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金星と土星  作者: 崚斗
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第三話:私の記憶

 私は彼の最期の日の言葉を花に伝えようとそっと目を閉じた。瞼の裏にありありと浮かぶ彼の笑顔。一日だって忘れたことはない。

 私が彼と初めて会ったのは大学一年の四月だった。K大に現役合格を果たした喜びが未だに迸っているのだろうか、部屋を笑いながら跳ね回る姿におかしな人だという印象を受けたが、同時に面白い人だなとも感じた。私は文学部、彼は理学部、お互いの接点はサークルだけであった。一年生の頃は彼は滅多にサークルの来なかった。

「色々忙しいのよ。」

確かに彼は忙しかった。彼は勉学が完璧に出来なければ金を使って遊んではいけないと毎日毎日図書館に籠っていた。当時のは私は彼のその心理を知らなかったから、ただ真面目な人だとしか考えていなかった。サークルに入った理由は親に入るように指示されたから。勿論皆の前でそんなことは言えないので、のちに私に小声で教えてくれたことであるが。その年の十月に私が彼にサークル内の重要な仕事を一年間やるように依頼したことは正しかっただろう。私はただ彼が真面目だからという理由で頼んだのだが、結果的に「仕事」という大義のために彼がサークルに来る理由となったのだ。彼はサークル活動に対しても義務感を持っており活動そのものを楽しんでいた訳ではないだろうが、家や図書館に引きこもって一人で勉強する日々よりは周りに人がいる環境の方がずっと良かったと思っている。

 彼には大学時代に十人の友人がいた。なのに、彼が自殺した時に彼の友人だったのは、一人、そう私だけだった。九人はそれぞれの悲しい理由で彼と二度と話すことはなかった。

 私を除いて彼と一番長い時間一緒にいたのは治と祐樹だったのではないだろうか。彼ら三人は理学部物理学科の同期だった。彼は治と祐樹によく物理の質問をしていた。

「Maxwell方程式に関連して、なんでナブラの外積を取ると回転になるの?」

そんな初歩的な質問にも彼らは真摯に答えてくれた。数学の質問は充にしていた。充は大学の数学サークルに入って活躍していたくらいに数学が出来、そして数学を愛していた。

「Thomae関数のRiemann積分、何やっているのか全然分からない。」

充はペンを取ると何も見ずスラスラとホワイトボードに数式を書き、僕に論理を説明してくれた。優しい彼らがいたから、彼の成績は安定して高かった。

「彼らに比べたら僕はまだまだだから。」

彼は同時に「レベルの違い」を感じて周囲より格下であると苛まれ、あぁ、だからそれも勉強に拍車をかけてサークルに行けなくなったのだろう。凡そ彼らは二年程先取りして勉強していたから、カリキュラム通りに勉強していた彼は「二年遅れている」という焦りを感じていた。一生懸命勉強してきたのに二年遅れているという現実は彼には辛かったのかもしれない。カリキュラム通りにしか勉強出来ない自分の虚しさを痛感していたに違いない。高校生のときに既に流体力学等の大学で扱う学問を学んだ人を見る度に、自分はアカデミアで必要とされていない無価値な人間だと強く信じ込んだ。先取りすれば良いというものでもないことは彼も分かっていただろう。分かっていただろうが、感情の暴走を抑えられなかった。自分は劣っているとしか思えずにいたのだった。

 大学二年の六月。梅雨の嫌な湿気が肌にまとわりついていた頃のことである。この頃の彼は近くのカフェで会えるのは週に一、二回程度だったが治と祐樹と物理に励んでいた。彼らは一般相対論やら場の量子論やら、兎に角先進的な内容を学んでいた。分厚い洋書が美しく見えたのは、知的な彼らの紅茶のグラスが透明で照明の光をよく通していたからかもしれない。見渡せば、このカフェはおしゃれだった。木で出来た床や屋根の不規則な木目は、全体が一つの絵を描いているかのように調和していたし、隅の観葉植物は青々とした葉を目いっぱい伸ばしていた。目の前に視線を戻せば、紅茶を飲みながら懸命に学ぶ彼らの姿が何よりも綺麗だと思った。外は暗く怠そうな雨が道を鈍く叩いているのに、そんな地獄を忘れてしまうくらいに彼らは美しかったのだ。桜の花びらが声を挙げられなかったあの雨の日を忘れてしまう程に美しかったのだ。だから、彼は彼の机にそっと置かれた紙に綺麗な字で書かれた電話番号に電話を掛ける勇気を持てたのかもしれない。

「ずっと前から気になっていました。今度一緒に食事しませんか。」

修太という人からだった。

「何、どうしたんだよ。ラブレターか。」

からかうように治に聞かれた。

「今時ラブレターなんてあるかよ。治は昭和の人間か。」

祐樹がすかさず返す。

「知り合いからの業務連絡だよ。」

「なんだ、つまんねえの。」

治は少し落胆した様子を見せたが、すぐ計算を再開した。

「このダイヤグラムのトレースって、Wickの定理からどうやって証明すればいいんだっけ。」

「摂動の最低次でこうやって縮約取って添え字を明示すればトレースになるでしょ。」

「あ、こんな単純だったのか、なんで分からなかったのか、恥ずかしいわぁ。」

もし、そのダイヤグラムのトレースに伴う話さえ分からない人がいたら、もっと恥ずかしいことなのだろうか。彼は二人の会話に殆どついていけず、若干の疎外感を感じていた。

 いじめられるのは頭が悪いから。それなら、この疎外感も頭が悪いのが原因であろう。だが、彼は修太と会うのをやめられなかった。初めて誰かに愛される経験は彼にはあまりに魅力的だったのだ。ある七月の晴れた日、修太との食事の帰り、二人は河原に並んで座っていた。

「修太は僕のことを恋愛として好きなんだよね。」

修太は迷わず

「そうだよ。」

と答えた。彼は修太に一切を話した。彼が幼少期に同性愛でどれ程苦しんだかを。だから、修太に愛されて満たされているけれど、付き合うのが怖いということを。修太は彼を後ろから優しく抱きしめた。二、三の蛍が彼の前を飛ぶ。辺りはすっかり暗くなっていた。一台の車が通りすぎた。

「俺がそばにいるから。」

「何も怖くないよ。」

修太は彼の頭を優しく撫でた。彼の涙が修太の手を濡らしたとき、蛍が天高くに舞い上がっていった。その不安定な飛行は徐々に真っ直ぐになり、天の川に溶け込んだ。彼はじっと天の川を見た。

「あ。」

一つの流れ星がベガからアルタイルに流れた。

「俺はお願い事できたよ。」

修太は彼の頬に軽くキスをした。

 翌日、彼はまた喫茶店で勉強をしていた。テーブルには青いかき氷が三つ。壁紙が夏仕様に変更されていた。

「早く食べないと溶けるぞ。」

模様替えされた喫茶店を眺めていた彼に治が声を掛けた。

「いけないいけない。」

小さなスプーンでそっとかき氷を掬えば、氷が少しばかり零れ落ちた。瞬く間にそれは水となり、彼は少し悲し気な表情を浮かべた。治と祐樹はすぐにかき氷を食べ、早速勉強をしていた。二人の楽しそうな議論を横目に彼は溶けかけているかき氷を急いで食べた。入店を知らせる爽やかなベル。振り返ると修太だった。

