第7話「県大会 決戦」
決戦 県大会決勝の朝。
霧が立ち込める青い人工芝に、朝露がダイヤモンドのようにきらめいている。
散水システムから舞い散る細かな水滴が、まるで祝福の雨のように選手たちを包んでいた。
相原緋色は深呼吸をしながら、スパイクの裏で青い芝の感触を確かめる。
冷たく湿った芝が足裏に伝わる感覚が、なぜか心を落ち着かせてくれた。
岡山県内にホッケー部を持つのは成磐中と青刃中の2校のみ。
両校とも中国大会への出場は確定している。
しかし今日は、県内1位・2位の順位を決する真の決戦だった。
「今日こそ本当の勝負じゃけぇなー!」
朝比奈照先輩が、スティックを振りながら気合いを込める。
その声には、前回の青成ダービーとは明らかに違う重厚さが宿っていた。
岡山弁の響きが朝霧に吸い込まれていく。
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スタンドには、ひいおばあちゃんのみっちゃんが色鮮やかな琉球衣装で陣取っている。
70歳を超えた小さな体で杖を振り上げ、沖縄の太陽のような笑顔を浮かべていた。
「緋色〜! 今日も精一杯楽しんでちゃびら〜!」
その温かい沖縄弁が朝の静寂を破り、緋色の心に勇気を注いでくれる。
緋色は小さく手を振り返した。
みっちゃんの愛情深い眼差しが、遠くからでもはっきりと感じられる。
対するピッチの向こう側では——
青刃中のフルメンバーが完璧な陣形で並んでいた。
桐島藍人を中心に、あの化け物級の声量を誇る
兵動天音。
そして青成ダービーでは欠場していた3年生の主力選手たち全員が勢揃いしている。
6本のスティックが朝日を受けて銀色に光り、まるで戦場に立つ騎士団のような威圧感を放っていた。
スタンドの青刃中応援席では、藍人の両親が息子を温かく見守っている。
上質なコートに身を包んだ二人だが、その表情には金銭や地位とは無縁の、純粋な親の愛情が溢れていた。
「頑張れ、藍人! お父さんとお母さんが見てるよ!」
「今日も楽しんでね! でも怪我だけはしないでよ!」
父の力強い声と母の優しい声が重なり合う。
その声を聞いた藍人の瞳に、特別な輝きが宿った。
(お父さんとお母さんが来てくれている。チームのためにも、いいプレーで勝利に貢献したい)
藍人の心の奥で、家族への愛情とチームへの責任感が重なり合っていく。
その想いが、彼の技術にさらなる磨きをかけていた。
観客席では天音が既に絶叫モードに入っている。
「よっしゃーーー!! 今日は絶対勝つぞー!! 俺たちの本気を見せてやる!!」
その爆音でスタンド全体が文字通り震動し、近くの観客たちが思わず耳を塞ぐほどだった。
しかし天音の純粋な熱意は、敵味方関係なく心を打つものがあった。
椎名美智先生が、成磐中の選手たちを見回しながら穏やかに語りかける。
「県内順位をかけた大切な試合ね。でも特別なことは何もしなくていいの。いつものように、みんなで走りましょう」
その優しい声に、選手たちの緊張が心地よくほぐれていく。
先生の言葉には、不思議な魔力があった。
ピッー! 主審のホイッスルが朝の空気を切り裂き、県大会決勝戦の火蓋が切って落とされた。
第1クォーター
開始早々、青刃中の猛攻が始まった。
そしてその中心にいたのは、紛れもなく藍人だった。
左サイドから仕掛ける藍人のドリブル。
あの美しい「シュッ、カツッ、シュッ」のリズムが、1ヶ月前の青成ダービーとは比較にならないほど洗練されていた。
ボールが藍人のスティックに吸い付くように動く様子は、まるで魔法を見ているようだった。
緋色は思わず息を呑む。
(すごい…この1ヶ月で、さらに進化してる)
藍人のスティックワークは芸術の域に達していた。
左に揺さぶり、右にかわし、一瞬の静寂の後に爆発的な加速。
成磐中の守備陣が次々と置き去りにされていく。
「下がるな! 連携で止めろ!」
長瀬誠先輩の冷静な指示が青い芝に響くが、藍人の技術は既に個人の守備力を超越していた。
ペナルティサークル内に侵入した藍人。
福士蒼が勇敢に角度を詰めるが——
その瞬間、藍人の瞳にスタンドの両親の姿が映った。
二人が手を握り合って息子を見つめている光景が、藍人に力を与える。
(みんなのために。チームを勝たせるために、僕がやらなきゃ)
完璧なシュートモーション。
ボールがゴール左隅に美しい放物線を描いて突き刺さった。
