辛いこともたくさんある!でも、楽しいこともたくさんある!
はじめに
私は多畑 宏笑、59歳。現在は失業中である。
このまま順調に生きていければ来年は還暦を迎えられるはずである。
宏笑は北海道のH市で生まれ育ち、小・中・高と第一次青春期をこのH市で過ごし、その後、地方の短大へと進学し第二次青春期を過ごしたのだった。ちなみに、第三次青春期もあった。
短大卒業と同時に保育士資格と幼稚園教諭免許を取得し、直ぐに田舎町の保育所で保育士として勤め始めた。15年間に渡る宏笑の保育士人生は数えきれない程の紆余曲折があったが勤めきった。燃え尽きたといっても決して過言では無いと宏笑は思っている。機会があれば青春期から紆余曲折あり過ぎた保育士人生のエピソードも話したいと思っている。
保育士を辞める半年程前だったか、あるきっかけがあり「介護」という仕事に興味を持ち、初任者研修(旧ヘルパー2級)、実務者研修(旧ヘルパー1級)、勢いにのって介護報酬事務検定の資格まで取得した。
保育士を辞めて半年後には介護職員としてデビューし、気が付いたら17年と6ヶ月が経っていた。あっという間に過ぎてしまったように思う。それは、あまりにも多種多様な数えきれない程の事件があり、エピソードがあったのだ。
泣いた、笑った、楽しんだ、頑張った、踏ん張った、歯を食いしばった…。
辛かったぁーッ、辛過ぎた事も、そりゃぁ〜たくさん、たくさんあった。
人間関係もギスギスでピリピリで…。
でも、やりがいのある仕事、他者を笑顔にする仕事、そして他者に安心を提供する仕事である事を、もっと知ってもらいたい。
今、辞めたいと思っている人、もう二度とこの仕事はやりたくないと思っている人、やってみたいけど迷っている人、自分の感情に負けて手を振り上げてしまった人や振り上げそうになっている人…そんな人たちに聞いてもらいたい。そう思って、私、多畑 宏笑の海千山千、波乱万丈な17年と6ヶ月の数々の事件エピソードを話す事にしたのだ。
エピソード1. 看護助手編
その1. 最初の事件(大部屋の3兄弟)
その2. 2度目の事件(転んだだけ)
その3. 3度目の事件(血の海)
その4. 4度目の事件(溢れるトイレ)
その5. 5度目の事件(汚物で感染)
その6. 6度目の事件(気付けば名物)
その7. やっと退職
エピソード2. デイサービス編
などなど続いていく予定です。
エピソード1. 看護助手編
その1. 最初の事件(大部屋の3兄弟)
多畑 宏笑、41歳の初秋だった。
介護職員としての初仕事はH市立総合病院の看護助手である。一応、H市の臨時職員扱いとなり配属先は3階東病棟に決まった。
この3階には東病棟として小児科入院病室と産婦人科入院病室があり、その他に東病棟ナースステーション兼入院患者用診察室と処置室、小児用プレイルーム、新生児室、新生児沐浴室、分娩室、シャワー室(医師と看護師用)、入院患者用浴室とシャワー室、滅菌室、手術室がある。
3階勤務の看護助手は宏笑を含めて3人だけである。宏笑以外の2人は言うまでも無くベテラン看護助手である。
南 明恵 53歳、勤続5年目(辞めたいと思っているが辞められないでいる)。
小野 美智子 58歳、勤続8年目(定年間近で定年後の仕事で悩んでいる)。
そこに看護助手の右も左も分かっていない宏笑が加わったのだ。南も小野も心中穏やかではいられないはずである。これまで南と小野の2人で時間と時給を分け合って来たのだ。これからは3人で分け合う事になり、考えるまでも無く貰えるはずの給料が減るのだ。
何とかして、あの手この手を駆使して追い込み宏笑を辞めさせたいと考えるだろう。
駆使したあの手この手といったら、毎日小さな嫌がらせからコツコツと積み重ね、宏笑がちょっとでも気を抜こうとのなら
最後、深ぁ〜い落とし穴に落とされるのだ。