「修太。」

「よ。勉強か。」

「今勉強中だから、後でまた話そう。」

「ごめん、じゃ、また。」

修太は奥の席に一人で座り、夏にも関わらずホットドッグを注文していた。ホットドッグにマスタードをかけ、涼し気な笑顔でそれを見つめる彼。ふと風太が思い出されたが、風太よりも修太の方がずっと好きだと思えた。ホットドッグを頬張る姿。頬に付いた少しのケチャップ。何もかもが愛しかった。

「何ボーっとしてんの。」

治が彼の顔を覗き込んだ。

「おぉ、なんかぼーっとしてた。」

「暑さにやられたか。」

祐樹はそう彼を笑った。幸せな夏。外に出ると南の空には入道雲。今日は爽やかな暑さが彼らを包んだ。

 彼が修太と付き合って三ヶ月程した頃、修太が別れを切り出した。飽きたからという理由だった。彼は修太に縋った。縋ったが修太は彼を容赦なく切り捨てた。全ての連絡手段を切り、二度と会うことはなかった。彼は泣いていた。初めて愛してくれた人に初めて捨てられたから。よくあることじゃないかと思いながらも、私は彼の話を聞き続けた。

失恋の傷が癒えないまま三ヶ月が過ぎた。その頃に充がSNSで死にたいと言っているのを彼は見かけた。普段弱音を吐かない充の異変に彼はすぐさま反応した。

「どうした、大丈夫か。」

詳しいことは分からなかった。だが、投稿を見て推測するに、充が数学サークルでいじめられているというのが事の本質であった。どうしてあんなに優秀な彼が。そんな些末なことは今はどうでも良い。彼がいじめられないようにすることが先決であった。彼は数学サークルのメンバーではなかったから、直接的に助けることが出来なかった。更に、彼は数学が苦手だったから、充と対等に数学を学ぶ能力もなかった。暫くして彼は私に相談を持ち掛けた。

「どうしたら、助けてあげられるかな。」

彼の神妙な面持ちに暫く私は考えた。治と祐樹の名前がふと頭に浮かんだ。彼らなら数学も出来るのではないかと素人ながら思いついた。だが、彼が近ごろ治や祐樹と疎遠になっていたことを知っていたから、彼らの名前を出すことは憚られた。

「数学仲間を見つけてあげればいいんじゃないか。数学サークルの外に数学仲間が出来れば、きっと楽になると思うよ。」

丁度それは雪が降りしきる夜、彼のメッセージを送るその手が震えていたのは、寒さだけが理由ではなかっただろう。私のアドバイスに彼は五分か十分かそのくらい考え込んだ。

「亮哉しかいない。」

 亮哉。祐樹の高校時代からの友達。高校の時は数学の亮哉、物理の祐樹と二大巨頭として有名だったそうだ。大学でも当然有名であった。ただ、彼は非常に辛辣な側面があり、誰にでも物怖じせず発言するような人間だった。しかし、彼はいざとなったら一人で生きていくと心に決めていたので、それで人が離れるなら離れればいいと考えている節があったと聞いたことがある。彼は亮哉と半年ほど前に知り合った。祐樹とカフェで勉強しているとき偶々会って紹介してもらった以来である。彼は亮哉の実力を評価しながらも、その強気な性格を苦手としていた。時には祐樹を交えて食事に行くこともあったが、果たして亮哉が彼の存在を肯定的に捉えていたのだろうか。きっと心の中ではお互いに嫌っていただろう。そう、十人の友のうち最初に彼から離れていったのが亮哉だった。

 彼は震える手で亮哉にメッセージを書いた。

「数学科の友人が不当な扱いを受けているらしい。」

まさかいきなり「だから助けてあげてほしい」とは言えなかった。どうして赤の他人を助ける義務が亮哉にあるだろうか。それに、第一充がそれを望んでいるかも分からない。

「これでいいかな。」

彼は不安そうに私を見た。月が欠けている。冷たい風が辺りを吹き抜けた。何の音もしなかった。木々は枯れ花は一つも咲いていない。ただ静寂だけがあった。

「いいと思うよ。」

彼は最大の決断かのように送信ボタンを力強く押した。

「何が言いたいのか分からない。」

亮哉からのその返信に彼は悲し気な表情を浮かべた。だから、彼は直接的に書いたのだ。

「いじめられているから、彼はどうすればいいのか考えてほしい。」

あぁ、このメッセージさえ送らなければ。後悔してももう時間は戻らない。

「数学が出来ないからいじめられる。勉強すれば良い。以上。」

突然のことだった。彼はその場に泣き崩れた。当時その理由が分からなかった私は、慌てふためくことしか出来なかった。私は彼の背中を軽くさすった。

「僕は充に数学を教えてあげられない。」

彼は自分の無力さを、頭の悪さを呪った。彼は充を救えなかった。それからも彼は亮哉に何度もアドバイスを求めた。あまりしつこいと迷惑だろうからと一、二週間に一回程度。その度に彼は手を震わせた。花々が咲き誇る三月になっても彼の手は震えたままだった。そして、遂に亮哉は彼から離れた。彼は私にブロックされたSNSの画面を見せた。最後の言葉は

「君の話は非常に分かりにくい。君みたいな人間は学者に向いてないから物理なんかやめた方がいい。」

だった。私が言葉を失っていると、新たな着信があった。

「ごめん、行かなくちゃ。」

彼は涙を浮かべながら口角を上げ、充の元へと向かった。暖かい風が吹く三月。白い花、赤い花、鳥の囀りを潜り抜けて走った。彼の涙は花々を濡らさなかった。ただ地面を滲ませるだけであった。

「充。」

大きな木の下に充が立っている。青い葉、太い幹。大地からの恵みを一身に受けたこの大木の下に。充は笑っていた。真っ白なTシャツが少し早めの新緑に映える。足元の草は新しい春の風に心地よさそうになびいていた。

「ありがとう。」

「どうしたんだよ、急に。いじめ解決したのか。」

充は少し俯いた。ゆっくりと彼を再び見ると笑って答えた。

「自分の道を見つけたから、もう心配しないで。これはお礼。本当にありがとう。」

彼が手渡したのは真っ白なケースだった。ケースの端が少し開いている。彼はそっと手を掛ける。小さな音と共にケースから黒いボールペンが出てきた。彼はそのペンを手の上に乗せた。春の新しい光を吸い、高貴に輝くそのペンは世界のどんな宝石よりも美しかった。

「充。」

彼が再び顔を上げたときにはもう充はいなかった。強い風が吹き抜ける。

「本当は数学を続けたかった。悔しい。」

充は大学から姿を消した。

 大学三年の四月。満開の桜とは対照的な彼。

「僕のせいで充は数学を辞めた。僕のせいで充は数学を辞めた。」

私が何度諭しても彼は責任を感じ続けた。自分がもし数学が出来る人間だったら、彼を救えたのにと呪われたように繰り返し唱えていた。大学生活も後半になり愈々物理の勉強が忙しくなったため益々数学を学ぶ時間が減り、それもまた彼を苦しませているようだった。遂には死んで詫びると言い出したから私はサークル仲間と共に死ぬな生きろと諭した。そんな中、彼の妹である花はK大文学部に入学した。彼の紹介で私は花と親しくなった。学部が同じという共通点だけではなく彼の存在もあったから私たちは出会った瞬間にどこか親近感を覚えた。何度か二人で遊びにいった。ある日桜並木の下で花は私に一枚の写真を見せたことがある。高校の学園祭の写真だった。写真の少年は水を浴びたのだろうか、ストレートな髪から滴る水が凛とした丸い顔をより引き立てている。

