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金星と土星  作者: 崚斗
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第一話:僕の記憶

 「明日から山でお泊り教室です。くれぐれも忘れ物をしないように今から遠足のしおりをもう一度確認します。」

教室を見回すと誰一人として先生の話を聞いていなかった。小学校五年生の子供は自分でしおりを読む力はあるのだから、単なるしおりの朗読会に耳を傾けるだけ時間の無駄だということを理解していたのだろう。授業中寝たこともなければ遅刻をしたこともない、課題は全て提出する、そんなクラスで一番真面目な僕でさえこの朗読会を馬鹿馬鹿しいと感じていたのだから。だが、当然馬鹿馬鹿しいと感じながらも僕は背筋を伸ばして先生の下らぬ話を真面目に聞いていた。だが、真実は違う。

「両親と先生に真面目に頑張ると褒められたから。」

僕が真面目を装った理由はただこれだけである。本当は周りの友人らのようにふざけたかった。だが、もし不真面目な対応をした結果自分が不利益を被ったとき、周りの大人は助けてくれないのではないか、自分は見捨てられるのではないかとただただ恐怖に怯えて模範的な児童を演じ続けてきた。幼いながら何となくそれを感じていた。きっとそれがより真実に近い理由なのだろう。兎に角、そんな悲しい考察をしているうちに無意味な朗読会は終了した。最後に先生が

「山の天気は変わりやすいのでくれぐれも傘を忘れないように。」

と付け加えた。その口調はやや叱咤を内包していたように感じたが、その叱咤が何に対するものなのか僕には分からなかった。

 「帰り、傘。」

「おう、雑貨屋だな。」

先日の豪雨で僕の傘は壊れてしまったので、帰り道に傘を買いに雑貨屋に寄ろうと彼を誘った。風太。彼の名前である。彼がいる日は風が心地よい。今日は五月晴れの日。青々とした新緑、太陽の光をいっぱいに浴びた田園。電車もない片田舎だったけれど、他のどんな場所よりも「温かさ」があると信じていた。遠くには畦道を歩く二、三の子供が見えた。彼らもまた自然の中に何の違和感もなく溶け込んで、一つの画を作り出していた。そして、僕の隣には、風太。二人の歩調が徐々に合っていく。もし彼と手を繋げたなら、僕たちの鼓動も一致したのだろうか。両親から再三聞かされた「同性愛は気持ちが悪い」という言葉の重みのために僕は彼に手を伸ばせなかった。せめて彼が吸っているこの新鮮な空気を共有したいと、天を仰ぎ大きく息を吸ってみる。雲一つない青空が見えた。太陽の眩しさに思わず目を瞑ったが、それさえも快さであったのだ。

「どうした、突然立ち止まって。」

深呼吸に集中したためにどうやら僕は折角そろった足並みを止めてしまったらしい。

「突然深呼吸がしたくなって。」

若干取り繕うような笑みを浮かべて答えた。雑貨屋迄の道で僕はまた彼に歩調を合わせられるのだろうか。遠くの畦道の可愛らしい声がいつの間にか聞こえなくなっていた。僕たちは無音の世界にいた。何一つ動かぬ世界。僕の幸福を守ろうと時間が止まっていたのだろうか。僕を地獄へ突き落す傘を買わせまいとしていたのだろうか。

 「こんにちは。」

雑貨屋の引き戸を開けて中に入った。

「よく来たねぇ。」

雑貨屋のおばあちゃんがいつもの笑顔で迎えてくれた。僕は引き戸を閉めようとしたが建付けが悪くて上手く閉まらない。町の人は改装すればいいのにと口々に言っているが、このお店は何十年もやっている大切な店だからとおばあちゃんは頑なに改装をしないらしい。だが、僕はこの少し古びた感じが時代に追いつこうとしない温かな片田舎にはぴったりだと思っているので、この引き戸が閉まりにくいことも風情があると感じている。

「閉まりにくいわよね。」

奥から出てきたのはおばあちゃんの娘の真由子さん。普段は遥か西の地、大阪で旦那さんと二人で暮らしているのだが、旦那さんの海外出張中は良い機会だからと実家に戻ってきているらしい。

「はい、これで閉まった。おばあちゃんには扉の修理をしようと言ってるんだけどね、全然言うこと聞かないのよ。ごめんなさいね。」

真由子さんが外面の笑顔を見せる。

「いえ、大丈夫です。」

特段真由子さんと仲が良かった訳でもないので軽い返事しかしなかった。いや、それ以上におばあちゃんとの穏やかな時間を都会の喧騒さをまとった彼女が奪うのではないかと不安にさえ思った。

「今日は何を買うんだい。」

おばあちゃんの声に僕は水を得た魚のように元気な笑顔を向けて

「傘を買いに来ました。」

と答えた。

「傘はここね。」

真由子さんが傘の場所を指さした。僕たちが何度この雑貨屋に通っていると思っているのか、傘の場所くらいわかっているという不満が口を滑りそうになった。いけないいけないと自制して、

