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CRY

作者: つちのこP

 乾いたコンタクトにむずがゆさを覚えつつ、魂の抜けたように、頭を空っぽにして液晶を見つめていた私の耳に、鳥のさえずる音が届く。そこでようやく、カーテンから漏れ出る朝日のかけらに気が付いた。時計の針は六時を指している。もうそんな時間かと無造作にスマホを放り投げ、くちゅくちゅになっている掛布団を尻に敷いたまま眠りについた。五月も半分が終わり、梅雨を迎えようとしていたが、梅雨入り前に三十度近い日が続くことに違和感を感じなくなったのはいつごろからだろうか。温暖化への危機感が、私たちの中で風化していっているのではないか……、色んな政治問題、環境問題、国際問題が度々取りざたされ、ニュースやワイドショー、ネット掲示板を騒がせているが、それは本当に問題意識や危機感から来ているものなのだろうか?今だってそうだ。新型コロナウイルスに怯える日々を過ごしているが、世間が騒ぐから騒ぐ、むしろイベントのようなとらえ方でこの病禍に対している人が多いのではないか?…というようなことを、その前に自らの生活リズムや体調の管理すらできない寝ぼけた頭で、意識の遠くなる中疑問に思った。


 その夜(まったくもって夜ではないが)、私にとって最悪と言っていいほどの悪夢を見た。50歳くらいの男が、ずずぐろいチラシの裏紙に書いたエッセイを路上の隅で売っていた。膝元には穴の開いた空き缶がころがり、縋るように買い手を求めて懇願する男の手がむなしくはじかれていく現場に通行人として出くわした私は、「ああはなりたくない」と思いながら、目をやることもなくその場を去ろうとした。

「そこのお兄さん!ひとつ買ってくれないかい?」

いそいそと帰ろうとする私の背に投げかけられた声に、驚いてつい振り向いてしまった。穴の開いたツナギに、二日ほどドブに浸したかのような汚れ具合のハット、顔の半分を覆う無精ひげで気が付かなかったが、そこにいたのは自分だった。その瞬間、胃液が逆流したような不快感に襲われ、気づけば天井を仰いでいた。真っ白なはずの自室の天井が、なんだか澱んでいるように見える。

「くっそ…」

軽く頭痛がする。得体のしれない不安に包まれていた私は、そこで初めて尋常ではない量の寝汗を書いていることに気が付き、キッチンのウォーターサーバーまで足を運んだ。ともすればむせ返る勢いで、コップ三杯の水を飲みほした。

高校卒業後、小説家を目指しながらバイトに励む生活を始めて、もう十年の月日が経った。はじめのうちは、根拠のない自信に満ち溢れ、「日本人なら知らない人はいない」と形容される人気作家になることを信じて疑わなかった。時給940円、ほぼ県の最低賃金でのコンビニバイトも小説家として売れるまでの辛抱だと考え、むしろ苦しい生活を続ける中で作品がヒットして生活が一変だなんてなかなかの美談じゃないかと、来るべき時にインタビューに答える自分を想像して気持ちよくさえなっていた。当たり前だが、現実はそう甘くはなかった。我が家は裕福な家庭ではなく、自費出版など到底不可能だったため、毎日バイト以外の時間すべてを小説を書く時間にあててあらゆる公募賞に応募した。有名なネットサイトにも投稿し続けたが、箸にも棒にもかからない“自称小説家“のフリーターのまま、時間だけがむなしく過ぎていった。それでも最初の四、五年は、まだチャンスはある、今はツキが巡ってきていないだけだと信じて必死に小説を書き続けた。しかし、だれにも評価されず、誰かに読まれているのかさえ分からぬまま、私の小説は息絶えていった。次第に何もかもどうでもよくなって、ついには小説を書くことをやめた。それはなにも、特別なことじゃない。若人は皆、希望をもって生きている。大した才能がなくても、自分が何者かになれると本気で信じて大きく育つ。だが、思い描いた栄光をつかめる人間はいうまでもなく、そのうちのほんの一握りである。自分は、ふるいにかけられたその他大勢の人生のうちの一つをここから淡々と歩いていくだけだ。いつかは、俺はきっと……と、自尊心と自己顕示欲ばかりが膨れ上がる反面、焦りからくるストレスや不健康な生活習慣によって心身が痩せ細る日々は、ある日大きな破裂音とともに諦観に包まれてしまった。何もすることがない時間が続くと、「何のために生きているんだ」「生きていても死んでいても一緒のような人生だ」と、生に意味を見出せなくなることもある。どうせ人生なんてそんなもんだと自らに言い聞かせ、今日も何とか一日を消化していくのだ。


コップを置いて外を見ると、もう日差しは西日へと変わっていた。バイトの始まる時間までいささか余裕があったため、気分転換に人通りのない小道をランニングしようと考えた私は、バイト先の先輩からもらった安物のランニングウェアに着替えて外へ出た。

