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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

水迎の花嫁

作者: dice-k

夢の中でいつも同じ『水の音』に導かれ目を覚ます。

大学3年生・深水ふかみ みお


大学へ進学した年から、誰かに呼ばれるような悪夢を見るようになる。

それは日に日に鮮明になっていき、いつのまにか現実にも影響を始める。


ずっと同じ夢。

そこには暗い水と静かにたたずむ白無垢(しろむく)の女。


目を覚ますと、夢で濡れていたはずの服が本当に湿っている。

『夢が現実を侵食し始める』

その夢をきっかけに、少女の周りでは不可解な出来事が起こり始める。


澪は夢の記憶をたどり「白無垢の女」を探し、謎に包まれた「水迎寺すいごうじ」へと向かう決意をする。


しかし、そこには澪にかかわる衝撃の真実と、過去に行われていた恐ろしい儀式があった。

水の音がする。


ぽたり、ぽたり。

天井のどこかから水が垂れる音。

夜の静寂を破る、耳障りな音に、私は目を覚ました。


けれど、まぶたを開けても何も見えない。

目の前はどこまでも深く、濃い静けさに包まれている。

風も、鳥も、蟲すらもこの場所を避けているようだった。


部屋じゃない。

たしかに、私は今、自分の部屋のベッドにいたはずだ。

それなのに、気が付けば足元が冷たい。

見下ろせば、足首まで水に浸っている。

身体が吸い込まれてしまいそうな、黒く濁った水。


「......夢、だよね。」


そうつぶやいた声すら、水の中に飲み込まれてしまう。

立ち込める水の音が声を殺している。


やがて、水は足首を超え、膝に、腰に、じわじわと私の周りを満たしていく。


どこか遠くで、鈴の音がした。

近づこうとしても、足は水に取られて思うように前に進めない。

水は浅いはずなのに、まるで底なし沼のように重い。


周囲には誰もいない。

けれど――たしかに、誰かが私を見ている。


その時だった。

「み......お......」


どこからともなく、女の声が響いた。

振り返ると、水の底に白い影が揺れている。

白無垢(しろむく)の女。

顔はわからない。

ただ、その影は私を知っているかのように暗い水の底から迫ってくる。


必死に逃げようとするが、やはりうまく前に進めない。

やがて凍りのように冷たい手が、私の足首をつかみ。

かすかに唇が動いた。

「いっ.....しょに......」


全身に凍り付くような寒気が走った。

その瞬間、私は叫び声をあげて目を覚ました。



目を開けると見慣れた自室の天井が見えた。

まだ、耳の奥に鈴の音と、あの女の声が残っている。

冷え切った指先を握りなおし、ベッドの上で深く息を吐いた。

「夢か......。」

けれど、その感覚はあまりにも鮮明だった。


白無垢の女。

伸ばされた手。

冷たく(まと)わりつく水。


疲れの残る体を起こし窓の外を眺める。

焼けるような夏の暑さとは、真逆の底なしの水に沈められたかのような冷たさがこびりついて離れなかった。


「.......なんなんだろう」


自分に言い聞かせるようにつぶやく。

多分疲れているだけ。

夢の中のことを引きずっているんだと思う。

そう思おうとして、ベッドから降りようとした瞬間、足元が冷たい。

思わず足をひっこめた。


恐る恐る掛布団をめくる。

足首から下だけが、ぐっしょりと濡れている。


「.......なんで?」


寝汗ではない。足首から下だけがこんなにびしょ濡れになるわけがない。

それに、心なしかこの水をそのままにしておくのはよくない気がして、片付けようと立ち上がった時、扉の向こうつながる廊下からまた......


ぽたり、ぽたり......


と水の音が響いた。


心臓が大きく鼓動する。夢の中と同じ音。

あの白無垢の女の姿が頭を過った。

「みつけた......」―その声がまだ耳に残っている。


私は深呼吸をして、ゆっくりと部屋の扉に手をかける。

扉を開けた先の廊下は恐ろしいほどに静まり返っている。

だが、水の音は確かに奥から聞こえる。風呂場のほうだ。


震える体を抑えようと、手を強く握りしめる。

一歩、また一歩と進むたびに床の冷たさがひやりと伝わってくる。

夏だというのに日差しの当たらない廊下は不自然な寒さに満たされている。


風呂場の前に立った時には、もうあの音はやんでいた。

その静寂が不気味だった。

けれど、確認しないわけにはいかなかった。


私はもう一度深呼吸をして覚悟を決めて扉を開けた。

浴室の中には、誰もいなかった。

ただ、静かに浴槽の水だけが揺れてる。

まるで、今しがた、誰かが浸っていたかのように。


何もないことを確認し、ゆっくりと扉を閉める。

「.......気のせいか」

そう思ったとき、何かにぎゅっと手首をつかまれた。

それはひどく冷たく、まるで氷のように冷え切っている。


咄嗟のことに手を振りほどく。反射的だった。

力が入りすぎたのか、体のバランスが崩れて、足元がふらつき、重力に引きずられるように、冷たい床に崩れ落ちる。

どさりと鈍い音がして、目の前で何かがサッと引いていくのが見えた。


「......手?」


心臓が耳の横についているかのように鼓動している。

頭の中の理解が追い付いていない。

呼吸も心臓も止まってしまったかのようにその先を見つめていた。


「なに、今の.......」


力の入らなくなった脚の代わりに壁を支えに立ち上がる。

半開きになった扉の隙間から、浴槽に何か浮かんでいるのが見えた。

荒くなった呼吸を肩で押さえつけ、半開きになった浴槽の扉を再び開ける。


浴槽の水面には、さび付いた(かんざし)が浮かんでいた。

まるで、何百年も水の底に沈んでいたようにさび付いている。

しかし、奇妙な懐かしさを覚えるそれに、私は無意識のうちに、浴槽に手を伸ばしていた。

触れた水は、まるで手が切れるように冷たい。

指先でそっと簪をすくい上げると、しっかりとした重みをもっている。


「......何これ」


濡れた簪から、水滴がぽたり。と滴る。

その音が、また夢の中の音と重なり背筋に冷たいものが走った。

私は慌てて簪をタオルに包み込み、浴室の扉を閉めた。


ふと気が付くと、冷えた足先はしびれたように痛い。

ただ、突如として訪れたその出来事に意識が呑み込まれていた。

次第に感覚が戻り、足元に目を向けると、冷えた床の感触が伝わってくる。


自分の足は床に触れている。

その感覚は確かにあるのにどこかまだ夢の中にいるような気がしてならない。

冷静にならなきゃ。そう思えば思うほど、頭の奥が浸されるようにじんわりと痛んでくる。


ふらつきながら部屋に戻り、ベッドに腰を掛けてタオルで足を拭く。

赤黒くさび付いた細い金属の簪は、よく見ると装飾のところに何やら紋様のようなものがついている。

しかし、それは錆のせいか、長い年月を経たからか、輪郭は曖昧になっている。


指先が、自然と動く。

タオルの端で拭ってみても、その錆は落ちることはなかった。

細かく浸食された赤黒い錆は、どこか生々しい繋がりを訴えかけているようにも見える。

ずっと見ていると、ただの金属のはずなのに、そこからじわじわと喉の奥に水のにおいが漂ってくる気がして、机の上に置いてしまった。


枕元に置いていたスマートフォンを手に取り時間を確認した。

午前4時47分。夏の夜空は明るくなりかけていた。


夢じゃなかった。

夢と現実が、確かに繋がっていた。


ひどく疲れていたせいもあり、何もなかったかのようにベッドに潜り込んだ。

布団の中もじっとりと湿っていて、夏だというのに妙な寒気があった。

しばらくして、意識が遠のきかけたその時ー


廊下の奥から微かに鈴の音が聞こえた気がしたが、起き上がる気力もなく、再び現実から意識を切り離した。


翌朝、目を覚ましても身体は重いままだった。

夜中の出来事が全部夢だったらどんなに良かったことかと思いながら、部屋の片隅に置かれたタオルに目を配る。

やはりタオルは濡れたままで、机の上にはじっと簪が置かれている。

ぽつん、と置かれているだけなのにまるでその周囲だけ空気の流れが変わり、空間が沈み込んでいるように見えた。


私は、枕元のスマートフォンを手に取り、1通のメッセージを送った。

≪蓮司さん。ちょっと、話せる時間ありますか。以前お話しした、変な夢を見たのと.......少し、おかしなことがあって≫


相手は白河しらかわ 蓮司れんじ

澪の高校の先輩であり、大学では民俗学を専攻していた。

大学卒業後は、どこにも所属せず、独学で調査を続けている。

地元の郷土資料館の手伝いや、地方新聞の連載、実家のお寺の手伝いなんかで細々と食いつないでいるようだ。


メッセージを送ってから数分後、既読が付き、

≪昼からなら事務所にいるよ≫

とだけ返ってきた。

私はそれに「ありがとうございます」とだけ返事をして、濡れたように重たい体を引きずり起して身支度を整えた。

髪を整え、軽く化粧をし、大学にもっていくバッグに簪と携帯を詰める。

バッグには、景品でもらったぬいぐるみと一緒に、実家を離れるときに祖母がくれたお守りがついている。


昼過ぎ、私は蓮司さんが開いている都市伝説や伝承の研究をしている事務所を訪れた。

そこは駅前から少し外れた、寂れたとおりにある雑居ビルの2階、看板すらない地味なドアの前に立つ。何度来ても、ここだけ空気が違うような気がする。


「どうぞ」


扉をノックすると、心がふっと軽くなるような声が返ってきた。

私はどこか心が安堵したような感覚を持ち、中に足を踏み入れる。

壁一面に積み上げられた書物と、机の上にならぶ時代を感じる写真。

古びた地図に、虫食いだらけの民俗誌―どれも、彼が蒐集しゅうしゅうしてきたものだ。


「また変な夢、見たんだな?」


低く静かな声。

彼は私の言葉を聞かずとも、私がここに来た理由を察していた。


昔からそうだった。

口数が多いわけではないが、どこか理知的で、観察眼に優れている。


蓮司の部屋に入ったとき、私は無意識に髪を耳にかけた。

夏の暑さのせいもあり、汗が首筋を伝わって、ぞわり、とした寒気が走ったせいだった。

その仕草を見て、蓮司はほんの少しだけ、眉をひそめた。


「.......久しぶりに見たな、その癖」


「癖?」


「怖いとき、君、髪を耳にかけるんだよ。高校のころからそうだった。図書館で怪談を読んでいるときも、怪しげな神社の前で立ちすくんだ時も。気づいてなかった?」


私は思わず耳に触れていた手を止める。


「......そんなの、覚えてたんだ」


「たまたま、ね。君、言葉には出さないけど、行動は素直だ」


少し、からかうような口調だったけど、蓮司の目は笑っていなかった。

じっと、私の様子を探るように見つめている。


「それで、その夢がどうしたんだ?」


私は言葉を飲み込んだ。

夢で終わらなかった、それを伝えるにはまだ少し、心の整理がついていなかった。

どこから話そうかと、最初の1文字を探していると。


「言いたくないことは言わなくていい。ただ、今の君の顔には”もう限界”って書いてある」


その言葉に心の奥がぐらりと揺れる。

うまく話せるとは思っていなかった。

ただ―何よりも”隠そうとしていること”

「昔の癖」を覚えていたその視線が、まるで今の私の心の底までも見透かしているようだった。


「......はい。夢なんですけど、」


私はお風呂場で拾った簪を見せ、夜中の夢の中のこと、目覚めた後に夢の中で触られた足首から下が濡れていたこと、浴槽に浮かんでいた錆びついた簪、そして、何か手のようなものにつかまれたことについて説明をした。

蓮司は簪を手に取りながら、時折こちらに目配せをし黙って聞いていた。


「ふむ。水の音、鈴の音。それと、この、簪か......。」


「ただ、錆がひどいな......この飾りがもう少し見えれば」


蓮司は簪を光にかざしながら、ぽつりとつぶやいた。

根元の珠の部分に何かが彫られているのは確かだったが、腐食が進んでいて輪郭すら判然としない。


「削ってみたら?」


澪がそうつぶやくと、蓮司は軽く首を振った。


「素人が不用意に手を加えると、情報が消える可能性がある。ただ、これが夢の手がかりであるのは間違いない」


「.......これはいったん、俺に預けて」


「いいの?変なものかもしれないのに」


「変なものだよ。だから俺が調べるほうがいい。君は.....今日のところは帰ったほうがいい。」


「こういうのは、現実を一度離れて、頭を冷やしたほうがいい。何かわかったら、すぐに連絡するから」


「わかった......。」

正直、もう少し何かわかると思っていた期待もあり気持ちが少し沈んだ。


席を立ち、玄関先で靴を履きながら澪はふと、テーブルの上に置かれた簪のほうを振り返った。

それはまるで「息をひそめている」かのように、ひっそりと横たわっていた。


「.......わかった。でも、変なことがあったら、すぐに連絡して」


「それは、お互い様だな」


微笑みかけた蓮司の顔には、どこか張り詰めた気配があった。

澪は事務所の扉を閉めながら、一抹の不安を飲み込み、事務所を後にした。


帰宅して、玄関の扉を閉めた瞬間、どっと肩の力が抜けた。

家の中の空気はひんやりとしていて、日が暮れたあとの湿り気が、壁や床に染み込んでいる。

けれど、その冷たさは、外よりもずっと重たく、纏わりつくものに感じられた。


「.......ただいま」


誰もいない空間に声をかけるのが、いつになくためらわれた。

スイッチを押しても、照明は少し遅れてパッとともり、蛍光灯の明滅が数秒だけ続いた。


「あれ?」と思い、蛍光灯に目を向けたとき.....

何かが足元を通り抜けたような気がして、思わず身をすくめた。

もちろん、そこには何もいなかった。

ただ、どこか遠くから聞こえる水道管の”ゴボゴボ”という低い音だけがする。


玄関脇の鏡に映った自分の顔を見て、澪は思わず目をそらした。

そこに映るのは”自分の顔”だったはずなのに、ほんの一瞬、耳のあたりに”見覚えのない長い髪”が流れていた気がした。


いつもなら、何も気にしない玄関から続く階段の上に何か得体のしれないものがある気がして上るのがためらわれた。


「気のせい........気のせいだってば」

そう自分に言い聞かせ、濡れたように重い足で一歩、また一歩と自室への階段を上がる。


自室の扉を開け、カバンを放り出し、部屋着に着替えながら、携帯を確認する。

蓮司からは何の連絡もない。


冷蔵庫を開けるが、何も食べる気になれなかった。

ポットからお湯を注ぐ手がわずかに震えて、マグカップの中でお茶の表面が揺れた。


その”水面”を、ふと、見つめてしまった。


――波紋の中心に、ひとつ、赤黒い煤のようなものが浮かんでいた。


「.......え?」


瞬きをすると、それはもうなかった。

ただの、湯気の影。そう思おうとした。


そこから数日、私は何とかいつも通りの日常を過ごそうとした。

大学の講義を受け、バイト先に顔を出し、帰宅しては眠る。ただのいつも通り。のはずだった。


しかし......日常は少しずつ、確実に歪み始めていた。


最初に気が付いたのは、朝起きた時に枕元に濡れた砂利が落ちていた。

かすかに砂利からはぬるりとした生臭いにおいがする。

夢遊病の癖なんてない。けれど、私は毎朝、どこかから戻ってきたように、服の袖が濡れている。

まるで、見えない何かに夜中に袖を引かれているかのように。


まだ、蓮司からの連絡はない。

もうそろそろ、連絡が来てもいいころだ。

そんなことを思っていた、大学の帰り道。


ふと後ろを振り向くと、いつもは賑やかな駅のホームの片隅に、濡れた白無垢の女が立っている。

誰も気に留めない。まるで私にしか見えていないかのように。

相変わらず顔はわからない。頭には真っ白な綿帽子をかぶっていた。

視線が合った瞬間、女はぬるり、と笑った。

血を塗ったかのような真っ赤な口紅とは対照的な鉄漿かねを塗ったかのような真っ黒な口の中をこちらにみせた。

まるで、時間が止まったかのように、ホームに入ってきた電車の騒音だけが鳴り響く。


私は慌てて視線をそらし、早足で電車に飛び乗った。


だが、その日、家に帰ると、玄関の内側に濡れた足跡が一つだけ、続いていた。

確かに、私の靴は乾いたまま。歩いてきた道を振り返っても雨が降ったような形跡はない。

先に続く真っ暗な階段は、外のものとはまるで異なる異質な空気がじめじめとしている。

震える手で、玄関の電気を灯す。


その時――


”ぽたり、ぽたり”


水滴の音。

風呂場のほうからだ。

寒さとは無関係の鳥肌が全身を駆けめぐる。


風呂場の鏡が使ってもいないのにびっしょりと曇っている。


耳をふさいでも、頭の中に流れ込んでくる。

まるで、水の中に沈んでもいるかのような、鼓膜の裏に張り付く湿った音。

それでも、私はまだ「気のせいだ」と言い聞かせようとしていた。


ちゃりん......


その瞬間、鈴の音ともに、背後を何かが通り過ぎた気配がした。

慌てて振り向いたが、そこには誰もいない。

早くなっている鼓動を無理やり沈めるように鼻から深く息を吸い込み自室に戻る。


水のある場所と自分を切り離すかのように、自室の扉を閉めた。


だがその時、背後の窓の外、

ガラス越しに――”誰か”が通り過ぎるような、影が走った。


心臓が跳ね上がり、澪は反射的にカーテンを閉めた。

2階であるはずの窓の外。

しかし、見てしまった。

閉じる瞬間に、ガラスの向こう側から”真っ白な濡れた何か”が、こちらをじっと見ているのを。


ここが”安全な場所ではない”という確信だけが、静かに心に沈んでいく。


深夜一時を過ぎても、澪の目は冴えたままだった。

気が張り詰めている。窓の外に蠢いた白い影が脳裏から離れない。

意識をそらそうとしても、本能が自然と窓の外へと意識を向ける。


ふと、スマホに目を落とすと時計は、すでに午前二時を指していた。

蓮司からの連絡にすぐに出られるように、スマートフォンは枕元に置いてある。


電気をつけたままの寝室の天井を見つめながら、指先がシーツの端を無意識にいじっている。

けれど、そこに「何がある」というわけでもない。

視線は、何かを捉えているようで、実際には真っ白な天井とただ空っぽな宙を彷徨っているだけだった。


寝返りを打ち、時折窓の外に視線を配る。

シーツがわずかに擦れる音がするが、静まり返った空間ではやけに耳に響く。

室内は静かすぎて、少し高くなっている心臓の音までもがやたら大きく感じられる。


――眠れない。


窓の外にいた何かに警戒するように気を張り巡らせて、疲れているはずなのに、身体だけが水に浮いているような感覚。

気を張り詰めすぎたせいか、眼の奥がずきずきと熱を持ち、脳の奥から何かが”まだ起きている”と訴えてくる。

寝苦しいのは、夏の暑さだけではなく、明らかに日常が”歪んでいる”そう思わせる夜だった。


その時、


”ぽたり、ぽたり”


かすかに、水の音が聞こえた。

蛇口はきちんと締めたはずだ。

それでも、どこからか水が落ちる音が耳に届く。


それは部屋の中ではなく――もっと遠く、けれど確かに”この家のどこか”から聞こえてくる音だった。


澪はとっさに枕もとのスマホを手に取った。

画面をタップすると、LINEの通知はなく、ただ薄白い光が顔を照らす。

ただ、ホーム画面には設定した覚えのない、見覚えのある”景色”が映っている。


息が止まるのと同時に、スマホを伏せると、今度は”音”が消えていた。

――代わりに重さのない無音がのしかかる。


恐怖で目を閉じた瞬間、瞼の裏で、何かが、ひらり、と揺れた。

真っ暗なはずの瞼の裏。

そこに、ゆらゆら、と揺れる白い布のようなものがぼんやりと浮かんでいる。


最初は、寝具の残像かと思った。

だが、それはすぐに”そうではない”とわかった。

白い何かが、視界の外れでゆっくりと揺れている。


布.......ではない。

着物の袖だ。

誰かが、こちらをのぞき込んでいる。


視界がゆっくりと戻ってくると同時に、景色がはっきりしてくる。

”スマホの中の景色”が目前に広がる。


”ぽたり、ぽたり”


真っ白だったはずの天井からは水が漏れ出し、床は水浸しになっていた。

外に逃げようと周りを見渡すが、いつの間にか窓も扉も消えている。

ベッドの上に取り残された。

少しずつ、じっとりと部屋の中が水に沈んでいく。


(........夢だ。これは夢だ)


そう思った瞬間、首筋をひやりとしたものが這い上がってきた。


”見られている”


その感覚に、澪は首だけをそっと動かして、ベッドの縁から下を覗き込んだ。


そこにいた。

白無垢の女が、じっと、こちらを見上げている。


”視線が合った”

澪が気づいたのに合わせるかのように、女の指がすうっと水の底からこちらへ差し出される。


「――やめて、こないで」

必死に叫ぼうとするが、水が音を吸収してしまったかのように声が出ない。


その手からなるべく距離を取ろうと、ベッドの端に身を寄せる。


そのとき――


ベッドの下から、すうっと、濡れた手が伸びてきた。


気づいた時にはもう遅く、

氷のように冷たい手が、澪の足首をぎゅっとつかんでいた。


「――あ......!」


叫ぼうとしても、声が喉で詰まる。声が出せない。

ベッドにしがみつこうとするが、水音すら立てずに、静かに、ゆっくりと、引きずり落されていく。


視界の端、ベッドの下から見上げていた女が――笑った。



「――っ!」


澪は声にならない声を上げて飛び起きた。


視界が滲んでいる。

呼吸が荒く、肩が呼吸をするために上下に激しく波打っている。

気が付けば、全身から水分を抜かれたかのように喉が乾いている。


(........夢.......)