「ありがとうございます。」

と丁寧にお辞儀をした。

 「お前クソ真面目だから黒の傘。」

そう言って風太が差し出したのは烏傘と呼びたくなるような真っ黒な蝙蝠傘だった。

「流石にこんな黒いのは好きじゃないな。第一真面目と黒に何の関係があるんだよ。」

僕は笑いながら烏傘を戻し、真っ青な傘を手に取った。

「この傘いいな。」

「さっきの傘と何も変わらないじゃないかよ。」

「いやいや、色。色が違うでしょ。」

僕は風太の肩を軽く叩いた。

「この傘が一番安いから、お財布にも優しいでしょ。」

「お前がそれでいいなら、それにすれば。」

「じゃあ、買ってくる、ちょっと待ってて。」

おばあちゃんに代金を支払って店を出ようとした。建付けの悪い扉が相変わらず開かない。

「おーい、扉さん、頑張ってくれよー。」

その声を聞いた真由子さんが、やれやれと扉に手を掛ける。三人がかりで扉を開けようとするが一向に開く気配がなかった。僕がここから出ることを必死に止めているようだった。僕は彼との小さな思い出の傘を早く差したくてうずうずしていたから、多少の苛立ちを込めて扉をやや強く叩いてみた。矢張開かない。

「仕方ないわね、裏口から出てもらっていいかな。」

「分かりました。」

真由子さんの案内に付き従った。

「貴方たち、明日から山なんだって?」

真由子さんが突然話を振ってきた。

「あ、はい。」

「山の天気は変わりやすいから、晴れているからって油断しないようにね。それから、道から落ちたりしないように。怪我には注意よ。」

真由子さんからもしおりの朗読会を始めるのか。うんざりし始めていた。

「山の天気ってそんなに変わるんですか。」

「そうよ。私も晴れていると思って傘を持たなかったら雨が突然降ってきて風邪を引いたことがあるの。懐かしいわね。」

一人で笑う彼女。

「そんなこと言っていたら着いたわね。山、楽しんでね。」

「ありがとうございました。」

僕たちは久々に日光を浴びたような心象になった。

 「風太との思い出の傘、早速差してみようかな。」

僕にとっては思い出の傘なのに、彼は何の興味も示さなかった。彼がこの傘の中に入ってきてくれるだけで、疑似的にでも恋人気分を享受できただろうに。僕は彼に恋をしていた。歩調は一向に合う気配がなかった。太陽の光を傘が遮るから、僕の表情も見る見る暗くなっていっただろう。愈々僕は耐えかね、急いで日傘を閉じて

「大きい傘だった。」

と呟いた。

「山で差すの大変そうだな。」

彼が冗談めかして笑ってくれたから、僕はひとまずは安心を覚えることができた。

 そろそろ一本の大きな木が見えてきた。この木で二股に分かれる道、彼は右に、僕は左に進む。

「じゃ、またな。」

彼は笑って手を振り帰路を一人で歩んでいった。僕は彼の姿が見えなくなる迄木の陰に潜んで風太を見送り、独り俯きながらいつものように左の道を選択した。ゆっくりと重い左足を上げて地面のつまらぬ石ころを軽く蹴ってみる。いや、今日は右の道を行くべきかもしれない。僕はすぐさま左足を元に戻した。だが、「いつもと違うこと」に強い恐怖があったから、右に踏み出そうとした一歩を戻し、何かを思い出したかのようにそそくさと踵を返してしまった。僕も白いレンガで新しく整備された右の道を歩みたかった。まだ何も知らない純白なこの道を選びたかった。果たしてみすぼらしい左の道を望んで選ぶ者があるだろうか。もし右の道を選べたならば、もっと長く彼と一緒にいられただろうに。何も知らずずっと一緒にいられただろうに。どうして、あの山で僕は左の道を選んでしまったのだろうか。

 山の頂上は濃霧に飲まれていて、到底青々した植物が織りなす自然は見えなかった。眼前に広がるのは月面のように荒々しい山肌とそこに生きる僅かな植物だった。先が見通せない不安に駆られた僕の手を優しく握ってくれたのは風太だった。

