第22話「庭先の音」
お盆が過ぎた8月中旬の午後。
強い日差しが、相原家の庭を白く照らしていた。
緋色は自分の部屋で夏休みの宿題に取り組んでいたが、苦手な数学の問題集を前に手が止まっていた。
(基礎練習、頑張ってるけど...まだまだだな)
夏祭りの夜、えみちゃんと交わした約束を思い出す。
来年こそは全国大会を目指すと決めた。
でも、光る能力がほとんど見えなくなった今、本当にそれが実現できるのか不安だった。
その時――
庭の方から、かすかに音が聞こえてきた。
「カッ、シュシュッ、コツッ、シュッ」
聞き覚えのある音。ホッケーボールがスティックに当たる音だった。
(え?)
緋色は椅子から立ち上がり、窓に近づいた。カーテンを少しずらして庭を覗いてみる。
そこには、見慣れない光景があった。
巧真が庭の隅で、ホッケースティックを手にボールを軽く弾いていた。
(お父さん...?!)
巧真の動きは、とても自然だった。
まるで体が覚えているかのように、スティックを操ってボールをコントロールしている。
時々、スティックでボールを軽くすくい上げて空中でキャッチしたり、浮かせたまま左右に滑らかに移動させたり。立体的にボールを操る技術が、緋色には魔法のように見えた。
(すごい...なんか、僕とは全然違う)
緋色は息を止めて見入った。
巧真の動きには無駄がなく、ボールがまるで意思を持っているかのように従っている。
でも、その表情は笑っているがどこか寂しげで、遠くを見つめるような目をしていた。
(お父さん、もしかして昔やってたのかな?すごく上手だ)
(…一緒にやってみたいな)
緋色は迷った。お父さんはホッケーの話をするとどこか遠慮がちになる。
何かあるんだろうなとは思っていたけど…。
でも、今のお父さんを見ていると、とても楽しそうに見えた。
意を決して、緋色は階段を駆け下りた。
「お父さん!」
緋色が庭に出ると、巧真は慌てたようにスティックを下ろした。
「あ、緋色...」
「お父さん、もしかして昔ホッケーしてたの?」
巧真は慌てたように答える。
「いや、これは...たまたまそこにスティックがあって」
「すごく上手だった!」
緋色の率直な感想に、巧真は少し驚く。
「そんなことない。もう…だいぶブランクもあるしな…」
「でも、僕よりずっと上手だった。ボールの扱い方とか、今の僕にはできないもん!」
緋色は目を輝かせて続けた。
「お父さん、良かったら少し一緒にやろうよ!」
「え?」
「勉強の息抜きにさ!!」
巧真は予想していなかった息子からの誘いに、一瞬言葉を失った。
「僕、まだまだ基本ができてないから。お父さんに教えてほしい...」
「でも、おれは...」
「大丈夫!ただ一緒にパスするだけでも嬉しいから」
緋色の純粋な笑顔を見て、巧真の心が動いた。
息子と一緒にホッケーをする。それは、心のどこかで望んでいたことだった。
「...じゃあ、少しだけ」
巧真が小さく微笑む。
「本当?やった!」
緋色は嬉しそうに自分のスティックを取りに部屋へ駆けて行った。
「……久しぶりだな、こういうの」
巧真が呟く。
緋色は5メートルほど離れた位置に立ち、期待に満ちた表情でスティックを構えた。
「じゃあ、軽くパスしてみようか」
「うん!!」
巧真がボールを緋色に向けて優しく押し出す。
緋色はトラップして、丁寧に返す。
「おっ、トラップは良くなってるな」
「本当?」
「ああ。ここ最近の練習の成果なんだろうな」
父と息子の間を、ボールが静かに行き来する。
緋色は改めて感じた。お父さんのパスは、とても受けやすい。
タイミング、強さ、コース、すべてが洗練された正確さがあった。
「お父さん、パスが上手い!」
「そうか?」
「うん!受けやすくて、すごく取りやすい!」
