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金星と土星  作者: 崚斗
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プロローグ

LGBT、HSP、子供の貧困問題……。近年様々な話題が巷では言われていますが、それらの話題が語られるようになる前を生きた人々にあなた方はスポットライトを当てたことがありますか。社会という大人が主体的に構成する場で子供たちはどうして生きればいいのか。生き方を見付けられなかった子供たちを誰が助けてくれるのか。これは、ある人の実体験を元にしたフィクションです。この「金星と土星」という小説ではLGBTや精神疾患者、いじめ問題等に対する誤った見方や差別的な表現が含まれています。実話をもとにしているということを尊重してこれらの表現を厭わず用いました。この世界から不当な差別や偏見、いじめ等がなくなることを切に願って前書きとさせていただきます。

 鼠色の空が辛うじて見える席で私はコーヒーを一杯啜った。あまりに無機質な店の造り、しなび切った観葉植物、グラスが磨かれる規則正しい音。およそこの空間に命というものは私しかないのではないか。コーヒーを啜る音は店に響いたが、どんなものとも共鳴しなかった。今私がグラスをそっと置いたこの音でさえ、異様に響いているのに何もがそれを感知していないようだった。細い溜息を吐いて茶色い鞄に手を伸ばす。携帯に表示される「花」の名前、あと五分で着くという短い連絡。花との再会はほんの十日前の連絡からだった。

「五年ぶりに会いませんか。」

あの日私を「人殺し」と罵った彼女からの連絡に私はたじろぐしかなかった。返信を躊躇していると、

「兄の死のことで伺いたいことがあります。」

と新しい着信があった。私はまるで地獄の門の前にたどり着いた犯罪者のように震えながら、恐る恐る返事を書いた。

「久しぶり。」

私には五年ぶりの再会は恐怖でしかなかった。ただ話を反らすための陳腐な文句を考え、やっとひねり出した短文で返すしか出来ずにいた。

「五年前のこともお詫びしたいんです。どうか来ていただけないでしょうか。」

彼女が伝えてきたのは地元の人間でも知らないような路地裏の小さな喫茶店だった。

「きっと来てくださいね。待ってます。」

私には彼女の純粋な申し出を無下にする勇気さえもがなかった。私はあの日から弱くなった。いや、きっとずっと前から弱かったのだろう。弱い私は今日、電車を乗り継いではるばるこのこじんまりとした喫茶店にやってきたのだ。

 入店を知らせるベルの鈍い音がした。私はハッとして、ゆっくりと入口に目を向けた。彼女は店内を一周見渡して私を見付けると、ゆっくりと丁寧にお辞儀をした。私もゆっくりと椅子から立ち上がり

「久しぶり。」

と声を掛けた。

「お久しぶりです。」

彼女は口角をキュッと結んでほほ笑んだ。彼女の唇は、私に「人殺し」と怒鳴ったとは思えぬ程妖しく艶やかなものであった。茶色い髪の毛は軽く巻かれており、彼女と初めて出会った頃の黒いストレートの髪はもうどこにもなかった。何もかもが変わってしまった。俯く私に彼女が一冊の本を差し出してきた。

「どうぞ座って。」

彼女の震える華奢な手に乗った、その古びた本を取りたくないがために、私は彼女に着席を促した。それは、その本が触れただけで崩れ去りそうなひ弱な本だったからでも、その本があまりにも古くて得体の知れぬ代物だったからでもない。私の目にまず飛び込んできたのが、かすれかけている彼の名前だったからである。この本を手にした瞬間に私があの頃に引き戻されるに違いないという恐怖が、私に襲い掛かったのである。

「兄が書いたものです。」

私がかすれた名前の読めなかったと思ったのだろうか、真っ直ぐな目で私にそう伝えると私の手の上にその本を無理矢理乗せた。だが、勇敢にも本を差し出した彼女の手がやや震えているのを私ははっきりと感じ取ることが出来た。それは決して彼女の繊細な細い手が理由ではなかっただろう。彼女もまた怖いに違いない、あの日に戻されることが。五年前、彼の大学卒業の少し前、そう、彼が死んだあの日に戻されることが。

「翔さん、どうかこれを読んでください。」

「どうして私が。」

「兄の最期を見届けたのは、翔さん自身ではないですか。あのとき私は貴方に酷いことを言ってしまいました。本当に申し訳ありませんでした。でも、きっと兄は翔さんを唯一の友として最期の相手に選んだのではないかと今は思っています。だから、兄が誰かに遺した物語を読んでいただきたいのです。そして、私に教えてください。兄が最期に語ったことを。」

私が花といた時間はたったの二年である。私を人殺しと罵った女にどうして彼の言葉を語らねばならないのか。小さな怒りがこみ上げる。私はずっとその本を見つめていた。彼がそこで何を語ったのか、私は彼のために知りたいと思った。静寂が私を包み込む。私はゆっくりと本の表紙に手を伸ばす。こんなにも無機質に見えるのに、仄かに伝わる温かさ。みすぼらしい表紙をそっと開く。ページをめくる音が寂し気に聞こえた。

「タイトルは。」

「金星と土星。」

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