
あいつがまた、私の隣に来て、同じように寝転がった。
「疲れたな」
「うん」
コイツと森で会ってから、なぜだかここに来るまで、来てからの苦悩を振り返ることがなかった。ただコイツが至極どうでもいい話ばかり振ってきたからだ。
「あなた、結構よくわかんないこと聞いてくるんだ」
「学校のあたしなんて仮の姿だよ」
「じゃあ、今のあなたは素?」
「そう」
これが友達になりたい相手とかだったら、嬉しかったんだろうけれど。
「あんたお腹空かない?」
「すいたけどさ。満たしようがないし」
「うん」
突然、掴むように胸を触られた。堂々とセクハラを決めてきた奴を蹴り飛ばすと、アイツは痛みに悶えていた。
「うっ、うぅ……いってぇ」
「あなたにそういう事を許した覚えはないけど?」
「駄目だったか……」
「駄目でしょ」
苦しそうな息を整える奴を置いといて、再び私は寝転がって空を見上げる。木漏れ日などすでになく、点で光る星の光がわずかに目に届く。
「……あなた、いつ死ぬの?」
「……退屈したら」
なるほど。つまり私と一緒にいる時点でそれはなさそうだ。
「……あんたのさ、この森を出てから、っていう謎のゴールを迎えてから、死ぬのもいいかなって」
「……好きにして」
ふぅ、と息を吐いて、身体の力を抜く。同時に、汚れた全身の不快さが気になった。近くに川なんかないし、あっても綺麗な保証はない。
髪を触ろうとした手の爪が割れている。ガタガタの爪に引っかかる感覚はどうしてこんなに気持ち悪いんだろう。髪もガサガサで、顔もべたべた。服も、もう訳の分からないくらい汚れている。
「……もし、これから無事に私とあなたが戻れたら、友達として接せるかな」
「いやーどうかな」
そうか。彼女には彼女の仮面がある。今の彼女じゃない、別の彼女の仮面だ。
「そう」
私も疲れてどうでもいいことを聞いている。
「おやすみ」
「おやすみ」
ただ、挨拶だけはちゃんと通じ合った。
森の明るさに目を覚ます。驚いたのは、いつもよりものすごく気持ちのいい朝だったことだ。目覚めがいい。これまでの悩みなんか何もなく、睡眠を邪魔するものなど何もなく、不思議な心地よさがあった。そう思った一瞬の後、何か身体の違和感に気付く。
「……あ?」
私の身体に巻きつく、腕。肩を濡らす唾液。やたら近い女の顔。マジか、と少しげんなりする。
「……おーい、起きろ」
「すぅ、すぅ……」
起きる様子は全然ない。無理矢理剥がそうとして、私は気づく。彼女の目が腫れていて、肩を濡らす湿り気が唾液だけじゃなかったことに。
「……」
こいつ、辛かったのかな。
辛くなければ「死にたい」だなんて言わないと思うけれど。学校ではあんなに飄々としていたコイツが、一体なにを思いつめて、こんな所に来たんだろう。
きっと、私もここで、あるいはこの先で死ぬ。
この森を抜けた先に何があるのかは分からないけれど、たぶん救助なんて間に合わないし、戻るのも現実的じゃない。なら――もう終わりの準備をしたほうがいいのかもしれない。
また目を閉じる。朝の気持ちのいい空気。その正体が何者にも邪魔されない睡眠サイクルによるものなのか、はたまたこの森が生んだ空気なのか。どっちでもいいか、と思いながら意識が溶けていく。……私の身体に巻きつくこの腕の温度も、少しだけ心地よく感じた。
「おーい」
目を冷ますと、アイツが私の横で笑っていた。意地悪そうに。
「お寝坊さん」
「……どっちが」
「え?」
「あなた、今朝私の肩で泣いてたぞ」
「は? 泣いてないし?」
強がっているのは分かっている。私が無言で圧をかけると、彼女は簡単に折れた。
「……なんで早起きなんだよ」
「あなたが遅かっただけでしょ、……って」
空を見上げる。日光の感じに昼前の予感がした。
「行こうか」
私が立ち上がると、彼女も立ち上がった。身体は軽い。胃の中も軽い。この元気がいつまで続くだろうか。私が一歩踏み出すと、彼女も一歩ついてくる。それを繰り返して、やがて水の音が聞こえるところまで来た。
「川かな」
「川かもねぇ」
アイツが我先にと駆け出す。予想通り、派手に転んだ。
水の音を辿って、小川にたどり着いた。水が綺麗で、身体を洗うことも出来そう。飲んでもいいのかは、分からない。
「あー、さっぱりしよ」
アイツはすぐさま服を脱ぎだす。同性の私以外の人の目もないし、ためらいなく全裸になった。