「ビビってんのか。しょうがねえな。」

彼の屈託のない笑顔はこの曇天下の僕に十分な光をもたらした。

「俺、雨具忘れちゃってよ。雨降ってきたら頼むわ。」

彼と一つ同じ傘の下、ゆっくりと歩む未来を考えると、この頂上の雲が雨をもたらす柔らかな祝福のように感じられ、何一つ不安は消え去ったのだった。

「山肌が荒れているので、気を付けて進むように。」

先生の注意さえもう僕の耳には入らなかった。

 「歩きにくいな。」

たどたどしく不格好に歩く僕に歩調を合わせて彼は頂上を高く見据えながら歩いていた。

「ごめん、僕が遅いせいで。」

「時間はあるから、ゆっくり行こう。」

最後尾で歩んでいた僕たちは気付けば列から取り残されてしまっていた。霧ばかり濃くなって雨は一向に降らない。最初こそこの中途半端な天気に苛立ちを感じていたが、すっかりに僕たちが列から孤立したとき、この濃霧は僕たち二人を完全に包み込んでいた。眼前の真っ白な世界は今僕たちがどこにいるのかさえ教えない。だが、恐怖は全くなかった。それは風太がそばにいたからだけではない。歩んでも歩んでも変わらぬこの景色が僕たちの時間を止めてしまったかのようだったからだ。これから先の悠久の時間を僕たちは二人で生きてゆく。そんな幻想をこの大自然は体現化しているようだった。長い時を超えて同じ場所同じ時代に出会ったこの奇跡が永遠に失われないように。その奇跡を僕たちが、そしてこの宇宙が忘れてしまわないように。そっと僕は手を絡める。寒さで震えていた僕の手を風太は優しく握り返した。風太の熱が僕に伝わる。風太の歩みと僕の歩みが合わさっていく。そして、いつの間にか彼と僕の鼓動もゆっくりと同じリズムを刻んでいた。風太を一瞥する。彼は相変わらず前を見ている。その表情に何か陰鬱なものを感じた。何を憂慮しているのだろうか。この先の見えない道に一抹の不安を覚えているのだろうか。僕たちは二人だ。僕は彼の手を再び強く握った。

だが、もう彼の返事はなかった。次第に濃霧は晴れていった。

「お前ら、どうした。置いていかれたのか。」

突然終わった二人の宇宙。後続の列が僕たちに追いついた。咄嗟に彼は僕の手を振りほどいて、何事もなかったかのようにほほ笑んで

「ゆっくり歩いていたら、置いていかれてしまいました。」

と先生に釈明をした。

「仕方ないな、山は危ないから、俺たちのクラスと一緒にいこう。」

僕は不満そうに頷いたが、彼はもうその列の中に溶け込んでいたのだった。

 そうこうしているうちに頂上に着いた。雨は降らなかったので、傘を使った僕の計画は不発に終わった。だが、一時的にでも彼との時間を享受できたので、及第点だと自分を納得させた。拡声器を持った先生が呼びかけた。

「今から一時間自由時間です。山の植物を観察する等して、充実した時間を過ごしましょう。それから、向こうの茂みの先には急な崖があって危険なので、くれぐれも近づかないように。それでは、解散。」

僕は先生の指示通り山の植物の観察を始めた。特段山の植物に興味があったわけではないし、他の児童と広いフィールドを駆け抜けて笑いあいたかった。だが、僕にはそれが出来なかった。どうして出来なかったのかは分からない。だが、兎に角出来なかったのだ。つまらない植物観察。山はつまらぬ。いや、風太がいないからつまらないのか。そうだ、そうに違いない。つまり、風太と一緒に植物を観察することが最適解だったのだ。霧がすっかり晴れていたのにも関わらず山道以上の孤独を感じていたのは風太がいなかったから。風太はどこ。僕は山の自然を見渡しながら風太の影を探していた。

「君は、植物に興味があるのか。」

振り返ると理科の先生が笑みを浮かべながら立っていた。この先生は「興味がある」という答えを期待しているのだろうと察した。だが、大して興味もないのに「ある」と答えるのは嘘になってしまう。嘘を吐くなという教えと人を傷付けるなという教えを両立する回答はこれしかなかった。

「高山植物は見慣れないものが多いですね。」

案の定先生は

「先生は大学の頃高山植物の研究をしていてね。」

等と聞いてもいない話を目を輝かせながらし始めた。先生が指を差し示した植物を熱心に見ながらもどこかに風太がいないかと探していた。

「すまんすまん、つい話し込んでしまった。」

「いえ、お話ありがとうございました。」

「他にも色々見るものはあるから、確り学ぶように。」

先生の言葉に笑顔を向けた僕は空に金色に輝く美しい星を認めた。ヴィーナス。愛と美の女神は他のどんな星よりも近くで太陽の恵みを享受している。太陽の眩しさに思わず目を瞑ると、瞼の裏には風太の輝く笑顔がありありと映し出された。風太。風太。この手を伸ばせば風太に届く。僕は鋭く手を伸ばし、ゆっくりと手をめいっぱい開いた。そして、目を開けると太陽は僕の手で半分隠れ、金星がさっきよりずっと鮮明に見えた。この方向に風太がいるに違いない。僕は強く大地を蹴った。足元の赤い花が揺れる。風を味方につけた僕は西へ西へと駆けた。ヴィーナスの方向へ駆けた。