「この人は。」

「聡太です。私の高校同期で今年K大工学部に入った人です。」

「どうして、この写真を見せたんだ。」

「聡太は兄のことを心底尊敬していたようでした。最近兄の元気がないので、聡太に会って何かあったのかなと思って。何かご存知ではないですか。」

「聡太くんに会ったという話を聞いたことはないな。」

私はひらめいた。彼を聡太に会わせたら元気を取り戻すのではないだろうか。私は花に頼んで彼と聡太を会わせることにした。

 久々の聡太と彼の再会。彼は聡太の合格を知らなかったようだった。聡太は尊敬する先輩に久しぶりに会うことに緊張して中々彼に連絡できずにいたらしい。再会の晩、彼は満面の笑みで私に再会を語った。地球最後の日の絶望に打ちひしがれていた信徒がキリストの再来に歓喜する、そんなフレスコ画を見ているようだった。後日聡太がサークルの新歓に来たので、そこで私は聡太から様々な話を聞いた。彼は高校の時と比べて温和になったと言っていた。忙しそうに新歓の手伝いをしているのは相変わらずだったが、他人の多少の失敗に激昂しなくなったと語った。高校のときは自分の想定と違うことを後輩がすると世界の破滅かのように怒っていたが、それに周囲が引いているのを見て少しずつ改善していったのではないかと推察していた。それでも聡太が彼を尊敬していたのは、彼が優秀だと感じていたからである。確かに指示は的確に出していたし、この人に任せれば絶対完遂出来るという安心感を与えてくれていた。聡太は彼の指示を的確に実行していたので彼から感情をぶつけられることはなく、そのために二人は親密になれたのではないだろうか。聡太は結局は別のサークルに所属することになったが、修太、亮哉、充の三人ががもたらした災厄はいつしか消え去っていたようだった。愚かな私は彼の人生がまた軌道に乗ったと信じていた。私のこのお節介がなければ彼は樹に出会うことはなかったかもしれないのに。

 樹は現在高校二年生で、聡太の中学時代の二つ下の後輩だった。三年前に家庭の事情で大阪に引っ越したため、樹のK大進学に伴って久しぶりの再会を果たした。その後、ひょんなことから彼は樹と親しくなったのだ。

 彼は樹に恋をした。新緑香る日、彼は風太の影を見た。鳥の囀り、青い風。呑気な雲が穏やかに流れる。樹との初めてのデート。いや、樹は異性愛者だったから、これはただ彼にとってのデートに過ぎなかったのだが。樹に見とれる彼。彼の容姿は妖精を思わせるように美しかったのだ。繊細なまつげが穏やかな風になびく。樹が瞬きをする。遠くを見つめる目はどこか虚ろで、彼が引き込まれるには十分だった。キュッとしまった口角、流れるような黒髪。そのどれを取っても申し分なく整っていた。

「どうした。」

屈託ない笑顔が青空に映える。樹は彼の頬に軽くキスをした。彼は驚いて樹を見返す。鼓動が早まる。

「樹は色んな男にこういうことしてるの。」

「まあ、クラスのヤツとはたまに。」

彼は樹によりかかった。暖かい風が吹き抜ける。彼が風太や修太としたかったのに出来なかったことを樹が具現化してくれているという喜び。雲に隠れていた太陽がまた顔を出す。その光の中、彼は樹に聞いた。

「初めてのセックスは?」

「小六の三月、男と。俺が受け。」

「でも、樹ってノンケだよね。」

「ヤりたいって頼まれたから。」

誰にも愛されなかった彼には、同性愛を禁じられた彼には、樹はあまりにも十分過ぎる程の希望だった。樹の存在が最後の希望かのようにさえ思えた。バレンタインにチョコを四十個貰った話、何十人もの男子や女子に告白された話、高校の偏差値が七十五である話。彼は聞けばなんでも答えた。そして、どの一つさえも樹は自慢しなかった。ただ、自分に起きた事実として淡々と話しただけであった。それだけ才があり他者に愛されるのに、一つも鼻にかけないその謙虚さもまた彼を魅了したのであった。彼らは語り合った。話せば話すほど樹が好きになった。樹の周りにはいつも人がいた。樹の周りにはいつも笑顔があった。樹は彼がしたかったのに出来なかったことを何もかも経験していた。気付けば辺りは暗くなり、頭上には星が煌めき始めた。

「一番星見つけた。」

空に勢いよく伸ばした彼の指の先を樹は笑って見る。たとえ付き合っていなくても、樹が側にいるだけで幸せだった。樹が彼を抱きしめる。

「でも、俺は誰からも必要とされてないから。誰かを遊びに誘うこともしたことがない。」

彼と同じ悩みを抱える人が近くにいる。彼は樹の顔を目を見開いて見つめた。一人じゃない。彼は救われた。樹といれば幸せになれる。彼が樹の頬にキスしたときに流れ星が流れた。彼は運命の実在を信じ始めた。樹は彼をそっと抱きしめた。あれほどにも勉強を放棄して遊ぶことを拒んでいた彼が花火大会に行くと決めた時、確かに彼が漸く他者と交わろうとしたことに安堵を覚えた一方で、彼の急激な変化にやや困惑したことは記憶にしかと残っている。だが、彼にとっては樹に誘われたことだけではない、彼が樹にとって初めて遊びに誘った人間であるという特別感にも舞い上がっていたようであった。十八時、K駅。彼は花火大会に胸を躍らせていた。この世界は思っている程悪くないのかもしれないという希望を取り戻したと私は彼をほほえましく見つめていた。

 花火大会から帰ってきた彼は泣いていた。

「樹の前では頑張って笑ったよ。樹といて楽しかったよ。だけど……。」

私はその電話に部屋を飛び出し彼を迎えに行った。

「どうしたんだよ。楽しかったならいいじゃん。」

「三分遅刻しちゃった。」

「それで怒られたの。」

「許してくれた。それだけじゃない。僕の服装や髪型も整えてくれた。優しかった。手も繋いだ、キスもした。嬉しかった。だけど、三分遅刻した。」

「遅刻なんて誰でもするし、樹が許してくれたなら気にしなくていいんだよ。」

「でも、遅刻したの。」

「なんで遅刻したの。」

「大学の大事な予定が五分伸びたから電車に乗り遅れた。」

「それは仕方ないよ。ちゃんと遅れそうだって連絡もしたんだろ。」

「したよ。だけど、遅刻した。僕には生きる価値がないんだ。遅刻したから死なないといけないんだ。」

彼は遅刻したから死ぬしかないと言い張って一向に聞かなかった。当時の私は彼の言葉に「面倒な人間だ」としか感じていなかった。サークルで遊びたいのに遊べず、只管に仕事と勉強をする異常性にも見られる彼の極度の真面目さと同一視出来たなら、彼は死なずに済んだかもしれないのに。生まれて初めての遅刻に感情的に対応しきれない人間がいるということを私が理解していたならば、彼は死なずに済んだかもしれないのに。あぁそういえば、例えば彼は毎日決まった時刻迄図書館で勉強をし、帰宅をしていた。このような彼の行動一つ一つが彼の病的な生真面目さの表れだったとすれば……。花火大会の数日後、二人は恋人となった。

