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ブリキの生徒

作者: 猫ヌリカベ

 父と母の笑顔が、俺の全てだった。

 しかし、俺が高校へ入った途端に二人は他界し、その微笑みから断絶される。なんとか高校は卒業し、勉強とバイトに必死に励んだ結果、大学にも行けたが、親が居ないのはかなり堪えた。それは、塾の講師に就いた今でも痛感する。


 一人っ子の俺は、恐らくマザコンでありファザコンでもあったのだと思う。精神的に参ると、よく二人と遊んだ夢を見るくらいなのだから。そして今朝も、俺はその輝かしき昔の夢を見た。

 ――母の背中に乗った時の、優しげな暖かさ。父とおもちゃで遊んだ時の、最高に楽しかった日々。小学生の頃、皆は友達と遊んでいたが、俺はいつも両親の傍にいた。俺は、父と母が大好きだった。


 俺はやかましい目覚まし時計を止めると、一つあくびをした。疲れが全然取れていない。まだ講師という仕事に慣れていないせいか、近頃はいちじるしく疲労感が溜まっているのだ。

俺は、子供と接するのが苦手なのかも知れないな。

 ある生徒には、俺がまだ若いからと馬鹿にされたことがある。ある生徒には、自分で理解できるから黙ってくれと言われたことがある。

 俺は、何の為に講師になったのだろうか。就職当初は燃え上がっていたやる気も、今じゃノイローゼに侵されて鎮火してしまっていた。


「おはようございまーす」


 俺は、力なく塾の事務所へ入った。すると、管理人である山中さんに話し掛けられる。


「おはよう、川島。今日は新しい生徒を迎えるそうだな。頑張れよ」

「あ、はい……」


 今日は、午前九時から新入生に数学を教えることになっている。まだ時間は三十分あるが、プリントを数枚持ち、指定された教室へ向かう。中学二年の女子らしいが、どんな子だろうか。勉強に熱心な子だといいけどな……。

 俺はドアをゆっくりと開け、室内へ足を踏み入れた。すると、こちらに背を向けた形で、三つ編みの少女が早くも着席していた。


「おや、早いね。おはよう」


 まさか三十分前に来るとは、余程勉強熱心らしいな。喜ばしいことだ。ちなみに、ここの塾では団体レッスンと個人レッスンがあるのだが、今回は個人である。

 少女は、一人で静かに座っていた。前の黒板に顔を向け、緊張しているのか固まっている。

俺はなるべく自然な笑みを作り、彼女の前へ立った。さあ、まずは自己紹介だ。


「……え?」


 俺は、目を疑った。

 この少女、なんと瞳がないのだ。いや、それどころか口もない。鼻もない。耳だってない。いや、それ以前に――人形だ!

 少女は、のっぺらぼうであり、かつらと制服を着せただけの、ブリキの人形だった。



 余りの衝撃に、俺は腰を抜かした。何でこんな物があるんだ。誰かのいたずらか?

尻餅を着いた自分を情けなくも感じたが、この人形、どこか凄味があり、すこぶる存在感があるのだ。行儀よく座りながら、まるで俺を見詰めているようである。その顔面に目はないのだが、俺にはそう思えた。

 俺はやっとの思いで立ち上がると、散乱したプリントをそのままにして退室した。我知らず、尋常でないほどの冷や汗をかいている。ドアを強く閉めると、俺は教室の前で一息吐いた。


