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13:認知的不協和理論

「終夜、ごめん。ごめんなさい……私、」

「洗脳の一種だよ」


 終夜は何も気にしていないとでも言いたげに、この場に似合わないあっさりとした口調で言う。


「意識と現実の不協和を利用したマインドコントロール。明依の着物から、生薬の匂いがする。多分、薬で脳機能を一時的に下げて短時間で意識の深い部分に入り込みやすいように工夫してあるんだと思う。抵抗する方法はなかったよ。中途半端にかかっていたみたいだけど」


 混乱した頭では専門的なことを言われても何も理解することはできなかった。

 ただ、終夜が端的に説明するのなら、しっかりと理由があるのだと理解して安心できる。終夜が側にいるだけで心強い。


 だけどきっと終夜にとって私は、何者でもない。


 日奈と旭の顔が頭の中に浮かんで、ほとんど同時に胸が痛む。

 この感覚をよく知っている。どうして今まで思い出せなかったのかと不思議なくらい。


 『明依!』と日奈の叫び声にも似た声が聞こえた気がした。

 あれは勘違いだったのだろうか。


「初めて珠名楼に入ったけど」


 終夜はそう言うと座敷の中を見回す。明依も終夜と同じように座敷の中を見回した。


「この妓楼の中はまるで、人を洗脳するために作られたみたいだ」

「どういう事?」

「同じような場所ばかりで、何より暗い。頭がおかしくなりそうなこの感じ。生物にとって太陽の光がどれだけ大切かよく分かる」


 珠名屋は確かに息が詰まる。息が詰まったそれから先は、人間にあるべき体の機能が段々と失われていくような錯覚。


 明依は先ほどまで自分が終夜を敵だと思っていた気分をもう一度なぞった。

 今でも頭はぼんやりとしているが、ずいぶんマシになってきた。


 あれが、洗脳。


 洗脳というのはもっと難しいものだと思っていた。

 しかしよくよく思い返してみれば、以前終夜が洗脳は言い方や態度ひとつで簡単にできると言っていた。


 条件さえそろえば、人間は簡単に他人に呑まれてしまう。よく知っていたはずなのに、抗えなかった。


「……それに、俺によく似てる」


 終夜はそう言うと横たわっている〝終夜〟に近寄っていく。


 目が覚めて一番に終夜を見たが、ニセモノだと一瞬だって疑わなかった。今よりも頭がぼんやりとしていたが、あれは間違いなく終夜。〝似ている〟なんてレベルではなかった。

 しかしそれを口に出すと恐ろしい事が起こりそうな不穏な予感がして明依は口を閉ざして、終夜の行動を見ていた。


「ぜひご教示(きょうじ)いただきたいね」


 終夜は飄々とした掴みどころのない口調で言いながらしゃがみ込み、横たわる〝終夜〟の顔に腕を伸ばした。


「見事な変装術、」


 終夜が〝終夜〟に触れてから、ぴたりと言葉を止めた。

 それからすぐに膝をついて、確かめるように今度はしっかりと〝終夜〟に触れる。


 意識の全てを横たわる〝終夜〟に向ける終夜は、焦っているようにさえ見える。


「なんだ。コレ……」

「どうしたの?」


 終夜は目を見開いたまま、〝終夜〟に触れるのをやめた。


「……変装じゃない」

「いらっしゃい」


 終夜のすぐ後ろから耳元に唇を寄せてささやくのは、地獄大夫。


 終夜はすぐに振り返りながら彼女を振り払うそぶりを見せるが、彼女はまるで蝶のようにひらりと身をかわして、少し離れた所で終夜と向き合った。


 一発分の銃声が響く。


 地獄大夫が畳に足を付けた途端、明依のいる場所から見れば終夜が手早く打った弾丸が彼女を通過しているように見えた。


 しかし弾は座敷の壁にめり込んだだけで、地獄大夫が衝撃を受けた様子も、動揺した様子も見受けられなかった。


 終夜はほんの少し目を見開いていたが、すぐにあの薄ら笑いを浮かべて銃口を下げた。


「勘弁してよ。施設で同じ釜の飯を食った仲間だろ、星乃」

「同じ釜の飯を食った仲間にためらいもせずに弾を打つ男がよく言うよ」


 終夜と地獄大夫は施設時代の知り合い。

 吉原が受け入れた子どもは施設を経由して妓楼や主郭に配属される。二人が知り合いでも、何もおかしなことはない。


 終夜はもう、完全に冷静さを取り戻していた。

 すぐ側で見ていたから、何のトラブルも起きなかったから忘れていた。


 やっぱり終夜は、反応も対応も適応も早い。


「明依を珠名屋にさえ入れてしまえば私の勝ちだと思ったよ。大正解。やっぱり終夜は追ってきた」


 終夜が先ほど落とした刀を足で踏みつけた。反動で刀が宙を舞う。

 終夜は見向きもせずに刀を握ると、それを躊躇なく地獄大夫の腹部を斜め上に切り上げるように入れた。


 ゆっくりと、世界が動いている。


 まもなく地獄大夫の身体は腹部から上下に分かれる。そう思うのに明依はあまりに一瞬の事で目をそらす事すらできなかった。


