自然な偽り
子供の頃に見た、雨に濡れた姿はまるで、捨て猫のようだった。
ザーザーと音を立てて降り続く雨に濡れて張り付いた衣類が、痩せてガリガリの身体のラインを浮かび上がらせていて、思わず痛々しい……と唸ってしまう。
もしかして雨を凌ぐ場所もないのだろうか?
一度そう思ってしまったら不安になって、その場所を離れることが出来ず。
でも声を掛けることも、出来ない。
ただ見ていることしか出来なかった。
見守っている間中、彼はずっとそこにただ立って、空を見ていた。
その瞳に感情の光はなく。無表情に空を見上げ、ただ濡れ続けている。
髪から流れて頬を伝う雫は涙のようだ。
あの時、どんなに思っただろう。
駆け寄って濡れないようにしてやりたい。
濡れた場所を拭いて暖めてあげたい。
でもディアーナには何も出来なかった。
まだ幼かったから……うまく嘘をつく自信がなかった。
彼から何故構うのかと聞かれた時、ただの善意だと言い張って切り抜ける自信がなかった。
きっと隠しても滲んでしまう、彼に構う本当の理由。
彼は、ディアーナの弟だ。
母親は違うけれど……この世でたった一人の、血の繋がった姉弟。
だからディアーナは、彼に優しくしたかった。
しかし、彼は知らないその事実を隠しきる自信がなく。
彼のそばに必要以上に近付けなかった。
ただ見守るしかしなかった臆病な自分。
今思えば、一声掛けて、傘や身体を拭う布を押しつけることくらいなんでもないことだったろう。彼は他人に構う方ではないから、行きずりで好意を押しつけていった相手など覚えるはずもない。
いくらでも言い訳出来ただろうに、あの頃は幼すぎて勇気がなく……そんなことすら出来なかった。
◆◆◆◆◆
雨の季節。
騎士団の屋内訓練場への渡り廊下を歩いていたディアーナは、視界の端を何かが掠めた気がしてふとそちらを見やった。
雨で霞む屋外訓練場の真ん中に、ぽつんと佇む人影。
降りしきる雨が滲ませている人影を目を凝らしてみて、それが誰か判った途端、ディアーナは雨の中へ走り出していた。腕を顔の前に翳して走り寄ながら怒鳴る。
「アレス!! 貴様、何をやっている!!」
「……ディアーナ」
立っていたのは同僚の騎士のアレス。
怒鳴り声に気付いてこちらを向く彼の全身は最早どうしようもない程ぐっしょりと濡れていた。
一体いつからいたのか……。
「馬鹿! 早くっ、こっちへ入れっ!!」
有無を言わせず腕を掴んで、アレスを引っ張って屋根のある方へ引き返す。
「ディアーナ、痛い」
濡れ鼠のようになっているアレスは、いつもと変わらない飄々とした口調でディアーナの善意を無下にする。だが、今更ディアーナもその程度のこと気にしない。
アレスはいつもこうだ!!
ディアーナの善意を欝陶しいだの暑苦しいだの言って素直に受け取ったことは一度もない。むしろ今は、そういう対応に慣れてしまったから、変にお礼を言われたり感謝されたりしたら、正気を疑う。
だから後ろでブツブツ言っているアレスを無視して、力任せに引っ張り続けた。
ディアーナは走りたいのに、引き摺られるアレスの歩調が遅いから、雨を凌げる場所に戻った時には、二人ともずぶ濡れになっていた。
二人からぼたぼたと雫が落ちる。
濡れた髪が皮膚に張り付く感触が気持ち悪く、ディアーナは長い髪をギューッと後ろに絞って、手早く後頭部にまとめ上げる。それから全身を見下ろし、もう何をしても着替える以外に選択がないと諦めた。
仕方ない、一度着替えに戻るか……考えながらアレスを見ると、隣のアレスは相変わらずぼーっと立っている。その様にカチンときた。
「貴様、こんな雨の中で何をやってたんだ」
「……お前には関係ない」
ふいっと顔を背け、彼はまた雨の方を見る。
そちらに何かあるのか?