「な、何だったんだ……」


 そこで呼吸を整えていると、山中さんに見付かった。


「ん、どうしたんだ川島。すごい汗だぞ」

「あ、ちょっと来てくださいよ! 席に人形が座っていたんです!」


 俺は急いで山中さんを呼んだ。まだ動悸が早いが、恐る恐るドアを開き、山中さんを誘い込む。


「なに、人形だって?」訝しげに言う山中さんだったが、教室内を見ると苛立ちを表した。「お前、何言ってんだ。普通に生徒が座っているじゃないか」


 そして山中さんは女子生徒の前へ向かうと、あろうことか声をかけ始めた。俺はその奇怪な光景に目を丸くする。


 どうなってるんだ? 山中さんはなぜ人形に話し掛けた? しかも、更に談笑している雰囲気まであるじゃないか。しかし、俺には山中さんの声しか聞こえない。

 俺は、山中さんの背後へにじり寄った。少々怯えつつ、少女の顔をうかがう。

 無論、人形だった。


 山中さんは、笑顔で話している。喋らない人形と、会話していた。

 やがて話が終わったのか、山中さんに言われる。


「おい、もう予定の時間だぞ。馬鹿なこと言ってないで授業を始めろ」

「……はい」


 そうして、山中さんは出ていった。教室へ残されたのは、俺と木製人形だけだった。

 俺が、おかしいのか?



 俺は少しの間、動かない人形と対峙していた。しかし、当然のごとく何も起こらないので、内心恐怖しつつ近寄ってみる。

 今気付いたのだが、人形は鉛筆を持っていた。そして、大学ノートの一ページ目を開いている。なんとも滑稽だ。俺はこいつに数学を教えなきゃいけないのか?

俺はほとほと当惑するばかりだったが、仕方なく授業を始めることにした。何しろ、この教室と事務所を隔てる壁はガラスの箇所もあるからだ。このまま何もしないでいたら、山中さんに見付かってサボっていると思われてしまう。ああ、憂鬱だ。これなら、まだ生意気な生徒の方がよかっただろう。


 俺は肩を落として黒板に向いたが、いざ授業を始めてみると、これは中々面白みがあった。

 俺の声とチョーク以外、この教室には音が出ない。とても静かだ。それだけに、自分の存在がとても浮き彫りにさせられていた。しかも、背中には強烈な視線。まるで、いたずらに真面目な生徒を相手にしているかのようだった。これはやる気が湧いてくる。

 そんな不思議に楽しい時間は、瞬く間に過ぎていった。そして、午前十一時。これにて授業終了である。


「……ということで、何か質問はあるかな?」


 俺は笑顔でそう言った。そこで、ハッとする。


「俺は、何勘違いしてるんだ……。この子は、人形じゃないか」


 俺は、いつの間にかこの人形を生身の人と思ってしまっていた。どうにかしてしまったのだろうか。この、女子校生を模した生徒は、紛れもないブリキ人形である。顔面には木目しかなく、限りなく滑らかで全く凹凸がない。そして、やはりどこか凄味があった。

 俺は、この人形への不信感を拭い切れない。誰の仕業かも、犯人の意図も分からない。どこかから俺を見てコケにしているのだろうか。


 だが、とりあえず今日の授業は終わりだ。俺は教室から出ようと、足をドアへ動かした。しかし、途中で立ち止まってしまう。足どころか、瞳さえ止まってしまった。

捉えた光景に驚愕し、そこから目が離せないのだ。

 なんで、なんで――


「なんでノートに、内容が書かれているんだ……?」


 俺は、人形のノートを半ばひったくるように取った。そこには、多くのことが書かれている。俺が黒板へ書いた公式から、俺が言った説明まで、こと細かに書き残されているのだ。初めは白紙だったのに!

 俺は気味が悪くなって退散しようとしたが、心に生まれた好奇心は隠せなかった。ノートをあった場所に返すと同時に、少し、ほんの少しだけ、人形の指に触れてみる。

 それは、柔らかかった。一瞬、温かかった。だが直ぐに硬く冷たくなり、木の感触となる。


「な、何なんだこいつ……」


 俺が感じ取った、僅かな人の感触は何だったんだ? 俺は精神が参ってしまったのか?