「ゴーーール!!」
スタンドが歓声に包まれる中、藍人の両親が立ち上がって抱き合った。
「やったね、藍人!」
「素晴らしいシュートだったわ!」
両親の喜ぶ姿を見て、藍人の胸が熱くなる。
この瞬間こそが、彼にとって最高の報酬だった。
(やっぱり僕の活躍が、家族の一番の喜びなんだ)
一方、成磐中のベンチには重い空気が流れた。
開始わずか3分での失点。
それも、圧倒的な個人技による得点だった。
緋色は藍人の美しいプレーを見つめながら、複雑な感情に包まれていた。
尊敬と憧れ、そして自分の力不足への悔しさ。
(僕は…僕はまだ何もできていない)
しかし、試合はまだ始まったばかりだ。
成磐中も反撃を開始する。
照先輩が右サイドを豪快に駆け上がり、その迫力で青刃中の守備陣を押し下げた。
太い足音が人工芝を叩き、水しぶきが勢いよく跳ね上がる。
「緋色!」
照先輩からの力強いパスが緋色に向かって転がってくる。
ボールを受け取った瞬間、緋色の視界に薄っすらと何かが見えたような気がした。
しかし青刃中のプレッシャーが激しく、その感覚はすぐに消えてしまう。
慌ててパスを出すが、青刃中の3年生に簡単にカットされてしまった。
「くそっ…」
緋色の額に悔しさの汗が浮かぶ。
その直後、藍人が再び牙を剥いた。
今度は中央からのドリブル突破。
「シュッ、カツッ、シュッ」のリズムがピッチの中央を美しく切り裂いていく。
成磐中の守備陣が必死に対応するが、藍人のスピードとテクニックは別次元にあった。
まるで時間が止まったかのような、幻想的な瞬間。
ペナルティサークル手前で照先輩がタックルに入るが、藍人は絶妙なタイミングで3年生の先輩にパスを送る。
完璧なアシスト。
ノーマークになった3年生が、確実にゴールに流し込んだ。
「ナイスパス、藍人!」
「素晴らしい判断だ!」
再び両親の歓声がスタンドに響く。
藍人は満足そうに微笑みながら、スタンドに向かって小さく手を振った。
(いい感じだ。この調子でもっと点を取って、チームを勝たせよう)
スコアは0-2。
青刃中が序盤から完全にペースを握っていた。
その後も青刃中の波状攻撃が続く。
3年生復帰組の経験豊富なパスワーク、そして何より——
「うおおおおお!!」
天音の化け物級セーブが炸裂した。
成磐中の数少ないシュートチャンスで放たれた照先輩の強烈な一撃を、天音が信じられない反射神経で弾き返す。
その動きはまるで稲妻のようで、観客席がどよめいた。
「ナイスセーブ、天音!!」
「今度はこっちの番だぞー!!」
天音自身が大声で鼓舞し、即座にカウンターアタックの起点となるクリアを送る。
その声量で、コート全体が震えているようだった。
第1クォーター終了時点で、スコアは0-2。
成磐中は完全に劣勢に回っていた。
第2クォーター
1分間の休憩を挟み、第2クォーターが開始された。
みち先生が選手たちを温かい眼差しで見つめ、穏やかな声をかける。
「大丈夫よ。君たちは十分戦えています。焦らずに、今できることを精一杯やりましょう」
誠先輩も静かに頷く。
「プレッシャーに負けるな。俺たちのホッケーをやろう」
しかし、青刃中の勢いは止まらなかった。
第2クォーター開始から3分。
藍人が再び魔法を見せた。
右サイドからのカットイン。
今度は完全に一人でゴールを奪いに行く意志を見せる。
その眼差しには、揺るぎない自信が宿っていた。
「シュッ、カツッ、シュッ」
あの美しいリズムが、今度はさらに力強さと情熱を増していた。
成磐中の守備陣が次々と抜かれていく様子は、まるで芸術作品を見ているようだった。
ペナルティサークル内での華麗なフェイント。
蒼が必死に角度を詰めるが、藍人のリバースシュートは完璧だった。
ゴール右上隅に突き刺さる鮮やかな一撃。
藍人の2得点目。
「やったー! さすが藍人!!」
「素晴らしいシュートね!」
お父さんの力強い声とお母さんの甲高い声が重なって、スタンドの両親が抱き合って喜んでいる。
その光景を見て、藍人の心が温かくなった。
(お父さんとお母さんが喜んでくれてる。チームも勝ててる。やっぱり僕が点を取れば、みんなが幸せになるんだな)
スコアは0-3。
青刃中の優勢は揺るがない。
しかし、この直後に成磐中にもチャンスが訪れた。
中盤でのボール争いから、照先輩がボールを奪取。
緋色は直感的に前方に走り出す。
その瞬間——
