02:死者による葬列
「もう終夜が自分のものだって高をくくって、自分を磨くことを怠っているんじゃないでしょうね」
地獄の空気など我関せずの女性がもう一人。
明依は夕霧の色気という美の暴力に打ちのめされて、彼女が勝山同様、〝他人より自分〟という特性を持っていたことを今の今まですっかり忘れていた。
「別にそういうわけじゃ、」
「じゃあ脱ぎなさい」
明依の言葉を遮って夕霧はいう。
一体なにが〝じゃあ〟なのかはわからず、しかし口を出すと倍になって返ってくるという確信があった明依は、ただただ夕霧の理不尽に耐え忍ぶべく遠い彼方を見つめた。
「二年も同じ場所に住んでいて〝何もない〟なんてありえないわ。絶対に終夜が抱きたいと思えない理由があるはずよ」
吉原で一番美しいと言われる女、夕霧大夫。
あなたはそれだけのものを持ってお生まれなのだから殿方が放ってはおかないのだろうし、寄ってくる殿方を相手にして来たいわゆる叩き上げのスキルやテクニックを持っているのだから〝何もない〟はありえないのだろう。
しかし、全員が全員そうではないのだ。
あと、お願いだから〝抱きたいと思えない理由〟とか直接的に言うのは傷付くからやめてほしい。
「待ってくれ、夕霧大夫」
どうしても明依を脱がしたい夕霧の様子を見ておそらく打つ手なしと判断した薄情者の梅雨が部屋を出て行こうとしたが、凛と響いた高尾の声でピタリと足を止めて元の位置に戻ってきた。
明依は終始、薄情者梅雨を睨んだが、彼は知らないふりを決め込んでいる。
「もしかすると終夜は黎明を大切にしようとするあまり抱けない、という可能性もあるのではないか」
一縷の光というのはまさにこの事だ。
「どこに二年も女に指一本触れないで放し飼いにする男がいるのよ。もし本当なら他に女がいるに決まってるわ」
明依は高尾に希望を込めた視線を送ったのもつかの間、夕霧の投げる言葉のナイフが、的確にピンポイントで胸の内側に刺さる。
どうしてこの人は高尾の様に優しい言葉を他人にかける事が出来ないのだろう。こんなに傷付いているのに。
「大丈夫よ、明依。焦る必要はない」
「……吉野姐さま」
明依は目に涙をうっすらと溜めて、自分の姐さんを見た。
この中で一番直接的に優しい言葉をかけてくれそうな吉野に期待のまなざしを向ける。
なんでもいい。
あなたはすてきよ、とか。でも一緒に住んでるじゃない、とか、今はそんな風にわかり切った言葉が欲しい。
「終夜くんもきっとそのうち、どうにかなるわ」
期待していた10倍は的を得ない吉野の言葉に、明依は自分の気持ちがスンと沈んでいくのを感じた。
「アンタは黎明に甘すぎんのさ。魅力がない部分は自分で気付かないもんなんだから、他人が教えてやるのが優しさってもんだ。一緒に解決策を考えてやるんだよ」
勝山は当然の様に、そしてどこか得意げに言う。
この勝山の、そうだけどそうじゃない感に何とも言えず、明依はただ黙って事の顛末を見守っていた。
「そうだねえ……」
そして勝山は考え始める。
どうせ大した答えは出ないと長年の勘が語っていたので、明依は心を閉ざして時間が流れるのを待っていた。
「とりあえずスケスケの下着を着て終夜を待ち伏せしてみな」
ほらね。どうせそのレベルだと思った。
という言葉が喉元まで出かかったが、このお方は吉原という広い街に現在三人しか存在しない松ノ位。
それなのにどうして。
どうしてこの人はこうあるのだろう。
「透けていたらいいのね」
すぐに食いついたのは妹的存在の明依を大切に思うあまり張り切るところを間違えている吉野だった。
どうしてこの人は人を疑うという事を知らないのだろう。
「中途半端に透けてるやつじゃない。全部が透けている下着だ」
「わかった。買って来るわ」
真剣な顔をして説明する勝山に、真剣な顔をして話を聞く吉野。
二人から感じる〝自分の使命〟感に言葉を失う明依をよそに勝山は「そうだねえ。色は……」と話を続けている。
「そんなの着るくらいなら裸の方がマシ、」
「そうなると突っ立っているのも間抜けに見えるな。寝転んでいた方がいい。上質な布団を用意しよう」
超真面目に、おそらく布に隠れた後ろ側では超真顔でそういっているであろう高尾を、明依は信じられない気持ちで見ていた。
おそらく全員が全員本気で心配してくれた結果がコレだ。
ここにまともな人間はいないのかと明依は梅雨を見たが、やはり目が合うより先に逸らされる。
「本当におバカねあなた達。同じ松ノ位として恥ずかしいわ」
数々の男を手玉に取ってきた女、夕霧が言う。
性格的な部分はちょっとアレだが、男を落とす事に関しては一番に違いない。
この人なら……という期待が半分と、嫌な予感が半分。
「殿方が女を抱くとき、何を楽しみにしているかご存知かしら?」
夕霧は挑発的に、そしてたっぷりの色気をまとっている。
いい話が聞ける。
そう確信した明依は思わず身を乗り出して夕霧の話に耳を傾けた。まあ相手がいないも同然の現状、どこでそれを活用すればいいのかはわからないが。
「脱がす事、自分で女を暴く事が楽しみなのよ。適度に出して、適度に隠す。鉄則よ」
手元にメモがあれば間違いなく教訓として刻んでおいただろう。
