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33:クオリア

 座り込んでいると、最悪の気分の悪さではなくなってきた。


「大丈夫。もう動ける」


 明依の言葉は、もはや日奈と宵に安心与えられる材料にはならないらしい。

 しかし、これ以上に適切な言葉を知らなかった。


 日奈と宵の察している通り、残念ながら万全とは言えない。身体に悪いものが入っている感覚は強くなっていて、明らかに悪い方向に向かっている。


 体中がある一点の最終目的に向かって徐々に不必要なものを削り落としながら収束しているような、そんな錯覚。


 今すぐに休める状態ならそうしている。明依が自分に休むことを許さないのは、終夜はきっと気をしっかりと持っている、というほとんど事実の予測からだった。


 終夜は何が起こっても、珠名屋から外に出る為に全力を尽くすだろう。自分が外に出る為、というよりはおそらく明依を外に出す為だという事は、明依自身もよく理解していた。


 だからこそ、動かないと。


「しっかり休んだ方がいいよ、明依」

「宵兄さんの言う通りだよ。終夜たちならきっと待っていてくれるから」


 宵は冷静な様子で。日奈は心配そうな顔で明依を見ている。


「大丈夫。早くみんなと合流しないと」


 そうはいって見るものの、体調には波がある。

 これからも苦しみが続くのだと思うと、楽になる方法があるのならもう楽になって、休んでしまいたいと思う。

 ふっと息を抜いて、もう頑張らなくていいんだと思いたい気持ちになる。


 しかし身体が動く時点で、きっとこれはまだ本当の苦しみではないのだろう。

 死に向かう人間がこんなにつらい思いをするなんて、知らなかった。


 波が去ったところで、明依は自分を奮い立たせて立ち上がった。


何かに身体をむしばまれているという感覚が不快だった。

 自分の身体なのに、自分のものではないみたいな。


 宵は明依の様子を見ながら少し考えるそぶりを見せて、それから日奈を見た。


「日奈。明依を支えてあげて」

「うん。わかった」


 日奈はうなずくと、明依の隣に立って身体を支えた。


 宵を先頭に座敷から出て、廊下を歩く。


 日奈の体温を着物越しに感じた。

 温かい、生きている人間の体温だ。


 徐々に冷たくなっていく日奈の感覚を、今でもよく覚えている。泣きながら触れた日奈の身体が段々と冷たくなっていくのを前に何もできなかった無力感も。それに、仲たがいしたまま別れた絶望も。


「日奈」

「どうしたの?」


 明依が名前を呼ぶと、日奈は顔だけを明依に向けた。


「いつもありがとう」


 明依がそう言って笑うと日奈は少し驚いた顔をしてそれから笑った。


「うん、どういたしまして。こちらこそありがとう、明依」

 

『夢はどこまで行っても夢でしかない。現実と違うものなんて、俺はいらない』

『お前はいらなくても、明依はどうかな』


 地獄大夫は最初から終夜だけを珠名屋に閉じ込められるなんて思っていない。

 これは明依ありきの計画。思い出に縛られて珠名屋にいると望んだ時に、終夜の意思がこと切れるのを地獄大夫は待っている。地獄大夫が仕掛けた罠をくぐりぬけることの難しさを、明依は身をもって思い知っていた。