 その夜僕は一人布団の中ですすり泣いていた。あれほど山の天気は変わりやすいと注意されていたのに。僕は空に土星を見付けてしまったのだ。時間を追うごとに強くなる雨音。思い出したくない絶望が僕を襲っていた。ヴィーナスが祝福していたのは僕ではなかった。あのとき右の道を選んでいたなら、こんなこと知らずに済んだだろうに。彼が彼女と二人で手を繋いできたことも、僕の心に浮かぶ土星の姿も。ヴィーナスの方向には二つの道があった。愚かにも僕は相変わらず左の道を選んだ。その先にあったのは鬱蒼とした茂み、そして、二人の人間の姿だった。彼は少女の手を握り、暫く見つめ合ったのちに深く接吻を交わした。その様子をまじまじと見、その男が風太だと理解した瞬間、見てはいけないものを見てしまったのだと絶望した。強い風が吹き上げた。真っ黒な影を落とす茂みの上から僕に不敵な笑みを落としていたのは土星だった。あぁ、僕はそのときはっきり思ったのだ。思ってはいけないことを思ったのだ。あの女が崖から落ちて死んでしまえばいいと。そうはっきり僕は女を呪ったのだ。遠くの雷鳴は僕の体を揺らす。僕はきっと悪魔のようにおぞましい形相を浮かべていたに違いない。瞬く間に天は黒い雲に包まれ、二人の小さな人間が走る様はこの上なく哀れであった。僕の傘は地面を叩いた水滴で茶色く汚れた。遠くから僕を探す低い声が聞こえる。

「お前、何しているんだ。雨だぞ。」

「すみません、ちょっと調子が悪くて。」

心の調子が悪いのは事実だった。

「大丈夫か、風呂入って着替えて、部屋でゆっくり休め。飯は持って行ってやるからな。な。」

僕は先生の傘に入って俯きながら宿に戻った。

 高原教室から帰ると、僕へのいじめが始まった。給食の時間に話すことは禁止されたし、食事そのものを貰えないこともあった。鞄の中に内臓が飛び出たカエルの死骸を放り込まれたことも、教科書を盗られたこともあった。先生に言えなかったのは叱られるのが怖かったから。見捨てられるのが怖かったから。親に叱られ見捨てられるのが怖かった。両親が描く「理想の子供」でなくなった瞬間に彼らは僕に「期待外れ」のレッテルの貼るだろう。「不良品」と思うだろう。先生にいじめがばれたら、きっと両親に通達が行くに違いない。いじめを受ける度に先生に見付からないかと怯える日々だった。

抑どうしていじめられるようになったか思い返したこともあった。

「風太、お前ホモなんだろ。気持ち悪。」

「俺は彼女いるし、あれはあいつに無理矢理繋がされただけなんだよ。キモいホモはあいつだから。俺は被害者。」

それがいじめの始まりだった。確かに手を繋いだのは僕だった。

「でも、風太は拒否しなかったのに。」

風太にそう訴えても

「あれはお前が可哀想だから繋いでやったんだよ。ホモのくせに。」

と返されるだけだった。そうか、あれは僕が悪かったのか。彼は本当は嫌だったのか。風太に申し訳ない気持ちが胸にこみ上げた。同時に、いつか風太が僕を許し、また友達になれる日が来ると信じていた。だから、あの雨の日、それでも僕は風太と買ったあの傘を差して下校しようとしたのだった。僕が下駄箱に置いた傘に手を掛けたとき、何者かがその傘を奪った。そして、彼がその傘を踏みつけたから、風太との記憶が、風太への希望が足跡で汚されてしまったのだ。僕は愈々彼に飛び掛かった。

「返せ。傘を返せ!」

僕の鋭い声を聞いた先生の慌ただしい足音が響いた。普段温厚で真面目な僕が激昂している姿に先生はやや狼狽していたが、僕を彼から強く引き離し

「他人に掴みかかるのはやめろ。」

と厳しく叱咤した。僕は彼に傘を奪われ踏みつけられ汚されたことを訴えようとした。だが、先生は僕が開口した瞬間に

「言い訳をするな。」

と再び強く叱りつけた。誰も話を聞いてくれなかった。悔しかった。僕の希望を踏みにじった彼が放免されることが許せなかった。激しい怒りと悔しさは僕の体を震わせるには十分だった。

「気違いは学校にくるな」

翌日張り紙と共に教室から無造作に放り出された僕の哀れな机。ごめんね。僕が使っているばかりに罪のない机が不利益を被っているのがたまらなく申し訳なかった。

その日、僕は態と遠回りをして帰った。右の道を進んだ。右の道を選ぶことに戸惑いはなかった。僕は何の迷いもなく右の道を選んだのだ。空に浮かぶ土星。決して強く歩みだした訳ではなかった。ただいつものように歩いた。長い道と見慣れぬ風景。風太を追うような感覚を覚えた。長い時間と真っ新なタイルが僕を生まれ変わらせようとした。

「聞いてほしいことがある。」

僕は両親をじっと見つめそう言った。それは僕にとって克己を意味する最大の革命に等しかった。僕は両親に従うからくり人形。僕は両親を非常に恐れていた。彼らが「優秀な」人間を好むことを暗に感じていたから、自分が優秀でないと分かった瞬間に捨てられるのではないかと日々戦慄いていた。悲しいことにそれが事実であると高校受験の日のあの事件で思い知らされることになるのだが。だから、僕が彼らにアクションを起こすことは革命に等しかったのだ。