薄暗い部屋、見慣れた天井。

ベッドの下から伸びてきた”手”も、白無垢の”女”も、そこにはいない。


それだというのに。


汗で、全身がぐっしょりと濡れていた。


パジャマの襟元が肌に張り付き、髪の毛からは雫がこぼれる。

目じりや首筋を伝って流れ落ちる汗が、異常に冷たく感じた。


(......冷房、つけてたはずなのに......)


部屋の空気は、湿度で重さを感じるほどに湿っている。

まるで、本当に水に沈んでいたかのような。


澪は「これは、現実だ」という確信を得るために、力の入らない手でベッドの縁をつかみ、恐る恐るベッドの下をのぞき込む。


何もない。

水も、女も、手も――ただ、いつのも床。

けれど、そこに目を向けているだけで、じわじわと胃の奥が冷えていくようなだった。


(やっぱり、夢だった.......)


少しの安堵とともに、無意識に自分の足首に目をやった。

その瞬間、落ち着きかけていた心臓が再び激しく動いた。


見ると、まるで何かに掴まれていたように、うっすらと、赤い痕が残っている。

ぞくり、と背筋を寒気が襲う。


(これは......)


喉の奥で、ごくり、と唾が音を立てて流れていく。

触れると、痣は何かに冷やされたかのように冷たくなっていた。


カーテンの隙間からはうっすらと、朝の陽ざしが入り込んでいる。

光に目を細めながら、まるで部屋の中で雨にでも打たれたかのような身体を引きずり、窓へと向かう。

カーテンを開けようと、手をかけた――


”ぽたり、ぽたり”


部屋の扉の奥で、水の雫が落ちる音がした。

カーテンを開けようと、かけていた澪の手が、ぴたり、と止まる


(........今の、音?)


もう一度、”ぽたり”――と、扉の奥から滴る音がする。

どこからともなく、濡れた足音が、一歩......また一歩と近づいてくるような感覚があった。


その時、スマホのバイブが、不意に震えた。

澪はびくりと身体を震え上がらせる。


ベッドの上に放置されているスマホの画面を見ると、蓮司からの通知であった。

《例の簪のことで進展があった。都合が合えば、午後から少し話せるか?》


澪はスマホに駆け寄り、震える指で画面をタップしながら呼吸を整えた。

彼に、会いに行かなければ。


《大丈夫。午後3時に事務所に行きます》

そう返信すると、澪はそそくさと身支度を始めた。


午後三時、

曇空はどんよりとした鉛色に染まり、空気は湿気を含んで重たく、空からは今にも雨が落ちてきそうだった。


澪はいつもの駅を出ると、少し歩いた場所にある古びた雑居ビルの前にたどり着いた。


蓮司の事務所は二階―

なんとなく、エレベーターを使う気がしなかったので、階段で向かうことにした。

階段を上がるたびに、足音がひんやりとしたコンクリート張りの空間にこだまする。


アルミサッシのドアをノックする。

すぐに「入って」と低い声が返ってきた。


中に入ると、古書や資料で埋もれた机の向こうに、蓮司が座っている。

照明は控えめで、古びた紙の香りと、湿った空気が混ざり合っており、扇風機からの風が資料をぱたぱたと煽っている。


「来てくれて助かった」


「.......何かわかったの?」


澪が問いかけると、蓮司は無言でうなずき、机の引き出しから、あの簪を取り出し澪の前に置いた。


「簪、錆を落として確認した。」


それは、前よりも輪郭がはっきりして、金属の地肌がよく見えた。

そして、装飾としてついていた珠の部分には、”刻印”のような模様が浮かんでいた。


「これは、刻印.......?」


「最初は、ただの飾りとしての掘り込みかと思っていた。でも、違った。調べていてわかったんだが、これは家紋だ。」


「家紋......?」


澪がそう問いただすと、蓮司は、机の上から分厚いファイルを手繰り寄せた。カバーの隅に“私文書資料群(民俗学会資料室所蔵)”と記されたラベルが貼られている。中から取り出したのは、古い紋帳の複写だった。


そこには、いくつもの古い家紋が記載された紙が閉じられていて、簪に刻まれている錆びていた刻印と、ある家紋が酷似していた。


少し形が違うような気もしたが、澪は黙って蓮司の話を聞く。


「これは、明治の初期までに断絶した家系のものだ。水主みずし家――って言っても、普通の資料にはまず出てこない」


「水主家......」


その初めて聞く名前に、どこか薄気味悪いような響きを感じた。

まるで、濡れた布を背中に押し当てられたかのような感覚が走った。


蓮司は、言うのをためらうかのように、一つ深く息を吸い込むと


「正直、これを問い合わせた時の学会の反応も妙だった。記録を貸してはくれたが、対応してくれた教授が.......なんというか、”関わらないほうがいい”みたいなことを言っててな。『あの紋が刻まれたものが、まだ残っていたんですか』って、まるで、消したものに出くわしたかのような表情をしていた」


「過去に歴史から消されているってこと.......?」


「ああ、たぶんな。水主家に関する記録は。明治以前の文献がほとんど処分されていてなかったよ」


「.......処分」

澪の口から思わず声が漏れた。


「処分、というより”意図的に消された”という感じだった。分類表は残っていたけど、保存場所の記載がすべて抹消されていて、学会の資料庫の人たちも、あまり話したがらなかった」


せっかくつかみかけた手掛かりも水の泡のように消えてしまうのかと思われた時、蓮司が続けた。


「教授の話によると、水主家の名前は明治初期すぐにとある事件がきっかけで公から姿を消したらしい。だから、信仰にまつわる記録だけがきれいに消されている。まるで、"祀っていたもの"をなかった事にするかのように」


そう話すと、蓮司がファイルの中からもう一枚、色褪せた地図を取り出した。中央には山深くに描かれた印と寺の名前が書かれていた。


「それで、その教授が最後に教えてくれたのが、この場所。昔、水主家の儀式や信仰に関わっていた寺らしい。“水を迎える寺”——水迎寺すいごうじって言うそうだ」


指で地図をなぞる蓮司の横顔は、いつも以上に険しい。


「ただ……おそらく普通の寺じゃない。教授の言い方ではもっと裏に“何かある”。民俗学ではよくあることだが、過去に行われていた何かを祀っているんだと思う。おそらく、あまり触れてはいけないようなこと。それでも、行くか?」


テーブルに置かれた簪が、雨の音を受けて静かに光を返した。

それはまるで、深い水の底から、澪をじっと見つめる誰かの目のようだった。


澪も黙って簪を見つめ返す。

そして、覚悟を決めた目で、蓮司に視線を移すとゆっくりとうなずき。

「行く」静かな声でそう答えた。


「わかった。白無垢の女も、その簪も、君のもとに出てきたのは、おそらく偶然じゃない。」


「.......もしかすると、君自身が”水主家”に何らかの繋がりを持っている可能性もある」


そう言い放つと


「明朝。水迎寺に向かおう」

蓮司がそう言いながら席を立った。


朝露の残る山道を、二人を乗せた車がゆっくりと登っていく。

舗装はされているが、細く曲がりくねった道は、まるで外からの侵入を拒むかのようにくねり続けている。


窓の外には杉の林。濡れた葉の合間からは、薄い陽が差し込んでいる。

だが、車内には妙な緊張感があった。エンジン音のほかには、誰も言葉を発していない。

ただ、アスファルトの上に散乱する砂利を踏むタイヤの音が車内に響く。


蓮司の運転は、丁寧で、余計な動きがない。

だが、澪は、運転席に座る彼の横顔を見ることができずにいた。

まっすぐ前を見つめ。


「......道、合ってるよね?」


重く張り詰めた空気を破るように、澪が訪ねる。


「あぁ。教授がくれた地図には、ここをまっすぐ行くと見えてくるはずだが......ここからは徒歩だな」


地図で見るには、まだ先を指していたが、道はそこで唐突に表情を変えていた。

舗装されたアスファルトはそこで途切れ、まるで生者を黄泉へと誘うかのような砂利道が森の奥へと続き、その先には薄っすらと本堂へ続くであろう石段が見える。


エンジンを止める。

音が消えた。

それは、静けさというよりは、夢に出てきていた”水”のように、何かが音を吸い込んでいるかのような”無”だった。

森は異様なほどに沈黙し、風も鳥の声もない。

ただ、遠くでかすかに水音のようなものが聞こえる。


”ぽたり、ぽたり”と滴るような、誰かの囁きにも似た、濡れた音。


ドアを開けると、湿気が肌にまとわりついた。

森のにおいというにはあまりにも濃すぎる、古びた水と苔のにおい。

足元の土は水を含み、歩くたびに”じゅくじゅく”と音を立てる。


向かおうとしている道の先には、木々が左右から覆いかぶさり、薄暗い影を落としている。

まるで、森そのものが大きな口を開けて”待っていた”と言わんばかりに飲み込もうとしているようだった。


「......行くか」


そう言いながらも、足はなかなか前に出ない。

それでも、一度立ち止まってしまえば、足元の水に捕らわれ、もう進めない気がして。ふたりは小さく息をのむと、森の口へと足を踏み入れた。


石段は思っていた以上に長かった。

一段一段が不揃いで、苔に覆われて滑りやすく、踏み外せば何処かへ引きずり込まれてしまいそうな感覚があった。左右には低い石垣と、支えを失い歪んだ灯篭が点々と並んでいるが、どれも風化し、過去にここで何かの儀式が行われていたことを容易に想像させた。


石段を三分の二ほど登ったところで、不意に澪の足が止まった。


「.......ねぇ、あれ」


彼女が指さす先、階段を外れた石垣の外に、何かが落ちていた。

草木の影が深く伸びるその場所だけ、まるで空間が切り取られたかのように湿っていて、見えづらくなっていたが、近づいてみると、そこには、小さな木に同化するかのように立てかけらるれた、革の塊が落ちていた。雨風にさらされていたのだろう、表面は黒ずみ、苔のようなものが縁にはこびりついていた。


「.......本?」


蓮司がそっとしゃがみ込み、指先で泥を払った。

それは、まるで誰か待ち人を待っていたかのように草陰に捨てられた手帳だった。

ノートほどの大きさで、ずっしりと重みがある。表紙には題字も何もない。

ただ、強く握りしめたのか、革の表面にうっすらと――指のあとがの痕が残されている。


「誰かが落としたんじゃ.......」


そう言いかけて言葉を止める。こんな場所に、そんなものが落ちているのはおかしい。

こんな深い森の中の寺に続く階段などもう使われていないはずだ。

それなのに、この手帳には明らかに人の手で扱われていた痕跡がある。

どこからか、たまたま飛ばされてきたものではない。明確な”痕跡”だった。


蓮司がためらいながらも手帳を開く。

中の紙はすっかり水を吸っていて、ページの縁は千切れる寸前だった。

数ページは完全に文字が滲んでしまっていたが、それでも、いくつかの記述は読み取ることができた。


「.......これ、誰かの調査記録だ」


ひとつ、ページを開けると日付が書かれていた。

手帳の持ち主は、どうやら民俗学の調査でこの地を訪れていたらしい。筆跡は整っており、調査対象として寺の由来や、信仰についてびっしりと、事細かく記録されていた。


――昭和六十二年 十月五日(月)――

天候:晴れ/水主家が過去に行っていた信仰と儀式の調査へ向かう


《村に伝わる”水主家”の記録を求めて本日より一週間水迎寺へ向かうこととする。水迎寺は元は”観音寺”の名を持つ真言宗の末寺まつじであったが、明治以降に改称。村では水源を祀る特殊な信仰が残されているとの記述はあるが、それ以上の資料が極端に乏しいため、現地で調査を行うことにする。地元の住民は”あそこはもう、寺ではない”と証言するが、それ以上のことはみな口を紡ぐため理由不明。水迎寺の中とともに、もう少し聞き込みが必要。本日は、少し村の様子を見て回り、宿舎に入るとする。》


「......”もう寺ではない”?」


澪が小さくつぶやいた。

まるで澪の声が耳に入っていないかのように、蓮司はさらにページをめくる。


――昭和六十二年 十月六日(火)――

天候:曇り/集落にて聞き取り調査


《調査を聞きつけた、村の古老が私の宿泊している宿を訪れる。何か******うだがまるで腫れ物にでも触るかのように”悪いことは言わないから、やめて村から出ていけ” ”水の道は辿るものじゃない”と忠告を受ける。その口調にただならぬものを感じる。寺の正式な資料を探したが集落***残っていないようだ。やはり、記録そのものが意図的に消されていると解釈して間違いないであろう。地元の墓守が何か知って***な気配である。明日、再び寺を案内してもらう相談をしに行く》


――昭和六十二年 十月七日(水)――

天候:快晴だが風が強い/鵜飼氏と面会


《午後**、昨日話をした鵜飼うかい氏(村の墓守)に再度面会をする。「寺のことはあまり勧めん」と前置きをされながらも、寺の中に入る承諾をもらい、半ば呆れた顔で案内を承諾してくれた。村のはずれ、沢沿いに続く細道。舗装されていたのは最初だけで、やがて土と苔の道に変わった。しばらくして、鬱蒼とした杉林の向こうに寺の影が見えた。鵜*氏は石段の前で足を止めると「これより上は......自分で行きなされ」そう言って彼は一礼し、背を向けて村のほうへ戻っていった。詳しい調査は明日以降に行うことにする》



――昭和六十二年 十月八日(木)――

天候:曇り/午前中より寺を再訪


《午*** 境内の様子は想像以上に荒れている。雨の影響なのか、石段の苔がひどく、石畳を歩くのにも骨が折れる。本堂に鍵は掛かっておらず、破れた障子から薄暗い中の様子が伺える。堂内は埃がひどく、カビのにおいがする。正面に本尊(観音像か?)仏具類は残されたままとなっている。だが、油皿には煤も油もなく、かなり以前から使われていないようだ。本堂の奥に不自然な***を見つける――間取り図に乗って*****在している。本日はここまでで引き上げることにする》


(夜間メモ)

今日の午後より軽い頭痛あり。早めの就寝をする。

昨日の夢、詳細は思い出せないが、誰かが濡れた石段を上がってくる音がした。

迫ってきている?


――昭和六十二年 十月九日(金)――

天候:曇り時々霧/水**内*調査開始


《午前九時 本堂の裏手に回り、中庭を通った先に納戸と思われ****発見。六畳ほどと聞いていたが、それ以上ある。構造がおかしい。中には木箱が3つあり、うち2つには注連縄がまかれていた。1つは縄が腐ったのか緩んでい***開*――中には陶器製の小瓶と布に包まれた何か。布の中身は未確認。開けかけた瞬間、外で物音(?)がしたため、一時中断。 ※本堂の中に入って以降、時折、”ぽたり、ぽたり”と水の音が近くで聞こえる。屋根から滴る音ではない。足元?あるいは床下から?》


(夜間メモ)

本日帰宿後、寝入りばなに枕元に細かな砂利のようなものが散らばって***。靴裏にでもついていたのだろうか?なお、体調に異常なし。詳細は不明瞭だが、昨晩と似たような夢を見た。”ぽたり、ぽたり”と濡れた足音が聞こえる。右耳の中で、水が鳴っている*****(滲んで判読不明)


「......ねぇ。これ」

澪が静かに蓮司に目を向けると、蓮司も何かを察しているかのようにこくりとうなずき、ページをめくる。


――昭和六十二年 十月十日(土)――

天候:霧濃し・曇り/納戸の中を調査


《本堂調査、継続。昨日の夢が妙に現実味を帯びていた。夢の中で、私は寺の奥にある***部屋にいた。そこには赤い***と水鉢のようなものがあった気がする。が、そんな部屋は現実には確認していない。夢の産物であろうか。午後、再び納戸**査を開始する。棚の***に不自然な空間を確認する。背**押してみたところ、薄い板がわずかに沈んだ。その拍子に背板がきしみ、小さな隙間ができる。真っ暗だが、先に続いているようだ。蝋燭をつけて内部へ進む。そこには――低い天井、黒ずんだ畳の敷かれた六畳ほどの小部屋があった。中央には***敷物。その上には、陶器の水鉢。中に水は入っておらず、乾いていた。だが、鉢の縁に細かな爪痕のような傷が無数にあり。いったい何に使ったのだろうか?部屋の一角にさらに奥に続く戸あり。開けようと試みるが、鉄製のかんぬきが錆びついており、簡単には動かない。しかし、戸の隙間からはわずかに、冷たい風を感じる。通気があるということは、この先にまだ”何か”が続いている。明日以降、再びこの部屋を調査する。》


(夜間メモ)

夢が日に日*****りとしていく。誰かが、水鉢に何かを投げ入れる音が聞こえる。”かしゃん、かしゃん”という硬い音と、***の音。

目覚めた後に、床に水滴を確認。雨漏りなどしている様子はない。原因不明。

この現象が心理的錯覚でないとすれば、何らかの外的因子によるものと考えるべきか。


――昭和六十二年 十月十一日(日)――

天候:曇りのち雨、湿気が強い/*******


《夢の中で、寺の本堂の奥にある小さな間***昨夕に偶然見つけた部屋****立っていた。部屋の中央には水鉢が置かれていたが、その水面に知らぬ顔が映っている。私の顔ではなかった。思い出そうとすると、あたまの奥に鈍い痛みが走る。午前十時、再び本堂**部屋を訪問する。昨日の戸、工具を用いて閂をこじ開ける。扉は重く、内側には湿気がこもっていた。開いた瞬間にむっとした空気とともに、土と鉄の匂いが鼻をつく。地下道か?来る前に寺の構造を確認していたはずだが、どう考えても”やはり”おかしい。寺の建坪を優に超えている。だが、たしかに”下へと続く”風の流れと、かすかな湿気を感じる。やはり”ぽたり、ぽたり”と音も聞こえる気がする。恐ろしいとは違う、何か入ってはならぬような感覚。しかし、*****いる気もする》


(夜間メモ)

夜になると宿舎のどこかから”ぽたり、ぽたり”と水の音がする。風呂場は今の時間は使われていないはず。いや。もっと近くから聞こえている。隣の部屋にも誰も泊まっていないはずだが。音が耳につき、なかなか寝付くことができない。部屋の中も異常な***と*度に包まれている気がする。


――昭和六十二年 十月十二日(月)――

天候:未明に雨。午後からきり/耳鳴り、はきけあり、歪んでいる?


