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10:鏡地獄

 小柄な老婆に案内されるまま、珠名屋の中に足を踏み入れる。

 雰囲気はやはり、お化け屋敷。


 静まり返った妓楼の中で、暖色に灯ったろうそくが影の形を変える。普段は気にも留めない火が揺れる音さえ嫌味なほど大きく聞こえた。


 老婆はぴたりと足を止めると、襖を正面にして向きを変えて座る。そして襖を開けると、明依の方向へと向き直った。


「さあ。どうぞこちらへ」


 もしかするとこの先に日奈と旭が。

 明依はそう思いながら部屋の中を見据えたが、老婆が開いた襖の先は香の焚かれているだけの何もない座敷だった。


「まずはお召し物を」


 明依が座敷の中に入ると老婆はぴしゃりと襖を締め切った。

 耳を澄ませてみても、何一つ音が聞こえない。


 明依は視線を巡らせた。すぐにたどり着いたのは、部屋の中央にぽつりと不自然に置かれた白地の着物。

 暗い妓楼の中では、ろうそくの暖色を反射してさぞ目立つだろう。


 光が一切入ってこない無音の座敷の中は、寝静まった後の吉原ともまた違う。

 珠名屋に比べれば、月も星も分厚い雲に隠れた夜の方がまだ明るいと思えるだろう。


 そんなことを思いながら明依は梅雨から借りた着物を脱いで、準備された白い着物に袖を通す。


 まるで死に装束みたい。


 『地獄屋に入った陰は消息を絶つ。誰一人、あの妓楼から出てきていない』

 時雨の言葉を思い出して、白い着物が死に装束という考えはあながち間違っていないかもしれないと思うとぞっとして、なるべく考えないように手早く着物を身に着けた。


 明依はしばらく部屋のすみに正座して座っていたが、老婆は声をかけてこない。


 座敷に入った時に比べれば平常心を取り戻した明依は、座敷の中に視線を巡らせてよく観察した。


 本来なら障子窓が吸い込んだ光はぼやけて座敷の中に吐き出されるが、外側から木を打ち付けられている障子窓からは温かさ一つ感じない。


 正常に光を浴びなければ、人間は狂ってしまうように出来ているのかもしれない。


 退屈なのがいけなかった。退屈だったから明依は何となく。本当にただの興味本位で障子窓を開けた。


 障子窓の向こうは思っていた通り外側から打ち付けられた木、ではない。大きな骸骨(がいこつ)の目の黒い空洞が、しっかりとこちらを見ていた。


「ひっ……!」


 明依は思わず息を呑んで障子窓から手を放し、尻餅をついた。


「それは〝がしゃどくろ〟と申しまして」


 すぐ後ろから聞こえた声に、明依はびくりと肩を浮かせた。

 いつの間には老婆は部屋の中央に座っていた。


「死者の怨念が集まって生まれた妖怪でございましてな。生きた人を握りつぶして食ろうてしまうのでございます」


 障子窓を開け放った向こうに描かれた大きな骸骨のむき出しの骨は、質感まで生々しく描かれていている。骸骨は人を鷲掴みにしていて、小さく描かれた人間からは血が噴き出していた。鮮明な血の色だ。