「緋色、深呼吸だ。お前なら大丈夫」
誠先輩の落ち着いた声が、まるで魔法のように緋色の心を落ち着かせた。
「声を出せ! 仲間がついとるでー!」
照先輩の岡山弁も力強く響く。
仲間の声に支えられ、緋色の心が静寂の中に落ち着いていく。
スタンドからは、あの懐かしい少女の応援する姿も見えた。
そして…… 再び、
あの感覚が戻ってきた。
視界の隅で、今度は前回よりもはっきりと金色の線が見えた。
照先輩から自分へ、そして自分から誠先輩へと続く、光るパスコース。
まるで運命の糸のように美しく輝いていた。
「…ここだっ!!」
緋色は迷わずに走り、ワンタッチでボールを受け取る。
そのまま見えた光の線に向かって、誠先輩へ完璧なパスを送った。
誠先輩が驚いたような表情を見せる。
「緋色、今のパスは……!」
完璧なタイミング、完璧な強さ、完璧なコース。
まるで心の中を読まれたかのような、理想的なパスだった。
誠先輩からのラストパスを受けた照先輩が、渾身のシュートを放つ。
「入れ!」
ボールはゴール右隅に突き刺さり、成磐中が念願の1点を返した。
「やったぁ!」
ベンチが歓喜に包まれる。
緋色も思わず拳を突き上げた。
スタンドからは、みっちゃんの大きな拍手が響いてくる。
しかし、藍人の反応は素早かった。
(成磐中も強い。特に緋色のパス、あれは…何かが違う。でも、負けられない!僕がもっと頑張れば、チームが勝てる!)
藍人を中心とした連続攻撃が始まった。
今度はさらに研ぎ澄まされた技術と、チームを勝たせたいという情熱を込めたプレーを披露する。
個人技からのアシスト、3年生との完璧な連携、そして決定的な場面での冷静な判断。
藍人のプレーは、もはや芸術の領域に達していた。
青刃中が立て続けに2点を追加し、天音の超人的なセーブが成磐中の反撃を完全に封じ込めた。
「止めた!!」
天音の横っ飛びセーブに、観客席が総立ちになる。
第2クォーター終了時点で、スコアは1-5。
成磐中は4点差という厳しい現実を突きつけられていた。
ハーフタイム
ハーフタイムの成磐中ベンチ。
選手たちは誰もが悔しさを隠せずにいた。
特に緋色は、自分と藍人の実力差を痛感していた。
藍人の圧倒的な個人技。
2得点1アシストという完璧な数字。
それに比べて自分は…
「すみません…僕がもっとしっかりしていれば…」
緋色がつぶやくと、誠先輩が静かに首を振った。
「緋色、お前は十分やっている。さっきのパス、本当に素晴らしかった。お前の成長を感じたよ」
照先輩も力強く頷く。
「そうじゃ。まだ試合は半分残っとる。諦めるには早すぎるけん」
みち先生が優しく微笑みながら、選手たち一人一人の目を見つめた。
「皆さん、よく頑張っています。相手は確かに強い。でも、君たちも確実に成長している。
緋色くんのパス、蒼くんのセーブ、照くんのシュート、誠くんのリーダーシップ——すべてが輝いていました」
先生の温かい言葉に、選手たちの心が少しずつ落ち着いていく。
「後半戦では、もっと自分たちを信じましょう。そして、仲間を信じましょう。君たちならきっと、素晴らしいホッケーができるはずです」
選手たちの目に、再び闘志の炎が宿った。
緋色も深呼吸をして、心を整える。
(僕は藍人くんのような圧倒的な個人技はない。でも、僕にはあの光る感覚がある。仲間の声で落ち着けば、もっとはっきり見えるかもしれない。後半戦では、必ずチームの力になってみせる)
一方、青刃中のベンチでは——
「前半戦、お疲れ様でした」 藍人が仲間たちを見回しながら言った。
その表情には、勝利への確信と同時に、相手への敬意が込められていた。
「でも、まだ油断はできない。成磐中は強いチームだ。特にあの1年生、何か特別なものを持っている気がする」
天音が大きく頷く。
「そうだそうだ! あいつのパス、すげー良かったぞ! 何か光って見えたもん!」
3年生の一人が苦笑いする。
「天音、それは比喩だろう…」
「いや、でも確かに何かが違った」
藍人の表情が真剣になる。
「後半戦では、もっと全力でいこう。成磐中に対する敬意も込めて」
藍人はふと、スタンドの両親のことを思った。
(お父さんとお母さんが応援してくれてる。チームのためにも、後半戦で絶対に勝とう)
チームへの責任感と家族への想いが、藍人の心をさらに熱くしていた。
両チームとも、後半戦に向けて新たな決意を固めていた。