《朝、目を覚ますと部屋の障子が開いていた。しめたはずだが?廊下には足跡****濡れていた。私の......ぬいである。夢かげん実かわからない。あまり眠れていないせいか?体調も良くない。昨日、誰かに呼ばれた気がする。声の主はわからない。だが、私の名前をしっているようだった。あの先をちょうさする予定だったが、体調がよくないため、本日は調査をだん念。視界のゆがみと、**なりあり。明日、帰京予定のため一度宿舎の整理もかねて部屋に留まることにする。あまりこの場所に長くいるべきではない気がする。》


《帰京のために荷物をまとめていると、布団が入っていた押し入れの板が一枚妙に浮いていることに気が付く。外そうとしたわけではない、だが、手が***に――というのはおかしいな。私が勝手に外していた。そこをめくると、一冊の黒ずんだノート**っていた。ページの端がほつれている。最近のものではない。何十年も前のものと推測できる。表紙には宗川真志むねかわまさしと記載されている。その名を私は、だいぶ前に新聞の片隅で見つけたことがある。『民俗学者、若くして失踪。所在不明のまま』内容までは記憶していないが、なぜかその表題だけは覚えていた。妙な既視感があった。それが今、自分の手元に現れた。偶然とは思えない。中はまるで何年も水に浸っていたかのように劣化していたが、いくつかの記述は読み取れた『婚礼の形を借り****』『水に******嫁』『屋敷にある―――』『水の音が、近づい*****』まるで、私の記録と呼応するかのような内容であった。宗川もここに来ていたのだ。このノートは調査として持ち帰ることにする》


(や.....んめも)

どうにも眠れない。夕刻にすこし、熱を感じたせいかもしれないが、気が立っているせいかもしれない。

午前一時過ぎ。ふすまのむこう――いや。もっと近い。やはり枕もとのあたりから”ぽたり、ぽたり”と水の音がする。耳障り。不快。「ぴちゃり.......ぴちゃり」まるで、濡れた足でたたみを踏んだような、そんな音がする。蛇口はしめた。窓も、風もない。.......いや、もっと――生っぽい音だった。


すぐに明かりをつけて、周囲をたしかめる。身体が濡れたように思い。

ただ、確かに、畳の一部が湿っている。じっとり。そこだけ。まるで******立っていた。


――昭和六十二年 十月十三日(火)――


《昨夜ー私は確かに目覚めていた。明かりも付けた。時計の針は、二時を指していた。水の音が”ぽたり、ぽたり”と畳をたたいていた。ちかくで。眠ったのか、ねむっていないのか、わからない。水の音がしていた。床がふやけている......そんなわけはない。口の中で***の味がする。何かに運ばれた?覚えていない。なぜ私は本堂にいる?本堂の構造が昨日と変わっている気がする。距離感がつかめない。今どのくらい歩いたのだろう。思い出せない。私はどこに向かっている?天井がゆるい......柱がゆがんでいる。視界が歪んでいるからか?戻ろうとしても出口がわからない――》


(※以降のページは空白。次の記録は存在しない)


風がやんでいた。

「.......全部読んだか?」

低く、蓮司が問いかける。

澪は小さくうなずいた。口元を押さえたまま、目を伏せている。

額にはうっすらと汗が浮かんでいた。


「誰のだろ.......?」

澪がそう問いかけると、蓮司はおもむろに最後のページを開いた。

そこには、薄れて消えかけたインクで名前が書かれていた。


――鹿渡文太しかどぶんた


「.........この名前」

低くつぶやいた声に、澪が顔を上げる。


「え.......知ってるの?」


「あぁ。鹿渡文太.....昔、新聞で見た。数十年前に”失踪”した民俗学者の名前だ。たしか、大学の非常勤講師で、山村信仰の研究をしていたはずだ。どこかの山奥で、調査中に行方不明になったと聞いていたが――まさか、これに......?」


隣で澪が不安げに口を開く。

「それって.....この人が、その失踪した学者ってこと?」


「たぶん......いや、間違いないと思う。日付もあっているし、記述の内容も.......」

蓮司の手帳を持っている手に、じわりと汗が滲むのを感じた。

二人の間に重い沈黙が流れる。

見てしまった手帳の内容を、自分の中で整理して落とし込むかのように肩で息をする。


「いこ.......」

澪が絞り出すように呟いたその時――


”ぽたり”


すぐ近くの灯篭の陰で、水の音がした。

雨は降っていない。

誰もいないはずの灯篭の奥から、何かが這い寄ってくるようなそんな音だった。


蓮司は手帳をカバンにしまい、静かに息を吐いた。


「......鹿渡の言っていた”奥”に行こう。答えはきっとそこにある」


そう言うと、蓮司と澪は本堂へ続く残りの石段を登っていく。


見上げれば、そこには木々に覆われた朽ちかけた薬医門がたたずんでいる。

屋根には黒ずんで割れた瓦、柱にはひび割れ、誰も近づかずに生気が抜けたように、そこだけ時が止まっている。


その門の両脇から繋がれた縄に板の札が一つ付いている。


――【関係者以外立ち入り禁止】


「.......これ、寺の人が立てたものじゃないな」

蓮司が板の文字をまじまじと見ながら呟く。

「筆跡もおかしいし、文字のバランスも変だ。.......すごく焦って書いたような」


文字は掠れ、墨の渇きは異様に鈍い。


門の向こう――その境内は、まるで時が止まったように静まり返った空間だった。


雑草が無造作に伸び、誰も足を踏み入れていないのが想像できる。

境内まで続く石畳は、草に埋もれて輪郭すら失われている。

ところどころに灯篭もあるが、石は崩れかけ、地に沈み、半ば倒れているものもある。


そして、その奥に――

幽霊屋敷のような本堂が、静かにたたずんでいる。


もう少しだけ先をのぞこうと、無意識に一歩だけ足を門に向けた。


その時だった。


境内の奥、本堂の裏手あたりの木立の中。


――何かが、ほんの一瞬、視界の端に横切ったような気がした。


「......今、何か......」


「見えた?」


蓮司が振り返ると、澪も同じ方向を見ていた。

だが、そこには、何もない。

草がわずかに揺れているだけだった。


「気のせい、だよな」

蓮司の声に震えが混じっている。


澪が視線を落とす。足元の石段の上――誰のものでもない、濡れた足跡が一つ残っていた。

だがそれは、二人が気付く前に、風もないのにまるですうっと乾くように、消えていった。


「......戻ろう」

澪が声をかけると、蓮司は無言でうなづいた。湿った空気に足音が吸われていく。

引き返しながらも、二人とも、後ろを振り返ることはなかった。


背後にあるはずの薬医門も、朽ちた本堂も、振り返ればそこにあることを知っていた。

だが――見てはならないと身体が拒んでいた。

視界の外に”見てはいけない”何かがあるとき、人は本能的に視線を逸らす。

その感覚に従って、二人はただ黙々と、石段を下りていく。


――そして。


彼らが完全に門を背にした、その時だった。

音が止んだ。

ざわついていた草の音も、葉のこすれる音も、息をひそめていた虫の音も”ぴたり”と消えた。


静寂の中。

境内の奥、朽ちた本堂の縁側に、白い影が、そっと現れた。


風に揺れる白い布。

顔は見えない、うつむいて、ただそこに”いる”。

――まるで、さっきまでそこにいた二人を待っているかのように。


本堂の影が深く、女の輪郭だけが、まるで紙細工のように浮かんでいる。

”そこにあるはずのない色”

”そこにいるはずのない者”

けれど、たしかに存在している。

触れてはいけない”何か”として。


だが、蓮司も、澪もその存在には気づくことはなかった。


石段を下り、砂利道を抜けると、ようやく見覚えのある車が見えてきた。

無造作に止められた蓮司の車が、灰色の空に覆われた雲の下でぼんやりと輪郭を浮かべている。

だが、森の静寂は不自然に続いていた。


「......無事、戻ってこれたね」

澪の声には安堵と、疲れが混ざっていた。


「.......ああ」

蓮司も短く応じるが、その目はじっと車のほうに向けられている。


何かが”変”だ。


助手席側の窓。

そこには、白く曇ったガラスをゆっくりと撫でたような跡が、はっきりと残っていた。


「......なあ、見えるか?」

蓮司がぽつりとつぶやくと、澪も窓のほうに目をやる。


そこには、紛れもない”人の手の跡”

くっきりと、五本の指。だが......その指は、どこか異様に細長い。

節目は目立たずに、爪先までが滑らかに伸びていて、まるで、どこかの古い幽霊画から抜け出してきた女の手のようだった。


「.......これ、誰か触ったの......?」

澪の声が震える。


手の跡は間違いなく、車の中からついている。

誰かが車の中から触った――

それ以外にこの跡がつくはずがない。


「いや、全部閉めてあったし、鍵もかけてあった......」

蓮司の口も低く慎重だった。


澪の脳裏に夢でつかまれた、あの女の手が浮かぶ。

やせ細り、皮と骨だけのような手。


「中、見るぞ」


蓮司がドアロックを外す。

ドアを開けた瞬間、むわりとした湿気が一気に押し寄せてくる。


まるで、車内だけがしとしとと雨に濡れたかのような、異様な空気。

助手席のシートの表面には、微かに水滴がにじんでいる。

そして、社内に漂うのは――


香りのような、甘く、湿ったにおい。


すっと鼻に流れ込んでくるそれは、寺の薬医門の近くで嗅いだ、あの古びた香木のような香りに酷似していた。


「.......乗っていたのか、誰かが」

蓮司の声をは絞り出すようだった。


澪は何も答えずに、ただじっと助手席のガラスを見つめていた。

外の曇り空が反射して、ぼやけたその白い窓には、乾くことなく白い手の跡がくっきりと残っていた。

よく見ると、指の先――そこには、赤黒い煤のようなものがうっすらと残っていた。


「......戻ろう」

澪が囁くように言うと、蓮司は無言でうなずいた。


窓に残された手形をふき取り、車に乗り込む。

蓮司が運転席のキーを差し込んだ。


ーーカチッ


一度、乾いた音が鳴るが、エンジンはかからない。


「あれ......」


もう一度キーを回す。

数秒の沈黙の後に、ようやくエンジンが咳き込むように目を覚ます。


ーーブゥゥン.......ザザ......ザッ.....ザァ.......


スピーカーから、明らかに故障とは違うノイズが流れ出す。

ディスプレイには何も映っていない。ステレオもラジオもBluetoothも切れているはずだった。


「.......これ、なに?」


澪が硬い声で問いかける。

蓮司も眉を寄せて、操作パネルを確認する。

何もついていない。


なのに、ノイズの中には女の囁きのようなものが――微かに、混ざっていた。


「み......ず.......か.......」


小さく、吐息のような声が、スピーカーの奥から漏れ出ている。


「ふざけんな.......!」

蓮司が勢いよくパネルをたたいた瞬間、ノイズはぷつりと止んだ。


社内には静寂が戻る。

だが、異常に湿った空気が窓の内側を曇らせ、サイドミラーが白く霞んだ。


そのとき――


「きゃああああ......!」

澪が突然悲鳴を上げた。


「どうした?」

蓮司が焦ったように問いかける。


「今、バックミラーに......」

蓮司がその言葉を聞き、バックミラーをのぞき込むがそこには、静かに薄暗い森が映るだけで何も異変はない。


蓮司は車を出そうと、ふとサイドミラーをのぞき込む。

それは車を出すときの癖であり、無意識だった。

だが、そこには、木の陰に佇むように――白い影が、確かに見えた。


だが、それは一瞬。

蓮司が目を凝らす前に、木々の陰に溶け、消えていた。


彼は息を殺しながら、ギアをドライブに入れた。

タイヤが砂利をはねる、道端に落ちていた枝を折る音だけが、静まり返った車内にやけに大きく聞こえる。


だが、しばらく進んでから――


「.......なにこれ」

澪が小さく震える声で言った。


フロントガラスには、細い指の跡が4本、斜めに滑るように残っていた。

ちょうど助手席の外――澪のすぐそばから誰かが内側からなぞるように......


「外から......じゃない」

彼女の声に、蓮司が思わず息を呑んだ。

フロントガラスの内側だった。


ふたりは、無言のまま顔を見合わせる。

だが、その沈黙の裏で、誰かの気配が、まだ車のどこかに残っているような気がした。


境内を離れておよそ三十分。

車はようやく、人気のある村の中心に差し掛かった。

夕焼けは終わりかけ、空は濃紺に沈もうとしていた。


外灯は少なく、家の数も多くはない。

窓のカーテンは閉じられ、まるで村全体が何かを拒絶するかのように静まり返っている。


「.......今日は、もう戻れないな」


蓮司がハンドルを握りながらそう呟いた。

さっきの異変がまるで、嘘かのようにエンジンは機嫌よく音を立てている。

だが、やはりさっき見た”白い影”と、内側についた指の跡が忘れがたい。


「どこか、宿をとろう。......この村に、泊まれる場所があればだけど」

そう言いながら、澪はスマホを開く。

スマホからのブルーライトが澪の顔を照らし出すが、その顔には疲れが見えた。


「《山月荘》っていうところがあるみたい」

そういうと、澪はナビを設定する。

蓮司はスマホから流れる音声に沿って車を走らせた。

心のどこかに小さな違和感を抱きながらも、思いだせないままに車を走らせた。


山月荘は、村の外れの坂の途中にひっそりと建っていた。

古びた木造建築で、屋号の板は傾いて苔に覆われて翠がかっている。

玄関には鈴がついた引き戸があり、開けると空除湿のような空間と、古びた下駄箱が置かれていた。

靴を見るに、自分たち以外に二人ほど宿泊客がいるらしい。


「........意外と、まだ営業してるんだな」


中に入ると、帳場には腰の曲がった年配の女性がひとり。この宿の女将であろう。

やけに静かなフロントに大きな時計の針の音だけが響いている。

差し出された宿泊者名簿に名前を記入する。


「二名様、今夜お泊りですね。お食事はつきませんけど、それでもよろしいでしょうか?」


澪がこくりと頷くと、すかさず

「あの......今晩は一部屋でお願いできますか?」

そう尋ねると


「はい。構いませんが......お二人で?」


「ええ。」

蓮司がそう繰り返すと、女将は部屋のカギを取り出した。


案内されたのは、二階の端の角部屋。畳に古い箪笥と、壁際に低い鏡台、それと、年季の入ったしたちゃぶ台があった。押入れをあけ、布団が二組あることを連時に確認すると、女将は一礼して部屋を出て行った。


客室は、古びていたが、清潔に整えられていた。

低い天井には一昔前の照明が柔らかい光を落としている。

窓の外はすでに夕刻をすぎ、薄暗くなり始めていた。


「思っていたより、普通だね」

澪が荷物を降ろしながら、蓮司に話しかけた。


その時......


――カラン。


乾いた音が、畳の上に落ちた。


「.......え?」


足元を見ると、畳のふちに沿うように、何かが転がっている。

それは、あの簪だった。


「........どうして? バッグの奥に入れてた気が......」

澪は眉を寄せる。


「たしかに。車の中でも一度確認したしな.......チャックも閉めた」


簪はまるで自分から這い出してきたかのようだった。

転がった位置は不自然で、まるで、二人の目に留まるかのように”出てきた”かのようにも見えた。


拾い上げようと指を伸ばしたその時、彼女の手が一瞬止まった。


「.......これ、濡れてる?」


澪がそっと触れると、簪はぞっとするほど冷たくなっている。

まるで、あの白無垢の女がついさっきまで握りしめていたかのように。


蓮司も隣に座り込み、手に取った簪を彼も顔をしかめながら覗き込んだ。


二人はしばらく、黙ったままそれを見つめた。


――見られている。

そんな感覚が、確かに纏わりついていた。


「これ......宿の人に見せたら何かわからないかな?」

澪が放った声は、わずかに震えていた。


蓮司は小さくうなずくと

「この家紋のこと、何か知っているかもしれない」

そう返した。


その時、部屋の隅に置かれていた鏡台がかすかに軋む音を立てた。

誰も触れていないはずなのに――


澪と蓮司は、無言のまま簪を握りしめて帳場へと向かった。


部屋の外の廊下はしんと静まり返っていて、虫の音さえ遠くにしか聞こえない。

歩くたびに、古びた床板が軋み、まるで誰かに後ろをつけられているような感覚が付きまとう。


帳場では、女将が一人、帳簿の整理をしていた。

八十近いと思しき、白髪混じりの髪をきちっと後ろで束ねた小柄な女性。

老眼鏡の奥の目は細く、目じりのしわも相まって、優しげな表情をしていたが――


「すみません。ちょっとお聞きしたいことがあって」


連子がそう声をかけると、女将はふと顔を上げ、ほほ笑むと

「はい、なんでしょう?」

心の休まるような声を返す。


澪が少し迷ってから、手に握っていた簪をそっと差し出し

「この、簪なんですが......この家紋について何か知っていることってありませんか?」

そう尋ねると


女将の笑みがぴたりと止まった。


目の奥の筋肉が音もなくこわばる。

まるで、何十年も前の記憶に突然刺されたかのように――深く、静かに、表情が凍りついていく。


「.......どこで、これを」


とても、低い声だった。先ほどまでの朗らかな雰囲気は微塵も残っていない。


澪は慎重に言葉を選びながら答えた。


「寺で......たまたま見つけて。気になって持ち帰ったんです。もしかして、何かご存じなんですか?」


女将は答えなかった。いや、言葉を選んでいるといったほうが正しいかもしれない。

しばらく沈黙が続いた後、視線を落としたままで、ゆっくりと口を開いた。

明らかに、日常の延長にはない、異質な色を帯びた声だった


「......その簪を、どこで?」


澪は少し考えたのちに慎重に答える。


「水迎寺の医薬門の前で......倒れていた木の根元に落ちていました。最初は気づかなかったんですが、誰かの落とし物かなと思って.....でも、拾ってから変な夢を見るようになって.....」


女将の目が細くなり、そっと澪の掌に視線を落とす。

まるで、澪が隠していることを読み取ろうとするかのように。


「それは.....水主家の家紋ですね」


それは、まるで長い年月蓋をしてきた記憶を、今になって引きずり出すかのようだった。


「......ただし、今の水主家のものではなく、古い家紋です。”旧家紋”というものです。今はもう、使ってはいませんが。昔、この地方の旧家で使われていたものですね。あなたたちは、若いから知らないだろうけれども、明治のころ、この村の旧家で家紋を変えた家がいくつかありました」


澪の中で一つの事柄がつながった。

蓮司が持ってきた資料の家紋。どこか違う気がしたのは、おそらく簪に刻まれているのが”旧家紋”であったからだ。


「水主家って.....あの、今も村にありますか?」

澪が、訪ねるように聞く。


「あるよ。苗字は変わっているけどね。でも、今は”普通の家”さ。昔のことは、もう誰も話したがらないよ。.......というより、話せる人も、ほとんどいないよ」


女将は視線を落とし、帳場から見える廊下の奥、灯の届かない空間に目を向けた。

どこか、過去の記憶を探るような仕草だった。


「......その紋は、別名で”迎え紋”とか”印の紋”とかと呼ばれていた。誰が呼び始めて、どうやって伝えられたのかも、はっきりはしていない。私の祖母の代の話だからね。ただ、それにかかわっていたのは、水主家だけじゃないと聞く。それこそ、もっと、ほかの家――蛇ノ宮家じゃのみやけとか、祝部家ほうりべけとか、白雨家しらさめけとか......そういった名前も聞いたことがある。詳しいことを知りたいなら、村はずれにある鵜飼さんのところを訪ねるといい。水迎寺の墓守をやっているから、何か知っているかもしれない......変な夢を見てるってことだし、私から連絡しておいてあげよう」


言葉の最後はかすれるような声だった。


沈黙が落ちる。


だが、蓮司が何かを思い出したかのようにぽつりと呟いた。

「鵜飼......」


それに続けるように蓮司が口を開く

「あの.....鹿渡文太という人の名前を聞いたことがありますか?昭和の終わりごろに、ここの辺りを調べていた民俗学者で......」


"鵜飼"という名前、拾った手帳に書いてあった墓守と同じ名前だった。


女将はその名に明らかに反応を示した。


「鹿渡......」

すこし時間を置いた後に、女将が話を始めた。


「ああ、いたよ。ずいぶん前のことだけど、うちに泊まっていたね。奇妙なことがあったから、はっきりと覚えているよ。泊まっていたのは、たしか、今、あんたたちが使っている部屋だよ。それと、隣の部屋を書き物部屋みたいに使っていたね。あの人も、このあたりの”昔のこと”に興味を持って、熱心に調べていたね。帳場の帳簿にまで目を通していたっけ。でも......ふっといなくなった。部屋には荷物だけ残してね。私の母親はまるで誰も泊まっていなかったかのように、部屋の片づけをしていたけど、明らかに普通ではなかった。まるで、寝ていた人が水になって溶けたみたいに、布団に人の形だけを残していなくなったんだ」


蓮司と澪は顔を見合わせる。

あの手帳を思い出し、冷たいものが背筋を撫でた。


「まさか.....これに関係して」

蓮司が少しだけ口にした言葉に、女将は答えなかった。

ただ、少しだけ、首を横に振っただけだった。

それは「知らない」というよりも「言えない」という拒絶にも見えた。


やがて、女将は帳簿の奥の棚から、古い名簿のようなものを取り出してぱらぱらとめくった。

そして、ふと手が止まり、ページに指をあてた。


「......昭和六十二年、十月。確かにこの部屋に一週間ほど滞在していた。でも、そのあと、誰も見ていない。ただ、誰も最初から何もなかったことのようにされていた。もちろん、警察に届け出もだしたみたいだけど、臭いものに蓋をするかのように、ろくに捜査もされずに”行方不明”って扱いになったね」


ページを閉じると、女将はそれ以上のことは語ろうとしなかった。


帳場から戻った二人は、無言のまま襖を閉めた。

部屋の電気がさっきよりも頼りなく見え、室内はしんと静まり返り、聞こえるのは外の虫の声だけが低く鳴り響いている。


「.......やっぱり、知ってはいるが、関わりたくはない」っていう感じだったな。


蓮司がいい、畳に腰を下ろす。澪もその向かいにすっと座った。

手には確かにあの簪を持っているが、どこか重たく、冷たい感触が指先に残っていた。


「”蛇ノ宮家”って......聞いたこと、ない。ほかの家も。夢にも出てこなかった」


「俺も調べた記憶はないな。ただ、あの女将が言っていたことは気になるな。昔は水主家以外にも家があって、儀式に関わっていた。でも、今は、その名前すらほとんど知られていない.......」

蓮司は拾ってきた手帳をめくり、中の内容を再確認しながら言った。


「明治の頃に家紋を変えた、って言ってたよね。何か隠すためだったのかな......その、周りには言えない儀式とか」


澪は畳に座りこんだまま、簪を見つめ続けていた。あの夢で見た女。その髪に、まさにこれが挿さっていた気がする。いや、それ以上に、簪そのものが、彼女の”意思”のようなものを宿しているような、不快な気配を放っていた。


「ねぇ......この簪、どうして私のところに現れたんだろう」


澪がぽつりと呟いた。


「夢で見ただけのはずなのに、現実に手にしているなんて、おかしいよ......。最初見つけた時から、ずっと気味が悪かったけど......今になって、もっと怖くなってきた」


澪はそっと顔を上げた。その瞳には、不安と微かな決意が同居していた。


「今、手帳をきちんと見返したけど、簪のことは、鹿渡も記録していなかった。知らなかったんだろうな。けど、それを持って行った澪の前には、こんな情報がぽろぽろ出てきて......まるで、」


――ギィ。


部屋の襖が軋んだかと思うと......