「アンタは水浴びしないの?」
「……」
さっぱりしようと思った。冷たい水はちょっと嫌だけれど。
奴は思ってた通りに水遊びを仕掛けてくる。何も私たちを遮るものもなく、咎めるものもいない。私たちは子供のように遊び倒した。風邪を引くのは時間の問題だろうと思った。水浴びをしても、身体を拭くタオルなんか無いのだ。
「どう乾かそう……」
「裸族にでもなっちゃおうよ」
癪だ。構わず服を着た。汚れた服が更に濡れて、着心地は最悪になった。アイツは私を怪訝な目で見ている。そのまま進もうとすると、あいつも焦って服を着てついてきた。
小川を離れて、少し経って気付く。身体に力が入らないのだ。空腹と、歩き続けてきたのとでもう身体がガス欠を起こしたんだろう。全身の怠さがここにきて津波のように襲い掛かってきた。
「うぅ」
しゃがみ込むと、アイツも足を止めた。
「どしたの?」
「……エネルギー切れ。たぶん、この森は出られない」
「あ、そう」
すると、彼女も思い出したかのように、へなへなと崩れ落ちた。真似するなよ。
「あなたは行っていいよ」
「いやぁ、エンストしたら、進めないじゃん」
いつから私はあなたのエンジンになったのか。そう怒る気力も無かった。目を閉じたら、すぐに寝られそう。……いや、もしかしたら意識を失うのか? 分からなかった。
「……ねえ。あんたは、独りで死にたい?」
「……」
死にたくはない。だけれど、もし死に際が選べるのなら……。
「独りは、嫌かも」
「あたしも」
アイツが私の手を握ってくる。冷たい手が、ほんのり心地いい。
「あたしさ。……あんたとここまでこれて、楽しかったよ」
「なに、いきなり」
「独りで死ぬとばかり思ってたからさ。三途の川を渡る船に、同乗者がいるのがこんなに楽しいって、思わなかったんだ」
「頭打った?」
「……もう」
拗ねたかのように、彼女は口を閉じた。
気が付けば、夜になっていた。唯一のエネルギー補給、睡眠を取ったことでまた少し、動けそうと思った。
「……起きた?」
アイツは起きていた。寝たのか、はたまたずっと起きていたのか。
「あたしも今起きたとこ。ちょっとは動けそう」
「そう」
なんで私たち、ここまで合うんだ?
歩く。夜道だけれど、私たちはきっと、朝まで待ってたとしても何も成せない。冴えた目を宥めるのは難しい。
ガサガサ、と視界の代わりに敏感な聴覚が捉える音は、私たちのものだけじゃない。そのたびに震えが止まらなくなる。だけれど、そのたびに、アイツも震える手で私の手を取ってくれたのだ。それが勇気に変わったかと言われれば何とも言えなかった。
どれくらい歩いただろう。もう何度日没を迎えたか、思い出せなくなったころだった。
波の音が聞こえてきたのだ。
「……海?」
「そうかもね」
脚にエネルギーが湧いた。やがて開ける道に向けて、再び歩き出す。
視界が開けると、海岸がそこにあった。白い砂浜はどこまでも続いて、それなのに人影一つない。船さえ見えない。白い雲が空を覆って眩しさは抑えられて、見える海はどこか――神秘的に見えた。
向こう岸など見えず、ただ静かな海がそこにはあった。
「……は、はは」
「ふふふ……」
またふたり、笑っていた。そして、大の字に倒れ込んだ。
「あーあ。エンディングだよ」
「ほんとだ」
「もうへとへと」
「うん」
「でも……人生最後に見た景色ってところだと……三億点満点」
「三億点は天井高いな」
「でも……白くて、青くて、それなのに目に優しい。ここが天国だって言ったら、あたし信じるね」
「……」
私も少し考えて、答えた。
「そうだよ。ここは天国だよ」
この海岸が、私の元いた地域の近くなのは言うまでもなく、別に遠い場所でもなく、珍しい場所でもない。でも確かに、私たち二人がいるのは天国なのだ。
「あー……死のうか」
「うん」
もう一歩も動けない。帰る気力なんてありはしない。ここから助かりたいという希望もない。ここで終われるのなら、それは大団円を迎えた映画のようではないか。
「どう死ぬ? あたしたち、首を締め合う?」
「それじゃ我慢比べになっちゃうよ。片方が力尽きたら、もう一方は残っちゃう」
「そっか」
少し互いに考える。幸せに死ねる方法。
寄せては返す波の音が、何度も、何度も繰り返される。
「海洋葬って知ってる?」
「骨を海に撒くやつだ」
「そ。ここならさ……出来るんじゃない?」
「……」