 怖い。こんなこと初めてだ。恐ろしい――筈なのに。

 俺は、人形の指を離さなかった。何だか知らないが、安心感を覚えていた。



 なんとか授業を終えた翌日、俺はスケジュール表と睨み合っていた。現在は夏休みな為、毎日のごとく授業が詰まっている。そして、俺の担当する生徒は、あの人形だけだった。


「あと一週間、あの人形に教えるのか……」


 眉を顰めたものの、俺はさほど苦に思っていなかった。なぜなら、生意気な生徒より人形を相手にした方が楽だと感じてきたからだ。俺を馬鹿にしないし、無駄に喋ることもない。しかし、集中している雰囲気は分かるし、不思議なやりがいだってある。

 さて、もう九時になるな。教室へ向かわなければ。

 俺は、少しも臆せずにドアを開けた。中央の席には、やはり人形がきちんと座っている。


「おはよう。今日は、昨日の復習から始めようか」


 人形のノートを見てみると、前回の続きのページが開かれていた。白紙なのを確認し、俺は黒板へ向かう。そして、授業を始めていった。


 実に充実した二時間は、光の速度で過ぎていった。気が付くと今日の範囲は終わっており、俺は冷房を効かせてあるにも関わらず、顎から汗を垂らしている。授業にこれほど熱中したのは、生涯初めてのことだった。この人形には、得体の知れない魔力があるのかも知れない。

俺は、そっと人形のノートを覗いた。案の定、今回の内容がみっちり書かれている。


「いつ書いたんだろうな……。俺が背を向けている時か?」


 なら、俺が見てないところで動いてると言うのか。そんな馬鹿な。

 俺は少し考え込んだが、部屋を出た瞬間、何気なく思索を絶ってしまった。確かな手応えを感じている今に、そんなこと悩んでいる暇はない。



 翌朝、俺はいつも通り人形へ数学を教えていた。たまに、声をかける。返事はないが、つい言葉が出てしまうのだ。そして二時間経ち、さようならと別れる。最早、俺の心に人形への抵抗感は消え去っていた。その感情はまことに不思議だが、一番驚いているのは俺だった。まさか、慣れてしまうとは。

 その後事務所で昼食を取った俺は、次回のプリントを纏める仕事に取り掛かった。そこで、山中さんへ話し掛けられる。


「なあ川島、お前今日暇か?」

「あ、はい。暇ですよ」

「じゃあさ、午後一時からのレッスンを一つ、任せていいかい? 担当の奴が風邪ひいちゃってね」


 そう言って、山中さんは俺に書類を渡してきた。その回の授業範囲と、生徒名簿だ。俺は名簿にいた一人に悩んだが、断る訳にもいかない。作った笑顔で引き受けた。

 お礼と共に去る山中さんを見送り、俺は席を立った。午後一時なんて、もうすぐじゃないか。早いところ行かなくては。

 俺の足取りは重かった。なにせ、名簿にいた「成瀬香奈」という女子中学生は、以前俺にやたら突っ掛かってきた一人だからだ。他に二人、知らない生徒がいる。ここは嘗められないよう頑張らなければ。


「おはよう」


 俺は教室のドアを開ける。しかし、そこに成瀬の姿はなかった。ただ、男子生徒二人が着席して談笑している。


「あ、おはようございます」


 男子生徒は快く挨拶してきた。態度が悪い風には見えず、素直に安堵する。成瀬は、遅刻か。

 俺は笑顔で授業を始めた。そういえば、生身の人間に教えるのは久しぶりだな――なんて、間抜けなことを考えながら。


 人形相手に三度教えた俺だが、今回特に困ったことはなかった。この男子二名は、それこそ人形のように静かなので全く支障がないのだ。だが、授業が二十分進んだところで、その快調は無残に壊された。


「遅れましたー」


 平然とした口調で、成瀬は入室してきた。だるそうにドアが閉められた為、小さくない隙間が開いている。


「ほら、成瀬。ドアはちゃんと閉めなさい」


 成瀬は言われた通りにするものの、体全体で不機嫌なオーラを醸し出していた。


「……それでは、授業を始める」


 俺は黒板にチョークを走らせた。背後で、着席の音が荒々しく聞こえる。

 しかし、今日は何か起きることはなかった。ただ、後ろでガムを噛む音が聞こえるだけだ。そんなこと、しょっちゅうあった。だが、特別に叱責する必要はない。別段苛立ちもしないし、気にすることはなかった。

