夢現に約束を
「いらっしゃいませ」
店の扉が開くと、ネロは反射的に口を動かしていた。視線は言葉の後で追い付いて、入って来たのが見知った顔だと気付くと顔を綻ばせた。
「今日は早いな」
「だろ?」
ネロにそう声を掛けられると、ブランテはニヤリと笑ってみせた。
開店して間もない店内には客が一人も入っていない。どうやら今日はブランテが一番乗りのようだ。
ブランテはそのまま真っ直ぐカウンターまで進んで、ネロの真正面の席に座った。だが、「今日はどうする?」と尋ねられると「んー」と曖昧な返答をしながらすぐに立ち上がってしまった。
「ブランテ?」
「んー」
ひらひらと右手を挙げながらブランテは来た道を戻るように出入り口に向かう。急にどうしたのだろうか。何があったのだろうか。なんてネロが聞く暇もなくブランテは店の外に出て行った。そして、唖然とするネロをよそにまたすぐに店の中に入って来る。一体なんだったのだろうか。
もう一度ネロの目の前にやってくるブランテの顔からは先程までの笑顔は消えていた。酒を飲む前のブランテがこんな表情をするなんて珍しい。ネロは思わず身を固くした。
「ネロ、お前──」再びネロの目の前の席に座ったブランテがいつもよりもやや低い声で言いながらネロを見据える。「お前、何徹した?」
「え?」
ネロの目が泳いだ。
まさかそんなことを聞かれるとは思ったいなかったのだ。
何と答えるべきか、どうしようかと考えるが結論が出ず、「あ……」とか「えっと……」などと言葉にならない声だけが漏れる。その反応だけで十分だった。
「誤魔化せると思ってたのか? 無理に決まってんだろ。今日は休みにしろ」
「いや、なんで」
「いつもより声が低いし顔色も悪い。バレバレだっつーの。調子、良くないんだろ」
それは、通常では気付かれることなど無いような些細な違いだった。だが、幼少の頃から共に過ごしてきたブランテにとっては致命的な違いだ。ブランテの言う通り上手く誤魔化せると思っていたネロは何も言うことが出来なかった。
「メシ──は、作ってやれないけど片付けならできるぜ。食うもん食ったら寝ようぜ」
「いや、急にそう言われても……。ほら、店もあるし」
ブランテとは目を合わせずに、ネロはチラリと入り口の方に目をやった。もしかしたらこんなやりとりをしている間にも誰かが来るかもしれない。店は開店時間を迎えたばかりだ。夜はまだまだ長い。
だが、それに対しブランテは妙に得意げに言うのだった。
「表の裏返してきたから客は来ないぞ」
ブランテが言っているのは扉にかけてある看板のことだ。外に一度出て行ったのはその看板を裏返して店が開いていないことを示すためだったのである。
ネロは少し驚いたような表情を浮かべた後に、ムッと不機嫌そうに言った。
「営業妨害だ」
「身体を壊したら元も子もないだろ。何で徹夜なんてしたんだ」
「それは……」
ネロは口ごもる。どうやら言いたくないらしい。
言いたくないなら仕方がない。自分で調べるしかないだろう。
ブランテはため息交じりに立ち上がり、片付けを手伝うふりをしながらジッと部屋の中を観察した。
まだ客が入っていないからか、店の中は綺麗だ。掃除も行き届いているし、カウンターの内側に物が散乱しているわけでもない。注文する配分を間違えて食材が溢れているわけでもなさそうだ。
となると奥か。
カウンターの横を抜けて住居スペースに入る。カウンターの真裏はキッチンだ。店で出すメニューはここで試作していることが多い。試作に行き詰っている姿は何度も見たことがあった。
「……ハズレか」
意外にも台所は綺麗だった。流し台が乾いているので、むしろあまり使っていない。少なくとも今日は使っていないのだろう。
当てが外れたブランテは次にリビングへと向かう。ネロの家は全体的に家具が少ないのでこざっぱりとしたものだったが、ふとソファの横に積まれた本が目に留まった。小説や歴史書などそれぞれジャンルの違う分厚い本が五冊。それからソファの上に栞が挟まれた状態の本が一冊とぐちゃぐちゃになったブランケットがあった。
「ネロ」
「うわ、なんだよ。こんなところまで片付けなくていいって」
名前を呼ばれたネロがキッチンから顔を出す。茶化すように言ったが、ブランテの表情がとても真剣だったのでばつが悪そうに黙った。もう、大方分かっているのだろう。
「俺、今日は泊まりたい気分なんだけど良いよな?」
「嫌だって言っても泊まるんだろ。どこで寝るんだ?」
「ソファでいいよ」
「折角だし二人で飲む? 好きなもの何でも用意するけど」
「いーや、飲まない。ほらほら、おねむの時間だぜ」
「……わかった」
きっとネロが布団に入るまでブランテはネロを監視し続けるだろう。寝たふりをしようとしたって多分ダメだ。ブランテは物音に敏感だからすぐにバレてしまう。
