第9話「気づきの朝練」
県大会 決勝戦から1週間後の金曜日。
今日の夕方、成磐中ホッケー部は四国での強化合宿に出発する予定だった。
相原 緋色は、あの県大会での悔しさを胸に、誰よりも早くグラウンドに来て自主練習を続けていた。
出発前の最後の朝練で、緋色は特別な気持ちになっていた。
明日からの合宿への期待と不安が入り混じっている。
青い人工芝に朝露がきらめく中、一人黙々とボールコントロールの練習を繰り返す。
芝の上に散らばった水滴が、朝日を受けて宝石のように輝いていた。
スティックとボールが作り出す「コツッ、コツッ」という軽快なリズムが、静寂の中に響いている。
(もっと上手くなりたい。中国大会では、必ずチームの力になりたい)
あの県大会で見せた光る能力の感覚を、もう一度掴もうと必死に集中する。
ボールを止める、運ぶ、パスを出す——
基本的な動作を繰り返しながら、あの時の感覚を呼び戻そうとしていた。
しかし、一人での練習では限界があった。
パスを受ける相手がいなければ、あの光るパスコースは見えてこない。
「くそっ...」
小さく舌打ちをする緋色。
額に汗が浮かび、息が少し荒くなっている。
もう1時間以上、一人で練習を続けていた。
(藍人くんのような個人技術はまだまだ。でも、僕には僕の道がある。あの光る感覚を完璧にコントロールできれば...)
一人早くから始めた自主練習も、朝日が昇るにつれて汗だくになっていく。
それでも、緋色は諦めなかった。
「おはよう、ひいろくん!」
明るい声に振り返ると、女子部の先輩が手にスティックを持って立っていた。
朝日が彼女の後ろから差し込み、まるで光の中から現れたような幻想的な光景だった。
「え...?」
緋色は一瞬困惑する。
見覚えのある顔だが、はっきりと思い出せない。
(確か...ホッケー部に誘ってくれた先輩...)
「一緒にしようよ! 朝練」
その先輩は、屈託のない笑顔でグラウンドに駆け込んできた。
その表情には、心の底からの喜びが溢れている。
「あ、でも僕、男子なので...」
「大丈夫だよ! 同じホッケーだし、基礎練習は一緒でしょ?」
彼女は既にスティックを構え、ボールを足元に置いている。
その手つきは、確かな技術を感じさせた。
「ほら、パス練習しよ? 一人だと限界があるでしょ?」
その積極的な態度に押し切られ、緋色は苦笑いしながら頷いた。
「分かりました。お願いします」
「じゃあ、簡単なパス交換から!」
彼女が送ってくるパスは、思っていた以上に正確で力強かった。
ボールが芝の上を滑るように転がり、緋色のスティックにピタリと収まる。
「すごいですね...技術、高いです」
「ありがとう! 私も結構やってるからね~」
最初は緊張していたひいろも、彼女の自然な笑顔に徐々にリラックスしていく。
パスを交換しながら、緋色は何か懐かしい感覚を覚えていた。
このリズム、この感じ...どこかで体験したような。
「ひいろくん、もう少し強めでも大丈夫だよ」
「は、はい」
彼女のパスを受けながら、緋色は気づいた。
彼女のプレーには、ただの基礎練習を超えた何かがある。
ボールタッチが柔らかく、パスのタイミングが絶妙だった。
「先輩、もしかして女子部では...」
「ん? どうしたの?」
「いえ、技術がとても高いなと思って」
さくらが少し照れたような表情を見せる。
「そんなことないよ~。でも、ホッケー好きだからね」
彼女の
「一緒にしようよ!」
という言葉が、なぜか心の奥で響いている。
朝日が次第に高くなり、青い人工芝全体を温かく照らし始めた。
二人の影が芝の上で踊るように動いている。
「ねえ、ひいろくん」
「はい?」
「ホッケー、楽しい?」
突然の質問に、緋色は少し戸惑う。
「楽しい...ですね。でも最近は、上手くならなきゃ、勝たなきゃって気持ちの方が強くて」
「そっか...」
さくらの表情が少し寂しそうになる。
「でも、楽しむことも大切だと思うよ。一生懸命やるのは素敵だけど、楽しさを忘れちゃったらさ...もったいないよ?」
その言葉に、緋色の心が少し軽くなった。
(この感じ...昔、誰かと一緒に何か...)
「次は、走りながらのパス練習してみない?」
「え、走りながらですか?」
「大丈夫! ついてきて」
彼女が軽やかに走り出す。
その足取りは軽く、まるで芝の上を舞うようだった。
緋色も慌てて後を追った。
青い人工芝を駆け抜けながら、ボールを交換し合う。
彼女の足音が軽やかに響き、時々クスクスと笑い声が漏れる。
「ふふっ♪ ひいろくん、上手になったね!」
その無邪気な笑顔を見た瞬間——
緋色の脳裏に映像が浮かんだ。
田んぼ道を一緒に走る小さな二人の影。
山道を手を取り合って駆け上がる記憶。
「一緒に走ろう!」
と手を引いてくれた小さな女の子。
その子も、同じように「ふふっ♪」と笑っていた。
一緒に走って、笑い合って、助け合った日々。
「そう言えば、あの時も...」
緋色がつぶやく。
「え?」
「いえ、なんでもないです」
しかし、記憶の断片がちらちらと蘇り始めていた。
走りながらのパス練習が続く。
彼女の動きは本当に自然で、まるで緋色の動きを予測しているかのようだった。
「すごいですね...先輩、僕の動きが分かるんですか?」
「んー、なんとなくかな? ひいろくんって、動きに癖があるから」
「癖、ですか?」
「うん。右に行く時、ちょっと肩が下がるの。昔から...」
そこで彼女の言葉が止まる。
「昔から?」
「あ、なんでもないよ」
さくらが慌てたように首を振る。
しかし、その一瞬の表情に緋色は確信めいたものを感じていた。
(もしかして僕のことを知ってる...?)