加えて3階に勤務している看護師たちもキツさが顔に出ていて強者揃いで、一人ひとりのカラーが濃いのだ。入院患者たちからニックネームをつけられるくらいにである。看護師同士の間が上手くいっていないのか、ギスギス、ピリピリとした空気が宏笑にも伝わってくるのだ。そんな看護師たちのストレス発散の矛先はというと、もちろん新人に向けられるのだ。毎日が針のむしろの上を歩いているような、地獄の業火の中で働いているような、それは、それは辛かった。でも、宏笑は何でかこう思ってしまったのだ。
こんな嘘っぱちな、白衣を着ているだけの天使に見える人たちなんかには負けたくないと。
もちろん、ちゃんとした白衣の天使も数人いた事は確かだが…。
そんな時に宏笑は3階東病棟の噂を耳にしたのだ。新人看護助手が配属になっても3日も経つと辞めてしまう、若くても年配でも勤まらない、1週間もてば良い方だと、宏笑が配属になる前に何人辞めて行ったか分からない程だと、そして宏笑が何日勤まるかで賭けをしている人たちがいると…。
宏笑は唖然としたが、これもまた宏笑は思ってしまったのだ。
負けたくない、絶対生き残ってやると拳を突き上げたのだった。
59歳になった今になって思うのは、何もそこまで頑張らなくても辞めてしまえば良いものを、他にも介護職員として働く場所はいくらでもあったではないかと…。
ここてひとまず看護助手の仕事とは何かを話す事にする。宏笑は知らなかったのだが、看護助手の仕事は多岐に渡るのだ。
基本的には「患者さんのケアと看護師のサポート」である。
〈身の回りのお世話〉として、
・自分で食べられない人の食事の介助
・食事前の手の消毒(手拭きおしぼりを配 る)・食事前のお茶を淹れる
・食事の配膳と下膳(食事摂取量の確認)
・排泄介助 ・おむつ交換
・安静時の体位変換 ・ベッドの移乗介助
・着替えのサポート ・入浴介助
・洗髪介助 ・清潔援助として入浴できない人の身体を拭く ・入退院時の患者さんの荷物の片付け など。
〈環境整備〉として、
・ベッドメイキング ・シーツ交換
・室温調節 ・病室の清掃と消毒
・浴室の準備と清掃 ・ポータブルトイレの設置と片付け、清掃と消毒 など。
〈移送〉として、
・検査やリハビリ室への移動介助や付き添い
・車椅子やストレッチャーなどを使った移動介助 など。
〈その他〉として、
・備品の管理 ・医療器具の消毒と滅菌、整理 ・検体の移送 ・カルテやレントゲンフィルムを運んだり薬局に薬を受け取りに行く
など。
これらは大まかな内容であり、現実にはもっと細々とした仕事が山ほどあり、とてもじゃないが話きれないのだ。とにかく医療行為以外の作業で、医療と介護の現場を支えているのが看護助手なのである。
ところで、宏笑はその後どうなったのかというと、噂にもめげること無くベテランの南と小野の指導のもとで3日目、4日目と仕事を続けていた。
このベテラン2人の指導とは、まるで姑の如く重箱の隅を爪楊枝で突くように、窓のさんや棚の上の埃を指でなぞるようにである。
例えば、清掃時のバケツ置き位置は必ずこの位置でなきゃダメとか、301号室から清掃を始めて必ず320号室で終わらせなきゃダメとか、
医療器具室の点滴台の向きは必ず右向きでなきゃダメとか、病衣の在庫数は必ず5枚ずつ揃えておかなきゃダメとか、とにかく全てにおおて細かい手順が決められているのである。
そしてその手順は絶対に守らなければならないのである。ちょっとでも手順が違う、やり方が違うとなると鬼の首を獲ったかの如く注意、指摘、叱責を受けてしまうのだ。その際の宏笑の返事はただ一つ、
「はい、わかりました!」のみなのである。
宏笑はいつも、心の中で思っていた。
そんなのどっちでも良いじゃん!
決められた場所に、決められた物が有りさえすれば良いじゃん!