 身体が重たくて、気分がわるい。

 明依は息を整えながら、思わず目をとじて俯いた。


 早く、外に出たい。先ほどまでとは違う感情が頭の中に浮かぶ。

 この妓楼の中は、頭がおかしくなりそうだ。


「おや、どうされました。香の匂いが合わなかったでしょうかねえ」


 老婆は焦りもしない様子でそう言うと、ゆっくりとした笑顔を作った。


「もうすぐ、あなたの会いたい人に会えますよ」


 殺される。

 不気味な老婆の声に直感でそう思った明依は、今ある自分の精一杯の力で立ち上がって部屋を出た。


「どちらに行かれるのです?」


 後ろでそういう老婆の声も無視して、廊下を走る。


 老婆の言う通り、香に何かが入っていてくらくらするのか、あのがしゃどくろの絵に充てられたのか。

 どちらにしても、光一つ入らないどこまでも暗い室内が、気分の悪さを加速させている事だけは間違いなかった。


 もういっそ、意識を飛ばしてしまいたいと思うくらい、怖くて、気分が悪い。

 胸からおもりを垂れ下げながら、背中に何かをおぶっているような気分だ。


「……逃げないと」


 明依はあえてそう口に出して、自分自身を奮い立たせた。


「……終夜が、心配するから」


 自分が自分の為に放った一言が胸を刺す。

 本当にそうだろうか。もしかしたら終夜はもう、一緒に夜を超えるつもりなんてないのかもしれないのに。


 ほとんど一人ぼっちと変わらないんだから。


 明依は歯を食いしばって、廊下に手を付けてなるべく早くと言い聞かせながら歩いた。


 二年前、思ったはずじゃないか。死ぬはずだった終夜が生きているだけでいいと。だからもう、吉原に未練はないと思ったはずだ。

 それなのに自分で道を駆け抜けて、主郭に行った。


 終夜と一緒にいる事を選んだのは自分だ。だから終夜に責任を押し付けるのはおかしい。そんなことをするくらいなら、あの日、吉原を出ていればよかったんだ。


 明依はそう言い聞かせて、一刻も早くこの場所から出られるようにと歩いた。


 だけどやっぱりあるかもしれないと期待をぶら下げているよりも、最初から希望すらない方が気持ちは楽なのかもしれない。


 廊下は前後左右の感覚すら鈍らせるくらい、どこもかしこも同じ。

 飾り台一つないどこまでも続いていると錯覚するような、同じ廊下、同じ襖。十字路の四方位も全て、同じ景色。


 同じ場所をずっとグルグル回っているような気さえしてくる始末だ。


 どこからか聞こえた足音に、明依は思わずすぐ隣の部屋を開けて中に入った。


 カタリ


 待っていましたとでも言わんばかりに、何か、一つだけ、音がした。


 明依は顔を上げて、それから息を呑んだ。


 何の抵抗も摩擦もなく、花屋の店をからにして集めてきた千紫万紅が浮かんで動いている。

 まるで甘露の毒物にひたって見た夢のよう。


 花弁一枚の大きさが畳一畳にも映ってそれが何千何万となく、五色の虹となり、極地のオーロラとなって、見る者の世界を覆いつくす。


 部屋全体が、まるで巨大な万華鏡。


 花はひらひらと遊んでいるかと思えば、万華鏡のように規則正しく整列して、またひらひらと舞い遊ぶ。

一つの花弁を目で追えば、重なった花弁に視線を取られる。その繰り返し。


 美しすぎる。

 人間の情報処理の能力を追い越して、意識を擦切(すりき)ってしまうくらい。


 だから見てはいけないと分かっているのに。目をそらせない。

 それは、目をそらすことを自分が自分に許せない程の、魔性の美。


 明依はとうとう平衡感覚を失ってその場に座り込んで俯いた。


 目を閉じていても、つい先ほどまで見ていた景色がまぶたの裏で動いていた。


 後ろの襖を開けようにも、開かない。

 目を閉じている事にも慣れた数秒後、香のせいか、魔性の美のせいか。明依の頭はほとんど正常に働いていなかった。それは加速した酔いの中。あるいは眠りにつく前の狭間の世界のよう。


 ぼんやりとしたまま目を開き、もう一度顔を上げる。

 目の前ではやはり、花が舞い踊っていた。


 明依は美しさを目に焼き付けながら、意識の底に沈む。身体はずるずると襖を伝って崩れ落ち、畳の上に身を横たえて止まった。


 それと同時に座敷の中の千紫万紅は、一瞬で潰れてしまったかのように息を止めた。


 まるで最初から、何もなかったみたいに。

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