ディアーナも真似したが雨で霞む景色にめぼしいものはない。先刻のアレスも、雨の中何かしていた様子ではなかった。
雨の中ただ立って何をしていた?
声に出したところできっと答えないのだろう。
まだ雫を拭いもせず佇むアレスを見ていると、遥か過去を思い出した。
あの時よりずっと逞しくなって、外見も変わったのに……濡れている姿は、やはり捨て猫のようだ。
風邪を引かないか、そのまま死んでしまわないか……幼い胸に不安を掻き立てた姿。あの後、無事を確認するまでの数日間、ディアーナは気が気じゃなかった。
でも今日は、考えるよりも先に駆け寄れた。
今度こそ、何も出来なかったあの日を取り戻せる。
自然に彼を気遣う情を仲間のそれと偽って……ディアーナはいつもの口調でアレスの腕を引いた。
「相変わらず訳の判らない……もういい、さっさとついて来いっ」
「何処へ?」
「家だ」
「家?」
「私の屋敷へ来いと言ってる」
「……なんで?」
「貴様が面倒臭がってそのままでいるのが判っているからだ」
「何それ?」
「風邪を引くのは貴様の勝手だが、それで任務が滞ってはこちらにも影響が出る。風呂も着替えも貸してやるから黙ってついて来い」
「……本当お節介だね、ディアーナって。他人のことなんて放っておけばいいのに」
「そうはいくか」
私はお前の姉だから……面倒臭そうな表情を作った裏、呟く。
お前に風邪を引いてほしくない。
風邪を引かないように暖かい場所にいてほしい。
暖かい場所がないなら、私が与えてやる。
あのころ出来なかったこと全部、今、仲間として……。
逃がさないよう手を引いて歩き始めるディアーナ。
珍しくアレスは素直に付いていった。
◆◆◆◆◆
養い親に嫌々放り込まれた剣術道場の、上位クラスに通う美しい少女が腹違いの姉だという事実は、最初から教えられていた。
厄介事に巻き込まれないよう、彼女には近づくなと、注意されたのだ。
だったらわざわざ同じ場所に通わせるな……と思いもしたが、いちいち反抗するのも面倒臭く。ただ頷いて、彼女を避けることに同意した。
事実を知っても、アレスは彼女になんの感情も抱かなかった。
向こうは、アレスの存在を知らない。
ならば、こちらも気にする必要はない。
冷たく切り捨てて生活していた頃の、あれはいつのことだったか……。
土砂降りの雨の日。
剣の稽古の後、練習試合で負かした貴族の子たちから、新入りの孤児が、貧民が調子に乗るな……と大人の目のない場所で襲いかかられ、まとめて返り打ちにした痕跡を消すために、わざと雨に降られていた。
ふと気付いたら、視界に端に姉がいた。
物陰からこっちを見て、おろおろしている。
多分、偶然アレスを見つけて不審に思ったものの、お嬢様にはどうすればいいのか判らないのだろう。
欝陶しくて……早く去ればいいと思った。
今近寄ってこられたらきっと余計なことを言ってしまう。
すべてお前たちの所為だと、無関係な姉を責めてしまう。
傷つきたくないならオレに関わるな……拒絶して瞼を閉じた。
そして次に目を開けた時、姉はもういなくて、ホッとしたのを覚えている。
……あれからどれくらい経っただろうか?
大人になった姉は雨の中のアレスを見つけた途端、躊躇わずに駆け寄ってきた。
自分も濡れるのに、土砂降り中走ってきて、手を掴んで引き寄せて、雨を凌げる場所に連れて行く。それから、更に暖かい場所に行こうと誘う。
……多分、姉弟という事実を認め合うことも、姉弟として接することも、自分達にはないと思う。
だけど何も知らない姉は、生まれもった優しさで無遠慮にアレスを気遣ってくる。
暖かく優しい、アレスの失った情を無条件に与えてくる。
欝陶しいけれど……<他人>として、それを与えられるならいいと思った。
すべて知らぬふりをして、こういう関わり方をするのなら、悪くない。
ねぇ、ディアーナ?
つないだ手は離さず。
先を行く姉の背中に黙って笑いかけた。
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