「あっ......!!」
緋色の足が止まる。
ボールがゆっくりと転がっていく。
「…? どうしたの?」
彼女が心配そうに近づいてくる。
その顔を見た瞬間——
幼い頃の記憶が鮮明に蘇った。
あの優しい笑顔。
あの時と同じ、温かい瞳。
そして、あの「ふふっ♪」という可愛らしい笑い声。
全てが繋がった。
「さくら...ちゃん?」
「あ!……やっと気づいた!」
さくらの顔に、嬉しそうな笑顔が浮かぶ。
その表情は、長い間待ち続けていた想いが報われたような、純粋な喜びに満ちていた。
「気づくの遅いなぁ~」
「さくらちゃん...本当に、あの時の...?」
「そう、一緒に遊んでた頃の!!」
緋色の心に、懐かしい記憶が蘇る。
田んぼ道を駆け回った日々、山を一緒に登った思い出、
そして——
「ずっと、ひいろくんがホッケー頑張ってるの見てたんだよ」
さくらの言葉に、緋色は少し照れくさそうに俯く。
「そうだったんだ...」
さくらの瞳が、一瞬切なそうに曇る。
でも、すぐに明るい笑顔を取り戻した。
(ずっと見てた。ずっと応援してた。ずっと...)
「おーい、ひいろ! もう来てたのか...って、さくら?」
朝比奈 照がさくらを見て少し驚く。
「あっ!照くん。おはよう」
「珍しいがー、男子と一緒に練習しとんの!しかも1年の緋色と」
照が緋色を見て、にやりと笑う。
「実はひいろくんと昔からの知り合いなの」
「へー、そうなんじゃなー」
照の表情が興味深そうに変わる。
「緋色、お前そんな人脈あったんじゃな! しかもこんな可愛い先輩と」
「て、照先輩!」
緋色が慌てて否定しようとする。
続いて長瀬 誠も到着する。
「照、もう来てたのか。それと...さくらさん?」
「おはようございます、誠先輩」
「緋色と知り合いなのか?」
「幼馴染なんです」
誠が少し驚いた表情を見せる。
「そうか、それは知らなかった」
誠の視線が二人の間を行き来し、小さく笑みを浮かべた。
「緋色、朝からいい練習相手がいたんだな」
「は、はい...」
「さくらさんは女子部でもかなりの実力者だからな。いい経験になっただろう」
さくらが照れたように俯く。
「そんな、誠先輩...」
「謙遜することはない。君の技術は確かだ」
誠の一言に、緋色は驚きながらも嬉しそうだった。
照も頷く。
「そうそう、さくらは女子部のエース級じゃけんなー。緋色、いい先生に教わったがん!」
「エース級...」
緋色が驚いてさくらを見ると、彼女は恥ずかしそうに俯いた。
「もう、照くん...恥ずかしいよ」
その仕草が、幼い頃の記憶と重なって見えた。
「それじゃあ、私はそろそろ女子部の練習があるから」
さくらがスティックを片付けながら言う。
「また一緒に練習しようね、ひいろくん」
「は、はい」
その言葉に、さくらの笑顔が一層輝いた。
「あ、そうそう」
さくらが振り返る。
「ひいろくん、あの感覚、大切にしてね」
「え?」
「県大会の時、観客席から見てたんだよ。あの時のひいろくんのパス、本当にきれいだった」
「見てたの?」
「うん。あの瞬間、ひいろくんがとても輝いて見えたんだ」
さくらの瞳が少し潤んでいる。
「だから、その力をもっと信じて。きっと、もっともっとすごいことができるよ!」
「さくら...ちゃん...」
緋色の頬が赤く染まる。
「中国大会、応援してるから。頑張ってね」
そう言って手を振りながら去っていくさくら。
緋色はその後ろ姿を見つめる。
(さくら...ちゃん...また会えるなんて)
照がにやりと笑う。
「緋色、お前にも青春が来たんじゃなー?」
「え、えぇー? そんなことは...」
誠も微笑む。
「まあ、良いモチベーションになるだろう。さくらさんに応援してもらえるなら」
「は、はい...」
緋色の頬がさらに赤くなる。
誠が感心して言う。
「さくらさんは人を励ます力があるな。あの言葉で、緋色の気持ちも変わったんじゃないか?」
緋色は深呼吸をして、心を落ち着かせた。
(そうだ。楽しみながら、でも本気で。それが僕のやりたいホッケーだ)
午後、成磐中ホッケー部は四国強化合宿へ出発。
バスの中、緋色は窓の外を見つめながら考える。
(さくらちゃん...あの感覚、わかってるのかな?)
福士 蒼が笑う。
「さくら先輩のこと?」
「そ、そんなことないよ!」
誠が優しく言う。
「緋色には才能がある。それを信じて全力で取り組むんだ」
「ありがとうございます!」
バスは夕日に向かって走り出した。