 しかし、今の俺は冷静になることを許さなかった。ガムの音が、いやにはっきりと耳朶を打つのだ。教室がそれ以外清閑としている為かも知れない。だが、音を鳴らさない人形に慣れた俺には、ガムを鳴らす成瀬が許せなかったのだ。


「成瀬」


 俺は、振り返って成瀬を見据える。成瀬は、突然名前を呼ばれたことに少々驚いているようだった。


「なんですか?」


 反抗的な敬語の物言いが、俺の心を更に煮やした。

 人形でさえ、静かに授業を受けたのに。人形でさえ、授業前に着席しているのに。

 俺の中に、不満が渦巻いて立ち上っていく。成瀬は俺をほぼ睨むように見ていたが、俺は歯牙にもかけなかった。前までの俺なら、ここで叱るのを止めただろう。確かに、前の俺は講師なのに腰抜けだった。生徒一人叱れないようでどうする。

 俺を後押ししたのは、脳裏に浮かぶブリキの人形だった。あの凄味に比べたら、成瀬なんて屁でもない。


「人がものを教えているのにガムを食べるのは止めなさい」

「何でですか……」


 俺が初めて高圧的に言ったからか、成瀬は少したじろいでいるようだった。しかし、素直に引き下がる訳でもないようだ。


「ガムを噛むのを、止めなさい」

「え……、はい」


 俺は、そこで正直驚いた。まさか二言目で言うことを聞くとは思わなかったからだ。成瀬は渋々、ガムを捨て紙に包んでいる。俺は、尚更自信が湧いてきた。その後の授業は、好調そのものだった。


 

 翌日、俺は通常通り塾へ向かった。そして教室へ向かい、九時前にドアを開く。中では、人形が俺を待っていた。


「おはよう。さあ、授業を始めようか」


 その日は、何だか自分の成長を感じられた。声の張りがよくなってきているし、心なしか説明の仕方が上達している気がする。少なくとも、昔みたく言葉をつっかえることがなくなった。これは、俺にとって確かな進歩だった。

 人形は、黙って聞いてくれる。それが、俺の緊張やらを解いてくれるのかも知れなかった。

平和に授業が終わった時、俺は少し気になることがあった。


「こいつ、いつからこの教室にいるんだろう」


 もしかしたら、ずっとこの席に座っているのかもな。それなら、遅刻しない理由が分かる。それに、帰宅するならどうやって帰るんだろう。ましてや、帰る家はどこにあるんだ。いや、でも、この教室は他の生徒も使うしな……。


 俺は、少しだけ、人形の頬に触れてみた。瞬間的に、前にも味わった温かみが感じられる。しかしそれは幻覚のようで、最早ブリキの触り心地となっていた。

 だが俺は、この人形に、少なからずの人間味を覚え始めていた。もしこいつが今立ち上がっても、それほど驚かないだろう。それぐらい、こいつはやけに人間らしかった。

 俺は明日の授業を待ちわびながら、教室を後にするのだった。


 

 最近、俺は親との夢を見なくなってきた。ぐっすりと眠れ、素晴らしい目覚めだ。精神的にも安らいでおり、俺は自分が生き生きしているのを感じる。

 これもあの人形のおかげな気がして、俺はあいつに感謝していた。奇妙な事実だが、本当に嬉しい。最後の授業の日は、改めてお礼を言おう。俺は、心にそう決めていた。残す授業は、あと二回である。


 意気込んでいた俺だったが、山中さんから凶報を伝えられた。なんと、あの人形が風邪をひいたらしく、今日は授業が休みとなったのだ。まさかと思い、俺はいつもの教室へ向かった。居ない。あの人形が、席に座っていないのだ。ぽつんと置かれた席は、物悲しげだった。

 あの人形が、本当に風邪をひいたのか?