”ぽたり、ぽたり”


部屋のどこからともなく、水の滴る音がした。

ぽたり.......ぽたり........と畳に落ちるような、はっきりした音。

しかし、この部屋ではない。明らかに壁の奥。隣の部屋から聞こえている。


「......今の、聞こえた?」


澪が小さく問う。蓮司も眉をひそめて頷いた。


「.......でも、隣の部屋、誰も入ってないって、言ってなかったか?離れで静かだって......」

部屋に静かな沈黙がのしかかる。


.......ぴちゃ、.......ぴちゃ


また音がする。でも、今度は水の滴る音ではない。

濡れた”何か”がゆっくりと、畳を踏むような――重みのある足音。

薄い壁を一枚隔てた向こう側からだ。


蓮司は慎重に立ち上がると、そっと壁に耳を当てた。

水の滴る音も、濡れた足音もぴたりと止んでいた。


「......見に行く?」


澪がそう尋ねると、蓮司はわずかにためらったが、黙ってこくりと頷いた。

二人は廊下に出て、壁の向こう――隣の部屋を見ると


「......開いてる?」


本来なら、宿泊客もおらず、鍵が締まっているはずの部屋の扉が半開きになっている。


「......誰かが入った......?」


そういうと、二人はゆっくりと、まるで”誰か”に気づかれないように息を殺してその部屋の前に近づく。


澪が息を呑む。その時、再び――


――ぽたり。


今度は彼らの目の前、部屋の奥から水の音がした。


蓮司が手を伸ばし、そっと引き戸を開けた。

ギィ――と軋む音とともに、部屋の中がゆっくりと現れる。


誰も泊まっていないはずの空き部屋。


だが――床には無数の濡れた足跡が続いている。

室内の畳はじっとりと、今しがた、濡れた足で誰かが歩き回ったように濡れていて、どこか一点から、”ぽたり、ぽたり”と水が滴っている。


そして、その足跡は、部屋の奥へ、まっすぐに伸びている。

部屋の奥は窓が開いているのか、ひらひらと白いカーテンがまるで、白無垢のように揺れている。


二人は言葉もなく、ただ数秒その光景を見つめていた。


「......戻ろう」

蓮司の声は低く抑えられていた。


部屋の戸をそっと閉じると、二人は何も言わずに廊下に戻った。

背中に、濡れた足音がついてこないことを祈りながら。


部屋の扉を閉めた後の廊下はやはり、足音ひとつ立てるのがためらわれるほどに、静かだった。


二人は部屋に戻り、そっと襖を閉めた。

冷え切った空気が、部屋の中にまだ残っていた。

電気をつけていても、どこか湿ったような、押し黙った空気が漂っている。


「......鍵、かけておこう」


澪がそう憂いながら鍵をかけると、少しだけ現実に戻ったような気もした。


「......今日は、もう休もう」

澪がそう口にしても、声に張りはなかった。

目の下にはうっすらと隈ができ、明確な疲労が顔には浮かんでいた。


押し入れから取り出した、少しくたびれた薄い布団を敷くと、そこに身を投げるかのように横たわる。

なぜか枕の端が濡れている。


(なんで?.........)


そう思ったが、考えるのが億劫になり、ゆっくりと、水が垂れるようにまぶたが落ちていく。


――闇が、落ちた。


――ぽたり。

静寂を裂くように、水の音が一つ、落ちる。

静かに......絶え間なく。


ぽた、ぽた......と、畳の上に水が落ちる音。


ゆっくりと、目を開くと、畳の部屋の真ん中にいた。

窓はない。見渡せば、障子は閉ざされ、壁には薄く染みが浮かんでいる。

部屋の隅に置かれた蝋燭が薄暗く、まるで、深い水の底に刺す微光のように、湿った部屋を不気味に照らしていた。


古びた木と湿った畳のにおいが立ち込め、どこかから、しんしんと冷気が忍び寄る。

空気が重い。肺の奥に、何かが沈み込むような感覚。まるで、土の中にいるようなそんな息苦しさを覚える。


その部屋の真ん中に――白無垢の女がいた。


ひときわ黒ずんだ畳の上に、うなだれ、背中を丸めて動かない。

まるで、何かを受け入れ、ただ死を待つだけの人形のようにも見えた。

整えられた髪が、水に濡れたように黒く輝き、先端からは真っ黒な雫がこぼれている。

やはり、顔は見えない。ただ、これまでの夢とは違い、どこか、小さく震えているようにも見えた。


(顔を......)


澪が近づこうと一歩踏み出したとき、畳の下から、どろりと水がしみだしてきた。

ぬめりを含んだ、真っ黒な水は、澪の足を絡めとるように流れ、すぐに澪の足首を浸した。

部屋が.......沈んでいる。


床の底から湧き出す水が、徐々に澪を侵食していく。

ただ、その水は、もう冷たくはなかった。


――ぬるい。まるで血のような温度。


ひどく不快な温度。


「......ここは......?」

そう、呟こうとしたが、何かに堰き止められたかのように声が出せない。


その時。

ざ.......ざざざっ......

足音。それも複数人。


後ろの扉が、ゆっくりと開く。

そこから、白い面をつけた三人の人物が、ぬるりと現れた。

白装束に身を包み、気味の悪い能面をつけた者たち。


彼らは、無言のまま、白無垢の女の周囲を取り囲む。

目の位置にあるはずの黒い穴からは、何も感じられなかった。まるで、奥には目などないかのようなからっぽの空間。


澪はその場に立ち尽くしたまま、動けなかった。

なんとか、声を出そうにも、まるでのどが張り付いたかのようだ。

ただただ、彼らの儀式を見届けるしかなかった。


一人目の男が、銀の簪を差し出す。

細く、美しい彫金。澪が手にした簪によく似た模様が、何かを象徴するかのように刻まれてる。

男は、花嫁の髪を静かに撫で、簪を深く差し込む。

その瞬間、花嫁の身体がわずかに震えたが、誰も何も言わなかった。


二人目の男が、青白い勾玉を首にかけた。

まるで何かを封じ込めるような鈍い光。

それに触れた途端に、花嫁の肌にうっすらと水の膜が浮かび上がるように見えた。


三人目の男が、綿帽子をかぶせた。

それが、顔をすっぽりと隠すと、花嫁の呼吸が止まりかけたようだった。

その白さは、死装束にさえ見える。


そのとき――


「........り.......ない」


掠れた声が、頭の奥に響いた。


仮面の男たちが、じり........じり........と花嫁に近づいていく。

まるで、何かに追われるかのような焦りが見えた気がした。


儀式が終わったのか、畳が軋む音がし、床板がずれるような低い音がした。

花嫁の白無垢の裾が、澪とともにゆっくりと床下に吸い込まれていく。


行ってはいけない。しかし、見届けないといけない。

そんな思いを持ちながらも、澪の足は抗えずに後を追っていた。

木の手すりは黒ずみ、ところどころに苔がついている。

狭く、湿ったその空間は、ただ黙って下へ下へと続いている。

下に行くほどに、湿度が強くなり、まるで見えない何かに纏わりつかれているような重さを持っていた。


三十段を過ぎたあたりで、空気が変わった。

風は通っていないはずなのに、ひやりと頬を撫でるものがあった。

目の前を歩く花嫁が、時折、何かに吸い寄せられるように揺れる。


やがて石段へと変わる。

木の階段は終わり、そこから先はまるで何かを導くような通路へと変わった。

苔むした石壁。どこからともなく天井からは水滴が落ちている。

ぽた、ぽた。ぽた......ぽた.......と。


花嫁は男たちに囲われ、奥へ奥へと進んでいく。

まるで、何かに導かれるように。


いつしか、澪の耳には別の音が混ざり始めていた。


――ちゃりん、ちゃりん――


夢で何度も聞いた鈴の音。

三人の仮面の男たちが、まるで祝福するかのように一歩、また一歩と、足取りに合わせて鈴を鳴らしていた。

しかし、それはどこか、何か得体のしれないものへ供物を運んでいるようにも見える。


やがて、通路が広がり、目の前がふっと開けた。

濡れた石段が終わり、ひやりとどこか生々しい風が澪の頬を撫でる。

ここは地上ではない。


目の前に広がっていたのは、儀式殿のような空間だった。

天井は高く、黒い岩肌が不規則にせり出しており、岩肌をぐるりと廻るように1本の注連縄が巻かれている。

その壁には点々と松明が灯り、水面には仄かな明かりが反射している。

光は最小限で、空間の大半は闇に覆われていた。


中央には、黒々し、静まり返った、底の見えない水がただ何かを待っているかのように留まっている。

それは、池のような広さで波は一つも立たず、ただ暗く沈黙していて、その水面の中央には、石造りの台が浮かぶように立っている。


台には、注連縄を模したような古い痕跡があった。

近づくと池からは微かに、墨のようなにおい――いや、血の乾いたような鉄の匂いが漂っている。


空間の奥には、何かを祀っているであろう、古びた社殿が一つ、岩肌にめり込むように建っていた。

扉は閉ざされ、苔に覆われていて、中は見えない。

しかし、そこからは絶えず、水のようなものが流れ出している。

社殿の周囲には、無数の木札や布が打ち付けられ、封印のようなものが施されている。

まるで、そこから流れる水を止めるかのように。


それでも、水は止まらずに流れ続けている。


花嫁が静かに、台座へと歩を進める。


――ぴちゃ、ぴちゃ.......


花嫁の足音がやけに耳の近くへ聞こえる。


――息が、苦しい。


それはただの夢の中の風景のはず。

なのに、澪の喉元にはひたひたと迫る切迫感。

心臓の鼓動も他人のもののように遠くなっていく。


(......肌寒い)


背中を冷たい水が撫でていく感触がある。

まるで、少しずつ背中を濡らされて行っているような感覚。

膝の下には石の硬さ、足の先には浸みこむような水のぬるみ。

誰かが触れている感覚が、まるで自分の中に流れ込んでくるかのように感じられた。


視界がぐらりと揺れる。


水面に自分の顔が映っている。綿帽子をかぶり、真っ赤な口紅を施し。

目の前の花嫁を見ていたはずなのに――


(.......私、だれ?)


問いが浮かび、瞬く間に水の中へ溶けていく。


首に絡むような重み。

喉奥にざらざらと感じる異物感――

ざらついた、小さな粒が、無理やり口に押し込まれる。


(......砂利?)


足元には、大小さまざまな小石が入れられた壺が置かれている。

能面の男の一人が、一つ、また一つと腹の中へ押し込んでくる。


(......苦しい)


息をするたびに喉の奥で冷たく擦れる。

逃げようとしたが、手と足が注連縄で硬く結ばれていて身動きが取れない。

頭にかぶせられた綿帽子が、風もないのにかすかに揺れている。


腹を裂くのではない。

石は口から。奥へ、さらに奥へ。

ゆっくりと、無理やりに、重さが加えられていく。


(......嫌だ、やめて)


声を出そうとしても、口が動かない。

代わりに、花嫁の喉奥から、浅く震えるような呼吸音だけが

ただ、石が内臓を満たす。

ぐちり――という微かな音だけが、耳の奥に響く。


(......助けて)


その後ろから低く唱えられる祝詞。

口には、飲み込んだ石を吐かないように注連縄がまかれる。

その時、体が浮いた。

男たちは何の反応も示さずに、澪――花嫁の体を抱き上げる。


(誰か.......!)


澪の意識が必死で叫ぶ。

けれど、花嫁の体はただ従順に、黙って連れていかれる。


台座の水辺に立たされ、男の一人が低く祈りの声を上げる。

その言葉は意味を持たぬ唸り声のようで、けれども、たしかに耳の奥にじんじんと浸み込んでくる。


澪の中に、花嫁の感情が流れ込んでくる。

恐怖、諦め、そして――何かを願うかのような思い。

それは、澪の感情と見分けがつかないほどに定着していく。


ふと、視線が池に落ちた時。

水の中に、ぽつり、と赤いものが滲んだ。


誰かの血なのか。

あるいは、すでにこの池に沈められた者たちの残された痕なのか。


そして、その水の先には、下から澪が来るのを待つかのように花嫁が眺めている。

花嫁の背中が押される。


(やめて.......!)

声にならない声で叫ぶ。

けれど、身体はゆっくりと水の中へ――


声がした。

体の奥に、浸み込むように、静かに冷たく女の声が流れ込んでくる。

顔は見えないが、確かに澪の身体をつかんで、水の底へ引きずり込んでいく。


「......まっ..........た」


すべては聞こえない。


口の中に水が流れ込み、息ができなくなる。

溺れる。

苦しい。


それでも、耳の奥ではずっとあの鈴の音が鳴り続けている。

少しずつ、水の中に溶けていくかのように意識が遠のいていた。


「澪!!!!!!」


蓮司の声がした。

それが、現実の声なのか、夢の中の幻聴なのかは、澪にはわからなかった。


「起きろ、澪!!!!!」


はっと目を開けると、見慣れた天井が視界に広がった。

喉に詰まっていた石が、急に浮かんだかのように、息が返った。


「........れん、じ......」


部屋の中はまだ薄暗く、襖の隙間からは、明け方の青白い光が差し込んでいた。


小鳥の声が、遠くで一つ、鳴く。


蓮司が隣で息を切らしていた。

額には汗が滲み、顔は青ざめている。


夢から現実へ。

だが、その境は、あまりにも曖昧だった。


澪は、喉元に手をやった。

夢の中で詰め込まれた砂利と石の感覚が、まだ鮮やかに残っている。

触れた指先は、確かに、何かが――冷たく濡れていた。


「......すごい汗......いや、これ、水.......?」


手を見下ろすと、水が......ぽたり、と掌から滴り落ちた。

夢の中のあの黒い水が、現実にまでついてきたとしか思えなかった。


「おまえ.....一瞬、水みたいに透けてて.....」

蓮司が震える声で呟いた。

その時、澪の髪の毛の先から、また一滴――水が畳に落ちた。


「夢じゃ.......なかったのかも.......」


澪の声は、まるで何かに身体の水分を抜かれたかのように枯れていた。

夢の中で叫び、もがき、息を詰まらせた記憶が、身体の芯にまで沁みついている。


「あの花嫁.....私、だったかも.....しれない」


蓮司が顔を上げたとき、二人の間にしんと静寂が流れた。

部屋の中には、外の風の音も、廊下を踏む音もない。

ただ、生臭い水のにおいだけが、じっとりと部屋に広がっている。


二人が、一つ呼吸を置こうとしたとき


コツ.....。

コツン、と。


何かが壁を叩くような音が、隣の部屋から響いた。


「今の......また隣から.....?」


二人は顔を見合わせると


「行ってみよう」


まだ空は青く、宿舎の廊下には人の気配もない。

昨日閉じたはずの扉はやはり少しだけ開いている。

二人は顔を見合わせると、扉に手をかける。


――ギィ


古くなった蝶番が気味の悪い音を立てる。

まるで、誰かに気が付かれないかのように足を忍ばせ入っていく。


「.......昨日と、同じ部屋?」


澪がそうつぶやく。

昨日、扉の外から見た部屋がどこか違う気がした。

閉めていないはずの窓はいつの間にか閉まって早朝の日差しが差し込んでいる。

昨日は、扉の外からで見えなかったが、部屋の隅には小さな漆の剥げた書き物台が置かれていた。


「そういえば、ここ、鹿渡さんが書き物部屋にしてたって言ってたな」

蓮司がそう言って中に入ると、おもむろに、引き出しを開ける。

すると、中でガサリと音を立てた。

その引き出しの奥に、まるで隠すように一枚の写真が差し込まれていた。


「......これ」


薄黄色に変色した写真は誰にも見つけられずに孤独に長い年月を過ごしてきたように感じられた。

そこに写っていたのは、白無垢の花嫁と、それを取り囲むように並ぶ、四人の能面の男たち。


だが――昨日、澪が夢で見たものとはどこか違う。


「.....四人?」

澪が呟いた。


蓮司が不思議そうにこちらを見たのを確認して話し始める。


「昨日の夢に出てきた人たち......なにかの儀式に関わっていた。でも、昨日の夢では3人だった」


「とりあえず、これを持って、もう一度女将さんのところに行ってみるか」


そういうと、蓮司はのそりと立ち上がった。

他に何かないかと、押し入れや、鏡台の引き出しを開けてみるが、何かが残されている形跡はなかった。

「さすがに、ないか......」

そう、蓮司が言うと、ふたりは部屋を後にする。


帳場に明かりが灯る少し前、澪と蓮司はまだ朝の静けさが残る廊下を歩いていた。

朝露が窓の外からうっすらと染み込んでくる。宿全体が、まだ夢と現実の境を漂っているようだった。


「女将さん、もう起きてるかな?」


「帳場の灯り、点いてる.....」


帳場にたどり着くと、女将はすでにそこにいた。

古びた帳面を開いて何かを確認しているようだったが、二人の姿に気づくと、静かに顔を上げた。


「......おはようございます。お休みになられましたか?」


どこか探るような視線と、どこかに優しさを感じる表情だった。


「おはようございます.....」


そんなことを返しながら、蓮司は昨日隣の部屋であったことを話し終えると、写真を差し出した。


「実は、今朝方、隣の部屋から一つ物音がして、勝手でしたがその部屋を確認したんです」


「そしたら、引き出しの奥から、これが出てきました」


女将は眉をわずかに動かした。

写真を受け取ると、無言でじっと見つめている。


「......懐かしい、というには.....ちょっと、これは」

どう言葉にしていいのかわからないという言い方だった。


「何か、ご存じですか?」


女将は首をかしげるようにして、しばらく無言で写真を見つめていた。

沈黙が重くなる。澪が何かを問いかけようとしたとき、女将は小さく呟いた。


「隣の部屋は.....かつて昨夜にお話しした、鹿渡さんがたまに書物部屋として貸していた部屋です。あの方も、昔の、うちの村の――いえ、もっと奥にあった家々のことも」


「この能面の人たちが、三人夢に出てきました――」


「四人、写っていますね」


女将は、指先で写真をなぞるように触れると


「私も、この四人がいつの誰なのかまではわかりませんが、もっと昔の時代、この地に水を引くために外部にはもらせない儀式をしていたと、祖母から聞かされたことがあります。それもあり、この村の人達は知っていても多くを語りたがりませんが、私もすべてを知っているわけではありません」


「この先を知りたいのなら、あとは鵜飼さんを訪ねなさい。昔のこと、儀式の由来、それに関わった家々のこと......私よりも、深く知っておられるはずです」


「村のはずれに小さな屋敷を構えています。昨日の夜、私の方から一報を入れておきましたので、事情をお話すれば、きっと何か教えてくれると思います」


そういうと、女将は帳場の奥から封筒に入った手紙のようなものを持ってきた。


「それと、これをお渡しください。写真と簪も一緒に――」


そう話すと、女将は何かを呑み込むように黙り、そして、そっと微笑んだ。


澪と蓮司は早々に準備を済ませて、宿舎を後にする。

村の朝は水が滴る音も聞こえてしまいそうなほどに静かだった。

空は鈍い灰色に覆われ、しとしとと小雨が降っていた。


澪と蓮司は女将に教えられたとおりに、村のはずれにある一軒家を尋ねた。

小さな薮に囲まれた、一見すれば、どこにでもあるような古民家。

瓦は苔むし、雨戸の木は空のような灰色に風化している。

けれど、その空間だけ、奇妙に時間が止まったかのような静けさが澱のように重なっている気がした。


「......ここで合ってるよな?」


蓮司がつぶやくと、澪は頷いた。敷居の門の前には「鵜飼」の表札があった。

呼び鈴はなく、代わりに、門柱の隅に古びた風鈴が夏を表すかのようにぶら下がっていた。

その風鈴が、まるで二人を来たのを知らせるかのように、静まり返った空間に、―カランと一つ音が鳴る。


戸をたたいてもすぐには応答がない。

しばらくして、――ギィ、と内側からゆっくりと引き戸が開いた。


「......あなた方が、蓮司さんと澪さんですか?」


現れたのは、六十代半ばほどの男性だった。背は低いが、骨格はしっかりしている。

ゆったりとした動作と、芯のある声に、どこか禅僧のような風格があった。


「昨夜に、宿の女将さんから、お話は伺っています。どうそ、お入りください」


家の中は整理されており、仏間のような座敷に通された。床の間には、どこか古びた掛け軸と、木製の位牌が整然と並んでいる。


二人が座ると、――コト、とお茶が出され、深い息をついた後に鵜飼が切り出した。


「......まずは、見せていただけますか? その写真と.....簪を」


澪は少し躊躇した後に、バッグの中から、二つの品を取り出し、低い座卓の上に置いた。

鵜飼はそれを見た途端に、わずかに眉を動かした。


「......これは、ただの簪ではございません。その昔、この地方、特に水主家などを中心に行われていた”迎えの儀”で使われていたものです」


彼は、写真を刺した。


「この、白い能面をつけた男たちは儀式を執り行う家の当主として、かつてこの地で絶大な地位と名誉を持っていました。この儀式は四家で執り行われており、水主家、蛇ノ宮家、祝部家......そして、白雨家。四家はそれぞれ儀式において重要な”役割”と”品”を与えられていたのです」