今日ばかりは寝るしか無いのだろう。ネロは深く息を吐き、なるべく何も考えないようにしながら自室に向かった。
「添い寝してやろうか?」
「シラフじゃ絶対無理」
ブランテと別れるまではこんなやり取りを出来る程度には余裕があったが、部屋に一人きりになった頃にはそんな余裕などすっかり無くしてしまっていた。
「……う、……うぅ」
月明かりが差し込む部屋で、びっしょりと汗をかき険しい表情で時折声を漏らすネロをブランテは何も言わずに見守っていた。
ネロが眠りたくなくてあえて徹夜しているのは分かっていた。きっと眠れば悪夢にうなされるのだということも分かっていた。出来ることなら一緒になって徹夜してやりたいぐらいだったが、体調を崩し始めているのなら見過ごすわけにはいかない。だからせめて、ネロの不安を和らげられるようにしようとブランテは考えたのである。
「──ネロ」
囁くように声をかけると、薄らとネロの目が開いた。丁度眠りが浅いところだったらしい。
今にも泣き出しそうな瞳がぼんやりとブランテをとらえる。浅い呼吸を繰り返しながら手が伸びて来ると、ブランテはその手を握ってやった。
しばらくすると、震える声が言葉を紡ぐ。
「……おれ、は……なに? 俺は……。言われ、たん……だ、……まるで、ヴァンパイアみたいだって……。おれ、やっぱり……人じゃ……」
「ネロはネロだよ」
ぐっと眉間に皺を寄せながらブランテはネロの言葉を遮った。
ネロの父親は人間だが、母親はヴァンパイアだ。両親とも物心がつく前に亡くなっているからどんな人物だったのかは知らない。ただ、半分ヴァンパイアの血が流れているからという理由で「化け物だ」と言われ続ける時期が確かにあった。
大人になるにつれそう言われる事も無くなり、本人もほとんど気にしていないようだったが、どうやらつい最近その記憶を呼び起こすような出来事があったようだ。恐らく、店を営む為に昼夜逆転生活を送っていることに対して何かを言われたのだろう。それは悪意ある言葉ではなかったが、結果としてネロの心に残り続ける傷を呼び起こしてしまった。
「でも、俺……あいつに、言っちゃいけないこと、言った……。分かってたのに、おれ……どうして……」
「……そうだな。そんなこともあったな」
一番最初にネロのことを「化け物だ」と罵った少年がいた。ネロを見かけるたびに難癖をつけてくるものだから、ネロも反抗して踏み込んではいけない一線を超えてしまった。元々性格が合わないということもあったが、そのことが大きなきっかけとなり、大人になった今でも彼との関係は険悪なままだ。だがその出来事もずっとネロの中で燻っている。
忘れろとも、気にするなとも言えなかった。
だからせめて。
ブランテはネロの手を握ったまま、空いている方の手でネロの髪を柔らかくなぞった。
「ネロはネロだ。人間とか、そうじゃないとかそんなことは関係無いんだよ。……もしかしたら、俺だって本当は人間じゃ無いかもしれない。でも、俺は俺だろ。だからネロも、それだけは忘れんな。少なくとも俺は、ネロが何であってもそんなことはどうだっていい。ネロだからいいんだよ」
周りの大人たちが言うには、ブランテの両親は二人とも人間だった。だがブランテも両親を物心つく前に亡くしているし、両親が自分の正体を隠していたのだとしたら、二人とも人間だったなんて情報は何のあてにもならない。だけどブランテはそんなことはどうだってよかった。ネロと同じ経験をしているわけではないからそう思えるのかもしれないが。
手の甲で髪をなぞり続けていると、少しずつネロの表情が和らいでいった。呼吸もいつの間にか落ち着いている。今日はもう、大丈夫なのかもしれない。
握り続けていた手をそっとほどいて、ブランテは立ち上がろうとする。そろそろ寝ないと今度はブランテが徹夜する羽目になってしまう。
「……ぶらんて」
だが、ブランテが動き出そうとした辺りでネロの口が再び動いた。先ほどよりは随分と落ち着いた声になったが、それでもまだどこか不安を孕んでいる。
「……ブランテは、どこにも……おれから、離れないでくれ、よ……」
「どこにもいかないでくれ」と消え入りそうな声で呟くと、それ以上ネロは何も言わず、静かな寝息が聞こえ始めた。
思いもよらない一言にブランテは驚きを隠せない。何がどうしてそんな一言が飛び出たのだろう。考え始めると次第にネロの言葉を意識してしまい、妙な気恥ずかしさが込み上げてきた。
「──しょーがねぇなぁ」
乱暴に自分の頭をかくと、ブランテはその場にどっかりと座った。ネロが眠るベッドを背もたれに、窓の外で輝く月を眺める。
「どこにもいかねーし、絶対に帰ってきてやるよ」
こうして夜は更けていく。
これだけは絶対に言っておかなければならないんですが、この二人は付き合ってません。
BLではありません。
親友です。幼馴染で唯一無二の親友なんです。