「気持ちいい…」

暗く沈んでいた心の汚れを洗い去るかのように、心地よい風が頬をなでる。生きる意味なんていちいち大義名分をうたなくても、小さな幸せのために一歩一歩進んでいけばいいんじゃないかと、少し気持ちが軽くなる。

「おい!ウイルスをまき散らす気か!!」

突然の怒号に肩が浮く。声の主は、マスクをつけた小柄なご老人だった。今問題になっている自粛警察というやつらしい。窓から怒りを放っていたようだが、家を出て、わざわざ説教に来てくれるようだ。いやいや、一応こっちもマスクをつけて走ってんだから、近づいてきて唾飛ばし説教するほうが重罪なんじゃないの。密です。面倒だし、逃げてしまおうかな。そんなことを考えている時だった。   (ギシ…ギシ…)

「これだから最近の若いもんは……」

「アブなっっっっ…!!」

ゴッッ!グシュ。

一瞬の出来事に目を奪われ、体が硬直する。みるみるアスファルトに広がっていく鮮血。降ってきた電信柱の一部が、老人の頭部に直撃した。

「あ……た…す……け…」

まだ息がある…!慌てて119番通報をしようとしたのだが、スマホの充電がないことに気が付き、充電器に繋がずに放り投げて眠ったことを思い出す。

「あっっ……!」

周囲に公衆電話は見当たらない。先にも述べたとおり、ここはほとんど人通りのない小道である。どうしてよいかわからず、正常な判断力を失った私は、逃げるようにしてその場を去った。

家に飛び込んだ私は、目の前で人が瀕死に陥る血みどろの光景を見たこの上ない恐怖に膝が震えるのを感じた。そして、確かに怯えてはいたのだが、それと同時に感じたことのない程の興奮を覚えていた。「生きていたって意味がない」?「こんな人生なら死んで幕を閉じるのがこわくない」? …そんなもの、死の恐怖を直で感じたこともないくせに、全てを分かったような気になっている未熟な人間の戯言だ。一歩間違えていれば、あそこに倒れていたのは自分だった。それこそ、あとほんの十秒声をかけられるのが遅ければ。そう考えた時、小説家として日の目を見ることもなくフリーターとして生きる、死んだような人生だとあきらめていた自分が恥ずかしくなるほど、「生きていてよかった」という思いが私のすべてを支配した。頭をつぶされた老人の必死に生にしがみつく姿にも感動させられた。消える寸前、より一層輝きを増す灯。生きるって、なんて素晴らしいことなのだろう。今思えば、私の小説が売れないのは必然だった。文の巧拙以前に、物語を書く動機がただ売れてちやほやされることで、自己顕示欲を満たすためだけに手を働かせていたのだから。今なら、本当に書きたいものを形にできる。私は興奮冷めやらぬうちに、静かに筆を執った。

 

「先生、凄いですよ。『本当は生きたいくせに』の四度目の重版が決定しました。」

「人生に極度の不安、不満を抱え、自殺願望のある少年少女が、互いを死へ導くために一堂に会する。それまで心から死を望んでいたはずの彼らも死を目前に恐ろしくなり、自分だけが生き残ろうとする人間的な醜さと散り際の美しさの対比が素晴らしいと、多くの方に絶賛されています。」

新人担当の春木君が、声を弾ませて部屋に入ってくる。私はあの時に書いた作品が注目を浴び、何とか小説家として食べていけるようになった。一度一定数のファンが付けば、ある程度の期間は本を出せば売れることが保証されているようで、今が一番忙しい時期だ。

「それにしても、生にしがみつく醜さ、美しさをあんなにリアルに表現できるなんて、先生の表現力には脱帽ですよ。」

「なぁに、人より少しだけ多く命と向き合う経験をしただけさ。リアリティでものをいうのはなにより経験だからね。でもやはり、人間とはわからないものだね。孤独を恐れて、誰かと繋がっていたい、誰かに認めてもらいたいと常に思っている。誰にも認められず、代替可能な自己をこれ以上なく嫌悪し、時に鬱になることもある。しかし結局は終止符を打たれることを真に意識したとき、それらすべてがどうでもよくなり、ただ生きることに執着する人間がほとんどなのだから。」

「なるほど……」

ところで、かのご老人は通行人に発見され、病院に運ばれて一命はとりとめたそうだが、意識が戻らず、戻る見込みもほとんどないとか。申し訳ないことをしたし、今の成功は紛れもなく彼によるところが大きいため、いつかお見舞いに行こう。もちろん、ただのご近所さんとして。

「ちなみにそれって…どんな経験なんです?————— なんて、作家がそう軽々小説の元になるような話を漏らしたりしませんよね」

「よくわかっているじゃないか。まぁ、作品については心配はかけないつもりだよ。」




「………今でもコツコツ経験を積んでいるからね。」



『今日のニュースです。連日相次いでいる、落下物が歩行者にぶつかる事故ですが、落下物となっているコンビニの看板、電柱、標識などに細工が施された形跡があり、警察はこれを事件性があるとみて———————』


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