「どうした。」

まさかいじめられているとは言えなかった。両親はきっと心優しい子供を誇りに思うだろうと

「クラスでいじめられている子がいる。どうしたらいいのか分からない。」

と言った。それは静かに、だが力強く。嘘にまみれて赤くならないように、真っ白な真実を一つ一つ大切に言葉を紡いだ。

「同性に恋したという理由でいじめられているの。どうしたらいいのかな。」

父は僕の手を強く握り、口角を強く締めた。感動をしたように輝く目で僕をじっと見つめた。それから僕の頭を優しくなでて笑顔でゆっくりとこう言った。それは天使か何かのように温かい声で。

「お前は優しいな、友達の心配をして偉い。だけど、同性愛は心の病気で気持ちが悪いことだから、いじめられる原因になるんだ。お前はくれぐれもあんなのにならないように。お前は将来医者か弁護士か大学教授になるんだ。あ、でも精神科医はダメだ。気違いを相手にするから、診てる方も気違いになってしまう。まあ、兎に角一生懸命勉強をしろ。いじめは頭が悪いから起きるんだ。勉強して尊敬される存在になればいじめられない。その友達は頭が悪いんだろう。勉強のためならいくらでも協力するから、頑張れよ。」

僕は背中をポンと叩かれ激励された。この暖かい声の持ち主はルシファー以外に考えられない。ただ「分かった。」と返事をして自室でいつものように勉強をするしか選択肢がなかった。部屋の電気が切れていた。何度スイッチを押しても一向に点かない。もう疲れてしまったのだろうか。「気持ちが悪い」と真っ直ぐ親に言われたこと。いじめられているのは頭が悪いお前が悪いと叱咤されたこと。そんな絶望に疲れてしまったのだろうか。僕は誰にも見つからぬよう闇に溶け込みただ一人涙を流し続けた。勉強しないといけないという焦りと辛くて勉強が出来ない罪悪感が同時に襲ってきた。どうか誰も僕を見付けないでくれ。誰かの光を本当は求めていただろうに、そう強く願っていた。

 ドアノブが回る不快な金属音と共に一筋の光が差してきた。

「どうしたの。泣いてるの。」

優しい声が聞こえた。僕はすぐにその声が祖母のものだと分かった。

「本当は話しちゃいけないから、おばあちゃんの独り言だと思って聞いてね。」

この家では祖母と話すことは禁じられていた。もし祖母と会話をしたならば、その内容を両親にしつこく聞かれたものだった。僕と妹は所謂嫁姑問題に巻き込まれていた。連日続く喧嘩。もしも両親が嫌う「ダメな子」に降格してしまったら、この祖母のような仕打ちを受けるのではないかと怯えていた。祖母はこの家では「気違い」と呼ばれていた。

「お父さんに何か言われたの。」

祖母が優しく問いかける。僕は小さく頷いた。僅かな光から見える僕の姿から僕の頷きを感じ取ったのなろうか、祖母は続けた。

「おばあちゃんはね、毎日神棚に手を合わせて皆の幸せを祈ってる。おばあちゃんをいじめるあんたの親のこともね。おばあちゃんの祈りが足りないから辛いんだよね。おばあちゃん頑張ってご先祖様にお祈りするから。だから、元気出してね。」

僕は再び小さく頷いた。祖母の優しさに益々涙が溢れた。祖母を助けたかった。だが、親に叛逆すれば捨てられるに違いない。僕は自分の保身しか考えられなかった。あぁ、僕は卑怯者だ。卑怯者だから遂に僕は嘘を吐いたのだろう、母に

「あの気違いと何を話したの。」

と尋問されたとき

「あの人の話なんて聞いてないから何も話してない。」

と。弱弱しい声はすぐさま部屋に消えた。何の響きも残っていないことを認めて、僕はゆっくりと虚ろな目を開いた。窓越しに空を見上げる。帰り道に見た土星が今南中していた。

 その後段々といじめは鳴りを潜めたが、中学一年生の頃にいじめが再発したのはきっとあの事件が切欠だろう。桜咲く四月には似合わず、その日は豪雨だった。不快な雨音が窓ガラスを叩きつける。僕は若干の寒さを感じ震えていた。板書を写す僕の集中をかき乱す雨。雨粒は容赦なく桜の花びらを穿ち、ぬかるんだ地面に叩き落とす。茶色に染まった桜の花びらは声を出すことさえも諦めていた。僕は花びらが地面と同化して静かに穢れを受け入れている様を見つめていた。あぁ、よそ見してはならぬと自分に言い聞かせて真面目に授業を聞こうと黒板に目をやった。

「お前は中途半端なおかまなんだから、真面目に授業を聞け。」

突然の先生によるセクシャリティーの晒し上げに僕は耳を疑った。その教師の言葉の論理の崩壊にではない。大っぴらにアウティングされたことにでもない。どうして僕が「中途半端」だと言われなければならないのかが理解出来なかったのだ。おかま、現代の言葉で言えばトランスジェンダーのことであろうけれど、どうして同性愛者がトランスジェンダーに比べて中途半端だと言われなければならないのか。どうしてセクシャリティーを貶す発言をクラスメイトの前で名指しで被らねばならないのか。どうして誰も「同性にも恋愛感情を持つだけ」ということを理解してくれないのか。そんな悔しさがこみ上げてきた。

