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29:葛藤

 調理場に響く遊女の足音は、意外にもあっさりと遠ざかって行った。

 三人は安堵のため息を吐いて、身体の力を抜く。


「もう活発に動いてるね」

「ごめんね、宵兄さん。私、何も出来なくて」

「気にしなくていいよ、日奈。こんな妓楼で一人で行動するのは寂しいからね。心強いよ」


 穏やかに笑う宵に、日奈は安心したような笑顔を浮かべた。

 本物だろうと偽物だろうと、宵はやはり完璧な気遣いが出来る大人の男性だ。


「地獄大夫はもともと満月屋の遊女だったって聞いたんだけど。日奈と宵兄さんは地獄大夫の事、覚えてる?」

「それがね、私はよく覚えてないんだ」


 日奈は悲しそうな、抵抗があるような。それでいて不思議そうな様子で言う。


「変な感じなの。言われたら思い出せるのに、大事なことは忘れてしまっている感じで……。星乃ちゃんとは施設時代から一緒だった。私が満月屋に入って、数か月してから星乃ちゃんが来たことは覚えてる。だから、7歳か8歳くらいの時かな……。懐かしいって思うのに、よく思い出せなくて……。宵兄さんはどう?」

「俺が吉原に来た時には、もう星乃は満月屋にいた。俺は日奈と星乃がよく話をしていたことを覚えているよ。だけど俺が楼主になって三年くらい経った頃、星乃は珠名屋に異動になった。それからしばらくして、日奈は急に星乃の事を何も言わなくなったんだ。喧嘩でもしたのかと思って触れないようにしていたんだけど……」

「そう言われればそうだったかも……」


 日奈は忘れていて、宵は覚えている。

 7歳くらいなら成長するにつれて記憶が曖昧になっていくのは仕方のない事なのかもしれない。しかし宵が妓楼に来てからしばらくしても話をしていたのなら、記憶がしっかりとある年齢ではないか。


 引っ掛かりを覚えたが、残念ながら解消する方法は思い付かない。ゆっくりと息を吐く事で気になる、という気持ちを少し沈ませた。


 終夜は〝好奇心は人間の原動力〟と言ったが、地獄大夫に関わる好奇心から生まれた原動力で身を滅ぼしかけている明依は、これ以上は他人にも迷惑をかけるという事をよく理解していた。