やる事さえ、きちんとちゃんと、やっておけばそれで良いじゃん!と。
そんな毎日を送って1週間程が経った早番出勤時に事件は起きたのだ。
ちなみに早番出勤の仕事は超がつくほど忙しいのだ。早番出勤は基本一人きりなので全てを一人でやらなくてはならないのだ。
看護師はというと、この日は当直の佐藤看護師と、早番出勤の山田看護師の2人だけであった。
まず宏笑は、各病室を周り手拭きおしぼりをくばり、次いで個人のコップにお茶を淹れて周るのだ。頃合いを見計らったように地下1階の厨房から専用エレベーターで配膳車が上がってくるのだ。宏笑は配膳車をエレベーターから出し廊下へと運んでいくのだ。
小児科病棟の大部屋には、元気の良い3兄弟(長男6歳、次男5歳、三男3歳)と付き添いの母親(30代後半)が入院していた。この3兄弟だが、どこをどう見ても病気には見えないくらいなのだが、一応それなりに点滴とかの治療は受けていたようだった。いつも賑やかで騒がしい声が病室から漏れ聞こえていた。
この日の朝食メニューは、白飯、ふりかけ、オムレツと野菜炒めにタコさんウインナー、味噌汁(キャベツ、ワカメ)、牛乳であった。宏笑は大部屋のドアをノックして3兄弟と母親に声をかけた。
「おはようございます!朝ご飯をお持ちしましたぁ〜!」と。
長男が愛らしい笑顔で言った。
「あっ!今日は新しいオバさんだ!後で楽しい事があるからね!」と。
宏笑も笑顔で返した。
「楽しみにしてるね!」と。
30分後、お膳を下げる為に大部屋のドアをノックした。すると3兄弟の声がした。
「待ってたよぉ〜!どぉ〜ぞぉ〜!」と。
宏笑がドアを開けると、目の前には高々と積み重ねられた食器タワーがあったのだ。
母親の分も含めて4人分の食器を1枚1枚積み重ねてタワーを作り、3兄弟で協力して崩れないように持っていたのだ。しかも、頂上は味噌汁のお椀で、お椀の縁までなみなみと残った味噌汁が入っていたのだ。
宏笑は3兄弟に言ってみた。
「凄いねぇ〜!できたら下(床)に置いてくれないかなぁ〜」と。
長男が言った。
「できないよ!だから、オバさんがちゃんと持って行ってよ!」と。
次いで次男が言った。
「オバさん!お仕事でしょ!」と。
最後に三男が急かすように言った。
「早く!早く!」と。
その時、母親はというと見て見ぬ振りをしていて何も言わないのだ。
宏笑は溜息をついてから、中腰になって食器タワーを受け取った。タワーが右へ左へと揺れる、ユラ、ユラ…と。
その揺れに合わせるように宏笑も中腰のままで右へ左へと、ゆっくりと1歩、そしてまた1歩と歩みを進めた。
宏笑は思った。
問題は頂上の味噌汁のお椀だ。溢さないようにしなければ…と。
食器タワーが崩れた時の惨状が目に浮かんだ。
宏笑は何とか配膳車の前まで辿り着いた。そこでふと思ったのだ。
さて、ここからどうする?
どうやって食器タワーを配膳車の中へ入れるのかが一番重要なミッションだと。
まずは、食器タワーを床に置かなくてはと思い至った。
そぉ〜っと、そぉ〜っと、でも、揺れる、ユラ、ユラ…。
上手く食器タワーを床に着着させる事ができると思いきや、食器タワーがグラリと傾いたのだ。
静まり返っている病棟全体に、
ガッシャーン!!という凄まじい音と、
宏笑の「あぁーッ!!」という叫び声が重なって響き渡った。次いで、
コロ、コロ、コロ…と味噌汁のお椀が廊下を転がる虚しい音が続いたのだった。
宏笑はというと、頭からは味噌汁の汁がポタポタと滴り落ち、髪の毛からは細切りのキャベツがぶら下がり、額にはワカメがペタリと貼り付いていたのだ。
辺りには味噌汁の匂いが満ちていて、宏笑の制服からも味噌汁の匂いがしていた。
大部屋から3兄弟の歓声が聞こえてきた。
「やったぁーッ!!」と、それもとても嬉しそうにだ。
呆然としている宏笑の視界に山田看護師が廊下を走って来る姿が入った。
山田看護師は宏笑に声をかけた。
「大丈夫?」と。
振り返った宏笑の状態を見た山田看護師は大きく目を見開き、両手で口元を押さえて、
プッ、プッ、プッーッと吹き出したのだ。