「おい、中途半端なおかま。」

「気持ち悪いぞ。」

紙クズと共に投げられる嘲笑が辛かった。先生の

「流石にやめておけ。」

という言葉を聞いた。元凶に縋らねばならない自分が惨めだったが、僕は一縷の希望を持って先生のその顔を見た。笑っていた。先生は笑っていた。「中途半端なおかま」に投げかけられる罵詈雑言を楽しんでいた。雨が強くなる。なのに、雨音はこの言葉をかき消してくれなかった。そうか、僕が同性に恋愛感情を持つからいけないんだ。保健の教科書にも書いてあった、思春期になると「異性に」恋愛感情を持つと。僕は社会の異物なのかもしれない。騒げば益々いじめられるから、ただそれに耐えるしかなかった。学校に行かずに引きこもったら「ダメな人間」だと両親に捨てられるに違いないという恐怖だけが、僕を学校に向かわせていた。辺りが不快な光に包まれた。雷鳴が轟く。桜の泣き声はなおも聞こえなかった。

 人間というものは非情なものだ。僕が定期試験で学年一位を取り続けるのを見た彼らは、勉強を教えてくれと僕にすりよるようになった。彼らの笑顔は記憶がまだない純真無垢な赤子のもの、正しくそれだった。僕は彼らに勉強を教えた。一度も断らなかった。どんなに難しい問題でも考え抜いて彼らに教えた。「ありがとう」というたった一言が嬉しかった。

「頭いいから生徒会やってくれ。」

誰かに頼られることもまた嬉しかった。たとえ全ての仕事を押し付けられたとしても、誰かの役に立っているという喜びが僕の体を駆け巡った。もう誰も僕をいじめなくなった。あぁ、両親の言う通りだった。頭が良ければいじめられない。努力すればいじめられない。勉強、部活、生徒会。あまりの忙しさに誰かと遊ぶ時間は取れなかったが、これが自分の人生なんだと納得をした。

 だが、そのある種満ち足りた日々は終わりを告げた。あまりの忙しさに僕は遂に寝込んでしまった。不愉快な悪寒が体を駆け巡る。僕は一週間程無機質な天井を見上げるだけの生活を強いられた。

「お前のせいで仕事が進まなかった。」

一週間ぶりの学校、第一声は糾弾だった。全部押し付けていたくせにという不満もあったが、確かに少し体調が悪いと感じた時点で今後の指示を全て流しておけばよかったのだと反省をした。いや、確かにそうだ。自分がやってきたこのやり方を勝手に変えられる方が余程迷惑だし、仕事を担当していた本人が最後迄責任持って遂行するべきであろう。引き継ぐ準備をしなかった方が悪い。

「申し訳なかった。もう休まないようにする。」

もっと頑張らないと好きになってもらえない。嫌われないようにもっとやらないと。益々仕事をした。その努力とは裏腹に、僕が仕事をすればするほど会長だけが称賛される。これが「社会」か。どんなに仕事をしても好きになってもらえない。働いて好かれることは諦めた。当然仕事は続けたが、何を目的に何のためにしているのかを完全に見失った。どれだけ勉強しても好きになってもらえない。その証拠に初めて定期試験で学年一位から二位に落ちたとき、両親には酷く叱られた。どうしても受けたい検定がありその勉強に精を出していたためであろう。

「余計な勉強をしているからだ。」

「カリキュラム通りに勉強しろ。」

以後僕はカリキュラム通りにしか勉強が出来なくなった。それは決して両親の言いつけを守ろうとしたのではない。カリキュラムという決まりを守らないことが恐ろしく思えるようになったのである。僕は更に努力した。県下統一模試で総合一位を取った。それでもたった一日、口々にすごいねと言われるだけで一つも充足感はなかった。ありふれた表現をするならば、暗闇の迷路に迷い込んだようなものだった。抜け道が見えなかったから、だた邁進し続けるしかなかった。普段課題を出さない生徒が一度や二度出すだけで褒められるのに、課題を毎回きちんとやる僕に与えられたのは、通信表に印刷された「5」という数字だけであった。それは決して褒めてほしかったのではない。課題を提出するのは当たり前のことだから、褒める要素等何もない。悔しかったのは、普段不真面目である程些細な事で褒められることだった。不真面目な人の方が友人が多かったことだった。どうすれば認めてもらえるのかが分からなかった。この頃には僕の人生の航路はすっかり学問に舵を切っていた。

