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03:極楽浄土の門前

 明依は人の隙間を縫いながら、日奈と旭を追いかけた。

 二人を見失ってしまったらどうしようと、日奈と旭が人混みに紛れて見えなくなるたびに不安になる。


 二人は二年前、死んだはずなのに。


 道角を曲がり、それから直線を抜ける。

 大通りからそれる度に、人は段々と少なくなっていった。


 後ろ姿が見える度に確信する。

 あれは間違いなく、日奈と旭だ。


 もしも日奈と旭を見なかったら、ここを通ろうとは思いつきもしなかっただろう。

 人一人がやっと通れる建物と建物の隙間を走った。


 視界が開けて、明依は二人の姿を探すために立ち止まった。

 日奈と旭は一つの建物に入っていく。それは明依が遊女時代を過ごした満月屋ほどの大きな妓楼だった。


 急いで追いかけようとして数歩進んですぐ、本能に近いところで引っ掛かりを感じて、立ち止まる。

 常識の外側、普通ではない何か。つまり、違和感の正体を突き止めようと日奈と旭が入って行った妓楼を眺めた。


 満月屋ほどの大きさを誇る妓楼は、圧巻。

 しかし、提灯がぽつりぽつりとあるだけで飾り気がなく、とても客を引こうとしているようには思えない。ぱっとみただけでは営業しているのかさえ分からなかった。


 営業中だと判断出来る材料は、妓楼の入り口にかかっている暖簾(のれん)だけ。

 妓楼は通常、空色に近い色かもしくは鮮やかで濃い橙色の暖簾をかける。それは主郭で定められている決まりのはずだ。


 しかしこの建物には、見慣れない濃い紫の暖簾(のれん)がかかっていた。赤い格子があり間違いなく妓楼の造りをしているのに。


 それから、窓という窓が全て外側から木で打ち付けられ、埋められている。

 おそらく妓楼の中には提灯の明かりはおろか、本来万物を照らすはずの日の光すら届かないだろう。


 この妓楼の様子は異様だ。

 死んだはずの親友が入って行ったという非現実的な事が目の前で起きている今でも、息を呑んで我に返るほど。


 もしかするとハロウィンに紛れ込んだ亡霊に(たぶら)かされたのではないかと思うくらい、不気味な妓楼の様子。


 人の通りがない道の真ん中。

 寄る辺のない闇夜。


 本当の江戸の夜は、こんな様子だったのかもしれない。この場所は吉原の非現実。しかし明依にはどこまでも現実的に見えた。

 光のない道の向こうには実は地獄があり、その地獄から鬼でも出てきそうな、そんな夜道。


 大通りから大きくそれたこの場所は、ハロウィンの名残を感じない。

 きっと正常な感性を持った観光客なら、この場所は立入禁止区域なのだろうかと頭をよぎって入ることをためらうだろう。


 そして世間にはどうやら案外、正常な感性を持った人間が多いらしい。


 酒に酔っているのか、建物に背を預ける人、地面に寝ている人が二、三人ほど。それ以外に人気はないが、酔って寝ているのだとしても生きた人間が近くにいるという事が心強いなんて、どうかしている。


 この夜道は吉原の街はおろか、死者でさえ堂々と出歩くことが許されるはずのハロウィンの夜からも見放されていた。


 一人の男が、道の向こうからやってくる。足元はフラフラとおぼつかないが、酒に酔っているわけではなさそうだ。しかしげっそりとやせ細った顔に恍惚とした表情が明らかな不協和を起こしている。


 ここでもし襲われたとしても誰も助けてくれない。その恐怖で明依は思わず身を固くしたが、どうやら男には夜道に佇む女は見えていないらしい。

 明依には目もくれずに、迷うこともなく日奈と旭が入って行った光一つ漏れない妓楼に向かって行く。


 この妓楼の中で唯一光を吸い込むと思われる出入口の向こうを見据える男は、相変わらず恍惚とした表情を崩さない。暗がりで見えない妓楼の中には、よほど美しいものがあるのだろう。


 しかし少し冷静さを取り戻した明依は、男が偶然ぽっかりと開いてしまった地獄の穴に吸い込まれて行くようだと思った。


 明依は男が去った事で自分の身に危険が及ぶことに対する緊張の糸は緩めた。明依はもう一度気をしっかり持つようにという思いで息を吐く。そして男の後を追って妓楼の中に入ろうと足を進めた。