 K大理学部では三年生の後期から研究が始まる。彼は治と同じ研究をすることになり喜んでいた。忙しい研究の傍ら樹とのデートを繰り返し、彼と何度も体を重ねた。十月中旬頃、彼は樹の腕に傷跡を見つけた。

「この傷、どうしたの。」

「この傷は、母親が割った食器を片付けるときに付いたものだよ。母親が好きな洗剤を買わなかったからって理由で家で暴れだして。よく癇癪起こして皿を割るから、俺がそれを片付けている。」

「お父さんは助けてくれないの?」

「俺、片親だから。小六のとき、父親の借金が発覚して家庭崩壊、そのまま離婚。母親は中卒で全然金を稼げないから、俺がバイトして家計支えてる。」

「僕と付き合ってデートしている余裕あるの?」

「俺は色んなところに出かけるの好きだから。」

「辛くないの。」

「もう慣れてるから。」

「一番つらかったことは何。」

樹は少し俯いてあの地震の話をした。丁度それは、真由子さんが亡くなったあの大阪の地震のことだろう。

 樹が中学二年生だったときのことである。大阪で大きな地震があった。その地震を受けて安全のため幼稚園は保護者が迎えに行くことになった。

「夕子さん、ちょっとあたし純太を迎えにいけないから、代わりに迎えに行ってくれないかしら。」

大阪に住む樹の親戚が樹の母親に連絡をする。樹の母親は樹に連絡をした。

「幼稚園に純太くんを迎えにいってあげて。」

樹は幼稚園へと向かった。大きな地震だったが、街は平常を装っていた。いかにも脆弱そうな家の瓦が落ちているくらいで、凡そ悲しみは漂っていなかった。

「樹お兄ちゃん!」

「純太、大丈夫だったか、怖くなかったか。」

樹はいつもの笑顔で優しく純太を撫でる。純太は幼稚園の麦わら帽子をかぶるのが苦手だった。樹は純太に帽子をまっすぐに直す。

「お兄ちゃん、ありがとう!」

純太の顔を覗き込んで樹はその小さな手を取った。純太の家へ向かう樹。錆びれたブレハブ小屋を通り過ぎる。折れた水道管。もう何年も修理していないのだろう。足元に咲く一輪の花は風にそよいでいた。その瞬間、彼ら二人を強い風が裂いた。樹は思わず目を瞑った。

「あ、帽子。」

五歳の純太は樹の手を振りほどいた。

「純太、待て。」

もう遅かった。次の瞬間には純太は重い灰色の塀の下敷きになっていた。樹の叫び声が辺りに響いた。ブロックの隙間から見える赤い血。どんなに人が集まっても樹は何も感じることが出来なかった。ただそのブロックを除けることしか考えられなかった。目の前で潰れた血まみれの子供の死体を見た彼の表情等到底我々には想像できない。樹は真っ黒な喪服に身を包み葬式に参列した。齢たった十三の中学生に、数多の大人、彼の親戚が、そして彼の母もが小さな彼を囲い見下ろし、口々に放った言葉はあまりにも残虐だった。

「お前が殺したんだ。」

「お前が死ねば良かったのに。」

純太の母が樹を殴った。その禍々しい真っ赤な血を見て彼は思った。

「俺は死んだ方がいいのかな。」

哀れな少年は人殺しと呼ばれた。

 彼は涙を流して樹にキスをした。世界中の何よりも優しく、やわらかく。

「どうしてお前が泣くんだよ。」

樹は彼に笑いかけて頭を撫でた。純太を撫でるように優しく。それから、やわらかく彼を抱きしめ

「優しいんだな。」

と彼を愛した。

「その時側にいてあげられなくてごめん。」

時間が不可逆だと知っていても、愛する人をかつて救えなかった悔しさがこみ上げた。非力な自分が許せなかった。仕方ないことだと済ませることが出来なかった。

「今俺の側にいてくれるからいいんだよ。」

何度も彼らは唇を重ねた。

 彼はバイトを増やした。もし樹が今後困ったときお金を出してあげられるように準備をしないとと焦っていた。ただでさえ研究が忙しいのに彼は勉強も増やした。古典や近代文学を読み、国語の知識を取り入れた。英語だけではなく他の言語にも精通せねばと以前よりドイツ語やロシア語の勉強にも力を入れた。彼は高校では世界史をやっていたため、日本史や地理の勉強もした。全ては樹のために。自分は金銭面と学力でしか彼を支えられないから。彼の生活も精神も最早限界だった。お金を使うのが苦手だったから、十分な食事も摂れなかった。研究中に寝てしまわないようにと、腕に刺すためのカッターナイフを筆箱に忍ばせた。真面目な彼は一度も研究に遅刻しなかったし、与えられた研究課題も完璧にこなしていた。自分が頑張らないといけないから。大人になった彼はまだ子供のままだったのだろう。頑張ることでしか愛される方法を知らなかった彼は大人になってもそれをずっと続けていた。

 彼の樹への愛は敬愛に変わっていた。

「樹は片親のためにバイトしているのに、優秀な高校に通っている。母親にあんなひどいことをされたのに我慢して粛々と受け入れている。樹は悪くないのに彼がただあの道をあの時間に選んだだけなのに、大人たちに「死ね」と言われた。そんな辛い経験しても力強く生きている。樹は親がご飯を作ってくれないから自分で毎日ご飯を作っている。魚も捌ける。全部独りで頑張ってきた。貧しいから、例えば本棚だって自分で作った。彼はすごいんだ。それに比べて僕は、両親に勉強する安全な環境を与えられて楽して学歴というものを手に入れた。樹よりも楽して生きているのに毎日辛いと思っている。充がいなくなったことも、亮哉に言われたことも、世界には溢れた出来事じゃないか。そんなことに辛いと傷付く自分が許せない。樹みたいにバレンタインに沢山チョコレートを貰ったこともなければ、早くにセックスをしたわけでもない。樹みたいに親しい友人を二人自殺で失ったわけでもない。僕はダメな人間だ。狡い人間なんだ。樹は特別な人間なんだ。僕は死ぬしかない。」

そう語って聡太と私の前で号泣し始めた彼にはそんなことで死ななくてもと言い聞かせるしかなかった。彼は恋人には有能さを求めていたが、樹のような特別な人が近くにいることで安心感を得ていたのだろう。恋人を疑似的に自分と同一な存在だと思うことで劣等な自分を少しでもまともな存在にしようと。様々なことを経験して頑張っている完璧な自分を作り出したかったのだろうか。

「樹がいなくなったら、僕は無価値になってしまう。自分から自分が消えてしまう。」

彼が叫んだ声がリフレインする。

 だから、樹にどんなに理不尽なことをされても彼は樹に縋った。樹が昔から行きたいと言っていた山奥の滝。彼は樹を滝に誘った。樹の誕生日が近い。折角なら滝の前でプレゼントを渡そう。樹にとって最高の誕生日になりますように。樹が以前か欲しがっていた本。二万円もするから買えないと言っていた本。彼はバイト代を握りしめて街中を走り回った。希少な本だったから一向に見当たらない。すれ違う恋人たち。どの恋人らより彼は速く進んだ。太陽が辺りをオレンジに染め、金星が輝く頃に、彼はやっとその本を見つけた。彼は汗と涙を流しながらその本を手に取った。真っ白な頁をそっとめくる。彼はその本に引き込まれて一人立っていた。静かな魔力が彼を包んだ。彼の頬に一筋の夕方の光が差した。暫くして汗が一滴落ちた。これはいけないと彼は慌てて本を閉じる。二万円を手放し、彼は紫色のその本を手にオレンジの商店街を進んだ。昭和の温かさが残る古びた店々。建付けの悪い扉を閉める魚屋の主人の威勢の良い声。セピア色の傘を買う質素な姿の女子高生。そっと手を絡め見つめ合う一組のカップル。誕生日は明後日である。