 雪が降りしきる寒い日。母と先生が僕に意見を求めた。

「高校はH高の理数科でいいわよね。」

僕は中学三年生になっていた。両親がH高からK大に進学してほしがっていることを察していた僕は、何も言わずに小さく頷いた。僕はこの頃素粒子物理学に魅せられており、将来は素粒子理論物理学者になりたいと思っていた。大学教授になるということも素粒子物理学の世界的権威であるK大への進学も地元のトップ高のH高理数科への進学も僕の夢を叶える道筋の一つになり得る上に親が求める理想だったので、僕はそれに一切の不満がなかった。寧ろ都合が良いと肯定的に捉えていた。

「うちのエースとして最後まで諦めずに頑張れ。」

塾ではこのような言葉を掛けられた。自分に全てがかかっている。自分が受からねば周りの大人の期待を裏切ってしまう。もし落ちたらどんな仕打ちを受けるのか。ただ怖かった。ただそれが怖かった。僕にかかった大きすぎるプレッシャーは僕の実力を委縮させた。

 「全然出来なかった。」

その言葉に両親は愕然とした。受験直後、家での僕のその情けない言葉は両親にはあまりに残酷だった。

「高校に落ちたなんて言ったら恥ずかしくて表も歩けない。どうしてくれるんだ、責任を取れ!」

僕の頬を殴る音が父の罵声に共鳴して、家中をきしませた。母はその場に泣き崩れた。僕は手足を縛られ物置に放り投げられた。食事も与えられず一夜を過ごしたようだった。漸く物置から出してもらえたとき、空に太陽はなかった。傘を差さずに裸足で歩き、家の扉を開いた。誰の声もしなかった。皆死んでしまったかのように口を閉ざしていた。妹は部屋に籠ったまま一度も外へ出なかった。瞬く間にゴミが飽和した家。とんでもないことをしてしまったと感じた。自分のせいでこの家を壊してしまったと思った。祖母が合格祈願を神棚に祈る度に父は

「気違いの呪いのせいであいつは試験で失敗したんだ。」

と決まって祖母の祈祷を宗教だと妨げた。そして、神棚にある様々をなぎ倒し、祖母を叩く音が響いた。祖母へのいじめはエスカレートした。例えば、祖母が入った風呂は汚いからと祖母の入浴後にはお湯が張り替えられるようになった。僕のせいで祖母がいじめられている。僕が祖母をいじめている。僕はノイローゼになったように勉強をするようになった。責任を感じた。親や祖母だけではない。学校の先生や塾の先生にも責任を感じていた。

 だが、地獄はいずれ終焉を迎える。幸いなことに結果としてH高理数科に僕は合格し、家に再び安泰が訪れた。

高校時代、僕は成績優秀で、更には生徒会長を務める等大いに活躍していたため、教師陣には「勉強熱心で真面目な模範的生徒」と評価されていたようである。だが、その「真面目」は最早病的であった。課題を忘れない、無遅刻無欠席無早退、更には授業中に寝ないというやって当たり前のことだけではなかった。休み時間は誰とも話さずずっと勉強をした。授業が終われば真っ直ぐ家に帰って勉強をした。一日の睡眠時間が四時間を超えないように勉強をした。倒れそうになることもあったが、学校を休んではならぬ、授業中寝てはならぬと、時たま自分の腕に刃物を突き刺した。腕に残る鈍い痛みと褪せた血の色は休もうとした自分への罰でもあった。あぁ、確かに素粒子への興味があったことは否定しない。だが、勉強の最たる理由は、無能なのに真面目に努力をしない無価値な自分から脱却したかったことである。誰からも責められない完璧な自分になりたかったことである。

「受験に落ちるということは社会から不必要とされること。」

高校受験前日に投げかけられた言葉が頭の中をかき乱す。不必要な存在にならないように、責任を取らなくて済むようにと腕の傷は増えていった。

「模試でA判定ばかり出す自分が許せないです。」

二者面談でふと零れた僕の本音を先生は理解しなかった。A判定を出す僕は低い判定を出す他の人より合格に近いから精神的に楽をしていて狡い。罪悪感が増していく。勉強を頑張れば判定が良くなるのは分かっている。だが違うのだ。そうではないのだ。努力というのは無能なためにしなければならない、いやして当然のことであって、努力の結果A判定を出すことは何ら褒められることではない。僕は周囲の人より良い判定を出して精神的に楽をしている卑怯者だというのを理解してもらえなかった。どうして、どうして誰も分かってくれないんだ。誰もセクシャリティーを分かってくれなかったあの頃の孤独が思い出される。どれ程頑張っても友達も出来ず、大人からも理解されない。僕は「静かないじめ」を受けているのではないか。ならば更に努力して尊敬される存在にならねばならぬ。もう限界だった。だが、その限界を超えて努力しなければ自分は愛されない。僕より努力をしていない人々がなぜ友人に囲まれて幸せそうにしているのだろうか。あぁ、きっと彼らには僕と違って人間性の段階で魅力があるに違いない。同性愛者という気持ち悪い存在には抑価値がないからこれは仕方ないことなんだ。助けてほしかった。だが、自分が頑張らねば。自分一人で頑張らねば。全部自分が悪いから、誰かに迷惑をかけないように自分で頑張らねば。暗い迷路を手探りで進んでいた僕が行きついた先は「悲観的ニヒリズム」だった。