鵜飼はそういうと手元に用意していた古びた書付きを広げて見せた。


「品というのは、簪は水主家。勾玉は蛇ノ宮家。綿帽子は祝部家。そして、短刀が白雨家の持ち物でした。おそらく、この写真は儀式の前に花嫁と当主たちによって撮影されたものかと思います」


澪と蓮司は息を飲んだ。

そして、澪がそっと口を開く。


「でも、私の夢には、三人しか......」


少しの沈黙の後、鵜飼が口を開いた。


「少し、昔の話をしましょう......そうは言っても、私達が生まれるずっと前の話ですが」

そういうと鵜飼はゆっくりと口を動かし始めた。


「かつて、この土地は深刻な水不足に悩まされていました。そこに拍車をかけるように冷害と干ばつが起こり大量の餓死者を出した時期がありました。江戸時代中期、世の中では天明などと呼ばれています。その時期は冷害と干ばつが交互に発生し、作物は枯れはて、そこに火山の噴火なども加わり、日照時間が減少し、大量の餓死者を出したと聞いています。約5年ほど続いた飢饉のせいで、村では埋葬が追い付かず、餓死者の遺体が放置され、飢えた村人が次々に死者の肉に手を付けるなど、まるで黄泉と現世の境がつかないような状態だったと聞いております」


「その時、村に水を引き寄せるために行われたのが”迎えの儀”です」


鵜飼は二人の目をじっと見つめ、話を続ける。


「伝承では、その儀式は成功し、今の水迎寺のもっと奥より水が湧き出るようになったと聞いています。今では、水道が引かれ水不足に悩むこともなくなりましたが、かつてはその儀式が十年に一度、水神に花嫁をささげるという形で行われていました」


「.......」


澪が下を向き軽く唇を噛んで黙り込んでいると、蓮司がふと口を開いた。


「なんで、十年に一度?」


鵜飼はそっと席を立つと奥の引き出しから、一つの絵巻物と漆塗りに塗られた真っ黒な箱。

それと、数点の掛け軸を出してきた


「これは、当時の村の様子と、儀式の手順を示したものです。かつては、水迎寺に寺宝として保管されれていましたが、寺が廃寺になった際に、私の曽祖父が持ち出してきたものです」


そういうと、畳の上に広げ始めた。


「一つずつお答えします。まずは、十年に一度儀式が行われていた理由について。この絵巻物に描かれている通り、村は儀式をしたことにより、水に溢れ、死にかけていた作物は息を吹き返し、この儀式を執り行った四家を崇めるようになります。翌年も、その翌年も、村には水が流れ、村の人は何不自由なく暮らしていたそうです。しかし、時が経つにつれ、村はその代償を忘れていました」


巻物を指でなぞりながら、まるでそれを見ていたかのように話を進めていく。


「儀式を行ってから最初の十年目の夏、異変が起こりました。ある朝、川面には赤子のような大きさの魚の死骸が大量に浮かび、村中の井戸は黒く濁り、小さな虫が浮いていたそうです。そして、そこから数ヶ月すると村人が消えるようになったそうです。村を出ていったなどではなく、隣で寝ていた人が、ある日突然”神隠し”に合ったように消えているということが起こったそうです。それが、この掛け軸に幽霊画として残されています」


そこには、枕元に座り覗き込む、痩せて透けた姿の白無垢の女と、寝ている人。

そして、もう一枚の掛け軸には布団の中で人が水のように流れ出している様が描かれていた。


「これ......」

澪が指をさしながら蓮司のほうを見ると、蓮司も小さくうなずく。


「そのことを、当時の人は”水に呼ばれた”や”水に引かれた”などと言っていたそうです」


鵜飼の声には、どこか疑いようのない強さが含まれていた。


「それと、もう一つ。こちらは儀式の様子を伝えた書になります。ただ、これは、もともと水迎寺の寺宝として引き継がれてきた物のようです。水迎寺が今の姿になる前に、私の祖先が寺から持ち出してきたと聞いています」


そういうと、彼はもう一つの黒い箱をゆっくりと空ける。

その箱は、もう一本の伝承とは違い、どこか空けてはいけない”何か”が入れられた器のように見える。

箱が開いた瞬間に、部屋の空気がかすかに歪んだような気がした。

中には一冊の薄い書物が入れられていた。

長い年月を過ごしたはずの書は保管状態のせいか、どこか奇妙に新しい。

ところどころ滲んでいるが、核心部分は異様に鮮明に書かれていた。



『水迎ノすいげいのぎ


外部ニ示スベカラズ


此ノ村、古来ヨリ渇キニ悩マサレ、水神ヲ以テ命ヲ継ゲリ。

然レドモ、其ノ代償ニ、供物ヲ望マル。


依リテ定マレリ―

十年ニ一度、水ヲ迎ウル節、穢レナキ乙女ヲ以テ”水ノ嫁”ト為スベシ。

嫁ノ選定ハ祝部ノ家ニアリ。


一、嫁ト定マリシ者、満十八ノ春、十日ノ斎戒ヲ以テ身ヲ清ムベシ。

食ヲ断チ、言ノ葉ヲ断チ、母屋ノ奥、”贄ノ間”ニテ時ヲ待ツ事。

個ノ間、俗世ノ穢レ及バザル如ク、現世ヘノ未練ヲ捨テ、老女二名ノ下仕エノ者ノミ許ス。


一、十日目ノ暮レ七ツ時、身支度ヲ整ヘル儀トスル。

白衣ヲ纏ワセ、髪ヲ水ノ結ト為シ、髪飾リトシテ”球ノ簪”ヲ挿ス。

額ニハ水主ノ印ヲ朱墨ニテ記シ、足袋ヲ脱ガセ、裸足ニテ歩マセ。


其ノ首ニハ、蛇ノ宮家伝来ノ”勾玉”ヲ懸ケ、神ノ加護ヲ請フ。


顔ヲ覆フハ祝部家伝来ノ”綿帽子”ニテ、目元マデ覆フ事。

是、此ノ世ノ塵穢レヲ絶ツ為ナリ。


又、嫁ノ帯ノ裏ニハ白雨家伝来ノ祓ヒノ”短刀”一振リヲ密カニ隠シ納ム。

是、最後ノ時、魂ノ迷イヲ断ツ刀トシテ用ヒラル。

是無クバ、嫁、魂ノ迷イ断テズ、黄泉ヲ彷徨フ事トナル。


身支度ノ済ミシ後、一礼ヲ以テ現世ニ挨拶セシメ、灯リ一ツ、御導キノ者ト共ニ、水神ノ元ヘ向カフ事。


一、夜ノ更ケルヲ待チテ、灯リ一ツ、四家ノ神官ノ手ニヨリ導カレ、村ノ奥、御神ノ池へ至ル。

此ノ間、嫁ハ、口ヲ開クコト叶ワズ。

声アレバ、神怒リ、水ガ絶ツト伝フ。


一、池畔ニ設ケラレタル”御鎮座ノ間”ニテ、嫁ノ両腕両脚ヲ藁縄ニテ縛リ、胸ヲ圧シ、静カナル呼吸トス。

其ノ後、清メノ塩ヲ撒キ、”沈メ石”ヲ嫁ノ口ニ納ム。

歯ヲ合ワセ、石逃ゲザル様、注連縄ニテ其レヲ封ズ。


一、御神池ノ中央ニ設ケラレタル”捧ゲノ壇”ニ嫁ヲ載セ、催事ノ者四人、祈詩ヲ唱エ、水中ヘ沈メ置ク。

水、嫁ヲ受ケ入レレバ、其ノ夜ヨリ七日七晩、水ハ湧キ出、川トナリテ村へ降リル。

作物潤イ、村栄エルモ、此ハ供物ノ賜物ナリ。


然ルニ、十年ノ後、再ビ水枯レル時、池ノ底ヨリ声アリ。

ーー「再ビ、嫁ヲ迎エヨ」ーー


是、永キ契約ニシテ、破リシ者ハ、水ニ吞マレ村、滅ス。


水主、蛇ノ宮、祝部、白雨ノ印ヲ持ツ者、此ノ儀ヲ守ル責任アリ。

忘レル事ナカレ。



全てを読み終えると、蓮司と澪は息を飲んだ。



「これって......」

澪がぽつりと呟くと


「紛れもない人身供養だな......」

続くように蓮司が声を出す


「夢に出てきた、能面の人達。三人だった。私が夢で見たのは、間違いなくここに書かれていること。でも......あの夢には”短刀”も”四人目”の人も出てこなかった」


「......短刀がなく、夢にも三人しかいなかったということは、その儀式にいなかったのは......」


二人の気づきを確認するように、鵜飼がゆっくりと口を開き始めた。


「私が伝え聞いている中では、澪さんが見たという夢は、おそらくこの村で最期となった”水迎えの儀”かと思われます。ここから先はほとんど資料がなく、村でもほんの一握りにしか伝えられていない、口伝のみになります。それをお話ししましょう」


そういうと、静かに座り直し話し始めた。


「最後の儀式の日、白雨家は参加していません。いや、正確には”参加できなかった”というのが正しい理由です。」


「どういうことですか?」

蓮司がすかさずに聞き返す。


「白雨家は、時代が進み技術が進むとともに儀式の必要性に疑問を抱いていました。生贄を捧げるという、血なまぐさいやり方に頼らずとも、水は引けるはずだと、村の外の技師に相談をしていたと聞いています。だが、それも間に合わず、儀式の年は巡ってきてしまった。白雨家は、村に安全に水を引くのを条件に儀式の日を引き延ばすように三家に話し合いを持ちかけたそうですが、その話は聞き入れられなかったそうです」


澪の胸が詰まる。自分の夢で見た白無垢の花嫁――流れ込んできた感情。

恐怖と孤独の中で、石を喉に詰められて、沈められる少女の姿が、ありありと蘇る。


鵜飼は、澪の表情を確認すると話をつづけた


「そして、その年に、生贄に選ばれたのが......白雨家の娘です。たが、その娘には、すでに婚約者がおったと聞いております。もちろん、家もそれを大そうに喜び、大切にしていました」


「まさか......逃がしたんですか?」

蓮司が低い声で問いかけた。


鵜飼は蓮司の目を見て、口を結び静かにうなずき、そのまま話をつづけた。

「白雨家は儀式の始まる前日に、幽閉されている娘を村の外へ逃がしました。.......しかし、娘がいなければ儀式は成り立ちません。怒った三家の者たちが、その夜、白雨家に打ち入りをかけたそうです。家は焼かれ、当主はもちろんのこと、女、子ども、奉公人も......誰一人残らなかったと聞いています。もちろん、逃げた娘にも追っ手を出したと.....」


「しかし、それには誤算があった.......」

蓮司が問いかけると。


鵜飼は畳に目を落としたまま答えた

「ええ。結局、逃げた娘は見つからず、短刀もどこを探しても見つからなかった。焼けた屋敷を掘り返しても、納屋も、蔵も探したが、痕跡すらなかったそうです」


沈黙が落ちた。

すると、澪がふと聞き返す


「......燃えてしまった可能性は?」


「いや、それはないと思います。たとえ燃えたとしても、跡形もなくなるとは考えにくい」


蓮司が静かに問いかける

「......じゃあ、その短刀は?」


「二度と儀式を繰り返さないために、白雨家の者がどこかに隠したか、逃げた娘が一緒に屋敷から持ち出したか......」


「......それだと、最後に花嫁になったという方は?」

澪があの人は?というように問いかけると


「その時の儀式で沈められた”花嫁”は水主家の娘さんだそうです」


澪の背筋に寒いものが走った。


「本来生贄になるはずだった花嫁も、必要だった短刀も欠けたまま行われた儀式です。もしかしたら、夢に出てきている白無垢の女というのは、最後の花嫁となった”水主沙世みずしさよ”という女性かもしれません」


風もないのに、どこからか水のにおいがした。

鵜飼は少し口を閉ざし、長く息を吐いた。

そして、のどに突き刺さったものを吐き出すかのように


「.....その、儀式は失敗しました。水面は鎮まるどころか、沸き立つように揺れはじめて......やがて、禍々しい濁流が溢れ、それは、そこに居た者も、水主の屋敷で待機していたものも屋敷もろとも呑み込み、村にまで達したそうです」


鵜飼はゆっくりと立ち上がると、古びた引き出しから一枚の古地図を取り出した。

和紙は黄ばみ、滲むように描かれた村の地図。その中心に、ぽつりとだけ文字がある。


――「水迎寺すいごうじ


「これは、儀式の資料などではないですが......水迎寺が建てられた時に作成されたものです。その儀式の翌年。村を襲った水はしばらく引かず、作物はおろか、家の中まで達していたそうです。人々は祟りと考え、儀式の罪を鎮めるために、村に残された三家の分家と僧侶たちによって”水を送り、迎え、祀る寺”として建立されたそうです」


そういうと、鵜飼さんは天井を見上げながら何かを思い出すように続けた。


「.......昔は、水迎寺もちゃんと”寺”として扱われていたそうです。水害の後ということもあってか、寺を建てた当初から中では変な噂もあったそうですが、年の節目には、村人が供物をもって、参拝し、鐘をついて、手を合わせて、静かに頭を下げる。あの水害を鎮める意味もあったのかもしれませんが」


「けれど.....ある年を境に、妙なことが起こり始めました。参拝をしたものの中から”寝るときに水の音が聞こえる”だの、”水に沈んでいく夢を見た”だの、あげくには”本堂の奥から何かがはい出すような音が聞こえる”だの......原因は分からなかったが、そういう話が、ぽつり、ぽつりと出始めたそうです.....」


蓮司が唾をのむ音だけが、室内に響き渡る。


「最初は”気のせい”たまたま”で済まされていたそうですが......ある時、それを不審に思った男が立ち入りを禁止されていた、本堂の奥に入ってしまった。そこで”何をしたか”、”何を見たか”は知りませんが、その晩まるで煙にでもなったかのように”蒸発”していなくなったんだそうです」


澪が思わず手を握り締めた。

鵜飼はぞっとするほど静かな声で話を続ける。


「その男はいなくなる前に、周りの者に”あの寺の奥にはびしょ濡れの女がいる”や”どこかにつながった通路がある”などと話していたそうで、噂はすぐに広まりました」


「それで.......」

蓮司が相槌を打つと


「その話は瞬く間に広がり、”寺に近づくと、何かに引き込まれる” ”水に呼ばれる” ”夜になると、寺から足音が聞こえる”など――村の人は、寺に背を向けるようになりました。それを聞きつけた研究者の方も何人もいらしたようですが、ほとんどすべての人が”消息不明”になり、残った人たちも極度に寝るのを恐れるようになり、精神を病んでしまったと聞きます。その後寺も、何度か、修繕工事が試みられたそうですが、そのたびに、不可解な事故やけが人が出て、工事は中止。その結果、道も朽ち、鐘楼も倒れ、本堂も薬井門も廃れたまま放置されることになり、今の姿になっています」


一瞬の沈黙の後に鵜飼は静かに言葉を落とす。


「そうしたことが続いて、次第に村の人は”あそこは、もう寺ではない””水の祟りの抜け殻だ”というようになりました。私自身も、寺の管理として名前は貸していますが、小さい頃より、”寺には近づくな””山には近づくな”鬼が出るや、水に呼ばれると言い聞かされてきましたので、ほとんど行ったことがありません。もしそれでも行かれるのであれば、お気をつけて」


そう締めくくると、鵜飼はそっと湯飲みに手を伸ばし、ぬるくなったお茶を口に含んだ。

部屋には静寂が戻り、――しん、とした静けさが部屋を包んだ。


澪は何も言えず、下を向いたまま、膝の上で両手をぎゅっと握りしめていた。

頭の中では、村のためと、完成しない儀式のまま沈められた沙世の姿と、儀式に加わらなかった白雨家の娘の影が渦を巻いていた。

目を閉じると、二人の姿が瞼の裏にまじまじと浮かび上がる。


再び写真を見ると、まるで花嫁は誰かを待っているかのようにも見えた。


澪と蓮司が顔を上げると、鵜飼の視線は、簪に注がれていた


「あなた方の元に、この簪が現れたということは、どういうことなのか私にはわかりません。ただ、最後の儀式では、本来、沈められる者に渡されるはずだった”短刀”が見つからなかったことはお話いたしました。短刀には、伝承にもある通り、現世との未練を断ち切り、死者を黄泉へと旅立たせる意味もあります」


鵜飼の声がかすかに揺れる


「儀式に間に合わせるという理由で、急ぎ仕立てあげられた沙世は、現世への未練も切れず、短刀もないままに沈められた。もしかしたら、そのことが原因で、黄泉の世界にも行けず、まだ水の底を一人で彷徨い、その孤独を拭い去るために、近づいたものを水に引きこんでいるのかもしれません」


「......だから、呼ぶのか」

蓮司がそう呟くと


鵜飼は、二人をじっと見据えた


「短刀が今どこにあるのかは分かりませんが、もし、水迎寺に行かれるというのであれば、お気をつけて。あの場所は、先ほども申した通り良くない噂がありますので――」


そういうと、鵜飼はぎゅっと口を結んだ。


鵜飼の家を出ると、空はすでに午前の光に満ちていたが、どこか白くぼやけて、影は薄く、影は輪郭を失っていた。夏だというのに、どこか蝉の声は遠く、森の奥から手招きするような水音が風に乗って聞こえてくる。


澪は黙ったまま車へ乗り込む。蓮司も同じように無言だった。


――あの夢は、やはりただの悪夢ではなかった。

――”沙世”は、たしかに私を見ていた。


「......本当に、行くんだな」


蓮司の声は、地面から染み出す水のように低かった。


「うん。」

たった二文字だが、澪の声にはどこか固まった決意のようなものが漂っていた。


ふと、後ろを振り返っても、もう鵜飼の家は見えない。

見えるのは、山の奥へと続く山道と木の間からさすかすかな光。


二人は車を停め、鍵をかけると、荷物を背負いなおす。

道は狭く、草の背が伸び、地面のぬかるみが足を取る。

鳥は鳴かず、ただ風が木々を揺らし、歯のこすれる音が響いている。


「......澪」


「うん、感じてる」


昨日とは明らかに空気が変わっていた。

湿りが強く、のどに絡みつくような重さがある。

森林浴などとは全く異なる、真っ黒な重さ。

それは、水迎寺に近づくほど、二人へとのしかかってくる。


やがて、木々の隙間から、黒ずんだ薬医門が見えた。

苔むした石段を登りきると、やはり時間が止まったような境内が静かに迎えた。

風の音すら、ここには届いていないように感じる。

昨日と同じ、幽霊屋敷のように朽ちた本堂。ひび割れた灯篭。倒れかけた鐘楼の柱。


......のはずだった。


「......あれ、無い?......」


澪がつぶやいた。

薬医門に繋がれたいたはずの注連縄が無くなっていた。

誰かが外しに来たのだろうか?

こんな奥まで?