 滝は高い山の奥にあったから、二人は長い山道を進んだ。標高差のためか、少しひんやりしていた。地面の小さな石を蹴ってみる。彼は重い本を鞄に入れて息を切らせながら登った。

「大丈夫か。」

「余裕。」

樹が彼を心配する。二人は手を繋いで更に奥へと進んだ。真っ暗なトンネルも二人でいれば大丈夫。途中の売店で買ったソフトクリームを一口交換する。彼と分け合えた喜びが溢れたから、この涼しい風の中ソフトクリームを食べたことに後悔はなかった。川の潺が聴こえる。樹はどこかにカワセミがいないかと辺りを探す。その横顔が尊かった。彼の横顔を写真に収めた。ゆったりと青空を進む雲。川の流れに負けじと泳ぐ一匹の魚。青い鳥はいなさそうだと残念がる彼の手を取って彼は更に先に進んだ。

滝に着くと樹は両手を大きく広げ辺りの空気を一心に吸った。目を瞑る彼のその繊細で長いまつげが風になびくのがはっきり見てとれた。彼は樹の隣に並ぶ。懸命に包装したが少し不格好になってしまったプレゼントを彼に手渡す。

「お誕生日おめでとう。」

樹はその誕生日プレゼントに喜んでくれた。なのに、どうして。

「本当は一人で来たかった。」

下山の最中ふと樹が呟いた。彼は何か悪いことをしたのだろうか。彼には全く心当たりがなかった。樹は続ける。

「俺は一人で観光したい。」

それなら断ってくれればよかったのに。まさかそんなことを言えないのでただ謝るしかなかった。自宅に帰ってから彼は聡太に電話をした。

「別れればいいのに。」

「それは無理。樹がいなくなったら、生きていけない。それに、樹は異性愛者なのに僕と付き合ってくれてるし、僕から告白したし、樹は家のこととかで大変だから、僕が我慢しないと。」

「付き合ったら上下関係なんてないと思うけど。」

「確かにそれはそうなんだけど、でも今日樹に言われたもん。「別にお前がいなくても問題ない。お前がいてほしいっていうから付き合ってるだけ。」って。彼はいつでも僕を捨てられる。だから、僕が頑張らないといけないの。僕はダメな人間だから死ぬしかない。」

「死ぬなよ。いい人だよ。死んだら悲しいじゃないか。」

樹はきっと普段の言動等から彼を「面倒な人間」だと思っていたことだろう。彼が樹の前では平静を装っていてもきっと垣間見える面倒くささがあったのだろう。そうでなければあんな事件が起こるはずがない。

 純太くんの事件で傷ついた樹にとって、母親のために苦しむ樹にとって、少しでも居心地の良い人間になるために。彼は心を痛め続けながらも努力を続けた。ただ、きっとその「努力」が樹にとっては「息苦しさ」そのものになったのだろう、次第に樹の心は彼から離れていった。クリスマスは研究が忙しいからと彼はクリスマスデートを一週間程前にしようと樹に申し込んだ。集合はY駅の改札に午後八時。少し遠出をしようと敢えて遠くの駅に集合することとなった。当日も朝から相変わらずの生真面目さのために定時に起き研究や勉強に打ち込んでいた彼は不運にもスマホを充電するのを忘れてしまった。今までこんな失態を犯したことはない。きっと樹とのデート、人生初のクリスマスデートに舞い上がっていたのだろう。動揺を隠せないまま充電残り三十パーセントで彼は大学を出発せざるを得なかった。

 Y駅の改札に着いたのは午後七時三十分。彼はコートとマフラーをしていて体は寒さに震えていなかった。いや、それだけではないだろう。私や聡太にクリスマスデートの計画を楽しそうに話していた彼の顔が思い出される。午後八時。樹は来ない。午後九時。樹は来ない。彼はずっとそこに立ち続けた。入れ違いになったらいけないとただ立ち続けた。やがて彼のマフラーの中に刺すような寒さがしみ込んだ。真っ赤に染まったその手は全く温かみを持っていなかった。樹が好きなコートを着ている人を見ては絶望に打ちひしがれることを独り無意味に繰り返していた。空にはオリオン座。彼にはその星々さえもよく見えなかった。駅ビルの閉店のアナウンスが聞こえた。樹は来ない。彼はただそこに立ち続けた。

「ごめん、急に友達が倒れて。連絡入れたんだけど、見てなかったの。」

優しくて友達に囲まれる優しい彼がそう心配そうに抱きしめてくれることを期待して。彼は樹が約束を忘れないと信じていたから、頑なに連絡をしなかった。樹からの連絡はない。気付けば終電十分前だった。潤む視界。残業に勤しんだスーツ姿のサラリーマンが帰路を急ぐ。彼はどこへ行けば良いか分からなかった。手に握りしめた切符を持って改札をくぐった。後ろを振り向いても誰もいなかった。

 その日、樹は来なかった。

 雪が降りしきる夜。一人の電車。震える手足。静かな日だった。

 家に帰って彼は樹にメッセージを送った。

「今日はどうしたの。なんかあった。」

「あれ、今日だったっけ、忘れてた、ごめん。」

「そうか、仕方ないね。今日のことはいいよ。次は来月、僕の誕生日に会おうか。」

「分かった。本当にごめんな。」

彼の手はその時どうして震えていたのだろうか。きっと彼自身も分からなかっただろう。寒さが彼に入り乱れる気持ちを縛り無色の感情にしてしまった。翌日彼は初めて研究を休んだ。

「足が痛くて歩けないので休みます。」

嘘ではなかったが、研究をサボったという最悪感に苛まれながら、彼は冷たい布団の中で小さく震え続けた。彼は樹に怒らなかった。自分が樹の負担になってはいけないと我慢し続けた。頑張って彼を支えれば好きになってもらえる、これが自分の役割だ。ただそう信じ続けた。

 年が明けて一月、彼の誕生日。樹は彼の家へと向かった。剥き出しの段ボールに入っていたのは小さな鞄。装飾くらいしてほしかったところだが、彼は作り笑顔で受け取った。いずれにせよ、ただ買って渡せば十分という思考が見え透いているように感じたのだ。自分が生まれて存在していることを喜んでくれる恋人がいる。ただそれだけで十分だったのに。誕生日という特別な日に一緒にいてくれる人がいる。ただそれだけで十分だったのに。

「本当は今日友達とテーマパーク行く予定だったのに、お前のためにキャンセルしたんだからな。」

何気なさそうな樹の言葉に彼の時間が止まった。部屋の照明が点滅した。どうして。彼は拳を震わせて初めて樹に叛逆した。どうしてそんな酷いことを言うんだ。どうして素直に誕生日を祝おうと思えないのか。どうして存在を彼氏にも否定されないといけないのか。彼は怒鳴った。彼は泣いた。彼の嗚咽が響いた。突然の豪雨。落雷。道路で転んだ子供の泣き声が響く。家中が大きく揺れた。地獄。この世の地獄。樹は彼の感情の爆発に呼応するように怒鳴った。そして、樹は彼に言ってはいけないことを言ってしまった。