 絶対にあきらめない。ここで死んだら日奈も旭も宵も、それから終夜も悲しむだろう。

 そして思った。死ぬときに悲しんでくれる人がいると確信できることは、まぎれもない幸せだ。


 宵がふいにピタリと動きを止める。


「どうしたの? 宵兄さん」


 問いかける日奈の隣で、明依は、何となく嫌な感覚を肌で感じていた。


 三人しかいないように思えるこの場の空気感か、宵の立ち止まったタイミングか。それとも、もっと宵という人間を深く知っているからこそわかる何かか。


 もしかすると死線を潜りぬけてきたからこそわかる勘が働いているのかもしれない。


「囲まれてる」


 宵の言葉をきっかけに、襖が示し合わせたように一斉に開いた。


 意志を持たない遊女たちが、ぞろぞろと襖から出てくる。

 廊下はあっという間に遊女で埋まった。


 大鎌を持った遊女たちの様子をみていると、まるで死後の世界にでも迷い込んでしまったようだと思った。


「少しは向こう側にも行ってほしかったな」


 宵は諦めたような、呆れた様な口調で言う。


「……宵兄さん」


 自分の無力さをまた、呪った。

 戦う力があれば、少しくらいは宵の役に立てる。危機を自分の力で潜り抜ける事が出来るのに。

 もう何度、同じことを思っただろう。


「大丈夫」


 しかし宵はつい先ほど明依と日奈に言って聞かせた時と同じ口調で言う。

 宵は優しい、だからその言葉どおりに安心していればいいのだろう。

 任せていれば大丈夫だと思って、甘えて、自分を律することを忘れてしまう。


「でも、残念だけど手加減は出来そうにない」


 自分の命が危ない状況で目を閉じる事が怖いという感覚を思い出した。

 朔に命を狙われた時に、宵は目を閉じて耳を塞いでいるように言った。


 明依は日奈の手を引くと、宵の邪魔にならないように閉じている襖のすぐ隣に小さくなってしゃがみ込んだ。


「明依、どうして、」

「日奈。目を閉じてて」

「……でも」

「大丈夫だから」


 明依が日奈の手を握ると、日奈の心配そうな顔つきが少しずつ和らいでいく。


「信じて」


 日奈は真剣な表情でこくりとうなずくと、それからは何のためらいもなく目を閉じた。


 こんな状況で目を閉じるのが怖いというのは、明依自身もよく知っている。だから日奈はきっと、心底自分を信用してくれているのだろうと感じた。


 きっと大丈夫。

 宵に対する今の安心感は、終夜に生死を委ねているときと同じ。


 それから明依は、目を閉じた。


 衣擦れの音、打撃音、それから何かが何かにぶつかったような激しい音、時々聞こえる銃声。

 断末魔はおろか、声ひとつ聞こえない。


 踏みしめる足音がかすかに聞こえる。宵のものだろうか。


 思い返せば満月屋の廊下で一度だけ、宵がまるで終夜のように音もなく隣に立ったことがあった。

 十六夜が晴朗に詰められた時の事だ。


 今になって思えば、終夜のように宵の足音がなかったのは、暮相の名残が残っていたからだろう。

 今の今までそんな事、すっかり忘れていたのに。

 感覚を閉ざして自分の内側にこもると、普段見えないものが見えてくる。


 吉原はこの二年で、随分と様子を変えた。

 目に見える部分も、心で感じる部分も。


 宵が満月屋で楼主をしていた頃を思い出す。


 『明依』と名前を呼んで優しい笑顔を向けてくれる宵が。日奈が、旭がいた、あの頃の吉原。


 この思い出は、胸が痛むというより、心に()みる。


 すぐ隣の襖が破けるような、壊れるような。そんな音が聞こえても大して明依の心に触れる事はなかった。


 意識をほんの少し戻したのは、日奈が息を呑んで、明依の手を握る力を強くしたから。明依も日奈の手を握り返した。


 自分の中に引き込まれそうになる。余計な事を冷静に考えてしまう。

 例えば、ずっとこの場所にいた場合、どんなふうに生活をするのだろう、とか。


 人間は退屈に耐えられるようには作られていないだろう。

 考えないようにしても今一番興味のある事柄に心を奪われて、無意識に考え始めてしまう。


 それは終夜に意図して話しかけられて思考を閉ざされ、新たな思考回路を生み出される感覚のような。


「終わったよ」


 宵の声が聞こえる頃、辺りはシンと静まり返っていた。


「なるべく周りは見ないようにした方がいい」


 宵の声を聴きながら、明依はゆっくりと目を開けた。


 惨劇。


 床や壁に飛び散るおびただしい量の血。

 細かく飛び散った血液。


 暗い室内の中ですがるように鈍く光る鮮血、その明暗。


 屍の山、真ん中に立つ宵。


 思い出したのは終夜の事。


 主郭の物置の中に二人して逃げ込み、逃げられなくなった時に終夜が初めて目の前で人を殺すところを見た、あの日の事。


 暮相が宵という人間を造るとき、終夜をモデルにしたのかもしれない。

 それくらいあの時の終夜と今の宵は似ている。


 しかしあのころと違う事が一つ。

心の中に浮かぶのは、宵が人を殺したという事実に対する恐怖ではなかった。


「宵兄さん、怪我はしてない?」


 宵が無事でいる。

 今度は宵が傷つくところを見ずに済んだ。


 今の明依は無意識に、どんな惨劇よりも宵の安否を重んじていた。

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