 予想外だったのか、地獄大夫は目を見開いて自らの横腹に収まろうとする刀に視線を向けていた。しかしすぐに、無表情に。それから間もなく、終夜に視線だけを移した。


「夢を見せてあげる」


 終夜の刀は今、確かに地獄大夫の腹部を真っ二つに切り裂いた。

 しかし地獄大夫の傷口から飛び出したのは人間の体温を残した鮮血ではなく、千紫万紅。色とりどりの花だった。


「〝地獄大夫〟が薬に詳しい所までは掴んでいたでしょう。上出来ね。でもそれだけでは足りなかっただけ」

「なんだ……?」


 今の終夜には地獄大夫の言葉は耳に入ってこないらしい。

 終夜は不規則な花びらになって消えようとする地獄大夫を見ながら少し焦った様子で呟き、それから着物の袖で口を塞いだ。


「私の薬は皮膚からも入る」


 人の形をかろうじてかたどっていたたくさんの花が一瞬にして、はぜる様に、離散する。


「私の姿は目から入る。それに――」


 まるで誕生日に鳴らすクラッカーをぶちまけたみたいに、座敷中に花が舞っている。


「――私の声は耳から入るでしょう」


 すぐ後ろに立つ地獄大夫を終夜が刀で振り払った。


 今、自分が何を見ているのか。明依にはわからなかった。

 幻ではないと説明が付かない現実。しかし明らかに目の前にある。頭がぼんやりしているわけではない。むしろ繊細に動いているような気がする。

 もしかするとこの感覚さえも、地獄大夫が見せる〝夢〟なのだろうか。


「五感を使って、頭の中に世界を造る。お前はどんな夢が見たい? 終夜」


 地獄大夫は近距離戦に持ち込まれれば圧倒的に不利であろう相手、終夜を前にしても少しだって余裕を崩さない。


「……夢」


 終夜がぼそりと呟いて、それから横たわる〝終夜〟を見た。


「人間を造り替えているのか?」


 〝人間を造り替えている〟。終夜のいう言葉の意味が、明依にはわからなかった。


「そうよ」


 しかし地獄大夫には終夜の言わんとしている事が理解できるらしい。


「顔を作り替えて、性格を反映させる。私は完璧に〝その人〟を造ることが出来る」


 日奈と旭は、地獄大夫によって造られた別の人間。

 その事実を聞いてもまだ、明依の頭の中には三浦屋からの帰り道に見た完璧な二人と、目覚めた時に見た終夜が頭の中に浮かんでいる。


「まずはね、その人間を分析する。だから私はきっと、明依よりもお前の事をわかるはずよ、終夜」

「わかってもらわなくて結構だよ」

「お前は根っからの善人。だけど善人というのは倫理観に縛られて手札が限られる。だから悪人のフリをするの。手札を増やして、どんな手段も使えるように」


 地獄大夫は淡々と、終夜の内側を語っている。


「周りが自分を〝吉原の厄災〟だと呼んでいたから、それに感化されてリミッターを外すのはさほど難しくなかった。だけどどうあがいても善人は善人よ。他人がどこまで傷付いているのかわかるから、人を傷つけながら、同じ痛みを感じている。なんてことない顔をして」


 終夜が地獄大夫を切り裂くが、今度は霞のように白いモヤになって消えた。


「夢の中では自由というけれど、それは嘘よ。眠っていたら夢は自由に描けない。私の造る夢は幸せよ。無駄に抵抗しないで、素直に堕ちてきたらいい」

「夢はどこまで行っても夢でしかない。現実と違うものなんて、俺はいらない」

「お前はいらなくても、明依はどうかな」


 終夜に気付かせるみたいにいう地獄大夫の姿は、見えない。


「興味があるよ。怖いくらい綺麗な思い出の中を彷徨っても、お前がそう言えるのか」


 その声を機に、地獄大夫の声は聞こえなくなった。

 それはまるで、嵐の前の静けさ。


「とりあえず、ここを出るよ」


 終夜は少し焦ったように言ったが、それから息を呑んで襖の方向を見た。


 ゆっくりと襖が開く。


「……ひ、」

「違う」


 明依のつぶやきを、終夜がすぐに否定する。


 襖の向こうには、日奈と旭がいた。

 二人は心配そうな顔をしている。


 どこからどう見ても――


「あの二人は死んだんだ。思い出して、明依」

「明依」


 日奈が恐る恐る、明依の名を呼ぶ。

 今すぐに駆け出してしまいたいくらい、不安げな声で。


「終夜」

「馴れ馴れしく呼ぶな」


 日奈は同じように終夜を呼ぶが、終夜は恨みでもあるのかと言うほど冷たい口調で言い放つ。

 日奈が泣きそうになるのをぐっとこらえた。


 傷ついた表情も、日奈だ。思わず終夜を責めて、側に駆け寄りたいくらい。


「その言い方はねーだろ、終夜!」


 旭はむっとした表情で終夜を睨む。


 生きていた頃、そのままのふたりが目の前にいる。

 頭がおかしくなりそうだ。

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