しかし残念ながらメモ帳を持ち歩くなんてマメなことをするはずもない明依は「脱がす事が楽しみ……」と呟きながらうなずく事で何とか心に刻もうとしていた。
高尾は「なるほど」と言いながら普段から持ち歩いているであろう和紙で出来たノート、帳面を開きメモを取っていた。
すぐにメモを取る高尾を見て、人間の格の差はこういう些細な所が積み重なって出来るのだろうと考える。
そう思うと夕霧の言う通り、松ノ位として吉原にいた時よりもたるんでいるような気がした。
「最初から全部脱いでいた方が楽だろ。抱く方も。わざわざ小芝居を挟まなくて済むんだから」
夕霧のありがたい教訓に、ガサツの王者・勝山は心底わからないといった様子で言う。
「箱に入った中身がいつも同じだとわかっているプレゼントを、毎回ラッピングもなしに手渡されて嬉しい?」
いまいちピンと来ていない勝山をよそに、吉野が「そういう事なのね」と呟いた。
「下着とかお洋服はラッピングって事よね。工夫の余地があるもの」
「そうよ。人間は慣れるの。そして飽きるのよ。身体や顔がどれだけ美しくてもね」
夕霧ほど美しい女でも、殿方に飽きられない工夫をしている。
やっぱり自分は松ノ位から引退をしてたるんでいるのではないかと思った。
「いい? 黎明。大きな服を着なさい。そして肌を見せなさい。シャツなんていいじゃない。前ボタンの。それからストッキングがいいわね。黒くて肌が透けるくらい薄いものよ。破く楽しみがあるわ」
「大きい前開きのシャツと、肌が透ける黒いストッキング……」
明依は刻むようにそう言ったが、ふと我に返る。
一番大切なことを忘れている。
終夜と自分の関係はそれ以前の問題なのでは。
今までの時間は一体……。
そう思って明依は一連の出来事を回想してみたが、今日わかった事はといえば、夕霧という女はここまで計算して男と関わっているという事と、勝山が本番前までの一連の出来事を〝小芝居〟と呼んでいるという事くらいだ。
四人はあーでもないこーでもない、と終夜がどうして明依を抱かないのかという至極プライベートな事について本人そっちのけで討論を繰り広げていた。
終夜の寝室に忍び込めばいいとか、意外と押し倒したらいけるかもしれないとか、ストリップを始めてみればいいとか、他人事だと思って言いたい放題。
例え真剣に相談したとしても、解決策が見いだせない事だけはよく分かった。
吉原の女は、性というものに対してたがが外れているのだ。
吉原が一番華やぐ時間帯。天辻が吉野を迎えに来たという一報を聞き、今回はお開きとなった。
三浦屋から外に出ると、吉原の街はそれはそれはたくさんの人であふれていた。
たくさんの観光客が仮装をして、客同士で脅かしあっている。
「高尾大夫はどうしてお前に甘いんだ」
高尾から〝黎明を主郭まで送り届けるように〟と言われた梅雨が、少し不機嫌な様子で言う。
「優しいよね、高尾大夫」
梅雨は高尾に気に入られる秘訣を得られると思っていたのだろう。しかし明依の返答があまりにも役に立たなかったに違いない。梅雨は小さく舌打ちをした。
いつもの事なので、明依は何も考えないで歩みを進めた。
高尾の前以外で派手な羽織を着る事をやめた梅雨は、本当に普通の男性だ。
顔立ちは変わらないはずなのに、あの時女装していた彼は本当に女にしか見えなかった。
今との違いが気になるからもう一度女装してくれと頼むのだが、「死んでも嫌だ」と言っていつも断られる。
他愛もない話をしながら、というか一方的に話をしながら主郭までの道を歩く。しかし、別に急ぐ必要はない。どうせ帰った所で終夜には会わないだろう。
どうして触れられないのか。
どうして触れたいと言えないのか。
その答えは決まっている。
あの二人が――
「別にそうは言ってないだろ?」
ちょうどその時、聞きなれた声がした。
頭から抜け出して落ちてきたのではないかと思うくらい、ちょうど、今。
聞いていると温かい気持ちになるのは、今も昔も変わらない。
あの頃と比べてなにか変わったことがあるとするなら、温かい気持ちになってそれからすぐ、氷点下まで急降下して、背筋が冷たくなっていること。
今の声が誰のものなのかを脳みそが算出し終えるより前に、〝今はもう聞こえるはずのない声〟だと、心が言葉にも形にもならずに、違和感として反発する。
「……旭」
「は?」
足を止めて視線を彷徨わせる明依に、梅雨はまぬけな声を出す。
「私にはそう聞こえたの」
観光客の隙間を縫って聞こえる。すこし怒りを込めて、だけど戯れている調子の声。
蕾んで咲いた花が芽吹くまでの過程を高速のタイムラプスで見ているように、一瞬で過ぎ去って、不安になる声。
聞き間違えるはずがない。ずっとすぐそばで聞いてきた声だ。
「……日奈」
「おい、黎明……!」
明依は梅雨がいることも忘れて、ハロウィンでごった返した人をかき分けて声の主を探した。
視界にだけ神経の全てを集中させる。
すぐに見つけたのは、日奈と旭の後ろ姿。
そんなはずがないと思っている。思っているのに、視界から入る情報の全部が、間違いなく日奈と旭で。
明依は誰に構う事もなく日奈と旭に追いつくことだけを考えて、必死の形相で二人の後を追った。