波の音。辺りにはその音しか聞こえない。
「出来るかもね」
「一緒にさ、海の深いところまで行ってさ……もがく元気もなく、仲良く溺れて死のう?」
「溺死かぁ」
溺死は苦しいって聞いたことある。だけど、ふと見えた彼女の目は、すごく幸せそうだ。
「……いいかもね」
「いつ行く?」
「んー」
ふと立ち上がろうとするけれど、やっぱりもう身体が動かない。疲労もだけど、足の節々が痛んでいる。
「ムズイな……」
「そっか」
また、波の音だけが聞こえる。白い空はまだまだ暮れそうにない。
「……ああ、綺麗だな」
「何が?」
「空が」
「雲で見えないけど」
「それがだよ」
今なら、魂だけ空に飛ばせてしまうんじゃないだろうか。そうすれば、苦痛なく、死ぬことが出来る。
「空派か」
「そうかも。海よりも、空」
彼女がまた、私の横で寝転がる。疲れ切っているはずなのに、その顔は明るく見えた。
「じゃあ、一緒に空でも眺めようか。死ぬまで」
「……そうだね」
手を取り合って空を眺める。白い空がやがてオレンジ色に染まって、暗くなって、またオレンジになって、今度は青くなる。またオレンジになるころ、私たちはもう風前の灯。一歩だって動くことは出来ない。
「ねえ」
「ん?」
「やっぱ……終わりよければ全てよし、ってね」
「……」
「あたし、最後の最後にこんな心通うヤツと会えるなんて、幸せだった」
「……」
「あんたはどう?」
「……ふぅ」
拒否しない私の言葉に、彼女は満足したようだった。
「もう少し早く……あんたと、仲良くなれてたら……」
「……」
「もう少し、長生きしてたかも」
「……」
そっか。私は……私も、どこか満ち足りた感覚があった。
この世の終わり、人生の終わり。でも世界の終わりは私自身の終わりと等しい。このエンディングの形は……良かったような気がする。
変な病気に苦しむことも、悲しみの果てに身投げすることも、どこからともなく事故に遭う事もなく、こうして自分たちの選んだ終わり方を迎えられて、良かった。そう思った。
「ありがとう」
「こちらこそ」
目を閉じると、重かったはずの身体が、重力を忘れたかのように、軽くなった。ああ、多分これが終わりだ。繋いだ手の先には確かに彼女の細い手があって、また満足したのだ。
エンディングはそこじゃなかった。最期に感じた浮力は、ヘリコプターの救助隊だった。それから私たちは入院し、元気を取り戻すとこっぴどく叱られ、また学校生活に戻った。馬鹿だと思った。
それからしばらく経って、アイツはいま私の横でラーメンをすすっている。
「大将、替え玉!」
もう三回目だ。どれだけ食うんだコイツは。
「食べすぎでしょ」
「いいんだよ、あたしがぜんぶ払うから」
そしてその三回目の替え玉を瞬く間に平らげて、彼女は手を合わせた。
「ふー食った食った」
「よくそれだけ食べて太らないね」
「健康の証でしょ」
羨ましい限りだ。
街中を二人で行く土曜日。あれから彼女も私もいつも通りの学校生活を送っている。私たちの遭難事件は、クラスメイトの中ではタブーのような事柄になっており、聞かれることは無い。
面白いのは、学校内で私と彼女が仲良くするシーンは殆どないと言う事だ。彼女も私も、以前と同じメンバーと絡んで、友達付き合いして、学校を終える。……変わったのが学校外だ。放課後、たまに彼女と遊ぶし、土日となると一日がかりで遊んでいることもある。なぜかそのシーンをクラスメイト達に見られることがない。彼女と遊ぶタイミングがやや変則的で、なおかつ変わった所に行くからかもしれない。――もしかしたら、見ても見ないふりをされているのかも。どうでもいいけれど。
「次、どこいく?」
「んー」
あれ以来、彼女の口から「死にたい」という言葉は二度と出てこなかった。退屈しないからだろうか。
そういう私からも、いつの間にか「消えてしまいたい」なんて気持ちはどこにも見当たらなかった。退屈しないからだろう。
「隣町」
「いいね」
丁度バス停に止まっているバスに急いで乗り込んで、二人掛けの席に座る。
「隣町の、どこまで?」
「端」
「また深夜帰りで怒られますなぁ」
「いいんだよ」
そういう仲間だよ、あんたは。
おしまい
ここまで読んでくださりありがとうございました。
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