しかし、階段を見ても誰かが登ってきたような跡はない。


でも、たしかにここに、朽ちかけた注連縄で「関係者以外立ち入り禁止」と書かれた木札がつけられていたはずだ。

それが、跡形もなく消えている。縄を撒いていた痕跡も、木くずも地面には落ちていない。


「見間違いじゃないよね......あったよね、ここに」


「確かにあったな。注連縄に札がぶら下がっていたな」


蓮司も、階段の足跡を確認しているようだった。

門そのものは変わっていない。

だが、そこに禁忌への入り口のように掛けられていたものが無くなっている。

まるで、初めからなかったかのように.....。


澪はゆっくり息を吸い込むと縄のなくなった門を超えた。


その敷居を超えると、さらに空気が変わった。


異様に空は高く感じ、けれど光は届かず、肌に湿った冷気がまとわりついてくる。

背後からの風が、足元をさらりと抜ける。


「......ねえ、境内、こんなに......」


「広く......ないよな、本来は」


二人の言葉が重なる。

前回来た時よりも、境内が妙に奥まで続いて見える。

見渡せる範囲が開けているはずなのに、どこか”見通せない”。


そして――また、あの音が聞こえ始める。


”ぽたり、ぽたり”

と水が滴るような音。


咄嗟に周りを見渡す。

だが、目に映る限り、境内に水辺はない。

それでも、後ろから見えない何かにつけられているかのように、水の音はついてくる。


ふと、蓮司が本堂の方を指さした。

「なあ、あそこ......」


本堂の扉の前に何かが落ちている。


白い布――いや、違う。あれは、濡れた白無垢の裾だった。


くしゃくしゃに折り重なり、泥と落ち葉にまみれ、端が引き裂かれたかのように破れている。

だが、異様なのはそこに、”布だけではない物”が混ざっていた。


――長い髪の毛が数本


塗れた布に絡みついている。

水を吸った黒髪が、まだじわじわとしずくを垂らしている。

それでも、それは”誰か”がここにいた気配だけをはっきりと残していた。


「......なんだよこれ」

蓮司が呻るように呟く。


そして、澪はほんの一瞬だが見てしまった。

白布に紛れるように残っていた、爪のような欠片。

小さく割れて、泥に埋もれていたが、それは赤黒く変色していた。


誰かが、無理やり引きはがされた。

あるいは.....。

そんな情景が頭の中に勝手に浮かんでは沈んでいく。


ふと、耳本で”ずる、ずる”と濡れた布を引きずるような気配がした。


慌てて、石段のほうを振り返る。

しかし、そこには誰もいない。


ふと気が付くと反対に、白い布の先には、うっすらと足跡のような水の痕が、本堂の奥へと続いていた。

水の筋を辿りながら、まるで何かに捕まれているように重い足を一歩、また一歩と本堂へと近づける。

本堂までの石畳の上には、まるで、今しがた誰かがここを歩いたような濡れた跡がついている。

ただ、その後は、左右不揃いで、歩幅も狂っている。とても、まともな歩き方とは思えなかった。


左右に並ぶ、苔むして傾きかけている灯篭を横切る。


「......ここ、だね」

澪が呟くように言った。


本堂の前に立つと、その異様さがはっきりとわかる。

木の階段は、踏板がところどころ歪み、空いた隙間から、あの夢で見た手が”ぬっ”と出てくるようだった。

本堂の正面扉の障子は破れ、その端がまるで手招きするかのように揺れている。


ぴたりと、風もないのに、正面扉がわずかに開いた。

軋むような音はしない。ただ、そこにあるはずの静寂が”妙に、整いすぎている”。

まるで、誰かが、耳を澄ませて聞き耳を立てているような、圧のある静けさがのしかかった。


「......開けっ放しなんだな」

蓮司がそう呟くと、澪は黙ってうなずく。

記憶している限り、昨日薬医門の外から見たときには完全にしまっているように見えていたからだ。


「見て」

そう言って、澪が指さしたのは、扉の足元に散らばる細かな物。


「......花?」

蓮司が不可解そうに見つめる。


献花されていたものだろうか。

だが、花弁はつぶれ、踏みにじられ、ところどころが赤黒く染まっている。

湿った花弁の周りには、明らかに、何かに引きずられたような擦った跡と、水の斑点が残っていた。


そして、その近くには濡れて乾いたような無数の足跡が残っている。


裸足だった。

しかし、その足跡は大小様々であり、まるでこの場に複数人の何かがいたような痕跡であった。


「......行こう」

その一言を口にするまで、数秒かかった。

蓮司も澪の言葉にうなずくと、後に続いた。


木の階段を一段、また一段と踏みしめるたびに、ぎしり、ぎしり――という音が、やけに耳に残る。


そして、扉の前に立った時、澪は気づく。

本堂の奥から、かすかに水のにおいがする。

それは、清水のような清らかさではなく、長らく人の手の入らなかった井戸や、水底の腐敗を思わせる、止まった水のにおい。


澪は息を止めて、扉に手をかける。


――その瞬間、内側から「かつ......」と床が鳴った。


誰もいないはずのその空間から、誰かが一歩、歩いたような音。


二人は顔を見合わせる。

蓮司が頷くと、澪はもう一度扉に力を込めて――そっと開いた。


中は暗い。

昼間のはずなのに、外の光はほとんど差し込まず、空気がどこか重たく沈んでいる。

まるで、ずっと昔に時間が止まってしまったような静けさと古さが顔を出した。


中に足を踏み入れた瞬間に澪の鼻をかすめたのは濡れた畳のような匂いだった。

そして、その奥に微かに感じる、甘い匂い。

何かが、ゆっくりと腐っていく時のような――

いや、”花嫁がつける白粉”のようなそんな匂いが混じっている。


「......空気、重たいな」

蓮司がふと出した声も、壁や畳に吸い込まれていくように響きがない。


踏み出した足元は、妙に柔らかかった。

澪はそっと目を落とす。

そこには、薄く濡れて腐りかけた畳が広がっていた。

……水たまり、ではない。

けれど、歩くたびに靴の裏がしとっ、しとっと、何かを吸い込むような音を立てた。


ふと、本造から奥に続く廊下に目をやると、影が落ちている。


風もないのに、どこかから“揺れているもの”の気配がする。

布か、簾か、髪か。見えない何かが、ゆっくりと揺れているような気配がする。


二人は無言のまま、バッグから懐中電灯を取り出す。

光が照らす先に、乱れた仏具や、壊れかけた屏風が散乱している。

祭壇の仏像は、長年の埃と湿気で黒ずみ、金箔は剥げて痛々しい姿でこちらを見つめている。

それらが晒しだす風景は、誰かの手で荒らされたのではなく、時間の中で自壊していったような印象を与える。


その両脇の柱には褪せた紫色の幔幕まんまくがゆらりと波打つ。

懐中電灯で照らしてみると、ただの装飾ではなかった。

よく見ると、四つ隅には家紋のような模様が入っている。

そのひとつは、間違いなく簪と同じもの。

四家の家紋であることには間違いなかった。


幔幕の中央には、水を象徴するような波紋が描かれている。

それはまるで、何かをこの地に封じ込め、寄せ付けぬように描かれた”印”のようにも見えた。


そして、ふと幔幕の一つに澪が目を向けたとき。


風もないのに幔幕が揺れた。

ゆらり.....と光と影が交差する。

その一種、幔幕の隙間の奥――

白い何かが、そこにはあった。


真っ白な、裾の長い衣。

真っ赤な、口紅。

真っ黒な、目。


白無垢の女が、にやりと笑いながら、こちらを見ていた――気がした。


「......今、あそこに......」


思わず声を漏らすが、その姿は消えていた。


再び、本堂の奥に明かりを向ける。

そこには、ぽつんと、白木の台座が置かれ。

その上には、干からびて壊れた花冠のようなものが残されていた。


澪がそれに近づこうと、一歩を出した瞬間――


「ぴしっ、ぴしっ…..」


板が軋んだ。

足元ではないのはすぐに分かった。

音が遠すぎた。後ろ、今自分たちが上がってきた階段だ――


さっきの白無垢の女の影が頭をよぎる。

懐中電灯の光ごと、咄嗟に振り替えるが……誰もいない。

蓮司もまた、背中を硬直させたまま、無言で何かを感じ取っていた。


「……いま、聞こえたか?」


「……うん。足音……」


誰かが扉の外を歩いたような、乾いた音。

しかし、その音は、一歩分だけだった。


迫ってくるでもない、離れていくでもない。

ただ、そこに確かに“いた”と知らせるような、たった一歩の足音。


澪の喉が、ごくりと鳴る。

間違いはない、何かがいる。


そう思った瞬間、視界の端で何かが“揺れた”。


仏間の奥。

半開きの襖の向こう側。


「……行ってみよう」


自分の声が震えているのが分かる。

ただ、立ち止まっていると、足を何かに捕まれそうな気がして、動かさないわけにはいかなかった。


本堂の奥、裏堂へ続く渡り廊下

そっと襖を開ける。

――誰もいない。


ただ、その襖には今しがた誰かが触れていたであろう、濡れた手の痕が残されていた。


そして、下には水を引きずったような跡が廊下の奥へと続いている。

それは、かつて水迎寺の住職が暮らしていたといわれる庫裏に続いている。


それを追い、畳の縁に足をかけた瞬間――


空気が変わった。

急に湿り気を帯び、足元にまでねっとりとまとわりつくような重さ。

微かに、消えていたはずの水の滴る音が響いてくる。


――しん、と音が吸い込まれる。


渡り廊下を右に曲がった庫裏へと続く破れた障子の向こうで明らかに何か半透明の物が揺れている。


澪がそっと障子から覗き込んだ時。


そこに“いた”。


たった一枚の紙を隔てた向こう側。

澪の正面、距離のない場所。


――暗がりの一角に、いないはずの人影が立っている。


黒装束を纏った、一人の男の姿。


袈裟は水に濡れ、袴の袖はずるりと床を引きずっている。

だが、その服にはかつての神聖さなど微塵もなく、泥と藻と血にまみれ、腐臭すら感じさせた。


特に異様なのは顔だった。


能面のように白く無表情なその顔は、皮膚なのか、仮面なのかわからない。

目の位置には、黒い窪みが開いており、その奥からじっと何かを見つめている。

横顔だが、生きているものの目ではないことはすぐに分かった。

何か、感情のない“穴”から世界を覗いているような感じだった。


そして――それは口元を動かしていた。


声は聞こえない。けれども、たしかに口が何かを唱えていた。祈りなのか、呪詛なのか。

ただ、空気が震えただけのようでもあった。


澪がそっと下がろうとしたとき。

明らかに目が合った――


気づいたかのように、一歩をこちらに踏み出す。

動くたびに、身体からは水が落ち、畳の上に暗い染みを広げていく。


澪の脳裏に、夢の中で見た光景がぶり返した。

あの能面の男たち――。


男は、ゆらりと、一歩、こちらに歩み寄る。


その背後から、まるで別の水音が呼応するように波紋を立てる。


「逃げろ!!!!!」

蓮司が澪の手を引いて叫ぶ。

その瞬間、男の姿はぼやけ、霧のようにすうっと空間の奥に消えていった。


だが、確実に見た。

彼の背の裾――袈裟から、ぼろぼろの白無垢の裾が濡れた蛇のように這い出していたこと。

間違いなく、この世のものではないことは疑いようがなかった。


それが、暗がりの中に亡霊のように溶けると、あたりには深い沈黙だけが残された。

蓮司も澪もしばらくの間、その場で身動きが取れずにいた。


「……見間違いじゃないよね?」


澪の声は、恐怖を押し込めるように小さく震えていた。

蓮司は口を結んだまま、ただ静かにうなずく。

だが、そこに確かに「気配」はあった。

寒気とはまるで違う、皮膚の下を這うような感覚。


その場に染み付いた空気が、肌をじわじわと蝕んでいく。

本堂の中に風はないはずなのに、どこからともなく、濡れた衣が擦れるような音が聞こえる気がした。


やがて、蓮司は一息つくと、バッグの中からあの古びた手帳を取り出し、ページを繰った。


「この寺には“納戸”があったはずだ。鹿渡さんが隠し部屋につながっていると言及していた部屋……書き方的に中庭の奥のほうだと思うそこに向かおう」

澪は小さく息を飲んだ。あれを目撃した後に、屋敷の探索を再開するには、あまりにも勇気がいる。

しかし、もう、引き返す選択肢はない。そう思い、微かに頷いた。


本堂の外陣は、土煙と湿気がこびりついたような空気に包まれていた。

欄干の木は割れて歪み、畳の端は黒く腐っている。

大きな仏具のならぶ祭壇の裏側には、さらに奥へと続く細い通路がある。

蓮司が手にしていた懐中電灯の光が、朽ちた壁をゆっくりなぞる。


通路の先には、いくつかの小部屋が並んでいた。

ふすまの紙は破れ、床板の隙間からは、誰かがのぞき込んでいるかのように風が漏れている。

時折、床下から「ぴしゃ.....ぴしゃ」と水の音がするのが、不気味でたまらない。


詳しい位置がわからないため、一部屋ずつ確認しながら進んでいく。


座敷.....

仏具庫.....

着物部屋.....


どこも、空っぽだったが、何かが残っているような気配だけは残っていた。


やがて、左側の通路の先、中庭を抜けた奥まった位置にひときわ古びた木の扉が現れた。

左右の柱には、墨で何か書かれていたが、時間の経過のせいで、すでに判読は不明だった。

蓮司が開けようとそっと手を伸ばすが、びくとも動かない。


「......鍵がかかっているのか?」


鹿渡が調べてから、誰かがここまで来て鍵を閉めたのだろうか?

蓮司は不可解に眉をひそめながら呟いた。


澪があたりを見回す。

しかし、それらしいものは見当たらない。

ただ、扉の上にはわずかに蜘蛛の巣が張られている。


「.....近くには、ないみたいだね」

澪が返答すると


「簡単に誰かが入れないようにどこかに、閉まってあるのか?」

蓮司が続く。


その言葉を皮切りに、二人は再び、本堂に続く回廊と、その周りの小部屋をあたっていく。

古い床はまるで、二人が入ってきたことを誰かに知らせるように軋み、破れた障子の隙間からは、何かが覗いているような錯覚すらした。

襖を開けるたびに、埃が舞い、かつてここで”何かがあった”という痕跡が顔をのぞかせた。

畳には細長い髪が無数に落ちている。


最初に開けたのは、小さな仏具庫だった。

木の棚には、無数の食器や、祭具らしきものが積まれている。

その中には、使いかけの線香や蝋燭も含まれており、ほとんどは黒ずんで劣化していた。

まるで、何も持ち出さずにここから逃げ出したような気がした。


澪が棚の引き出しを調べていると


――カチッ


ふいに背後から小さな音がした。

慌てて振り返る。

誰もいないはずの入り口に、なぜか糸の切れた数珠が1つ落ちている。


まるで誰かが落としたような位置。


「.....落ちたのかな?」

そう思いたい気持ちが声になって現れる。


自分の気持ちを落ち着かせるために、そう呟いては見たものの、心の中には不快なざわつきが残った。

落ちたにしては、あまりに都合がよすぎる。


座敷では、蓮司が襖を開けた。

その瞬間、気持ちが悪い風が吹き抜けた。

どう考えても、密室であり、風が入る構造ではない。

しかし、襖の向こうの掛け軸が揺れ、床に置いてあった供物代がひとりでに倒れる。


蓮司が一歩踏み出そうとした瞬間、背後で閉めていたはずの襖が、音もなくゆっくりと開く。

「.....今閉めたよな?」

蓮司が慎重に口を開いたとき


廊下の奥から


”しゃら.....しゃら......”


となっている。


水の音ではない。

明らかに、床に布がこすれる音。

しかし、古びた床のあの軋んだ音は一切しない。


ふたりは顔を見合わせ、懐中電灯を片手に座敷から廊下の奥を照らす。

廊下の奥、誰もいないはずの暗がりを、一瞬”何か”が角を曲がった気がした。

「追いかけるべきではない――」そう本能が告げていた。


そして、そのまま隣の部屋へ移動する。

「着物部屋」

僧侶が控室として使っていたであろう部屋だった。


埃のかぶった小さな鏡台と、カビが生えた袈裟がかけられている。

畳の上には、どこから転がったのかわからない手鏡がひとつ落ちている。

それと、部屋の奥には小さな桐ダンスが一つ。


「調べるとしたら、あれだよね.....」

澪が震える声で話しかける。


蓮司はタンスを懐中電灯でしっかりと照らし部屋の中に入っていく。


二人が箪笥に近づいたとき――


「ない.....で......ない.....」


どこからともなく、微かに男の声が響いた気がした。

だが、誰の口から発せられたものでもなかった。


反射的に周囲を見渡す。

部屋の中には二人しかいないが、さっき見た角を曲がっていった影が嫌でも脳裏に浮かぶ。

蓮司は背後を警戒しながら再び視線を箪笥に戻すと


「開けてみよう――」


そういうと

ゆっくりと引き出しを開ける。

中から”何か”出てきたときにすぐに手を引っ込められるように警戒しながら。

上から順に


一段目、二段目、三段目.....


そのなかには、折りたたまれた白衣、香の袋、足袋.....

とくに変わったものが入っている気配はない。

ただ、すべての物が、水に浸かったかのように泥で汚れていた。


だが、中段の引き出しを開けたとき、明らかに滑りが悪かった。

まるで、中で何かが引き出しが開くのを抑えているかのように。


「これ.....裏で何か引っかかってる?」


澪が中を覗き込むと裏板が妙に浮いている。

慎重に手を伸ばして押してみる。


――カコン、


乾いた音を立てて、そこが外れる。

隠し底になっている。

中には一冊の小さな手帳。

表紙には「寺務」とだけ書かれている。

ふたりは懐中電灯で照らしながら慎重にめくっていく。


――経費


――供物


――雑務


その記録に混じって、ある項目だけ朱筆が使われていた。


――納戸


そこには


「納戸の鍵、外部に示すこと勿れ。本堂内陣、本尊の背面に納めし」


ふたりは顔を見合わせる。


「これだ!」

蓮司が声を上げる。


「納戸の鍵は、本堂にあるってことか」


「しかも、これってあの大きな仏像の背面にあるってことだよね?普通の参拝者じゃ絶対に入れない」


「やっぱり、あの納戸の奥には隠さないといけない”何か”があって、それは、意図的に隠されている」

蓮司は読み終えると、手帳を閉じ、ポケットにしまい込んだ。


そのとき――


パキッ......パキッ......パキッ......


どこかで木が弾けるような音が三度鳴った。

静まり返った空間に不釣り合いなその音に、澪は思わず身を縮める。


視線を移すと、開け放たれた、箪笥の引き出しより一つ。

細長い爪の伸びた指が顔を出していた。

夢で見た。あの女の手とそっくりな指。


ふたりは慌ててその場を後にする。

間違いなく、あの女が近づいてきている。


二人は後ろを確認しながら、本堂まで必死に走る。

しかし、ついてきている様子はない。

荒くなった息を落ち着けるように、手帳に書いていた本造に目を向ける。


――本堂、仏像の前。


やはり、ここは外の世界と断絶されたような空気が充満している。

いや、おそらく断絶されている。


スマホを見ても電波は入っていない。

そして、何より夏の18時とは思えないほどに暗い。

まるで、異界に迷い込んだような感覚だった。


仏像は、最初に通った時よりも水気を帯び、どこか表情は沈んでいるように見える。

蓮司は懐中電灯を向け、何か異変がないかを探る。


「......なんだこれ?」


仏像の裏側、須弥団の隅に何か刻まれている。

まるで指でひっかいたような跡。

しかし、それは、崩した文字のようにも見えた。


「でも.....」


澪がそう言いかけた時、不意に裏堂へと続く襖が、すうっと開いた。

二人は気づかずに仏像に目を落としている。


仏像の背後には小さな扉が隠れていた。


その取っ手にゆっくりと手をかける。

まるで長い年月に耐えかねたかのようにーーぎぃと軋んで開いた。


そこには人一人がやっと通れるほどの細い通路が下に伸びており。

懐中電灯の光がなければ、一歩も進めないほどの闇が二人を飲み込むかのように広がっていた。


「......こんな通路、記録にあったっけ?」


「いや、鹿渡さんが残した手帳には、この記録はなかったな。たぶん、ここは本来、だれにも見つかるはずのない場所だったんだ。それと.....」

蓮司が少し考えたのちに、言葉を続ける


「彼はどうやって奥の部屋に進んだんだ?」


「最初から空いてたのかな?」

澪が問い直す。


「そんなはずは、ないと思うけど。」

やはり、鹿渡がどうやって納戸に進めたのか、疑問が残る。


通路の内側は、土と石がむき出しになっており、むわっとした肌にまとわりつくような生暖かい湿気を帯びている。

天井は低く、二人は自然と身をかがめながら進んでいく。


顔をしかめながら進んだ先に、小さな木の扉が現れた。

扉には、何かを封じ込めるかのようにお札が張られ、そこにあるものが触れてはいけないものというのをひしひしと感じさせた。


ふたりは息をのむと、慎重に扉を開ける。

その中にわずかに広がった部屋は、木の棚と、小さな机、灯りをともすために使われていたであろう蝋燭が置かれていた。

そこは、まるで誰かの作業部屋のようで、しかし周りの土の壁とその狭さが誰かを閉じ込めるために作ったような空間にも見えた。


「.......ここで、何をしていたんだろう」


明らかに、寺の構造とは別に作られたような空間だった。


机の先の古びた棚に、隔離されるかのように一つの小さな木箱が納められていた。

それはまるで、呪いを封じるかのように表面には何重にもお札が張られ、触れてはいけないものであることが明確であった。

文字は掠れ、滲み、読み取れぬものがほとんどであった。


札の隙間からは、中で何かが蠢いているような気配がし、まるで箱そのものが呼吸しているかのようであった。


澪は一つ深呼吸をするとそれに手を伸ばした。

指先が札に触れたとたん、真上から「――ガタン」と物音がした。

まるで、真上で何か動いたような気配。


澪は咄嗟に手を引き、二人は一瞬止まり目を合わせる。

逃げ場のない空間で背後に誰もいないことを確認し、もう一度手を伸ばす。


「......開けるよ」

そう言うと、蓋が軋みをあげて持ち上がる。


中には布に包まれた赤黒い錆びついた鍵がひとつ。

ただの鉄のはずが、まるで長い間水の中に沈められていたかのように、赤くただれて姿を現した。


「......納戸の鍵だよね?」


「たぶん.....」


澪は箱の中から鍵を取り出すと、布ごと包みなおす。

そして、その鍵には見覚えのある装飾が施されていた。

簪と同じ刻印。


それが、ここの鍵で、水主家につながる何かであることは明確であった。


二人はひとつ深呼吸をおく。

そこには、妙な静寂があった。

やはりこの部屋はただの空間にしては落ち着かない。

まるで、ここで血なまぐさい儀式でも行っていたかのように思える。


「......出ようか」

蓮司がそっと声をかける。


「うん......」

ふたりは、そっと部屋の扉を閉めると、再び仏像の裏の出口へと向かっていく。

そして、本堂を出て、渡り廊下へ進む。


本堂で手に入れた鍵を握りしめ、納戸がある左手へ。

その道のりには、大きく中庭を回る必要があった。


日も沈み始めたせいか、板張りはより一層冷え切っており、踏むたびにくぐもった軋みを響かせる。

ふたりの足取りもより一層慎重になる。

そして、回廊を回った先に廃れた中庭が現れた。


四方を回廊と建物に囲まれ、外界の音を遮断している。

それなのに、風も吹きこまないはずの空間で、葉がこすれる音だけがどこからともなく聞こえていた。

足下を見れば、苔むした石畳は、割れ目から草が伸び、土のにおいに混じって、かすかに錆びた鉄のような匂いも漂っている。


それにしても、夜の気配はまだ完全に落ちていないはずなのに、唯一光の当たりそうな中庭も異様なほど暗い。

中央には一本の大木――樹齢百年はあろうかというケヤキがそびえていた。

幹は黒ずみ、蔦が絡まり、まるで何かをそこに縛り付けているように見える。


ふと見上げると、太い枝の一つから何かがぶら下がっている。


最初は、風に揺れる古い幣帛へいはくの切れ端に見えた。

だが、澪の視線が何気なくそれをとらえた瞬間、胸の奥が凍り付いた。


――それは、痩せた人の足だった。


色を失い、灰色になった肌が、ゆらゆらと宙を漂っている。

手は、だらん、と垂れ下がり、着物の襟元から覗く首には、縄が深く食い込んでいた。


(......自殺者)