「前々から思っていたが、お前のそういう面倒なところが嫌いだった。学歴自慢してくるところも。大嫌い。」

「学歴自慢ってなんだよ。」

「いつも勉強の話してることだよ。K大だからって自慢されてて不快。」

彼はただ学んだこと、知ったこと、研究していることを話しただけなのに。どうして例えば音大生が一生懸命練習した曲を演奏するのは歓迎させるのに、研究者の卵が一生懸命学んだことや研究したことを伝えるのは自慢になるのか分からなかった。

「頭良いお前が嫌い。」

その言葉は彼の人生そのものを否定しているの等しかった。彼は生きるために勉強をした。誰からも責められないように勉強をした。彼は人生の多くを勉強に費やした。物理が好きだった。樹を支えようと勉強をした。学ぶことは生きること。たとえそれが勉強だけでなくても。素敵な音楽を聴いたなら、どうしてこの曲はこんなにも美しいのかと心が躍るかもしれない。若しくは、この作曲家は他にどんな曲を作ったのかと思うかもしれない。そして、知的好奇心の赴くがままに学び、人生も感性も豊かになる。いや、そればかりではない。例えばどうしたらゲームに強くなれるかということも十分学びであろう。ただ、その学びが「勉学」と一般に呼称されるものに向かった瞬間にどうして批判の対象になるのだろうか。

「勉強ばかりする者は碌な人間にならない。」

巷でそう遊説する白髪が生え始めた中年男性。どうして、学ぶことが、学んだことを伝えることが、ただ「勉学」というだけで批判されなければならないのか、彼には分からなかった。どうして例えば学問が趣味である人の悲嘆抜きな努力が否定されなければならないのか。許せなかった。学ぶことは生きること。ただ彼の場合はあまりにも学びが人生そのものでありすぎただけなのに。だが、あまりにも人生そのものでありすぎたがために、その言葉は彼に修復不可能な傷を負わせることになってしまったのだ。

「樹は、僕のこと、樹のお母さんより嫌いなの?」

「あぁ。嫌いだよ。」

「皿を投げて樹を怪我させても。樹が死ねと言われたときに助けなかった、あの母親よりも。」

「嫌い。」

樹はその場に立ち上がった。

「今までありがとう。大好きだったよ。」

「樹、行かないで。」

泣きながら縋る。あまりにも細く白く震えた手で。樹がその手を強く振りほどくから、壁にぶつかった彼の頭から色褪せた血が流れ出た。その不気味な赤に樹はおぞましそうな顔を浮かべた。辺りに響く轟音。白い光と黒い闇だけの世界。再び響く甲高い泣き声。二十一歳の誕生日、最愛の人からの最後の言葉。

「お前は悪魔だ。頼むからもう死んでくれ。」

金星は見えなかった。

 数週間後、彼は聡太を呼び出した。無機質な灰色一色の曇天、不機嫌そうな聡太。聡太に事の顛末を話した。

「なんで死なないんですか?」

聡太のその言葉に愕然とした。

「俺は先輩のことをずっと尊敬していました。だけれども、樹は先輩のせいで傷ついたんです。貴方がそんな人だとは思わなかった。もう樹には関わらないでください。彼自身もう二度と関わりたくないと言っています。俺も毎度毎度死にたいという先輩に疲れました。もう二度と先輩とは話しません。貴方は悪魔だ。樹のためにも早く死んでください。」

聡太は、彼の元を去っていった。きっと樹から聡太は相談を受けていたのだろう。樹から見れば彼は悪魔そのもの。聡太にとってもまたそうであったのだろう。仕方ないことだ。大学院入試半年前。彼を支えるものは無くなった。

 大学四年生の四月。治と祐樹は同じ研究室に配属された。大学院で彼は治や祐樹と同じ研究室を志望していた。素粒子論研究室。K大理学部屈指の難関研究室である。それにも関わらず、彼は二人と研究室配属で離れることになったのだ。更に丁度その時疾病が大流行し、彼は家で一人で研究をする日々を強いられた。治と祐樹は一緒に同じ研究室の仲間と仲睦まじく院試勉強をしていたが、彼は共同研究者に上手くなじむことが出来ず完全に孤立した。ただ只管パソコンに向かってデータ処理をする日々。彼の唯一の弱点がパソコンだったから、彼の研究の進捗は他の研究者よりも数段遅れていた。それは誰が見ても明白に分かる程に。パソコンが「出来ない」恐ろしさ、院試のプレッシャー、そして、樹との絶交。これを生き地獄と言わずして何と言おうか。彼はこの頃よく私と通話をしていたが、彼の活力は日に日に衰えていった。毎日毎日死にたい死にたいと呟く彼。

「占い師に見てもらったら。」

私は彼が占いが好きだと知っていたので、そうアドバイスをした。

「でも、お金が勿体無い。」

「もしかしたら、樹と仲直りする方法が見つかるかもしれないよ。それに、院試に落ちたらそれこそお金が勿体無い。だったら、絶対占いでアドバイス貰った方がいいって。」

説得の末、確かにそれはそうだな、と彼の声が明るくなったのが分かった。彼はすぐに荷物をまとめて地元で有名な占い師を訪ねた。

 不思議な女性だった。年は四、五十くらいであろうか。だが、どこか気品があり凛とした顔立ちがあった。部屋は薄暗く、タロットカードと机、それから紫のランプが一つあるだけだった。

「ようこそ、いらっしゃいました。」

女性は丁寧にお辞儀をし、タロットカードを混ぜ始めた。

「今日はどんなことを占いましょう。」

「まず、半年前に絶交した彼氏と復縁、いやまた話せる日が来るか教えてください。」

女性は少しカードを混ぜる手を速めた。深い呼吸をし、十字にカードをスプレッドする。

「残念ですが、復縁は難しそうです。先方はもう貴方とは関わりたくないと思っているようで。貴方は彼のことがまだ好きなのですね。ですが、この恋を続けても辛い未来しかありません。」

「では、院試は。大学院入試は受かりますか。いや、受かるためにはどうすればいいですか。K大の素粒子論研究室を志望しているのですが、かなりの難関なので不安で。」

再び女性はカードを混ぜる。彼はその手をそのカードを凝視した。祈りをささげるように。これ以上の悲しみがやってこないように。女性はカードをゆっくりスプレッドする。女性の表情が曇るのが見えた。

「残念ですが、このままだと落ちるでしょう。第二志望第三志望も落ちると予想されます。」

「では、どうすればいいのでしょうか。」

「誰か頼れる人に助けを求めましょう。誰かに協力を依頼すると良いと思われます。」

治。祐樹。彼らに頼むしかない。治より祐樹の方が成績が良かったので、彼は勇気を振り絞って祐樹に連絡をした。有志が集まって勉強会をするというのが大学ではよく行われていたが、彼はほぼ参加したことがなかった。新しい環境に行くのが酷く恐ろしく思えたのだ。このせいで彼は多くの時間、一人で勉強してきた。誰にも頼ることなくただ一人で。だから、この連絡は彼にとって重大な意味を持っていた。