そのまま走って来た廊下を大声で笑いながら戻って行ったのだった。
宏笑は山田看護師の走り去る姿を見送りながら、額に貼り付いたワカメを剥がし捨て、髪の毛からぶら下がっている細切りキャベツを摘み捨て、滴り落ちる汁を拭いつつ、散乱している食器を1枚1枚拾い片付けたのだった。
丁度そこに病院清掃業者の女性社員が通りかかり、宏笑に声をかけた。
「何があったんですか?」と。
宏笑の味噌汁まみれの髪の毛と制服を見て納得したようで、女性社員が言ってくれたのだ。
「ここは(廊下は)私が掃除しておきますから、多畑さんは着替えて来た方が良いんじゃないですか?」と。
宏笑は力なく笑って返した。
「お願いします。ありがとうございます」と。
宏笑は着替えるべく1階の女性職員更衣室へと向かったのだった。
宏笑はこの時誓ったのだ。
必ずやリベンジしてやるぞ!と。
次は絶対に成功させてみせるぞ!と。
握り締めた拳を突き上げたのだった。
その2日後の早番出勤日に宏笑のリベンジチャンスがやってきた。あの3兄弟と母親はまだ入院中で変わらず賑やかなままだった。
宏笑はいつもの手順通りに各病室へ手拭きおしぼりと、お茶を配り朝食を運んでいった。
この日の朝食メニューは、白飯、納豆、野菜の玉子とじ、味噌汁(豆腐、油揚げ)、牛乳にフルーツゼリーだった。
宏笑は思った。
ゲッ!!納豆かよ!!と。
納豆入り味噌汁を頭からかぶった自分の姿を見てが目に浮かんだのだ。
宏笑は頭を振ってそれを打ち消し、拳を握り締め誓った。
絶対に成功させてみせるぞ!と。
宏笑は3兄弟のいる大部屋へニンマリ笑顔で声をかけた。
「朝ご飯をお持ちしましたぁ〜、残さないで食べて下さいねぇ〜」と。
3兄弟も揃ってニンマリ笑顔を宏笑へと向けたのだった。
宏笑の頭の中で試合開始のゴングが鳴った。
チーーン!!
30分後、お膳を下げるべく3兄弟の大部屋のドアをノックした。
ドアを開けると2日前と同じ光景がそこにあった。3兄弟がニンマリ笑顔で高々と積み上げた食器タワーを持って立っていたのだ。食器タワーの頂上には宏笑が思っていたように納豆入り味噌汁がなみなみと入っていたのであった。プーンと納豆臭が漂っていた。
ちなみに母親は、やはり見て見ぬ振りであった。
長男がニンマリ笑顔で言った。
「はい!どぉ〜ぞ!」と。
対する宏笑もニンマリ笑顔で返した。
「どうもありがとうございます!」と。
そして中腰になて食器タワーを受け取った。
やっぱり食器タワーは右へ左へと揺れる、ユラ、ユラ…と。
宏笑は中腰で慎重に、ゆっくりと食器タワーの揺れに合わせて一歩、また一歩と配膳車を目指して歩みを進めたのだった。
何とか配膳車の前まで辿り着いた。
宏笑は思った。
ここからが勝負だ!そぉ〜っと、慎重に、ゆっくりと…。
宏笑は中腰から更に腰を落とし、全神経を集中させて、息をするのも忘れて…。
宏笑の耳から全ての音がきえたようだった。
再び、プーンと納豆臭がした。
宏笑は無事に食器タワーを床に着地させていた。ジト見している視線を感じた。
3兄弟が大部屋のドアの隙間から覗き見ていたのだ。
食器タワーは崩れなかった。でも、まだ安心はできないのだ。ここで崩れてしまったら病棟内に納豆臭が満ちてしまうのだ。清掃業者の女性社員にもネバネバの拭き取りで迷惑をかける事になってしまうのだ。
宏笑は息をフーッと吐き出し、食器タワーの頂上にのっている、なみなみの納豆入り味噌汁かのお椀から配膳車の中へ入れて行った。
一枚一枚、ゆっくりと…。
そして最後の一枚である平皿を配膳車の中へ入れ終えたのだった。
終わったぁーッ!
成功したぁーッ!
勝ったぁーッ!
と宏笑は拳を握りガッツポーズをしたのだ。
そして3兄弟の大部屋の方へと振り返り、ニンマリ笑顔でVサインを突きつけたのだ。
3兄弟はドアを開け3人並んで声を上げた。
「おぉーーッ!!」と。
そして宏笑に対して盛大な拍手を送ってくれたのだった。この時、何故か3兄弟の母親も一緒に並んで拍手をしていた。
宏笑は配膳車を専用エレベーターの中に入れ、地下1階のボタンを押した。
3階東病棟の廊下に宏笑の高らかな笑い声が響いたのだった。