緋色の率直な感想に加えて、心の中でも思った。
(コースなんて、まるで僕の次のプレーのことも考えてくれてるみたい)
巧真は少し嬉しそうな表情を見せた。
「相手のことを考えるのが、パスの基本だからな」
その時、緋色との間に次のパスが大きな石に当たりそうになっていることに巧真が気づいた。
巧真は自然に、ボールを少し浮かせて石を避けるようにパスを出した。
「え?」
緋色は驚いた。その大きな石だけを避けてボールが通ってきたのだ。
「今の...」
「ああ、石があったから、ちょっと浮かせただけ」
巧真は何でもないことのように答える。
「浮かせるって...そんな一瞬でそんなこと...?」
緋色の驚きに、巧真は息子がまだそのレベルの技術を知らないことに気づいた。
「まあ、先を見て基本ができてれば、自然にできるようになるよ」
「…すごいなあ」
緋色は素直に感動していた。
その時だった。
「あら、二人とも何してるの?」
けいの声が聞こえた。
巧真は慌てたようにスティックを下ろす。
「あ、けい...」
「お母さん、お父さんがホッケー教えてくれてたんだ!」
緋色は嬉しそうに報告する。
「そうなの?」
けいは少し驚いた表情を見せたが、すぐに微笑んだ。
「久しぶりね、巧真がスティック持つの」
「ああ...緋色に頼まれて、少しだけ」
巧真は照れたように答える。
「お父さん、すごく上手だったよ!」
緋色の言葉に、けいも嬉しそうな表情を見せる。
「そうでしょ?お父さん、昔はとっても上手だったのよ」
「そうなの?」
「ええ。でも、もうご飯の時間だから、今日はここまでにしましょ」
「はーい」
緋色は名残惜しそうにスティックを片付ける。
---
夕食がおわり巧真はテレビを見ている。
緋色はさっきの出来事を思い返していた。
(お父さんのパス本当に上手だった…何が違うんだろう)
(あの浮かせるパス、どうやったら僕にもできるようになるかな)
「緋色、どうしたの?」
けいが声をかけてくる。
「お父さんのパス、すごかったなって思って」
「そう。さっきも言ったけどお父さんは昔、とっても上手な選手だったのよ?」
「どのくらい上手だったの?」
緋色の質問に、巧真は困ったような表情を見せる。
「まあ昔の話だし...」
「でも今日、少し思い出せたんでしょ?」
けいが優しく話しかける。
「ホッケーの楽しさ」
巧真は静かに頷いた。
「...ああ。久しぶりに、楽しかった」
その言葉を聞いて、緋色は嬉しくなった。
(また一緒にいつかやってもらえるかな)
その夜、緋色は布団の中で今日のことを考えていた。
お父さんの技術は、自分とは見てるところ違った。
特に、石を避けるために自然に浮かせたパス。
(あれは、どこみてどうやったらできるようになるんだろう。)
(基本ができれば自然にできるって言ってたけど...)
(僕も、いつかあんな風にできるようになりたいな)
光る能力がなくても、お父さんみたいに上手になれるかもしれない。
そんな希望が、緋色の心に芽生えていた。
巧真も、隣の部屋で同じような気持ちでいた。
久しぶりに息子とホッケーをして、忘れていた楽しさを思い出した。
でも同時に、複雑な思いもあった。
(緋色には、、、いつか、話さなければならない日が来るのかもしれないな)
けいも、今日の出来事を静かに喜んでいた。
夫がスティックを持つ姿を見るのは、本当に久しぶりだった。
そして、緋色が目を輝かせて父親の技術に憧れる姿も。
お盆の夜は、相原家の3人それぞれが、新しい想いを抱いて更けていった。
緋色の夢に向かう気持ちは、また一つ強くなった。
その夏の日の記憶は、緋色の心に深く刻まれそして秋。
岡山県選抜ー11人制の選考会の日がやってきた――――