「一緒に院試勉強してくれないかな。」

祐樹はすぐに返事をした。

「いいよ。次の勉強会の日程が決まったら折り返し連絡するね。」

彼は安堵した。これで院試合格に近づいた。更には誰かと勉強をするという試みにほぼ数年ぶりに挑戦出来たのだ。陳腐な文句だが、確かに彼は体が軽くなる感触を覚えたのだ。生き地獄の中、力を振り絞って良かった。だが、人生はそううまくはいかないものだ。待てど暮らせど返事が来ない。遂に彼はSNSで次の勉強会なるものが催されたことを知った。彼は矢張一人での勉強を強いられることとなった。祐樹から二度と連絡がくることはなかった。

 研究で実験データを処理しようとすると、吐き気が止まらなかった。彼の吐瀉物を受け止めるには、家の袋は小さすぎた。吐瀉物で汚れた床を泣きながら数十分かけて拭く日々だった。研究をしない時間は院試勉強をした。ノートを開く度、問題を解く度祐樹を思い出した。もう祐樹に催促の連絡はしなかった。忘れられたのか、嫌われたのかは分からない。だが、祐樹が彼にポジティブな感情を持っていたなら、どうして二度と連絡をしないことがあろうか。彼は孤独だった。長い長い半年。彼は地獄に耐えて院試を受験した。暑い夏のことだった。

 彼が樹のことを忘れた日はなかった。毎日樹の顔を声を匂いを思い出しては、樹の幸福を願った。彼があれから一度も樹に連絡をしなかったのは、樹にとって彼の不在が幸福だと知っていたからだ。だから、樹がSNSに「高校時代一度も恋愛してない。」と投稿したことを知っても、あぁ忘れられてしまったのだと号泣して彼の心の安寧に安堵したのであった。院試合格発表の前日、静かな夜のことだった。

 疾病が流行っていたため、合格発表はオンラインで行われた。どこで合格発表を見るのか分からなかった彼は、治のSNSを開いた。

「どこで見られるの。」

そう送るつもりだった。

「落ちた。」

治の投稿に彼は崩れ落ちた。あの治が落ちた。なら、自分は。戦慄きながら彼は必死に合格発表を探した。

「合格」

その文字が彼には最初理解出来なかった。自分が合格した。あのK大素粒子論に。彼は暫く茫然とした。状況が呑み込めないままだったが、彼は両親に電話をした。今後の進路のことであるから、まずは両親に連絡せねばと思い立ったのだ。心のどこかには、K大素粒子論に合格したなら、やっと親に認めてもらえるのではないかという期待があった。

「お前が受かる訳ないだろ。受かったのなら、証拠を見せろ。」

不機嫌そうなその声は彼の期待を大きく裏切るものだった。何度も吐き続けて、それでも勉強をして掴み取った合格。失恋や研究の辛さを飲み込み、ただ素粒子論をやるんだというその努力を真っ向から否定された気分だった。

次の瞬間には彼はしまったと思った。

「自分のような頭の悪い人間が受かる訳ないんだ。不正があったに違いない。」

「これは疾病のために入試形態が変わったから偶々受かっただけで、本当は落ちなければならなかった。自分はインチキをして入学したんだ。卑怯だ。」

「これは、沢山の人を見殺しにしてきた罰なんだ。大学院で苦しむための布石なんだ。」

「僕さえ生まれてこなければ、治は院試に合格したのに。生まれてきてごめんなさい。生まれてきてごめんなさい。治みたいな優秀な人を落とした僕は悪人だ。死んでお詫びします。」

私はいつものように死ぬなと彼の衝動を止めるありきたりな文句を並べた。ふと彼は立ち上がり、そうだと呟いた。彼はせめて樹におめでとうを言ってもらおうと思ったのだ。十中八九返事はないだろう、きっと彼も分かっていたに違いない。それでも僅かな希望を託して密かに特定した樹のSNSに合格報告を入れた。仲直りしたかった。たとえ仲直り出来ずとも「おめでとう。」のたった一言が欲しかった。祐樹との絶交を彼は覚えていたはずなのに愚かにも彼は樹に合格を伝えたのだ。当然返事は来なかった。彼は益々自分を責めた。治のことは関係ないと言っても一向に聞かない。その夜、彼は睡眠薬を大量服薬した。もう死んでやると酒を浴びるように飲んだ。彼からの突然の電話。

「お前も僕が死ねばいいと思ってるんだろ!死んでやる!」

怒鳴られて突然切られた。何度折り返しても彼は出ない。何とか一命をとりとめたものの、彼の飲酒量は日に日に増えた。毎日毎日吐き続けた。最早彼にとって何がどの程度辛いことなのか分からなかった。ただ、結局は彼にとって大切な人が自分のために悉く不幸ななるのが辛かったのだろう。その人が幸せになるためには自分はどうすればいいのか、これからどうすればいいのか、それを考えずにはいられなかった。全ての他人の不幸が自己批判に結びついていた。当然私に怒鳴ってしまった後は急に反省してとんでもないことをしてしまったと泣きながら謝るのである。態と批判しているのかと心ないことも言われた。彼は好きで批判しているのではなかったのに。彼は治を落としてしまったという罪悪感に駆られ、それから治に話しかけることが出来なくなった。治に心の中でそっと別れを告げた。流れ星が流れたからきっともう治は不幸にならない。今夜は金星が綺麗だ。

 大学院に入ってから非難されないようにと彼は猛勉強を続けた。この頃、彼には三人の友がいた。明、美南、そして剛である。彼は明や美南とオンラインでよく話していた。明は彼の学部の友人、美南は隣の大学に通う明の後輩だった。ここ二年程が散々だった彼にとって、明と美南といる時間は救いそのものだった。どうして彼らともっと早く仲良くならなかったのだろうと考えることもあった。

「今年のクリスマス、誰か誘って五人くらいで遊ぼう。」

明が提案した。

「でも、病気流行ってるし、集まらない方がいいと思う。」

本音は誰かと遊ぶことに対する恐怖だった。誰かと遊ぶことに「勉強をサボる」という罪悪感を感じざるを得なかった。それが不安で恐怖だった。

「確かにそうだな。じゃあ、オンラインで楽しもうか。」

オンラインでパーティーすることさえ彼には辛かったが、断る理由が見当たらなかった。こうして、クリスマスパーティーが計画されたのであった。

 十二月。疾病の流行は留まるところを知らず、閑散とした街にクリスマスのベルの音だけが鳴り響く。十二月初旬、彼は美南から愛を打ち明けられた。彼は美南を気に入っていた。だが、樹の記憶が蘇って首を縦に振れなかった。それは、恋愛への恐怖ではなかった。美南と交際することが、樹を過去に置いていくことに等しく思え、その恐怖が彼を襲ったのである。数日後、彼の家のドアを強く叩く音がした。彼は飛び上がり、おずおずとその扉を開いた。見覚えのない女性が鬼の形相で立っていた。

「あんたのせいでうちの子が死のうとしたのよ!」

突然の罵声に彼はたじろいだ。聞けば、彼に振られたショックで美南が自殺未遂をしたというのだ。滅茶苦茶だと思った。思ったけれど、美南と付き合うことでしか事態は収拾しないと悟った彼は、樹の写真を燃やした。不本意な恋愛。彼の最後の恋愛。

