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43:落花流水

 もう旭と日奈の姿も見えなければ、音ひとつさえも聞こえない。


 先ほどまでいた場所は区切られた幻想世界だったのではないかと、宵と暮相と別れた時とほとんど同じことを明依は考えていた。


 取り残された者が、後も先も見えない廊下の中央にふたりだけ。


 夢中で走っている間に、自分の見る目は変わってしまったのかもしれない。

 不自然なくらい静かな廊下。薄青で暗い廊下。

 不気味だと思っていたこの場所を、美しいとすら思っていた。


 不快感が来る予感がして、明依は立ち止まって壁に手を付いた。息を吐くと同時に、身体の力も抜けていく。

 終夜は明依の正面に立って、明依が崩れ落ちないように身体を支えた。


「はやく、さきに」

「いいよ。落ち着くまで待とう」


 それは、今まで走っていた代償を全て払っているかのような不快感。

 痛みにだけ全ての意識を向ける。だから明依は自分が不快感から逃れようと、終夜の腕を強く握っていることにさえ気づかなかった。


 終夜は沈んでいく明依の頭に肩を貸してしゃがみ込むと、明依の背中に触れた。

 明依の額にはぬるくて重たい脂汗がにじんでいる。神経に響く様な痛みを逃がすために、呼吸を止め、浅い呼吸を繰り返した。


 本当ならもう横になってしまいたい。それどころかもう、終わりにしたい。

 弱音を吐いてしまいたい。

 ねえ、終夜は、こんなに苦しいだけの世界を生きている意味があると思う?

 そう問いかけたら終夜は、どんな返事をするんだろう。


 不快感が去った後、明依はもう立ち上がる気力すら残っていなかった。


「……終夜」


 明依の目からぽろぽろと涙が零れた。

 まぶたを閉じる。そこには暮相と宵、それから日奈と旭がいた。


 また、全部失ってしまった。それだけがぽつりとある事実だった。

 終夜は、こんなに苦しいだけの世界を生きている意味があると思っているだろうか。


 今もまだ、まぶたの裏では暮相と宵、それから日奈と旭が、笑っている。

 きっと苦しい世界を生きている意味なんてないから――


「絶対、一緒に珠名屋を出ようね、終夜」


 ――苦しい世界を生きている意味なんてないから、終夜と寄り添いたいと思ったんじゃないか。


 やっと絞り出したような明依の声に、終夜が息を呑んだ。

 四人はきっと、知っていた。おいて行くよりもおいて行かれる方が辛いということを。


 自ら選んだ場所で弱音を吐いて、嘆くだけ。

 そんな人生にうんざりして、心の底から変わりたいと願って、変わったはずだ。


 二年前、二人で地獄を生きると誓ったんだから。


 終夜は明依の背中に腕を回して抱きしめた。

 自分が今、ほんの少しだけ終夜の〝生きる理由〟になれている事を、明依は嬉しく思った。


「一緒にここを出よう、明依」


 終夜はしっかりとした口調で言うと、明依の膝に腕を回してゆっくりと抱き上げた。


「揺れるよ。辛かったら言って」


 そう言って終夜は走り出した。


 明依は目を閉じて、終夜に身体を預ける。

 終夜の鼓動がすぐ側で聞こえる。


 しばらく走っていると、正面に見えたのは極彩色の襖。

 そこには極楽浄土が描かれていた。向こう側にある部屋から、光が漏れている。


 終夜が襖を蹴ると、襖は部屋の中に向かって倒れた。


 細胞という細胞がこの瞬間を待ちわびていたのかもしれない。


 部屋の中に人工的な光はない。正面には満月を模したように壁に空いた丸い窓から月の光が降り注いでいた。

 自然の光を浴びると、生きている事を実感して気を抜いてしまいたくなるような気持ちになる。


 天井を埋め尽くし、垂れるように降りる淡い色の生花。

 月明かりだけを頼る室内は、冷たい色をしている。それなのに無機質とは対極。

 まるで部屋自体が呼吸をしているような錯覚にさえ陥っていた。


 香の煙が漂い、花の香りがする。


「いらっしゃい」


 地獄の描かれた羽織を扇のように広げて丸窓の側に座る地獄大夫は、月を見ながら煙管をふかしていた。


「私の造った〝地獄〟はどうだった?」

「最悪だよ」


 終夜はそう言うと、明依の背を壁に預けるようにして畳に下す。


「殺されたくなかったら、さっさと解毒薬出して」

「もうわかっているはず。珠名屋は私の絶対的な領域(テリトリー)。そして私は絶対に、手を抜かない」


 身体を襲う不快感に、明依は俯いて眉間に皺を寄せた。

 地獄大夫はその様子をじっと見た後、まばたきを一つして終夜に視線を移した。


「それで、二人の答えは?」

「夢なんていらないね」


 終夜はそう言うと、刀で地獄大夫の頭と胴体を二つに分断するように首を切った。


「試させてよ。俺は昔から、出来ないって思うものほどやりたくなる質なんだ」

「残念」


 地獄大夫の分断した身体は、藤の花になって宙を舞う。それと同時に、勢いよく長く細い針が三本、終夜目掛けて飛び出した。

 しかし終夜は、藤の花の隙間を縫って自分の太もも付近に刺さる針の事など気にも留めず、座敷の中に視線を巡らせていた。


「かわさなくてよかったの? それは毒針よ」

「だと思った。陰険そうだもんね、アンタ」


 終夜は軽い様子で言いながら太ももに刺さった針を引き抜いて地面に落とした。


 終夜が刀を振るったのは、最後の針が畳の上に落ちたとほぼ同時。


「……当たり」


 何もない所で刀を振るった終夜。

 月を反射した残光が消えるより前に、地獄大夫が姿を現した。


「手を抜かないでこの程度なら、死ぬ覚悟をしておいた方がいい」


 地獄大夫は終夜の刀を間一髪のところでしゃがんで交わしていた。

 長い髪が終夜の刀によって宙で切れ、重たい音を立てて地面に落ちた。


 地獄大夫は距離を取ると終夜を見据えた。


「どうしてわかったの?」

「風の流れだよ」


 終夜は丸い障子窓の向こう側を見る。


「香の煙の動きがおかしかった。まるで誰かが動いたみたいに。空気が通る場所ではもう、幻覚は使えない。アンタの負けだ」


 そう言うと終夜は地獄大夫を見た。


「珠名楼はアンタの領域(テリトリー)。じゃあ、吉原は俺の領域(テリトリー)だ」

「それなら、俺の領域(テリトリー)でもあるわけだ」


 聞きなれた声だ。

 だけどなんとなく、本当に何となく響く音が懐かしく感じる、そんな声。


 明依が顔を上げて正面を見ると、丸窓の真ん中には月を背負った終夜が笑顔を貼り付けて座っていた。


 終夜が二人。

 しかし明依には、どちらが偽物でどちらが本物か一目でわかる程、雰囲気が違っている。


 地獄大夫と対峙していた終夜は呆れた様子を見せた。


「まだ生きてたんだ。しぶといね」

「〝終夜〟だからね」


 窓辺に座る終夜はそう言うと、ニコリとわかりやすい笑顔を貼り付けた。


「試させてよ、〝終夜〟」


 偽物の終夜は丸窓から身軽に足を下ろすと、刀を抜き取り用済みになった鞘を放り投げた。


「俺は昔から、出来ないって思うものほどやりたくなる質なんだ」


 本物の終夜と同じ言葉を吐く。

 細胞に刻まれた様な明確な恐怖だった。

 まるで〝吉原の厄災〟と対峙していた時のような。

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