一瞬そう思ったが、様子がおかしい。

着ている服を見ても、最近のものではない。


蓮司も立ち止まり、二人で回廊から眺める。

そのとき、蓮司が低く吐き捨てるように呟く。


「.......あれ、笑ってないか?」


その声に応えるように、吊られた影はゆっくりと首を傾けた。

横から確認できる、口元だけが不自然に引きつって笑っていた。


次の瞬間、強い風が吹き、枝が大きく揺れた。

吊られた影がぐるりと回転し、顔が正面を向く――そう思ったとき。

そこにはもう何もなかった。

ただ、かすかに揺れる枝と、わずかな風音だけが残っていた。


たしかに、鵜飼さんを訪ねた時に、この寺は建てた当初から中では”何かあった”と意味深なことを言っていた。

おそらく、”何か”のひとつであろう。

外には決して広められなかった出来事がここにはまだ沈殿しているかのようだった。


澪と蓮司は警戒するかのように中庭から視線をそらさずに横切った。

そのさきには、重厚な木の扉がある。――納戸だ。

ふたりは、扉の前に立つと、震える手で鍵を差し込み、ゆっくりと回す。

さびついた金属が――ぎりぎり、と音を立てた。


鍵が外れる音とともに、扉はゆっくりと開いた。

中から吐き出される空気は、湿気と埃に加えて、土のような外の匂いが混ざっていた。


澪は手元の懐中電灯を向ける。

細長い室内は、古びた木箱や衣桁、巻物を収めた桐の箱が埃をかぶり雑然と積み重なっている。

壁際には、布団や行李こうりが押し込まれ、棚には欠けた茶碗や古い仏具が乱雑に置かれていた。


しかし、一歩足を踏み入れた瞬間に、澪は眉をひそめた。

――構造がおかしい。

鹿渡の手帳に書かれていた言葉がそのまま蘇ってきた。

狭いはずの納戸が、奥へ奥へと伸びている。

正面の壁まで数歩のはずなのに、光の届かない暗がりが、ずっと続いている。


「やっぱり、どこかに繋がっているんだな」

蓮司が呟きながら、懐中電灯を動かす。

光が当たるたびに、積まれた荷物がわずかに揺れたり、反対側の影が別の形に見えたりした。


ふと、二人は顔を見合わせた。

足元から”ぽたり、ぽたり”と水滴のような音が規則正しく鳴っている。

天井を見上げても、染みひとつない。

なのに、音はすぐそばから聞こえてくる。

さっきまで止んでいたはずの音が足音のように聞こえる。


二人は音から逃げるかのように納戸の先へ進む。

奥には仏具の中に、妙に新しい紙束が目に入った。

墨の文字は掠れているが「奉納記録」と表紙に記されている。

ページをめくるとそこには僧侶や村人の名前が記されている。

しかし、ところどころ墨がにじみ、まるで水中で書いたような奇妙な歪み方をしている。

その中に、一つだけかろうじて読み取れる名前があった。

――宗川真志。


その時、背後で衣桁がゆっくりと揺れた。

二人が振り返ると、何もいない。

しかし、衣桁に掛けられていた衣装が明らかに濡れている。

その下には”ぽたり、ぽたり”と不自然な水たまりができている。


(......何か、いた?)

そう呟こうとするが、声が出ない。


二人は息を整えて、さらに奥に進もうと再度振り返る。

そして、一歩を踏み出した。

――ぴちゃん。

澪の足元から不可思議な音がする。

水を踏んだような音。

足元に冷たい何かが触れた。


見下ろすと、そこには水たまりが広がり、そこのない闇のように黒々としている。

視線を戻すと、あの水たまりが広がっている。

次の瞬間、開けていたはずの納戸の扉がゆっくりと音を立てて閉まっていく。

まるで、外から誰かが閉じ込めるかのように。


蓮司と澪は水たまりから後ずさるように奥へと押しやれらて行く。

狭いはずの納戸は、ますます長く、深く続いている。

奥に進むと、ところどころ、刀で切り付けられたような跡が壁に残っている。

まるで、誰かがここで暴れたような跡。


積み重ねられた古道具や棚が迷路のように積み重なり、その隙間を縫うように進むたびに、二人の背後で微かに”何か”が揺らいでいる。

振り返っても、誰もいない。

先ほどまで広がっていた水たまりもいつの間にか消えている。

――しかし、部屋のどこかからは明らかに水の音が鳴っている。


「.......やっぱり、おかしいな。六畳なんて軽く超えている」

蓮司が、少し冷静さを取り戻したかのように声を発する。


やがて光は、納戸の最深部に行き当たった。

そこには、道をふさぐかのように不自然に大きな棚。

ざらついた漆黒の棚はまるで何かを祭る仏壇のようにも見えた。


「あれ?行き止まり?」

澪がつぶやくと、蓮司が光で棚を照らし出す。

そこには古びた仏具や木箱が並べられているが、不自然に埃の溜まり方が薄い。

その棚だけ、最近になって誰かが動かしたかのように。


しかし、足元を照らすと下には不自然に何かを引きずったような跡が残されている。

澪が棚の背後の隙間に手を差し入れる。


「待って。......これ、後ろに何かある」

背板の向こうから冷たい空気が漏れ出している。


澪と蓮司は、二人がかりで棚を押しのける。

重々しい音と共に、ゆっくりと棚がずれていく。

ずりずりと床板が軋み、小物が、がらがらと揺れる。


やがて、背後に隠れていたものが姿を現す。

そこには、人の背丈ほどの古びた木の扉。

扉全体には幾重にもお札が張られており、ところどころが湿気で剥がれ落ち、下に隠されていた鉄の蝶番が露になった。


「......やっぱり、隠してたんだな」

蓮司が扉を光で照らしながら呟く。


澪はただただ、その扉の禍々しさに言葉を返せずに息をのむ。

目の前の扉からは、ほのかに冷気が染み出し、皮膚をかすめていく。

この納戸に積み上げられていた古道具たちも、本来はこの隠し扉を隠すために置かれていたのではないか――そう思わせるほどに、不自然な位置取りだった。


その時、不意に背後で物音がした。

――ばさり。


振り向くと、衣桁に掛けられていたはずの布が一枚、床に落ちていた。

少し遠めだったが、布は床に落ちたまま静止しているのではなく、こちらにずるずると近づいてきているようにも見える。


その布から逃げるかのように慌てて隠し扉に近づき、手をかける。

古びた取っ手に触れると、まるで氷のように冷たい。

指先から腕へと、血の気がすうっと引いていく感覚に、思わず息をのむ。


「......開けるぞ」

そう言い放った声は、思った以上に硬く震えている。


がちり、と扉が全体が外れる音がして、長い間それが閉ざされていたことを物語る。


澪は思わず後ずさる。

その瞬間――扉に貼られていたお札が、一斉にばさばさと揺れる。


「.....っ!」

澪は喉を抑え、声にならない声を漏らした。


がらり、と。

扉はゆっくりと、だが確実に開いていく。

その隙間から漏れ出す空気は、納戸よりもさらに重たく、異質のものであった。

土と鉄錆、そして嗅ぎ覚えのある、腐敗したような水の匂い。


二人の目の前に六畳一間の畳の部屋が広がる。

中を慎重に懐中電灯で確かめる。

その時、部屋の隅に何かが佇んでいた。

しかし、それは、もう一度焦点を当てるとなくなっていた。


「......人、いたよな?」

蓮司が澪に確かめるように問いかける。


一瞬であったが、確かに澪も見ていた。

うなだれた様に佇む、僧の姿。

先ほど、中庭で見た首をつっていた僧のようでもあり、別の者のような気もした。


明らかに、今までの部屋とは違う。

空気は異様に重たく、湿った匂いが漂っている。

直感がただの部屋ではないということを告げていた。


部屋の中央に低い台座が一つ置かれている。

その下には血のように濃い敷布が敷かれている。

それは、懐中電灯の光を浴びて、ぎらりと反射する。

まるで、今しがた血で濡らされたかのような生々しさを持っている。


蓮司の目が吸い寄せられた。そして。

「この部屋、鹿渡さんの手帳に書かれていた.....」

記述として手帳にあった”赤い布”が、まさにそこに現実のものとして存在していた。


そのすぐ脇に、水鉢が転がっている。

高さは人の膝ほどまであり、口がわずかに開いている。

しかし、どう見ても花を活けるような、花瓶ではない。

埃を被り、黒ずんだ陶器の表面には、何度も何度も爪で引っかいたような、あとが刻み付けられている。

外側から内側に向かうのではなく、まるで、内側から必死に引っ掻いたような――そんな錯覚を覚えさせる跡。


澪は少し離れた位置から鉢を見つめながら、背筋に寒気を覚えた。

「......これ、どうみても、人の......」

そういったとき、鉢の中から微かに水の音がした気がした。

しゅる、と。

そして、鉢の中から爪で陶器を引っ掻くような音が聞こえる。

「ぎぎぎ......」という音が内側から迫っている。


澪は顔を引きつらせて、囁くように言った。

「......中に、何かいる?」


鉢の表面の無数に刻まれた爪痕が、懐中電灯の光に照らされて浮かび上がる。

その口からは、まさに人の手が出てくるのではないかという想像に駆り立てられる。

その想像に、ぞわりと、寒気が走った時、微かに赤い布が動いた気がした。


二人は咄嗟に赤布のほうを見る。

しかし、それは変わらずにそこにある。


布は、長い間放置されたのか、黒ずんでおり、ところどころに染みが広がっている。

蓮司が指先で布の端を持ち上げると、畳の上にしっとりと張り付くようなその予想以上の重さに、思わず眉をひそめた。


「......湿ってる?まるで、水でも含んでいるみたいだ」


赤布を裏返すと、そこには幾重にも重なる薄墨色の模様。

まるで、人の手のようにも見えるものが浮かび上がっていた。

押し当てられたのか、染みついたのかは判別できない。

だが、不自然なほどに生々しい。


二人は、息をのみそっと布を戻す。

重苦しい沈黙が流れる。

二人は、それ以上触れないように、赤布と壺を避け、視線を奥の壁に向けた。


六畳間自体はどこにでもあるような和室の作りだが、――一つだけ、明らかに異様なものがあった。


壁の一角に嵌め込まれた扉。

木造建築には馴染まぬ鉄製の板でできており、取っ手の位置も不自然に低い。

まるで「人のため」ではなく、別の何かを通すために作られたようにも思える。

そして、その両脇には使われて短くなった蝋燭が二本立てられている。


澪は思わず言葉に出した。

「......なんで、和室にこんな扉が......」


蓮司は扉を照らし、そこに隠された跡へと目を移す。

鉄の扉の表面には無数の傷があり、そこには閂を抉じ開けたような痕跡が残っている。

錆の浮いた金属の割れ目には、たしかに工具で押し込まれた跡がはっきりと刻まれていた。


「......鹿渡さんが開けた跡か。手帳に書いてあった、工具を使って開けたってのは、これのことか」


「ってことは、この先に.....」


「ああ。多分、奥に続く地下道がある」


扉には四家のものと追われる家紋と、かつて貼られていたであろう札の残骸が散らばっていた。

半ば朽ち果てたなかに、焼け焦げた札がある。

まるで、誰かが「封印を壊して」中に進んだような痕跡。


二人の背中に冷たいものが走る。

鹿渡の手帳の記述ではここまでしか記載されていなかった。

彼は、この扉を開けた後に行方不明になっている。


澪は無意識に赤い布のほうへ視線を戻しかけたが、慌てて逸らした。

水鉢の中からは、まだかすかに水の音が響いている気がする。


蓮司は懐中電灯を握りなおして、扉の取っ手に手をかけた。

冷たさが、妙に手にまとわりつく。


「......行くぞ」

蓮司が息をのむように言葉を吐く。


澪は小さく頷き、肩を並べる。

扉がゆっくりと開かれていく。

内部からは、土と苔のにおいが流れ出し、二人の顔を撫でた。


暗い口を開けた先には、意図的に掘ったであろう地下道が姿を現した。

下には、乱雑に石畳が敷かれ、壁は粗く削り取られて、土と石で固められ、その壁にはぽつりぽつりと蝋燭が埋め込まれている。

壁の蝋燭は既に火が尽き、蝋だけが溶けたまま固まりとなって残っていた。

しかし、その存在が示すのは――「ここを過去に人が通った」という事実だった。


「......これ、寺を建てたときに作ったのか?」

蓮司の疑問が声になって現れる。

澪は首を傾けたが、ここの通路が公にされていなかったことには間違いなかった。


懐中電灯で照らすも奥までは光が届かない。


記録にもなかった領域に足を踏み入れる。

背筋に粟立つものを感じながら、慎重に一歩を踏み出して進んでいく。

前だけを照らして。


しかし、二人が気づかぬまま――

進んだその後ろには、畳の中央に白無垢の女が静かに立っていた。

うつむいたまま、開いた扉の方角を見つめて。

その姿は、今しがたまで存在していたかのように、畳に淡い影を落としていた。


「.....息が重いな」

蓮司の声は、狭い通路に吸い込まれるようにかき消される。

懐中電灯の光が揺れるたびに、壁に埋め込まれた古い蝋燭の残骸が、不気味に大きな影を作る。


先に進むにつれて、壁が濡れているのが分かった。

地下道に足を踏み入れて、少し進んだその時だった。


――バァン!!!


背後で、凄まじい音とともに扉が閉じられた。

まるで、外から誰かが思いっきり閉めたかのような音だった。

反射的に振り返ると、そこには開けていたはずの鉄の扉が見えた。


蓮司と澪の背中に、冷たいものが走る。


「閉じ.....た?」

「嘘でしょ......!」


いつでも逃げられるように、わざと開けておいた扉が閉まった。

そう思った瞬間、足元に「ぬるっ」っとした感触が伝わった。

澪が不意に足元に光を向けると――地面の石畳から、青白い手が先にも後ろにも無数に伸びている。


それらは、腐敗したように爪が剥がれ、血のにじむ指先で、二人の足をがっちりとつかんでいる。

澪は悲鳴を上げ、必死に足を引き抜こうとするが、冷たく濡れた手が増えるばかりで、引き抜ける気配がない。


蓮司も足を引きはがそうとするが、指が絡みつき、まるで地中へと引きずり込もうとしているかのようだった。


「くそっ.....離せッ!!」

通路に響き渡るほどの声を出しても一向に手は離れる気配がない。


その時、振り回した懐中電灯の光が通路の先の”何か”を照らした。

二人の絶望を嘲笑うかのように、通路の奥から白い影がゆらりと近づいてくる。


白無垢の裾が土に濡れながら、ずるずると手の間を進んでくる。

綿帽子で覆われた顔からは、滴る水がぽたぽたと落ち、石畳に真っ黒な染みを広げていく。


「いっしょに......来て......」


その声は、通路の壁という壁に反響して、まるで何十人もの女が同時に囁いているように耳の中を満たしていく。

懐中電灯が震え、足元に満ちた水に光が跳ねる。

だが、揺れる光の中で花嫁の顔が一瞬だけ覗いた。


――蒼白い顔

――真っ赤な口

――真っ黒な衣


――そこから滴るものは、水ではなく、真っ黒な泥のようなもの。


澪は息を吞んだが、それはもう声にはならなかった。

伸ばされた手が、澪の頬を撫でる。

その手は、氷のように冷たく、体温を奪っていく。


花嫁が目の前で口を開けた瞬間――二人の視界は、一気に水で満たされるように暗くなっていく。

冷たい水の感覚に押しつぶされる中で、最後に聞こえたのは花嫁の声だった。


「ずっと.....待っていたの......」

その声が耳に流れ込むと同時に、意識は完全に途切れた。


――水の音がした。


”ぽたり、ぽたり”と、洞窟の奥から水滴が落ちるような音。

その響きに意識が引きずられ、澪は闇の底から浮かび上がる。


重い瞼を空けた先に広がっていたのは、眩しいほどの夏の庭だった。

日差しに照らされた石畳、青々とした苔、白い花が風に揺れる。

縁側には、二人の少女が腰を下ろし、その周りを小さい男の子たちが駆け回っている。


――一人は、水主沙世であろうか?

――もう一人は、見覚えがあるような気がするがわからなかった。


小さな笑い声をあげながら庭をかけ、摘んだ花を花冠にして髪に飾り合う。

縁側に座っては笑顔で足を揺らしながらお話をする。

その笑顔は無垢で、ただただ愛おしい。


その光景を見ていると、いつの間にか座敷の端にいた。


真ん中には、先ほどの少女と思われる二人が座っている。

しかし、少女の面影は残したまま、十六くらいの年になっていた。

夏の日差しが座敷の中に透けて入ってくる。


「ねえ、***......私ね、好きな人が出来たの」


少女の一人は俯きながら、頬をほんのり赤く染めて打ち明ける。

もう一人の少女はぱちりと瞬きをし、驚いたように、しかし、どこか嬉しそうに相手を見つめる。


ふと気が付くと音が遠のき、場面が揺らいだ。

いつの間にか夕暮れになり縁側が赤く染まっている。


赤く染まった空を背に、一人の少女がポツリと告げる。

年は十七くらいであろうか、かなり大人びていたが、縁側に座っていた少女の一人と瓜二つであった。

――「婚約が決まったの」


その言葉を聞いた少女は驚いたように目を瞬き、やがて静かに笑った。

「......よかったね」

声は聞こえなかったが、口元はそう動いたように見えた。

その瞳の奥には喜びと合わせて、寂しさのような影の揺らめきが宿っていた。

ずっと、一緒にいた人が急に離れていくような悲しみにもとれた。


光の粒子のように、場面が揺れる。

少女は、もう一人の少女の帯の下へ眼を落していた。


そこには、まだ誰にも明かされぬ秘密。

――二人だけの共有。小さな命の気配。

***は***にだけ打ち明けていた。

そして、知っていた。

誰よりも早く、親友が母になることを。


胸に押し寄せる愛おしさと、同時に生まれる不安。

それを包み込むかのようにそっと握られる手。


水の揺らぎとともに、場面は崩れ、笑顔も握っていた暖かい手も、ざぶりと波に呑み込まれる。

座り込んだ少女は両腕で抱きしめるようにして、震える肩を揺らしていた。

「......どうしよう......私が......」

嗚咽交じりの声が静かな座敷に反響する。


言葉の最後は涙に途切れ、うまく聞き取れない。

両の手で腹をかばう仕草は、必死に未来を抱きしめる母そのものであった。


その肩にそっと手を置き、口を結びながら見つめる少女。


「******......。」


やはり一方の少女の声は聞き取れない。

しかし、その眼には、何か決意のようなものが混ざっているのように感じた。


――場面がぐにゃっと曲がった。


藁縄に縛られて、監禁部屋に連れていかれる少女。

その眼には、諦めと自分の運命への恨みが見えた。

これから起こる出来事を知っているのであろう。

牢屋の中でただ膝を抱えてすすり泣く少女。


夜更け。村全体が静まり返り、ただ遠くで水の音が響いている。

****は息を殺し、冷えた土の地面を裸足で踏みしめながら、牢のある離れへと忍び寄る。


格子窓の隙間から漏れる灯り。

そこに座り込む少女の姿は、細長い影となり、小さく震えていた。


「......**?」

閉じ込められた少女の囁き声が漏れる。幾日も泣き通したのか、その声はかすれていた。

少女は口に指をあてて、必死に首を振る。

そして、袖の下から盗んできたであろう小さな鍵を取り出す。

村の誰にも気づかれぬよう。


「来て......今しかない」

初めて、もう一人の少女の声が聞こえた。その声はどこか聞き覚えのある声だった。

囁きながら、鍵を差し込み、錆びついた音を立てて錠前が外れる。

鉄の匂いが、鼻を刺し、二人の心臓の鼓動の音が今にも聞こえてきそうだった。


牢獄の少女は、涙を浮かべて首を振る。

「だめ......」


「違う!村のためなんかじゃない。あなたは母になるんでしょ?その子を産むんでしょ?だったら生きなきゃ!」

初めて、会話が聞こえた。


やはり、二人の少女の声はどこか懐かしいような音が混ざっている。

その必死さに押されて、牢獄の少女は、もう一人の少女の差しだした手にそっと手を重ねる。


「.......***」


格子をそっと開き、二人は抱きあった。

そして、少女が手を引くと、二人は冷たい夜の闇に駆け出した。

手を引く少女の眼にはたしかに、揺るぎない炎が宿っていた。


次の瞬間、轟音とともに炎が立ち上る。

眼に宿っていた炎とはまるで違う、夜空は真っ赤に染め上げる炎。

火事?ではない。

村の住人たちが、炎を取り囲み、狂気に満ちた表情で叫んでいる。


その地獄の中で、一人少女は泣いていた。

「*****.......******」

その声は炎の轟音にかき消され聞き取れない。


爪で地面を掻きむしり、額を地面に押し当てて。

その背中は、あまりにも小さく、孤独だった。


その少女に触れようとしたが、どうしても手が届かない。

必死に手を伸ばすと、そこは昨日の夢で見たあの池に変わっていた。


黒い水面がざわりと波打つ。

そこには、白無垢の女がこちらを見つめて立っている。

衣は重たげに沈み、裾からは真っ黒な水がしたたり落ちる。

そして、周りには鈴を鳴らす能面をつけた男たち。


急に池の水面が口を開けるように崩れる。

その下には、無数の蒼白い手が伸びている。

その手に捕まれ。果てしなく。


沈む。

沈む。


澪の腕をつかみ、さらに深みへと引きずり込んでいく。


「たすけて......」


叫んだ声は泡に砕け、黒い水の中へ消えていく。

上からはゆっくりと白無垢の女がこちらに迫ってくる。

ゆっくりと、白無垢の女の手が澪の頬をなでる。

しかし、その手は以前の冷たさよりも、どこか諦めのような悲しさを感じた。

そして、ゆくっりと、白無垢の花嫁の顔が近づいてくる。


(もう、だめだ........)