 しかし、すぐに誰かが後ろから肩を引く。強い力が加わって、明依は足を止めざるを得なかった。


「お前、おかしくなったのか?」


 梅雨はめずらしく焦った様子でそう言ったが、明依は勢いに任せてあの大きな恐ろしい妓楼に入るには、男が入っていった今しかないと焦りにも似た感情を抱いていた。


「梅雨ちゃん。お願いはなして」

「ダメだ。お前を無事に主郭まで送り届ける事が、今の俺の仕事だ」

「……日奈と旭がいたの」

「いるわけないだろ。あの二人はもう死んだ」

「あの建物の中に入っていったんだよ。梅雨ちゃんも見たでしょ?」


 明依の問いかけに、梅雨は返事をしない。


「絶対あれは、日奈と旭だった」

「とりあえず落ち着け」


 凛と一度、夜を二つに裂くみたいに、鈴の音が鳴った。


 二人は息を呑んで音の方に視線を移した。


 日奈と旭の入って行った建物の格子越しに、いつのまにか遊女が一人。


 死に装束のような真っ白の着物をまとい、長羽織の裾を扇のように広げて座っている。

 長羽織には黒い生地に赤や金、青に緑の派手な刺繍が施されている。


 長い長い黒髪は、座る彼女の太もものすぐ横に行儀よく下りていた。

 凛と伸びた背筋に、物憂げにも見える表情。それは、自らの輪廻すら憂いているような。


 花魁のように仰々しく飾り立てているわけではないというのに、圧倒的な出で立ち。

 日本という国の歴史を、様式美の精巧さを目に入れているような。


 彼女の羽織る長羽織。

 よくよく見れば描かれたそれは、地獄。


 業火に焼かれる人間、大きな石でつぶされて血を噴き出す人間、煮えたぎる大鍋に入れられ片手を出してもがく人間、まな板に横たわり大口を開ける人間。

 それから、人間を呵責する鬼。


 暗い井戸の底のような鬱蒼(うっそう)としたこの場所で、彼女だけが浮いている。

 それはまるで、背景と人物をそれぞれ別に描いたフィルムを重ねているかのよう。


「もし。そこのお二人さま」


 ゆるりとした人間味のない、しかし機械音ともまた違う声。

 声色がそうさせるのかもしくは混乱しているのかわからないが、彼女の声は音だけに注意を向けさせる。言葉の意味を理解させる気がないように思えた。


「どうぞ中へ。歓迎いたします」


 声色だけで心の中に住み着き、興味をそそる声。

 うつむいた女が顔を少しこちらの方向へ向ける。見えた顔の左側には、目のすぐ横から頬にかけて深くえぐった太い傷が一本入っていた。


 意識の内側、心のどこかでぽつりと思う。

 以前終夜が自分の胸に付けた傷よりも、ずっと深い。


 梅雨が明依の隣で、我に返ったように息を呑んだ。


「結構だ」


 それからすぐ、はっきりとした口調でそう言った梅雨は明依の手首を握ると、来た道を愚直に引き返した。


 まだ混乱している明依は、あの妓楼の様子を、あの女の出で立ちを、日奈と旭がいた事を、頭の中で繰り返しなぞっていた。


「黎明。お前は世間知らずだから、どうせあの妓楼の噂を知らないだろ」


 グルグルと廻るだけの明依の思考を止めたのは、高尾と同じように夜に凛と響く梅雨の声。


「あの妓楼は、地獄屋と呼ばれている。黒い噂が絶えない妓楼だ」

「……黒い噂って?」

「薬物中毒者の巣窟だとか、人を食う鬼がいるとか。そんなところだ」


 内容についてはどうでもいいのか、梅雨はテキトーな口調で言う。


「……日奈と旭がいたのはなんだったの?」


 ぽつりとつぶやいた言葉は独り言か、あるいは梅雨に聞いてほしかったのかはわからない。しかしその声を梅雨が拾う事も、自分の心がすくい取ることもなかった。


「嫌な予感がする。関わるなよ」

「だけど、日奈と旭は……」

「あの二人は死んだ。お前は確かに自分の目で確認したはずだ」


 わかっている。

 わかっているから、日奈と旭がそっくりそのまま、この吉原の街にいたことを説明してほしいんじゃないか。

 しかしそれを明確に言葉にして伝えられない。


「じゃあ私は、何を見たの……?」

「亡霊かもな」


 そう言って目の前で立ち止まる梅雨に釣られて、明依も立ち止まって顔を上げた。

 気付けば旭の死を聞いた時に転がり落ちて、今はもう上がりなれた主郭の長い石段の前まで来ていた。


「雛菊と旭は死んだ」


 主郭を見据えていた梅雨ははっきりとした口調でそう言って、振り向きざまに明依の目を見た。


「それ以外の〝事実〟はない」


 改めて突き付けられた現実に、胸が小さく音を立てる。

 まるで息を引き取った部分が、もう一度息をしたみたいに。


 言い切った梅雨は少し目を伏せて明依から目をそらすと、明依の隣を通り過ぎて三浦屋までの道を歩いて行く。


 明依はただ、うるさい心臓の音を背景にして、出るはずのない答えを探していた。


 一番近くで日奈と旭を見ていた。

 あの二人の声も歩き姿も、一つとして日奈と旭と違う所はなかった。違和感は一つだってない。


 あれは間違いなく、日奈と旭だった。


 明依は石段を上がり切ると門を通り過ぎて主郭の中へ。階段を上がって、現在暮らしている頭領の居住区の出入り口で立ち止まった。


 ここを通らないと中にも外にも出られないから、終夜がどこにいるのか知らないがここで待っていたら会えるはずだ。


 今日あった事を話さないと。それは報告しなければという義務感よりは、自分と同じ、いやそれ以上に日奈と旭を知っている終夜に、一刻も早く話を聞いてほしいという渇望だった。


「どうしたの、明依」


 運がよかったらしい。

 室内にある玄関口に座り込んでいると、終夜は15分もしないうちに付き人を二人連れて出てきた。


「めずらしいね。こんなところで」


 思い返してみれば、ここ二年で終夜はこんな風に自然な様子を見せるようになった。

 終夜を前にして、焦りにも似た気持ちは少し落ち着きを取り戻し、空いた隙間には、終夜に会えた嬉しさであっという間に埋まっていく。

 でもそれはいわゆる砂上の楼閣であることを、明依はここ二年で嫌というほど思い知っていた。


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