 俺はいよいよ自分の頭を疑った。病院へ通った方がいいのだろうか。俺にはあの女生徒が人形に見える。だが本当は、人間……?

 そこで俺は、あることを閃いた。なるべく焦燥感を悟られぬよう、山中さんへ冷静に尋ねる。


「あの、その子の書類をもう一度見せてもらいませんか?」

「ああ、はいよ」


 受け取った一枚の紙には、人形の資料が書かれている。そこには、極普通の内容が記されていた。普通の名前に、普通の住所。そう、俺は、その住所へ向かってみることにしたのだ。お見舞いと言えば、山中さんも了承してくれるだろう。


「では、うかがってきます」


 俺は、塾を出た。その住所は、ここから歩いて十五分程かかる場所にある。

 さて、本当に、そこにあの子がいるのだろうか。



 遂に到着したが、そこは使われていない工場だった。こんな所に家が? と思ったが、そもそも嘘だったのかと落胆する。俺は来た道を引き返そうとしたが、正面のシャッターが僅かばかり開いているのを見て足を止めた。なんだか、興味を惹かれる。俺は早足でシャッターへ向かった。


 さて、目の前まで来たはいいものの、このシャッターは思ったより重かった。思いを運ぶより重いを運ぶ方が難しいな、などと幼稚な言葉遊びを考えながら、必死に持ち上げようとする。

 奮闘することおよそ五分。べき、という音と共にシャッターは滑らかに上がっていった。何かが詰まっていたのだろうか。


 そして俺の目に飛び込んできたのは、布団で寝込んだ人形だった。それはもう奇天烈な風景だったが、当然に真実なのである。布団以外、何も置かれていない、だだっ広い工場。

 あの人形は、ここに住んでいるのだろうか。

 俺は色々考えた末、人形の許へ走り寄った。何もしないで帰るのは許さない。この人形は、風邪をひいたらしいのだ。俺の生徒が、風邪をひいたらしいのだ。しかも一人で寝込んでいる。看病しないで何をする。


「おい、大丈夫か?」


 俺は人形の傍へ腰を落とした。こいつ、動かない。もちろん返答はなしだ。顔色は……ダメだ、いつもと変わらなく見える。


 俺は、その日一日そいつの隣にいた。たまに、他愛もないことを話し掛けた。言葉が返ってくる訳ない。しかし、俺は帰らなかった。

 その筈だったのに、翌日、俺は自室の布団で目を覚ました。あれ、俺どうやって帰ってきたんだ?

 しかし、そんなこと気にしてる余暇はない。今は既に八時を回っている。大変だ、遅刻する。今日は人形との最後の授業なのに。

 俺は全力で支度をし、死ぬ気で塾へ急いだ。着いた時刻は八時二十分。よし、間に合った。

 俺は、最後は三十分前から授業を始めようと決めていた。それが、あの人形へのお礼である。


「おはよう」


 俺は、教室へ入った。ゆっくり、一歩一歩踏み締めて歩いていく。

 人形の前へ来た時、俺は言った。


「今日で最後だな。風邪は大丈夫か? ……じゃあ、頑張ろうか、一緒に」


 こうして、最後の授業が始まった。



 授業が始まって、二時間。今日は早めに始めた為、残り三十分程残っていた。俺は、唐突に思い出す。初めてこの人形が来た日から、今日までを。

 最初は、本当に驚いた。生徒が人形だなんて、まさに仰天ものだったな。でも、この子に物を教えるのは不思議と心地良くて、俺は好きだった。いつの間にか、毎日のこの時間を楽しみにしてたしな。それに、俺の心が強くなれたのも、この人形のおかげだ。とても、感謝している。正体なんて全く分からないが、俺はただ、この人形に会えたことを嬉しく思っていた。

そして、時は流れていく。授業終了まで、残り五分となった。そこで俺は黒板から顧みて、人形の方を向く。


 ブリキの人形は、俺を見ていた。俺も、人形を見ていた。


「……これで、授業は終わりだ。今まで、お疲れ様。そして、ありがとう」


 瞼に涙を貯めつつも、俺がお辞儀をした――その時だった。

 視界が大きく揺れる。地面が震えている。足元がおぼつかない。地震だ!