「少し周りを見てくるよ。二人はここに居て。絶対に動いたらダメだよ」


 なんて事のない様子で言って、宵は立ち上がろうとする。

 言葉にも形にもなる前。ぽつりと浮かんだ何かが胸を痛ませたのとほとんど同じタイミングで、明依は立ち上がろうとする宵の手を掴んだ。


「あ」


 宵にきょとんとした顔で見られた明依は、我に返って一言呟くと、勢いよく手を放してなぜか代わりに隣にいる日奈の片手を両手で強く握った。


「ごっ、ごめん。宵兄さん。……宵兄さんがまたいなくなるんじゃないかって思うと、つい……」


 日奈の手を握りながらパニックになる明依を見て、宵はふっと笑うと明依の頭に手を乗せた。


「帰ってくるよ」


 宵の手の重みで、頭が少し沈む。宵の一言で安心する。

 縦横無尽に制御が利かずに動いていたものが、ゆっくりと元の場所で行儀よく動きを止めたみたいに。


 ここは本当に、終夜と二人で生きていくと誓った浮世の地獄なのだろうか。


 宵が去る背中を、明依は眺めていた。


 地獄大夫の思うツボなのだろう。

 地獄大夫は思い出をなぞらせて珠名屋に縛り付けるのが目的で、日奈と宵と三人で行動させているのだから。


 わかっていても、長い間かけて築かれた自分の中の感情に訴えかけられては、大した抵抗は出来ない。


 しかし、気だけはしっかり持っていようと思った。


 終夜を一人にはさせない。

 二人で珠名屋から出て、また二人で生活する。


 そこまで考えて思い出したのは、主郭の中での二人の生活。

 近くにいるのに遠い、近付かない距離感で互いを見ているだけの生活。


 また胸がトクンと痛む。

 あの生活は、少し虚しい。きっといつかまた先ほど終夜に感じた、側にいるだけでいい、と思う気持ちも、慣れて薄まってしまうのだろう。


 もしかすると本当に二人は抗争の中でしか、命のやり取りをする極限の場所でしか、互いに互いを必要としていると感じる事が出来ないのだろうか。


 苦しいと分かっている場所に戻るくらいなら、この幸せな世界でいっそ。そう考えて明依は、落ち着けと自分に言い聞かせた。


 自ら望んで足を踏み入れた地獄で駄々をこねるなんて、みっともない。


 そう思いながらも明依は、終夜に対して感じている不満とは言えない小さな違和感すら地獄大夫が作ったものなのかもしれないと身を引き締めた。


「あの……明依、手……」


 すぐそばでそう言われて、明依は我に返る。

 いまだに日奈の片手をしっかりと両手で握っていて、日奈がなぜかそれを片手で包むように握ってくれていた。


「あっ、ごめん日奈……つい、考え事……」


 そこまで言って、明依は急に息が詰まる気持ちがした。


 宵はもう様子を見に行ってしまった。

 つまり今この空間は、日奈とふたりきり。


 気まずいような、恥ずかしいような。おそらく日奈も同じ気持ち。理由はすぐに思いついた。


 日奈と喧嘩別れをしたからだ。

 危険なことはしないと約束したのに、日奈に隠れて〝吉原の厄災〟と呼ばれた終夜に近付き、主郭の地下に宵を助けに行った。


 仲たがいしたまま、日奈は死んでしまった。


「……急に二人きりにされると、何話したらいいのかわからないね。私、明依と喧嘩したまま死んじゃったし」


 日奈は困り笑顔を浮かべている。気遣いの仕方も、言い方も、やっぱり日奈だ。


「あっ」


 しかし日奈は思い出したように一言呟いて、それから花が咲いたような笑顔で明依を見た。


「でも、私の最期のメッセージは受け取ってくれたんだよね」


 明依は日奈の最期を思い出した。

 雛菊の櫛を胸に抱いて死んだ、日奈の様子だ。


「……あなたは、本当に日奈じゃないの……?」


 日奈は死んだ。

 確かに死んだ。その時の惨劇、場違いな日奈の穏やかな笑顔は、今でも夢に出るくらいよく覚えている。


 明依の言葉を聞いた日奈はほんの少し目を伏せると、膝を抱えて座り、遠くを眺めた。


「うん、違うと思うよ。星乃ちゃんには〝造った〟って言われたし、それに私にはちゃんと〝日奈〟として死んだ記憶がある。普通、人には死んだ記憶なんてないでしょう? 〝記憶〟って言い方も変なのかな……。とにかくね、前の自分の事はもう何も思い出せないから、私も変な感じなの。多分、旭も宵兄さんも暮相さんも、みんなそうだよ」

「前の自分を思い出したいとは思わないの?」


 明依は自分で問いかけていても違和感があった。 

 目の前にいるのは他の誰でもない、日奈なのだ。その日奈が別人だという意識が明依には全くないが、明依はギリギリのところで事実に寄り添っていた。


「考えたこともなかったな……」


 日奈はそう言うと暗いだけの天井を見上げる。


「私の中にある思い出とかそういうものが一つ残らず星乃ちゃんに造られているとしてもね」

「うん」

「それでもね、私は幸せだなーって思っちゃうの」

「自分の記憶じゃないのに……?」

「うん。それでも幸せ」


 明依の質問に間髪入れずに答える日奈は、夢を語る小学生のように希望に満ちた顔をしていた。


「明依と旭と、それから終夜と過ごした思い出があって、必要とされた記憶がある私は幸せ。私の中にあるものは私の物だもん。だから私が決めるの。きっと私が元の自分に戻って〝日奈〟じゃなくなったとしても、私は〝日奈〟として生きられて幸せ者だなーって思うんだと思う」


 真っ直ぐな日奈の言葉だ。

 すぐそばで見て、憧れて、綺麗だと思った日奈の、素直で真っ直ぐな言葉。


 「なんか、訳わからなくなっちゃった」と恥ずかしそうに笑う日奈。


 もしかすると日奈が死ぬ前の甘ったれた自分だったら、〝そんなものなのか〟と日奈の言葉の真理まで手が届かなかったかもしれない。


 やっと届いた。

 やっと今、日奈の隣に、対等に並んでいる。


「私も聞きたいなー」


 日奈は嬉しそうで、それでいてほんの少し悲しそうな音でそう言うと明依を見て、それから笑った。


「明依は幸せ?」


 どんなふうに答えたらいいのか、わからなかった。


 日奈が死んでから二年後の現在で幸せを語るという事は、自分と終夜の関係を語って聞かせるということだから。


 日奈は終夜の事が好きだった。おそらく、小さな時からずっと。


 同じ人を好きになってしまった。

 日奈はもう死んでいるのに、生きている自分が終夜と一緒にいる。


 その事実が胸を抉って、無意識に呼吸を浅くさせた。


「……私、」

「あ、お帰りなさい。宵兄さん」


 日奈の声で明依は我に返った。


「ただいま」

「どうだった?」


 宵が帰ってきたというのに、気の利いた言葉一つかけられず、ぼんやりとしていた。

 〝私〟と呟いた言葉の先で、自分が何を言おうとしていたのかもわからないまま。

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