そう思い、目をつむる。


――静寂。


ふいに、頬に冷たい滴が落ちてきた。

水だろうか?それとも......


澪はハッとして目を開いた。


荒い呼吸を整えながら、水に濡れたような重たい体を起こす。

まだ胸の奥には、誰かに掴まれていたような痛みが残っている。


「......蓮司?」

隣にいるはずの蓮司に声をかける。


返事はない。

いや。いない。


驚いて辺りを見渡すが、そこには通ってきた道と冷たい石畳が敷かれているだけだった。


「蓮司!!」


もう一度叫んでみるが、その声はただ空しく地下道へと吸い込まれるように響いていく。

しかし、返ってくるのはしんとした沈黙だけ。


薄闇の中、澪の耳にかすかな音がした。

”ぽたり、ぽたり”と水が垂れるような音。


それに混じって、かすかに女の声が聞こえた気がした。

「一緒に......き.....て」


澪の全身がこわばった。

声の主は、間違いなく白無垢の花嫁。


いつの間にか喉は乾き、足が震えている。

しかし、蓮司がこの奥に連れていかれたのに間違いはない。

その思いだけで、澪は一歩を踏み出した。


再び、懐中電灯の光が狭い地下道を照らし、湿った土壁に染み込むように揺れる。

足元の石畳からは、時折”ぽたり”と水滴が落ちる音がして、澪の背筋を冷やす。


澪は、冷たい石壁に手を添えながら、一歩一歩を確かめるように進んでいく。

湿った土の匂いと、肌に染み込むような冷気。懐中電灯の光だけが目の前の暗闇を押していく。


ふと、耳に微かな響きが混ざった気がした

――「......澪......」

その声に慌てて振り返るが、そこには光の届かなくなった入り口が伸びているだけだった。


また、前を向き、歩を進める。

その瞬間に、壁に浮かぶように付けられた黒い染みが目に入った。

慎重に光を当てると、それは「濡れた手形」だった。

気が付くと、周りの壁には無数の手が押し付けられ、じわじわと黒い水を垂らしている。


「......やめて......」

思わず声を漏らして、走り出す。


しかし、途中で違和感を覚えた。

足音が増えている。

自分のものとは別に、後ろからもう一人分――いや、二人分、三人分と増えていく。

唾を飲み込んで、後ろを振り返るが、そこには誰もいない。

ただ、水滴だけが「ぽたり」と石畳に落ちる音だけが重なっている。


やがて、通路がわずかに開けた場所に出た。

そこは、石で縁取られたような小さな空間が広がっていた。

壁際には溶けて短くなった蝋燭がいくつも埋め込まれている。


火は灯っていないはずなのに、先端から「じゅ......」と煙のようなものが立ち上がり、澪の顔をかすめた。


「っ......」

思わず、身をすくめた時、前方の闇がふっと揺らめいていた。


そこには、かつての人間たちの姿が見えた。

うなだれて歩く僧、手帳を持った学者のような男、羽織を着た男、顔を隠す男。

そこに蓮司の姿はなかったが、全員うつろな目でこちらを見つめている。

そして、その中心には――白無垢の花嫁が立っている。


「いっしょに.....きて.....」


その囁きは空気を波紋のように揺らし、澪の鼓膜を揺らした。

瞬きをした瞬間、その影たちは霧のように消え、通路の先にはぽっかりと口を開けた木の扉だけが残った。


そして、足元には古びて朽ち果て、墨が滲んだ木札が落ちている。

そっとめくってみると、そこには「水主」の文字が書かれていた。


その文字を見た瞬間に、背筋に冷たい寒気が走った。

しかし、ここで引き返すわけにはいかない。

澪は唇を固く結び、扉へと歩み寄った。


古びた木の扉をゆっくりと開ける。

――ぎぃ

という音とともに、目の前には地下道から出るための石段が現れた。


懐中電灯で足元を照らしながら、一歩。また一歩と石段を上がっていく。

石段はすでに苔にまみれ、その年月を物語っていた。


土の壁が途切れ、出口がぽっかりと口を開ける。

地下へとつながっていたかと思われた道は、まさか地上へつながっていた。


そして、目の前に広がったのは、想像もしない光景だった。

――木々に囲まれた古びた屋敷。


まるで深い森の底に潜む獣のように、闇に沈む屋敷が浮かび上がった。


苔が生え切った石垣に囲まれ、瓦は黒ずみ、所々が崩れ落ちている。

格子窓は斜めに歪み、板戸は雨風にさらされ亀裂が入っている。


まるでここだけ時間に取り残されてしまったかのように、そこには「旧水主邸」が佇んでいた。

澪は光で照らしながら、思わず立ち尽くす。


(......こんな場所、どこの記録にも残されていなかった。)


信じられなかった。

水迎寺の奥に、こんな大きな屋敷が隠されていたなんて。

しかも地図には載っていない。宿舎の女将さんからも、墓守の鵜飼いさんからも聞かされていなかったものが、今、目の前に現れている。

地下道を抜けたら、儀式の場所につくという単純な構造ではなかった。


懐中電灯の光を当てると、屋敷の表玄関が浮かび上がった。

木戸は黒く濡れ、ひび割れの間からは蔦が這い出ている。


澪は無意識に声を漏らした

「......これ......」


その異様さに澪の背筋が冷たくなる。


澪は息を呑んだまま、ふと背後を振り返る。

...... その瞬間、全身に戦慄が走った。


目の前の山肌が切れ落ちるように途切れ、その向こうに広がっていたのは、忘れ去られた――村の残骸であった。


崩れ落ちた茅葺き屋根かやぶきやね、柱だけが残った家屋。

黒く墨のように焦げた梁が斜めに突き立ち、枯れ果てた田畑には水害で流された泥が今もこびりついていた。

風に煽られて、壁の残骸がカタリと揺れた。


それは、きっとかつて水害で呑まれたといっていた「旧い村」であった。

今の村が反対側にへと移住する前に、この地で人々が暮らしていた痕跡がそこには残っていた。


そして、ぽつぽつと佇む廃墟の中に他とは違う大きな屋敷が数か所かろうじて骨格をとどめていた。

高い石垣に囲まれたその姿は、蛇ノ宮家か、祝部家であろう。


だが、さらに澪に衝撃を与えたのはその場所の所存そのものだった。

思い返せば――水迎寺は、まるでこの屋敷と村の存在を隠すかのように、背後の山肌に張り付いて建てられていた。


参道も、薬医門も、本堂も、すべて人の目を別の方向へと逸らすかのように配置されている。

澪の中に冷たい疑念がじわじわと広がっていく。

(......まさか。水迎寺は、もともと過去の儀式を”祀る”ために建てられたものではない。)

(旧水主邸の存在を隠し、視線をそらすためにわざと反対側に作られ、その真実を知っているものだけが、地下道でここへ来れるようになっている)


そう思ったとき、澪の中で何かがすとんと落ちた。

村の人たちが、あの寺に足を踏み入れることを避けるようになったのも、参拝に訪れた人の中から”行方不明”になる人が出始めたのも偶然ではなかった。


過去の水害を鎮めるためではなく、寺そのものが「旧水主邸」という呪われた記憶を見せないための「蓋」として存在している。

恐らく、白雨家を除いた――水主、蛇ノ宮、祝部家。

彼らが結託して、村ごと「呪いの中心」を覆い隠したのだ。


だが、隠されたものがなくなることはない。

きっと、長い年月を経て徐々に水のように現代にも浸食してきている。


澪は足元に広がる村を前に立ち尽くしていた。

そこにはまさに、人の狂気と呼べるものが存在している。


その時、澪の傍で轟音がした。

急いで振り向くと、来たはずの地下道が崩れ落ち、土煙を挙げている。

一人取り残され、辺りは異様な静けさに包まれた。


澪は崩れた地下道を見て呆然としていたが、足元にふと違和感を感じた。

――じわり、と冷たい水が広がり、水主邸の生い茂った草の周りから「影」が立ち上がってきた。


ひとり、またひとり。

濡れた衣をまとい、生気を失った虚ろな目をこちらに向ける人影。

顔は判別できないほど歪み、口からは声にならない泡のような破裂音が「ぷつ、ぷつ」と響く。

だが、澪の耳には、はっきりとその音が届く。


「かえれない......」

「もどれない......」

「出口がない......」


そのひとつに聞き覚えがあった。


(......鹿渡の手帳に記されていた言葉)


澪は直感的に悟った。

今目の前にいる影はかつてこの地で”行方不明”になった者たち。

おそらく”人ではないもの”となりこの水主家に囚われたまま彷徨っているのであろう。


そして、その声は冷え切った指で背筋を撫でるかのように、じわじわと澪を追い込む。

後ろの地下道は塞がり逃げ場がない。

影たちはいつの間にか、波紋のように広がり、水の底から這い上がってきたかのように、迫ってくる。


澪の心臓が激しく打つ。

(.....逃げられない)


その時だった。


影の奥に、ひとつだけ異質な影を感じた。

白布をまとい、他の怨霊のような歪みではなく――まっすぐに澪を見つめていた。

その眼差しには、痛みと祈りが入り混じり、澪の瞳を射抜いた。


その影は、ほかの影の間を通り過ぎまっすぐに澪に向かってくる。

彼女は澪の目を見据えたまま、不意に振り返り、廃村の村のほうへその小さな手を伸ばし、指さした。

崩れた屋根、草にのまれた石垣。

その奥には、二家の屋敷らしき黒い影。


その少女は声を発さない。

ただ、その仕草から何かを伝えようとしているのは読み取れた。


一瞬、その指の先の村に目を向ける。

視線を戻すと、彼女と幾つもの影は跡形もなく消えている。

残されたのは、何かを訴えていたような彼女の仕草の記憶だけだった。


(......村?)


少し考えた後に、澪の脳裏に、さっき気絶していた時に見た夢の断片が蘇った。


牢獄の格子の中で泣き崩れる少女。

そして、その手を引いて闇夜に消えたもう一人の少女。


ひとつ、はっきりとしたことがあった。

澪が夢の中で見た光景と聞いた事実が異なっている。


――花嫁を逃がしたのは、白雨家ではない。


その事実が胸に落ちるのと同時に、もうひとつの疑念が浮かぶ。

(だったら......あの儀式に必要だった短刀は?)

(白雨家が儀式を繰り返さないために、娘に持たせ村の外に持ち出させたわけではない.....そうなると、短刀はまだ村のどこかへ?)


もしかしたら、さっきの少女が指さした先に、儀式に必要だった短刀がある――。


澪は懐中電灯のわずかな灯りで周囲を見渡す。

そこには、廃村へと続くであろう、階段があった。

すでに草は生い茂り、獣道のようになっていたが、足元を照らしながら一段、一段進んでいく。

闇の中に沈む木々の合間からは、かつて人が使っていた痕跡がぽつり、ぽつりと覗いている。

苔に覆われた石段。無造作に伸びる草木。

山を隔てて、現世から切り離された時間がそのまま閉じ込められたようだった。


――あの夢に出てきた症状が指さした先。

そこに答えがあるのかもしれない。


その先にある村を見つめ、耳に髪をかけなおすと、胸の奥から湧き出る恐怖を押し殺しながら、澪はゆっくりと階段を下りていく。

石段の隙間の泥が水を含み、足を踏むたびに、ぐちゃり、と音を鳴らす。


やがてたどり着いたのは、ひっそりと沈黙する廃屋群だった。

どの家屋も、屋根は半ば崩れ落ち、壁の板は真っ黒に煤けている。

窓の格子から覗く家の中は闇ばかりであった。

だが、やはりただの廃墟とは違う。

どの家も、不自然に「捨て置かれた」という表現が正しく時間を止めている。


開け放たれている戸口から中を覗いてみれば、食器は割れたまま床に散らばり、畳は腐って所々が抜け落ちている。

風が吹くたびに、軒先の古びた布切れが揺れ、外れかけた箪笥の戸が軋んでいる。


まるで、この村から一夜にして人が突然の消えた光景を、そのまま残しているかのようだった。

澪はしっかりと目を開きながら、息を呑む。

足元には誰かの草履が転がっている。


(......ここで、何があったの?)


きっと、その答えはこの村と旧水主邸の中に潜んでいる。


その時、廃村の骨の間を風が吹き抜けて、一際大きな屋敷の門戸が――ぎぃと音を立てて開く。


澪の手に力が入る。肩をすくめ、懐中電灯の光を当てる。

扉の向こうに光は届かず、一層深い闇が漂っている。


(......あの子が示していたのは、ここ?)


しかし、一歩が出ない。


(.....入るの? ほんとに......?)


澪の胸の奥でやめろと叫んでいる。

けれど、そこに飛び込まなければ、手掛かりはないような気がした。

澪は小さく息をのんで、静かに息を吐くと、その扉を押し開けた。


明らかにほかの家屋とは異なる日本屋敷。

照らされた門の表札にはかすれた文字で「蛇」の文字が読み取れた。


(もしかして、ここ、蛇ノ宮家......)


空気が違う。

何か、触れてはいけないものの中へ足を踏み入れたような感覚が入ってくる。

ゆっくりと歩を進めながら、門をくぐり、玄関の扉へと近づく。

それは、大きな木でできた両開きの扉であった。

取っ手に手を触れると、湿っている。

苔のせいか蛇のようにぬるっと手が滑るような感覚がある。


指先に力を入れて、ゆっくりと扉を開く。

――ぎぃ。低い悲鳴のような軋みとともに室内が現れる。

澪の手に汗が滲む。

懐中電灯の光が壁と土間を舐めるように這う。

室内は一層の闇に包まれている。

まるで、蛇に睨まれた蛙のように足が出ない。

反射的に耳に髪をかき上げる。


室内は外よりもずっと冷たく、地下室のようであった。

床には黒ずんだ鱗のように不気味な染みが点々と広がっており、三和土は泥と枯葉で薄い皮のような層を作っていた。


澪が足をかけると、「みし」と乾いた骨が軋むような音がする。

懐中電灯の輪が玄関脇の下駄箱を撫でる。

棚板の間には黒ずんだ皮片――抜け落ちた蛇の抜け殻が、冷たい紙のように微かに揺れながら引っかかっている。

鼻先に、乾いた鱗の粉と湿土の臭気が立ち上る。


長く閉ざされた場所特有の”人の生活が突如終わった”ような空虚が、澪の肌の表面にざらつきとなって現れる。


上がりかまちを跨ぐと板はわずかに沈んだ。

土間の正面の廊下はまっすぐに奥へと伸び、その横に続く襖は茶色く染みを広げた襖紙がところどころ破れ、その間から組子が蛇のように顔をのぞかせる。


柱や長押なげしには薄い曲線の刻みが連なっており、懐中電灯の光を受けるたびに、絵付けされた鱗のように見える。

ここを建築した際に、「蛇」を意図して家全体に刷り込まれたものであった。


右手の一室を開ける。

畳は腐り、踏み込めば沈みそうだった。

壁際に倒れた神饌台、その上には、小さな木の台座。

よく見ると、台座の縁には細かな骨が埋め込まれている。

鳥にしては細すぎる骨.....蛇かと思われる。


その奥に甕が一つ置かれている。

口は藁縄で幾重にも縛られ、結び目には風化した紙札が差し込まれている。

墨の文字は掠れてしまって判読は難しい。


廊下を戻り左の部屋に入る。

そこは客間だったのだろう。

打ち捨てられた火鉢、畳にはわずかに焦げた跡が残っている。

その隅には風化して色褪せた屏風が置かれている。

一見すれば、水辺の様子を描いた墨絵のようだった。

しかし、近づくほどにその川面は黒々と濁り、川の流れそのものが蛇のように見える。

まるで、屏風にじっと睨み返されているような気がした。


その時、廊下の奥から、乾いた音がした。

シャラ......シャラ......

澪は反射的に廊下に光を向ける。

だが見えるのは廊下を挟んだ和室の襖。


恐る恐る、和室を出て廊下の奥を照らす。

その突き当りには大きな丸窓が見える。

障子はところどころ破れ、奥の中庭が透けている。

大きく息を吸い込むと、右手に懐中電灯を構えて、普段より小さい歩幅で奥へと進む。

突き当りに進むと、廊下は左右に分かれている。


右は台所などに通じているのであろう。

光の先に、薄っすらと食器が移った。

しかし、左はなぜか通路の先に道を塞ぐかのように木製の扉がついている。

異様な気配を放つその扉は、表面に黒ずんだ漆が塗られおり、その中央には――絡み合う蛇の模様が刻印されている。蛇ノ宮家の家紋である。


外から見れば、大きな平屋であるはずの屋敷。

だが、その奥を遮るように作られた扉の存在が不自然で、まるでそこから先は、秘密を知るものしか入れぬと訴えかけているようだった。


澪は、恐る恐る取っ手に手をかける。

――動かない。

がたつかせても、びくともしない。

鍵がかかっている。


(鍵がかかっている......)


そう思ったとき、背筋に一筋の冷たい汗が流れる。

まるで、その鍵穴の向こうから、何者かが彼女を見透かしているかのように思えた。


澪は少し立ち止まった後に振り返り、扉を後にする。

懐中電灯を掲げながら、一室ずつのぞき込んでいく。

古びた畳は湿気を吸って、踏むたびに「ぐにゃり」と気味の悪い感覚を足の裏に伝える。


まずは、玄関近くの客間と思しき部屋に入る。

薄暗い空間には、先ほどと同じ光景が広がる。

しかし、先ほど見た屏風はどことなく絵柄が変わっているようにも思える。

川に見えたそれは、以前に見た時よりもより蛇の形を成し、今にも這い出してきそうな雰囲気を出している。

そっと、部屋の隅にある鏡台の引き出しを開ける。

そこには、朽ちた紙片と、かび臭い布切れが入っている。


あたりを一通り見渡すと、隣にある仏間に入る。

障子を開けると、目の前には漆黒の仏壇が現れる。

中央に鎮座しているはずの仏像はなく、代わりに中の灰が巻き散った香炉が転がっている。

慎重に仏壇に近づき、中を調べてみるが鍵らしきものは見当たらない。


一呼吸置き、納屋のような部屋に入る。

小さな木の扉が壁に立て付けられている。

中には、古びた布団や、カビの生えた座布団、ちゃぶ台と思われる机が立てかけられている。

空間が狭く入るのを躊躇う。

中をゆくっりと懐中電灯で照らすと、戸を閉めた。


玄関まで戻ると、まだ行っていない箇所があった。

玄関を上がり廊下をすぐに左手に曲がった先。

他の部屋よりも重厚な襖に行き当たる。

その上部には、黒漆に銀泥で描かれた蛇の家紋。


澪は直感した。

――ここが、この家の主が使っていた部屋だ。

澪はそっと襖に手を当てて開けた......

続きは「水迎の花嫁②」に記載しています。


お時間あれば、読んでいただけると大変うれしいです。

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