 見飽きた通学路、虫の声が静寂に溶け込む涼しい夜。この勉強をするだけの色のない日々に一体何の意味があるのかと自問し続けていた。僕は人類史に刻まれる大理論を作るのだろうか。もしそうならば、この辛い日々も意味を持つ。始めはそう信じていた。だが、人類史に残る発見をすることは本当に意味のあることなのだろうか。いずれ人類は滅びる。今煌々と輝くあの太陽が地球を飲み込み、最期には光を失う。この星には何も残らない。この星さえも。生命が犇くこの美しい星は跡形もなく消え去る。僕たちがいた記憶さえも消えてしまう。ならば、人類の文明の発展は何の意味を持つのか。何をしても結果は同じなら、頑張っても頑張らなくてもいいのではないだろうか。悲しい結論は僕の心の重荷をそっと外した。大学受験に落ちて見捨てられて辛くなる。そんな未来に耐えられないのならば死ねばいい。いつ死んでも人類の結末は同じなら、嫌になったときに死ねばいい。たとえ誰かが悲しんでも、その人の悲しみもいつか消え去る。死んでもいいという選択肢に胸が熱くなった。受験への不安は消え去った。落ちてもいいと思えるようになった。最早習慣化していた病的な勉強量を辞めることは出来なかったが、以前に比べてずっと気持ちは軽くなった。

 大阪で地震が起きたのはそれから凡そ一年後、僕が高校三年生の時であった。遠く離れた関西の地震はある訃報と共に身近に感じられるものとなった。

「真由子さんが亡くなったらしいわよ。」

母の言葉は僕をすり抜けていった。次の瞬間、僕は雑貨屋のおばあちゃんを思い出した。僕は顔を真っ青にし、その場に立ちすくんだ。蘇る記憶、風太の思い出、青い傘。僕は雑貨屋に向かおうとドアノブに手を掛けた。ドアノブを少し回して、その重みに気付いた。このドアは建付けが悪くなったらしい。だが、この部屋に裏口はなかった。そればかりではない、傘の一本さえ見当たらなかった。今にも消えそうな弱々しい灯りばかりが気になった。それは真由子さんの最後の命の火なのだろうか。雑貨屋はもう雑貨屋ではなかった。あの日から一度も行かなかった雑貨屋は七、八年の月日に埋もれてしまった。

「おばあちゃん。」

建付けの悪いドアの中は侘しい空間だった。近所の方がワラワラと集まってくる。隣のおじさんが懐中電灯で辺りを照らした。足元に落ちている茶色いくまのぬいぐるみはほつれて目が片方なくなっていた。あの日傘があった場所は雨漏りしていた。

「一人にしてくれ。」

おばあちゃんの声がした。

「今日はもう一人にしてくれ。」

おばあちゃんの懇願する細い声が悲痛に聞こえた。おじさんは僕たちに外に出るよう促した。

「明日にはお店するから、今日はもう帰ってくれ。」

辺りは秋の静けさに包まれていた。空には欠けた月。金星は見えない。雑貨屋のテレビの音が急に大きく聞こえた。

「この地震で三人が亡くなりました。」

亡くなった後の二人は偲ばれているのだろうか。偲ばれているなら、羨ましい。僕はハッとしてそのおぞましい希望を消し去った。

 翌日、雑貨屋には喪服を着た人が集まっていた。葬儀は明々後日と聞いていたので、僕は何があるのかと尋ねた。母が言うには、雑貨屋を昔のように繁盛させるために皆で大掃除をすることに決めたとのことである。

「ここでこのお店を辞めたら、まるで真由子がこの店を潰したみたいじゃないか。」

おばあちゃんはそう言ってはせっせと働いた。

「これはどこに置けばいいですか。」

「この棚はこの高さでいいですか。」

聞かれる度におばあちゃんは丁寧に彼らに指示を出していた。いつかの懐かしい古さが取り戻されていた。

「真由子の写真は私の椅子の隣。」

母から笑顔で真由子さんの写真を受け取ったおばあちゃんはレジの前の椅子にそっと写真を置いた。おばあちゃんはかがんで写真を見つめ、真由子さんに一言二言話しかけていた。おばあちゃんは笑っていた。静かに笑っていた。

「まだまだ頑張るよ、真由子と一緒にこの店を切り盛りするよ。」

腕まくりをしておばあちゃんはないに等しい力こぶを僕たちに指さした。おばあちゃんは手伝いに来た人一人一人に感謝の気持ちを順に伝え、

「またきっと遊びにきてね。」

と僕たちを見送った。この地震の悲しみを温かさに変えてしまうあの強かな女性に僕は美しさを見た。何もかもが上手くいっていたあの頃が思い出され、懐かしさに僕は頬を濡らした。空の金星は僕の涙のためにいつもより輝いて見えたのだろうか。いや、この宝石の輝きはきっと。帰路に吹く風は秋の香りがした。

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