「やばい、結構でかいぞ、うおっ!」


 天井の蛍光灯が、二本同時に割れた。細かいガラスが降ってくる。俺は四つん這いになりながら移動した。目指すは人形の近くだ。自分の思考の意味は分からない。だが、俺はこの時、自分の命より人形を優先的に考えていた。

 ――早く、どうにかして人形を助けなくては!

 俺は人形の太ももを掴んだ。そして引っ張り出す。さあ、机の下へ入れよう。そうすれば、建物が崩れても大丈夫だ。

 人形は、大丈夫。


 次の瞬間、教室の隅で大きな音がした。何かが外れた音なのか、崩れた音なのか、俺には分からない。ただ、気付いたら部屋の天井が頭へ落ちてきて――


 目の前が、真っ暗になった。



 目を覚ますと、俺は病院のベッドにいた。生きている。ぼんやりと、それだけを確認した。


「おや、目が覚めたようですね」


 俺は、声の方へ顔を向ける。そこには見知らぬ男がいた。白衣を着ている。医者のようだ。

 俺は、その医者から様々なことを質問された。何か簡単な検査をされているのだろう。意識はほとんどはっきりしていたので、それはむしろ鬱陶しくもあった。


 質問全てに答えたあと、今度はこっちが聞き返した。多くのことを、医者は知っていた。俺に尋ねられることを分かっていたかのようで、すらすらと述べられた。あの時塾にいた人――俺含め講師二人と生徒五人、そして山中さん――は、俺以外全員亡くなってしまったことも淡々と告げられた為、少なくない怒りさえ覚えた。

 だが、俺が怒りや悲しみに明け暮れる前に、医者は驚くべきことを言った。


「川島さん。貴方だけが生きているのは、理由があるんですよ」

「……え?」

「実は、貴方の上に木の人形が乗っていたんです。貴方は、人形に助けられたのです」


 それを聞いた時、俺は愕然とした。確かに、俺は天井に潰されたと思ったのに生きている。 それが、人形のおかげだって?


「そ、それは本当ですか……本当なら、人形はどうなったんですか!?」


 医者は、落ち着いて答えた。


「その人形は、こちらにありますよ」

 

 こちらにある? 俺は、ドアの方へ向かう医者を興奮しつつ見続けた。すると、医者は廊下から荷台を持ってくる。そこには、一箱のダンボールが詰まれていた。


「も、もしかして、その中に……」


 そのダンボールは、小さかった。バスケットボールぐらいなら入りそうだが、実物大の人形が入るとは、とても思えなかった。

 医者は、ゆっくりと開封する。中から出てきたのは、手足は取れ、顔はひしゃげたボロボロの人形であった。

 俺は、我知らず泣いていた。目尻から、静かに涙を流していた。

 まさか人形に、助けられるなんて。


 医者は続けて何か言っていたが、全く耳に入らない。俺は人形の顔を手に取り、ひたすら泣き続けた。人形は、温かかった。人のような、温もりがあった。それはまさに、今でもはっきり思い出せる、母の温かさだった。


 この人形は、死んだ母の化身だったのかも知れない。きっと母は、弱気になっていた俺に、人形となって助けにきたのだろう。最後の最後に、俺を助けるような真似をして……。

そして、このブリキの素材は、玩具職人であった父を思い出させた。優しげな、この木の匂い。あの頃のままである。全て、父と遊んだ全ての思い出が、蘇った。


 二人は、俺を心配してくれたのか……。

 ありがとう、ありがとう……。

 おかげで、立派になったよ、母さん。もう、挫けないよ、父さん……。


 俺はブリキの人形を抱き締め、泣き続けた。

 人形は、優しく微笑んでいた。



 亡くなって尚、息子を思い続ける親の愛。それは、静かだが確実に存在している、人形のようなものなのだろう。

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