 クリスマス前日、明から一本の着信があった。

「実は皆で食べる用のマカロンを作ろうと思ったんだけど、俺、ちょっと用事入っちゃって、代わりに光子の家行ってくれないか。」

光子は明の彼女であった。クリスマスパーティーには参加者が誘いたい知り合いを連れてきて良いということになっていた。大勢の知らない人との会食は彼にとって相当なストレスだったが、人脈を広げる良い機会だからと自分を奮い立たせていた。彼は光子と若干の面識があるのみだったので、まるで魔境に行くかのような恐ろしさに体が震えた。

「いいよ。今から行ってくる。」

恐怖を包み隠そうと明るく返事をした。確り取り繕えただろうか。不安が募る。

 光子の家に到着した。部屋は暗い。

「なんであんたなのよ。」

光子が彼をにらみつける。鋭い眼光。彼は事情を説明した。

「そんな嘘ついても無駄よ。」

光子は彼を問い詰める。彼は必死に反論をする。

「あんた、男が好きなんでしょ。明から聞いた。あたしから明を奪うつもりなの?」

光子が彼の頬を勢いよく叩いた。

「確かに僕は男と付き合ったことはあるけれど、僕は明のことを。」

「まあ、本当に男と付き合ったの。気持ちが悪い。気持ち悪いから出ていけ。韓国人の手先か?」

「僕は日本人だ。」

「韓国人はそうやってすぐ嘘をつく。日本の人口を減らして壊そうとしてるのよ。子供も産めないくせに!」

一瞬のことだった。一瞬のことで彼の理解が追い付かなかった。一瞬だったが、彼に苦い記憶を思い出させるにはあまりに十分だった。

 翌日、パーティーは催されなかった。彼は明に事情を説明した。明は憤慨して光子と絶縁をした。明は心配そうに彼に問いかけた。

「大丈夫か。辛くないか。」

彼は

「死にたい。」

とだけ言った。

「死ぬなよ。絶対死ぬなよ。俺が悲しいから生きろよ。」

明は彼に語り掛けた。彼の気持ちは段々と落ち着き遂に

「もう大丈夫、ありがとう。」

と明るく答えた。本当は大丈夫ではなかった。これが明との最後の会話だった。これ以上明の幸福を壊したくなかった。明が楽しみにしていたパーティーを壊すだけではなく、彼の新しい彼女をも奪ってしまったら。

「あたしが貴方に振られただけで自殺なんてする訳ないでしょ。あたしはクリスマスに彼氏がいてほしいから、適当に付き合っただけよ。あたしが本当に好きなのは明。光子と別れてくれたおかげであたし、やっと明の彼女になれたの。貴方には感謝しているわ。ありがとう。もう用済みだから絶交。バイバイ。」

美南との絶交。美南からの解放の安堵等なかった。自分は利用されただけだという絶望感が残った。そして、自分に魅力がないばかりに彼女の人生に「浮気」という汚点を残してしまったという罪悪感に苛まれ、ナイフで腕に何本も傷跡を入れた。唐突に一人の知り合いから「もう二度と関わらないでくれ。」と連絡がきた。彼は状況が理解出来ず、スマホを落としてしまった。話を聞くに、彼が美南にした数々の仕打ちに怒っているようだった。美南はこんな酷いことを彼氏にされたとSNSの投稿していたのだった。その一切が彼には覚えがなかった。完全なる自作自演。

「人間としてあり得ない」

「サイコパス」

見知らぬ人からの誹謗中傷が目に入った。彼は知っていた、いじめや炎上は騒ぐと燃え広がるということを。彼はじっと耐えた。他の誰にも知られたくなかったから、誰にも相談できずにいた。誰かにただ側にいてほしい。孤独に耐え切れず、何も持たないで彼は遂に剛の家へ向かった。雪が舞う夜。悴む指先。

 剛は樹そのものだった。樹そのものだったから、彼は樹を求めて剛の家へ向かったのだ。初めて剛に会った日を彼は鮮明に覚えている。服の選び方も髪色も。使っている香水も樹を彷彿とさせた。自由奔放に出かける姿は彼が追いかけ続け遂に辿り着けなかった樹の姿だった。彼は樹の幻想を剛に見たのだった。剛は彼を迎え入れた。暖かい部屋、柔らかな布団。どれも彼には新鮮だった。辛いときは風呂に入れと彼に入浴を促した。風呂から上がると剛は彼の髪をドライヤーで乾かした。お金がかかるから、自分は質素に暮らさなければならないからと避けてきたドライヤー。それは生まれて初めての体験だった。剛はドライヤーを置くと後ろから優しく抱きしめてくれた。暖かかった。こんな優しさに触れたことなんて。涙が溢れた。

「風呂から上がったら必ずドライヤーをするように。風邪引くぞ。」

笑う彼。初めて誰かに体調を気遣ってもらった。そして、この人も自分のせいで不幸になるんだと悟った。正月、一緒に初詣に行こうと約束したこと。年賀状を交換しようと約束したこと。ずっと前に話したことだが、剛は覚えているだろうか。彼は聞くのが怖かった。ただ泣くしかなかった。

「辛かったね。」

剛は何も聞かずただ彼を抱きしめた。彼は剛に大切な彼女がいることを知っていた。知っていたが、このときの彼はもう「決断」していたのだろう、彼は剛の優しさに結果として漬け込んだ。彼らはその夜「過ち」を犯した。雪はまだしんしんと降っている。白いカーテンが少しなびいた。剛は我に返ると「過ち」を激しく後悔し、二度と彼を見なかった。

「ごめんね。」

彼は涙ぐんで部屋を去った。初詣には一人で行った。年賀状は届かなかった。仕方ないよね。彼は諦めた。今年の冬は特に寒い。彼は手を息で温めた。剛は彼のために不幸になった。剛が浮気だと彼女に刺されたのはそれから暫くしてからのことだった。

 彼が自殺する一週間程前。おぞましい形相で歩く彼を見かけた。近寄るとただ事ではないことが起きていると理解した。彼の手に握りしめられた包丁。陽の光の十分に反射して銀色に光っているところを見るにまだ誰も刺していないようだ。

「お前、何をするつもりなんだ。」

「殺す。」

「殺すって誰を。」

「殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。」

「待て、誰を殺すんだ。」

「殺す。」

「誰を殺すのか教えてくれ。」

彼は包丁を地面に叩きつけ、

「親に決まってるだろ。」

と怒りを露わにした。

「なんで殺すんだ。嫌なことされたのか。」

すると急に彼はその場に崩れ嗚咽した。

「樹も剛も片親なのに頑張ってる。僕は両親とも生きてて楽をしている。だから、片方殺すしかないじゃないか。」

私には彼が何を言っているのか全く理解出来なかった。

「大阪には御堂筋線が走っているだろう。だから、樹は僕より価値のある人間なんだ。僕は死ぬしかないんだ。」

「皆僕に死ねばいいと思ってるんだ。」

「皆僕のことを頭いいっていうんだ。こんなに頭悪くて価値がないのに、院試に受かったという事実だけを持ち出して頭いいと言う。皆僕を馬鹿にしてるんだ。誰も僕の頭が悪いという悩みを理解してくれないんだ。」

「あとどれくらい頑張れば幸せになれるんだよ。」

「助けてくれよ。」

何も言えない私を見て急に落ち着きを取り戻すと灰色の道路に嘔吐した。

「困らせたね、ごめん。」

彼はゆっくりと去っていった。

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