第二話:彼女の記憶
私は彼が書いたその本をそっと閉じた。彼は「そのこと」を知らなかったのだと確信したが、それを言葉にはしなかった。私は花を静かに見た。
「ここに書いてあることは本当にあったことなのかい。」
私は大学以降の彼しか知らない。だから、花にそう尋ねた。
「兄のプライベートには立ち入っていなかったので、私には分かりかねます。」
「だけれども、これを読むと彼が死んだ理由、いや、自殺した理由の根本には両親との関係の不和があったのではないかと感じざるを得ないんだ。現に彼が親との関係をこじらせていたのを私は知っている。」
彼の自殺のほんの少し前、あの道の上での事件を思い出す。
「確かに、私もそれは否定しません。ですが、両親にも両親の過去があるのです。これは兄の自殺の後に母から聞いた話なのですが。」
彼女は先ほど注文したばかりの紅茶を一口すすると一つ吐息をして話を始めた。
「兄が生まれる三年前のことです。」
彼女のグラスをそっと置く音が今度はこの喫茶店の空気全てと共鳴した。
母方の祖母、ヨシ子さんが急な病気で寝たきりになった。その一年前に両親は結婚をしていたのだが、母は遠い実家に帰って看病をしなければならなくなり、父と母は月に一度母の実家の近くで会うことしか出来なくなった。
「折角結婚したのにごめんね。お母さんなんて死んじゃえばいいね。」
ヨシ子さんがそういう度に母は強く叱咤し、ヨシ子さんを温かく抱いていた。余命半年であると宣告された頃、母が子供を身籠っていることが分かった。
「お母さん、お母さんの初めての孫がもうすぐ生まれるのよ。だから、頑張って生きようよ。」
看病はもう二年以上に渡っていたが、母は一度も弱音を吐かなかった。
「お義母さん、どうか僕たちの孫の顔を見ていただけませんか。」
父は時々ヨシ子さんの弱い手を握った。だが、その初めての子供が生まれる三か月前にヨシ子さんは逝ってしまった。
「そうして生まれたのが、兄でした。」
花は彼が書いた小説を寂しそうに見つめた。グラスの持ち手に掛けた手をゆっくりと本の上に置き、優しく古びた表紙を撫でた。
「祖母が言ったんです。」
神妙な面持ちでそっと呟いた。
「何と言ったんだ。」
心が消え去ったような花の姿を私は不気味だと思った。花に悪魔が取り憑いたのではないかと錯覚した。花が重い口を開いた。
「結婚したばかりの夫婦を引き裂いたくせに、孫の顔も見ずに死ぬなんて、と。」
彼女は言った。
「あんな女、早く死ねば良かったのに、と。」
辺りに雷鳴が轟いた。ガラス戸に叩きつける雨。その言葉は彼が愛した少年、樹を彷彿とさせた。スーツ姿の男が鞄を頭に乗せて駆けていくのが見えた。ベビーカーを急ぎ足で押す若い女性が水たまりを踏んだ。慌ただしそうな彼らはこの陰気な喫茶店には気付かなかったようだ。ただこれ以上自分や自分の子供が濡れないことに必死だったからだろう。皆が自分と自分の大切なものに盲目だったのだろう。だから、気付かなかったのかもしれない、愛する我が子をあの邪悪な姑から守ろうとしたことが、かえって彼を苦しめてしまっていたことに。異性から人気があったためにおかまだといじめられた父は、これ以上いじめられぬようにと武道を身に付け強くなった父は、武道の特待生をして入った大学で周りの人間よりはるかに学力が低かったことで恥ずかしい思いをした父は、自分の子供に同じ思いをさせたくないという愛情を彼に注ぎ続けたのかもしれない。見よ、彼女が静かにかきまぜた紅茶は嵩が多かったから少し零れてしまったではないか。
「誰も悪くないんです。」
花は再びグラスを持ち上げた。妖しい色をした唇を尖らせ少し紅茶を啜ると無心に一点を見つめた。
「誰もが大切な人を守りたかったんです。祖母も両親も。」
「誰もが大切な人を守るのに必死だった。ならば、彼にとって大切だった人は一体。」
「それは翔さん、貴方が一番ご存知なのではないでしょうか。」
私には分からなかった。彼は一体誰を最も愛していたのだろうか。彼が誰を最も愛していたのか、彼の自殺から五年も経っているのに、その答えを知らなかったことに愕然とした。考え込む私の意識を花は連れ戻した。
「翔さん、もう一度頼みます。兄が最期に語ったことを私に教えてください。」
私は彼女の真似をして、コーヒーを少し啜った。私の記憶が戻る、九年前の春、初めて彼と会ったあの日に。彼の自殺の四年前。